生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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3・1 マサノブ君は<「生長の家」の運動は変化したが、「教え」は変化していない>というが、「教え」自体も“唯神實相論”から“左翼唯物論”へと逆転しているのであります。ゆめゆめ騙されることなかれ!!<第四回>・<第五回>・<第六回> (3394)
日時:2014年03月05日 (水) 16時06分
名前:画龍点睛

合掌、ありがとうございます。
マサノブ君は、3月1日の「立教85年記念式典」に於いて、「生長の家」の運動は変化したが、「教え」は変化していない、と堂々と言ってのけたのでありますが、これは開祖・谷口雅春先生の『御教え』に余り詳しくはない信徒さんを騙すための彼独特の言い回しに過ぎないのであります。このまま見過ごしたままにして置きますと、マサノブ君の“説”がそのまま本来の「生長の家」の教えであると信じてしまう信徒さんも大勢いらっしゃいますので、どうしても「マサノブ教」は本来の『御教え』に非ずという事を申し上げておかなければならないと思った次第でございます。そこで、浅学菲才を顧みず、マサノブ君の誤りを正すために私の理解しているところを申し述べさせて頂きます。彼、マサノブ君は次のように語っているのであります。



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「唐松(枯れ松)模様」3月 1日 (土) = 真理宣布に自信をもって邁進しよう = (抜粋)

<<・・・このように、私たちの運動の仕方は変化しつつありますが、これは「教え」が変化しているのではないということを、私はずっと以前からいろいろな所で申し上げているところです。物事には、容れ物と中身があるのと同じように、宗教の教えにも形式と内容があります。それは、コメを食べるにもいろいろの方法があるのと同じです。日本ではそのままご飯として茶碗に入れて食べる。それも白飯で食べる時もあれば、玄米で食べたり、お茶漬けにしたり、おかゆにしたりします。また、寿司で食べたり、丼にしたり、お握りにしたりします。どれもコメを食べていることに変わりありません。ただ、食事をする時の状況に合わせて外観や容器を変えるのです。容器や形式は違っても、提供されるものは同じです。海外ではこれがさらに変化して、ドリアやピラフにしたり。パエリヤに使われたりします。宗教の外面的違いに左右されてはいけません。これは、私たち人間に「肉体」と「心」があるのと同じで、肉体的違いで人間を差別してはいけないのと同じです。このことは実に明白な事実なのですが、なぜかよく理解できずに、私たちの運動を批判する人がいるのは残念なことです。・・・>>



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[ W ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した! = 「理念」について説かない =


@ 開祖・谷口雅春先生の『御教え』に於いては、唯神實相論でありますから「理念」と言うものを大切にされ強調されているのであります。一方「マサノブ教」は唯物現象論でありますから、形而上的概念に属する「理念」は説いていないし、マサノブ自身が「理念」なるものを理会する能力に欠けているのであります。

 「理念」と言うものは實相世界に実在する「純粋形相」であり、神の心に描かれている「精神的(非物質的)原型」であります。實相世界の特長は、“金剛不壊にして<あな畏こし>としか言いようのない至美至妙この上ない久遠不滅の実在世界”でありますから、単なる抽象的概念ではありません。極めて具体的完全円満無限の完璧性あるものであります。



A 「理念」と言うものを理解できるためには、総合智・全体智でしか把握できないのであります。宗教的な表現をするならば、悟りの智慧(絶対実在の實相覚による直感把握)でしか理解できないのであります。科学的分析知では駄目なのであります。ここのところの詳しいことは『無門関解釈』第八則<奚仲造車>の公案の解説をご覧戴きたいと思うのであります。マサノブ君はこの公案の重要性が分からない為、開祖・谷口雅春先生が講習会で何回も何回も説かれているにもかかわらず、彼は今まで一回も採り上げたことはないのであります。こう言った面から見ても「マサノブ教」は低次元の唯物現象論を基礎においている教えであるといえるのであります。



B 平成19年11月の群馬県講習会に於いて、マサノブ(自称)総裁は次のように説きました。(11月4日・5日の「小閑雑感」にて掲載)

イ、常恒不変なる物質的存在としての<肉体>は無い。肉体を構成している物質分子は新陳代謝という形で常に入れ替わっている。私たちの<肉体>は高速度で生化学反応をする物質分子が通過する痕跡の一部であって、そこに肉体という形で見える仮存在である。つまり「肉体」は物質分子の流れの「呼称」にすぎず「肉体」という実体は無い。即ち「肉体はナイ」。

ロ、ローソクの「炎」という物質の塊が存在するのではない。人間が目で見たときに、ある温度以上に達した空間の化学反応が、それ以下の温度の空間と区別されて「光」として認識されるのである。「炎」というものが存在するのではなく、人間の目が一定の高温状態の空気の領域を、他の領域と区別して「光」として捉えた部分の呼称である。「炎」とは一種の「流れ」である。それは川の流れのように、1つのものが現れたらたちまち流れ去り、次の瞬間には別のものが現れ、それがすぐに流れ去り……というように、一定の物質が一定の場所を占めてそこに「在る」のではなく、パラフィン等の成分である可燃性の物質の分子が、高速で酸化反応を起こしながら常住流転しているものの通り道が、人間の目で見ると一つの“塊”のように見えるのを、「炎」と呼ぶのである。

ハ、同様に、「川」という実体は無い。「川」は水の流れの一つの「呼称」に過ぎない。「川」という物質が存在するのではなく一定量以上の水の流れを人間が「川」と呼ぶのである。



C 「本当の生長の家の御教え」に於ける「人間とは?」・「肉体とは?」・「川とは?」

イ、 「実相金剛身の神示」には、―― 本当の人間・実相人間は「空」ではない、金剛身である。永遠不滅なる実相身である。形は無いと思うな、形は確かにある。実相人間は肉体人間よりもまだまだ確かな至美至妙な形を持つ。山の形や川の形や植物の形や動物の形なども、仮に現象界のそれに似ていると思えばよいが、一層精妙なのが実相世界の姿である。 人間の本体は、捉えどころの無い「空」なるものではなく、それは「理念の体」であり、 金剛不壊の<純粋形相>が理念であり、人間の本物は金剛不壊の<純粋形相>たる「理念人間」であります。

ロ、聖経「甘露の法雨」には、――人間は物質に非らず、肉体に非らず、・・・人間は霊なり、生命なり、物質の奥に肉体の奥に霊妙極まりなき完全なる存在あり、・・・これこそ神に造られたるままの完全なる汝そのものにして常住健康永遠不滅なる生命なり。汝ら今こそ物質を超越して汝自身の生命の実相を自覚せよ。



D 「マサノブ教」の内容を読めば、「常恒不変なる肉体は無い」・「炎という実体はない、化学物質の燃焼過程」・「水の流れの無くなったものは川ではない」。ここから連想されるものは<空仏教>の教歌である「引き寄せて結べば柴の庵なり。解くれば元の薪なりけり。」であります。故に、「マサノブ教」は唯物現象論だといえるのであります。

  

E 「マサノブ教」の「肉体は無い・物質はない」の説明は、この空仏教の教えと同じであります。なぜならば、「肉体はナイ」だけの説明、つまり学者的緻密な分析知による説明だけで終わっており、「金剛不壊なる理念としての人間」・「人間・神の子の真理」・「実在としての実相宇宙の形相」が説かれていないのであります。「ローソクの炎」や「川」についても同様であります。



F 「今の教え」では、「理念は現象に先立つ」・「理念が現象として現れてくる」という事を説いていないのであります。「理念の人間」・「理念の炎」・「理念の川」・「現象世界の無限倍層の至美至妙なる実相世界の実体」の説明がなされていないのであります。



G このように、空仏教の範囲だけの説明では厭世的無常感に陥り、人間の病・悩・苦の現実的救いは現われないのであります。宗教の講演・講習会は、学者の研究発表の場所ではない。話を聴くものに霊的感動を与え、病・悩・苦から現実に救われる場でなければならないのであります。人間は「マサノブ教」では救われないのであります。マサノブ君には現実に一人として病悩苦から救ってあげた実績がないのであります。単なる“理屈屋”に過ぎないといえるのであります。



H さらに言えば、神様の自己実現としての私たち個生命は、仮存在としての本来ナイ肉体を顕して、それを乗馬としてこの仮存在としての三次元地上世界に於いて真理を学び、無限の価値の創造の過程を通して、自己の霊魂進化の階梯を昇って行くのであると言うところまで生長の家の講習会であれば説かれなければならないのであります。ここにおいて、本当の霊的感動と霊的歓喜の人生が開けて来るのであります。お話を聴きに来た人達もそれを心の底から望んでいるのであります。しかし彼はしない。なぜならば、マサノブ君にはその能力がないからであります。更に最終目的たる「生長の家」つぶしのためには衆生の病悩苦からの解放等手足まといになるだけだと考えているのであります。宗教家だとはとても思えない人間であります。このように、「マサノブ教」の教えは全く変節してしまっているのであります。


(つづく)




<第五回> (3406)
日時:2014年03月06日 (木) 14時04分
名前:画龍点睛




[ X ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した! = 「實相礼拝」から「大自然礼拝」へ =


@ 昨年、7月7日の「森のオフィス」(新国際本部)では、式典の途中で「實相額」が引き上げられて姿を消し、舞台窓外の「雑木林」が現われ、最後はその雑木林を「大自然」に見立ててうやうやしく参列者全員が礼拝したことは全世界に放映された実況中継によって信徒のみなさんがよく知っているところであります。この演出を考案したのはマサノブ君自身であり、たとえそうでなく、その演出を手掛けたと思われるイベント企画会社のアイディアであったとしても、その承認を為したのはマサノブ君であったことは間違いないのであります。



A しかし、マサノブ君はここに於いて明確なる「生長の家教規」違反をなし『本尊』を勝手に変更し、礼拝対象を変更し、看板を架け替えたのであります。

イ、 「本尊」――『實相』から『大自然』へ暗黙裡に変更
ロ、 礼拝対象――『實相』から『大自然』へ強制的に変更
ハ、 看板、―――『生長の家』から『大自然崇拝教』へ暗黙裡に変更

「生長の家教規」第六章「本尊」
第六条――「・・・あらゆる宗教の本尊の奥にある「實相」(唯一の真理)を礼拝の対象とするため「實相」の書を掲げるものとする。」



B その後、雅宣(自称)総裁による無言の指示が為されたのであります。すなわち、――

<< 埼玉教区の白鳩会の支部長会議でのこと。連合会長は開口一番、こう言ったというのです。…上からのお達しで、「実相礼拝」はしないことになりました。>> この様な情報が掲示板に投稿されました。

この「お達し」は、生長の家教規第六条違反であるし、埼玉県教化部長の独断でなされるわけはないのであります。 多湖周子・教化部長の独断ならば、「更迭」は当然!であり、イソベ理事長も「辞任」しなければ、示しがつかぬ! 然し、その後、教化部長も理事長も何の責任も問われず。本部の責任ある訂正声明文も出されずであります。

したがって、 やはり、『實相』礼拝廃止は、マサノブ君もしくはマサノブ君の意向を汲んだイソベ理事長の“阿吽の呼吸”による教化部長への指示と見られても仕方がないのであります。



C マサノブ君は、『實相』額の説明を詳しくしないのであります。

『實相』礼拝の意義とは、――

<< 肉眼に見える肉体的姿を自分自身だと思いまちがえ、自分自身を物質的存在だと思い間違えないように、『實相』と文字に大書して、自己の“実相”をその文字に移入して礼拝するようにしてあるのである。>>と云うことであります。



D 「森のオフィス」落慶式典に於ける『實相』額の引き揚げ ⇒ 窓外の『大自然』と見立てた「雑木林」の礼拝 ⇒ 『實相』礼拝の廃止 ⇒ 立教85年記念式典での『實相』額の遮蔽、及び『實相』礼拝の廃止、更に「顕斎殿」壇上の土足歩行・・・

この一連の流れは一体何を目的とするのか? それは、マサノブ君は、開祖・谷口雅春先生の全てを消して行きたい、そして「生長の家」を地上から抹殺するのことを最終目的としていることであり、このことは誰でも容易に推測断定できるのであります。



Eこれでも、「教えは少しも変化していない」と言えるのか、完全に変化したことは明らか!それを言葉巧みに「生長の家」看板だけを詐欺的に利用して、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』をよく勉強していない「お孫さま信仰」の高齢者と戦後の左翼唯物論教育を受けた多くのニュー信徒の皆さんをマサノブ君はたぶらかしているのであります。反論あるならばどうぞ、マサノブ君!


(つづく)






<第六回> (3419)
日時:2014年03月07日 (金) 12時37分
名前:画龍点睛


[ Y ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した! 

= 言行一致 から 言行不一致  へ =



@ 「マサノブ教」の本来の『御教え』からの変節として全般的に言える事柄は、教祖たるマサノブ君の典型的な「言行不一致」にあると考えられるのであります。「生長の家」と言う看板を掲げている限り、「神示」を引用して正確にその内容を説き、“これこの通り『御教え』はチャント引き継いでおります”と言わなければなりません。しかし、その説き方においては、マサノブ流の個人的価値観に基づく解説であります。マサノブ流の個人的価値観というのは、戦後教育による左翼的唯物価値観であります。したがって、「神示」を引用しても、マサノブ君は戦後教育による左翼的唯物価値観によって解説しているのであります。このことがマサノブ君の“言行不一致”として出て来ているのであります。



A まず、開祖・谷口雅春先生に最初に降りた神示は「生長の家の食事」の神示であります。この神示をもまた、マサノブ君は解釈のすり替え、何でも「自然との調和」にムリヤリ結びつけてしまうのであります。そして自分に都合の悪い部分は敢えて解説から外してしまっているのであります。これは、明らかに「食事の神示」の間違った解釈であります。


<< 自然と人間の関係を最も身近に感じる行事が、食事である。「神と自然」「自然と人間」の関係を意識し、三者の大調和を祈る最良の機会・・・食前食後に、神と自然界の恵みに対して感謝の言葉を唱えることを省略している人がもしいたならば、次の食事の機会から、この古き良き習慣をぜひ復活させていただきたい。(11月12日「唐松模様」)  >>と解説しているのであります。しかし、――


イ、 「生長の家の食事」の神示に於いては、食事を取るに当って、まず兄弟と仲直りしなければならない。これが最大第一の条件である。

ロ、 一椀を手にしては、これ今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が神によって許されんがための供え物であると念(おも)ひて食せよ。

ハ、 二椀を手にしては、これすべての人の罪が神によりてゆるされんがための供え物であると念(おも)ひて食せよ。

ニ、 三椀を手にしては、これ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんが為の供え物であると念(おも)ひて食せよ。

ホ、 而して、一杯の飲料を手にしては、すべての人の罪をこの水の如く我が心より洗い流して心にとどめざらんがための象徴(しるし)と思いて飲め。

 以上の5点を完全無視し、何の落ち度もない義兄と実弟の方々を憎み追放し、数々の「開祖反逆罪」を重ね、何でも環境問題に結び付けて屁理屈を説くマサノブ(自称)総裁は「神示」を偉そうに説く資格は全くナイ! のであります。



B 「大調和の神示」についても、同様であります。


「汝ら天地一切のものと和解せよ。」そして、天地一切のものへの和解の内容と順位とが示されているのであります。<皇室に感謝せよ> ⇒ <汝の父母に感謝せよ> ⇒ <汝の夫又は妻に感謝せよ> ⇒ <汝の子供・兄弟姉妹に感謝せよ> ⇒ <汝の召使に感謝せよ> ⇒ <一切の人々に感謝せよ> ⇒ <天地の萬物に感謝せよ>であります。

マサノブ君流の価値観から見た「天地一切のもの」の範囲は、<天地の萬物>の中の特に“森や川などの自然界”のみへの感謝の強調であります。皇室や父母や兄弟姉妹に対しては感謝するなんてトンデモナイ事とマサノブ君は考えているのであります。

マサノブ君の天皇観は西欧流の「王権神授説」であり、彼のブログでも明確にそのことを表明しているのであります。「君民同治の神示」とは逆なのであります。彼の心には、皇恩への感謝の気持など片鱗もないのであります。父・清超先生に対しては尊敬と感謝をしている様でも、それはただ自由に振舞わせて頂いたと言うだけであり、逆に清超先生の名前を借りて自己の考えを発表(『新しい開国の時代』)したり、自分にも「大聖師号」をつけてもらいたいために感謝している振りをしている、母親の恵美子先生に対しては、自分の「生長の家」解体への暴走振りの情報を遮断する為に監視役付きの反軟禁状態にしていたりしていることは周知の事実であります。

マサノブ君は、義兄・実弟・姉の人たちに対して、「原理主義者」の烙印を押して追放処分と言う処置をとって、完全独裁専制教主となったのであります。この様な宗教家とは到底思えない冷血人間がマサノブ君の現象の姿であり、『御教え』の“言行不一致”そのものであります。



C マサノブ君は「信仰による平和の道」の中で、< 生長の家は“焚書坑儒”みたいなことはしません >と明確に宣言しているのでありますが、実際は、開祖・谷口雅春先生の思想は、国家主義・民族主義・国粋主義、つまり右翼思想(マサノブ君自体がそう確信している)だと誤解される恐れがあるから、という理由で「日本教文社・新出版方針」を作り、開祖・谷口雅春先生の御著書の中から特に選んで国家論・憲法論・古事記解説・教団史に関するものは信徒に読ますべきではないとして絶版処分としたのであります。また、売れ行き不振という理由で絶版処分を敢行し、総計50冊以上の開祖の御著書を信徒が読めないようにしたのであります。これは明らかに“焚書”そのものであります。

また、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を守護しようとする教団理事・教化部長・本部講師達を「谷口雅春原理主義者」という烙印を押して、左遷人事政策で自主退職へと追い込んでいって追放したのであります。これは明らかに“坑儒”とも呼ばれるべきものであります。マサノブ君の言行不一致の典型的見本の一つであります。

斯くの如くにして、マサノブ君は現在の磐石ともいえる専制独裁体制を築いたのであります。言行不一致、別の言い方をすれば、ジキルとハイドの二面性を持つ偽装宗教家であります。この歴然たる自己の二面性の姿を意識せず、「教えの中身は変っておりません」とよくも言えたものであります。如何ですか?マサノブ君! 反論あらば返答されたし!!


(つづく)













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