生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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3・1 マサノブ君は<「生長の家」の運動は変化したが、「教え」は変化していない>というが、「教え」自体も“唯神實相論”から“左翼唯物論”へと逆転しているのであります。ゆめゆめ騙されることなかれ!!<第十三回>・<第十四回>・<第十五回> (3526)
日時:2014年03月15日 (土) 08時15分
名前:画龍点睛

[ 十三 ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した! 

= 「創世記」について A =



もう一つのマサノブ君の「創世記」に関する開祖・谷口雅春先生の『御教え』を無視した単なる彼の唯物現象論に基づくマチガイ解釈をあげることに致します。以下にそれを引用いたしますが彼の最大の宗教的詐欺罪ともいえる法罪は、唯物現象観に基づくマチガイ解釈を「これが『生長の家』の解釈だ」と信徒をだまし明言していることなのであります。われわれ信徒としてはマサノブ君に“辞任”という責任を取ってもらわねばなりません。マサノブ君があくまでも拒否して、年間5000万円?の報酬ある総裁の椅子に坐る資格ナシとして、マサノブ君に“懲戒免職”処分を申し渡さなければならないのであります。



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2月 6日 『大自然讃歌』解説 (3)  の一部分・・・

<< 『創世記』の“楽園追放”の物語の中にきちんと書かれているのである。ここに描かれているのは、どういうことだろうか? 私は、これらは結局、「人間は自然の中で苦しみながら生き、そして死ぬ」ということだと思う。農産物を作ろうとしても雑草が生い茂る。一切れのパンを得るにも、厳しい労働が必要である。そうして生き存えてきた肉体も、ついには失い無に帰するのである。これを言い換えれば、人間が「自然との大調和を見失う」ということではないか。では、イブとアダムは禁忌を冒してまで、何を求めたのか? それは、「神のように善悪を知る者」になりたいと思ったからだ。また、神からその理由を質されても、このことを正直に答えず、「ヘビが悪い」とか「女が悪い」と言って、責任を回避しようとしたからだ。このような無責任さと弁解の仕方は、エゴイストに特徴的なものではないか。このように、アダムとイブが“楽園”から追放された理由をここでまとめると、次の2つになる−−@神のように善悪を知りたいと思った、A責任を回避しようとした。このうちAは比較的わかりやすいが、@は深い意味を含んでいて、正しい理解が必要だ。・・・人間は一般に肉体的本能とは別に「理性」というものをもち、その理性が善悪を判断することで本能を制御することが求められているからだ。そしてこの理性は、神から人間に与えられた“賜”だと考えられてきた。ところが、人間は判断に際し、この理性が必ずしも常には働かない。その結果、人間の行為には「善」も「悪」も生じることになる。だから、人間が常に善悪の判断を過たずに下して生きていけば、神のような完璧な生を送れるに違いない−−こういう考え方である。これに対して、「善悪を知る木」とは、実は「神の創造世界には善もあれば悪もある」という考え方そのものを象徴しているとする解釈がある。これが『生命の實相』で説かれている谷口雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈だ。これによると、「神のように善悪を知りたい」と願うこと自体が、「神の創造世界には善悪いずれも存在する」という前提にもとづくという点に注目する。これを言い換えれば、人間を含め、大自然には善も悪もあるということだ。同じことを「個人」の立場に引き寄せて表現すれば、人間は生老病死を経験し、悩み苦しむ肉体的存在だということである。このように自分は不完全で欠陥だらけだという「迷い」が多くの人間にあるために、何かの知識や技術を獲得して自分を補う必要があると考え、外から「善悪を知る木の実」を食べたいなどの欲求が起こってくる、と生長の家では考える−−>> 谷口雅宣



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以下、マサノブ君のマチガイを指摘いたします。


@ 先ず、注目すべきは、マサノブ君は今回の文章の中で、「これが雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈である」、「と、生長の家では考える」と書いていることである。正しくは、「マサノブ君の個人的解釈」、「マサノブ教ではこう解釈するのである」と言う言い方が正しいのである。



A 具体的に指摘すれば、<「善悪を知る木」とは、実は「神の創造世界には善もあれば悪もある」という考え方そのものを象徴しているとする解釈がある。これが『生命の實相』で説かれている谷口雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈だ。>の部分である。マサノブ君は<「神のように善悪を知りたい」と願うこと自体が、「神の創造世界には善悪いずれも存在する」という前提にもとづくという>説を唱える誰か他の聖書学者の説に共鳴して<「神の創造世界には善もあれば悪もある」>とマサノブ君も言うのである。このマサノブ君の個人的解釈を<谷口雅春先生の解釈であり、生長の家の解釈だ>としている。このマサノブ君の解釈は本来の開祖・谷口雅春先生の『御教え』から観れば完全に間違っているのである。



B 開祖・谷口雅春先生の『御教え』によれば、「神の創造世界は善のみ」であり、「實相世界とは、一切皆善の世界」である。『生命の實相』第11巻の「創世記」解釈に於いて、<< すべての創造は「大生命」すなわち宇宙の唯一根元神から放射される霊的観念によって造られる。したがってこれは善なることのほかはできないものであります。悪なる存在があるように見えるならばそれは本当の実在ではない。存在するものらしく見えるものにも、本物と偽せ物とがある。この本物と偽せ物とがあるということを「夕あり、朝ありき」と象徴的に書いてあるのであります。>>(P.10)と書かれているのである。この部分をマサノブ君は無視しているのである。



C さらに、<< 「生長の家」では、神を「ただ信ぜよ」とはいわない、實相覚(本当の真理を知る智慧)によって神と神の真創造とを区別せよ、無暗なものを信じてはならぬ、本当のもの、永遠のもの、実在のものを、よく偽創造(ニセモノ)から識別(みわ)けて、その本当のものを知れ、その本当のものを知ることが、真の信仰である。本当のものを知らない信仰は迷信である。迷信は禍いを招くが、真の信仰は幸福を招くほかに成りようのないものであるというのであります。なぜなら真の信仰は、愛の神ならびに愛の神が真に創造(つく)り給いて、「はなはだ善し」と認め給いし完全な世界のみを実在と認める信仰であるからであります。>>(P.63)と『生命の實相』には書かれているのでありますが、マサノブ君は無視するのであります。



D 「善悪を知る木」について開祖・谷口雅春先生はどのように書かれているか、――

『生命の實相』第11巻P.63に於いて、<< さて、この一節には「生命の樹」と「善悪を知る知恵の樹」とが対立させてあります。前者は真理の啓示のみを受ける樹であって、「生長の家」の所説のような「真存在はすべて神によって造られたものであるから生命であり完全である」とする真智慧を象徴化してあるのであります。後者は「これは悪い、これは善い」と人間知にとらわれてかれこれ分析し、したがって「悪も存在し、不完全も存在する。したがって、病気も不幸も実在する」と信ずる物質的知恵を象徴化したのであります。神は愛であり真の智慧でありますから、それを食べたら、罪人になってエデンの楽園から人間が追放されねばならぬような「善悪を知る知恵の樹」を造り給うはずはないのでありますから、そんな樹が実際あるのではない、この樹をもって無明(迷い)を象徴せしめ、真知(生命の樹)に対立させたのであります。>>と書かれているのである。



E 以上の如く、マサノブ君は開祖・谷口雅春先生の『御教え』よりも他の未だ真実の悟りの智慧に達していない人間知(理屈の世界)による聖書学者の考えを上位に置いて論じているのである。もっとハッキリ言えば、マサノブ君は「唯神實相哲学」を懐疑的にしか理解できないので、唯物論的解釈の方へ傾いていっているのである。ということは、彼が「これが生長の家の解釈である」と云っていることはマチガイであり、「マサノブ流の解釈である」というべきものである。



F その他、今回のマサノブ君の見解で後、問題になる事はといえば、――


イ、 <「その実相」とは、「すべての存在が渾然と調和し、支え合っている」という世界の姿>と書いているが、自分の意に沿わぬ御兄弟の人たちを追放した事実を如何に説明するのか?


ロ、 <肉体が未発達の段階にある人が、「“個”が実在であり、世界の中心であると見る」のはやむをえない。が、成人した人間がこれと同じ価値観をもって生きようとするならば、その人はあらゆる場面で、他の人や社会とぶつかり合うことになる。>と書いているが、マサノブ君自体が、<現象の“個”が実在であり、世界の中心である>と見る典型的人物であり、<精神的に未成熟な成人した人間がこれと同じ価値観をもって生きようとするならば、その人はあらゆる場面で、他の人や社会とぶつかり合うことになる。>これもまた、マサノブ君自身ではないのか?


ハ、 マサノブ君は、人間は<自然との大調和を見失って>いると力説するが、彼は、<自然よりも身近で大切な御兄弟との調和>を失っているではないのか? こんな人間に<自然との大調和>を力説する資格があるのか? 彼の言う<このような無責任さと弁解の仕方は、エゴイストに特徴的なもの>、――この第一人者はマサノブ君そのもの者である。


ニ、 < 数多くの人々は自然改変と、資源・エネルギーの浪費、物質的繁栄の拡大に突き進んでいるのではないか。>と、マサノブ君は説教するが、彼の造った「森のオフイス」とマサノブ流の「自然との共生」は、自然改変と、資源・エネルギーの浪費、物質的繁栄の拡大に突き進んでいる近代工業社会の生産物に依存して成り立っているではないのか?マサノブ君!この矛盾をいかに説明するつもりなのか?


ホ、 <自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして、自然界の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。自然の一部を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。それによって人間は自然との一体感を失い、自然治癒力を含めた自然の恩恵を自ら減衰させ、 生き甲斐さえも失うのである。> この一文も、マサノブ君にそのまま当てはまるのである。すなわち、「開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』を障害と見なし、「生長の家」教団を自己の支配下に置こうとして、「生長の家」教団の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。本来の『御教え』を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。それによってマサノブ君は信徒との一体感を失い、開祖・谷口雅春先生と先達信徒のみなさんの物心両面の遺産を自ら減衰させ、純朴にして『御教え』に従順な信徒のみなさんの生き甲斐さえも奪っているのである。」


(つづく)




<第十四回> (3536)
日時:2014年03月16日 (日) 10時32分
名前:画龍点睛




[ 十四 ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した!

 = 「創世記」について B =




もうひとつ、マサノブ君の開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』に基づかない自分勝手な人間知による「創世記」のマチガイ解釈を御紹介いたします。それは、マサノブ流の肉体頭脳による<天地創造6日間完成説>とでも言うものであります。



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平成26年2月 3日『大自然讃歌』解説 (2) の下記部分、――

 << 第2段落の最後に出てくる「はなはだ良し」という神の宣言は、聖書の『創世記』第1章31節に出てくるものである−− 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第6日である。」 この聖句にあるように、神は天地創造を6日間で行われ、その最終日にすべての創造物を見て、評価されたのがこの言葉だ。神御自身が「はなはだ良かった」と宣言されたのが大自然なのだから、私たちも自然を愛し、尊重し、その実相をもっと凝視しなければ申し訳が立たないのである。>> 谷口雅宣



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@ マサノブ君は、<神は天地創造を6日間で行われ、その最終日にすべての創造物を見て、神御自身が「はなはだ良かった」と宣言されたのが大自然なのだから、私たちも自然を愛し、尊重し、その実相をもっと凝視しなければ申し訳が立たないのである。>と解説しているのであるが、これは、『御教え』に反する彼の個人的な間違った解釈である。マサノブ君は、<神の天地創造は6日間で完了した>と解釈し、無理矢理“自然”保護に結びつけて行くところに私は違和感を感ずるのである。



A <神の天地創造は6日間で完了した>などと文字通りの浅はかな解釈はすべきではない。『生命の實相』第11巻P.49〜53によれば、――

<< 神は第一章にありますように霊を材料とし、言葉を創造力としてそのすべてのものを造り給うたのでありまして、その創造は第七日に完成したのであります。「七日」というのはわれわれの暦日(こよみ)の七日のことではありません。「七つ」とはこれを「言霊学」(ことだまがく)で解しますと、「成々続」(ななつ)であって<成り成り続く>ということ、すなわち「無始無終を包容したすべて」のことであります。・・・「七つ」はすなわち、成り成り続くという意味でありますから、永遠に創造の聖業(みわざ)は成り成り続いているという意味であります。・・・七日にして天地およびいっさいのものの創造がことごとく終ったということは、神の天地創造の大音楽が永遠につづくということである・・・七日に安息(やす)むということは決して、創造の神業が終ったときに、「ァ疲れた!やれやれ」と思って休むと云う事ではない・・・天地創造の大音楽は、その一音符から次の音符にいたる間の旋律(リズム)の変化に、いうにいわれぬ平和と安息と調和とがある。創造の大音楽の七日(注・永遠)を通じて、それは神聖なもの、汚れ(気枯れ)すなわち「生命の消耗」のないもの、休息なき生命の営みのうちに、いうにいわれぬ安息がともなっているのが本来われわれの生命の實相(ほんとのすがた)なのであります。>>



B 「生命の實相」を人類に宣布する事こそが宗教の担当分野である。所謂、生命的霊的生活価値観の伝道である。これを為さずして、行政と同じ唯物的対策による自然保護運動をしているのがマサノブ君である。彼は何としてでも「脱・宗教」、「脱・信仰」を目指したいのである。 以上の如くマサノブ君の解説は本来の『御教え』に従った解説をしていない。だから、違和感を感じ、我々の魂に響いてはこないのである。



C マサノブ君の「大自然讃歌」解説シリーズの2回目は、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の解説となっている。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学んだ者からすれば、マサノブ君の解説には、直観的に違和感を感じるのである。なぜ違和感を感じるのであろうか、と云う事を考えて見ると、結局のところ目に見える「自然」というものをマサノブ君は知的な分析知(人間知)によって捉えようとしているのである。しかし、人間知だけでは解決できない根本的な人生問題に逢着して『生命の實相』哲学によって現象知(人間知)を透過して根本的な解決を見出す事が出来た求道者は、生命的智慧(神の叡智)によって、目に見える自然をも捉えるのである。この差が“違和感”として感じられるのである。このように考えるとマサノブ君が如何に巧みに「実相」という語句を入れて解説しようとも所詮は唯物論の範疇での解説の域を出るものではないと言う事が判るのである。



D マサノブ君は、「なぜ地震が起こるのか?」「なぜ津波を人間は防げないのか?」「なぜこんな事態になったのか?」「自然は人間の敵なのか、味方なのか?」と自ら問題提起をしているにも拘わらず、的確な答を書いていない。その理由は、マサノブ君は「小閑雑感」にも書いていた如く、地震・津波・火山の噴火の如きものは、“自然現象”であって人間にとっては“起って当たりまえ”のことと見ている、人間にとっては防ぎようのないことであると考えているから的確な回答は出来ないのである。彼は講習会では「三界唯心の理」の説明をするが、その説明はあくまでも言葉の意味の辞書的な説明であって、それを真理などとは彼自身信じていないのである事が判るのである。マサノブ君独特の言葉の魔術に幻惑されないようわれわれ信徒は最深の注意を払って彼の話を聞き文章を読まなければならない。現代の社会通念・時流と云ったことから考えると「ン、なるほど!」と頷いてしまうであろう。しかし、彼の思考の根底には、「唯神實相論」はなく、在るのは左翼唯物論である事をくれぐれも忘れてはならないのである。



E マサノブ君は、「自然と人間は本来一体である」と常に主張する。何故本来一体なのか?の説明を彼は「人間及びその生活は、自然によって支えられているから」・「自然は人間に精神的癒しを与えてくれるから」・「新陳代謝現象も分析すれば分子や原子の流れのことであって、この流れは人間と他の総ての生物間で行われているから」と、説明しているのである。この考え方は全くの唯物論的分析であって、生命的観点(霊的観点)からのものではないのである。お世辞にも宗教家の解説ではないのである。



F 然らば、生命的・霊的観点からの解説とは如何なるものなりや?


イ、 お釈迦様は、成道の暁に「有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏」と、御自分の直接的生命体験として、「総ての生きと生けるもの、総ての在りとし在らゆるもの」の實相を“成れる仏”の姿として悟られたのである。


ロ、 開祖・谷口雅春先生は、大悟徹底されて次のように記されている。(『生命の實相』第20巻P.139〜140)

<< 朝 東方に面して 合掌礼拝して 霊々妙々 円満の大生命を観ずれば 心身清浄 微妙の大生命は 雰囲気となって 我が身 我が心をひたす。 吾れと その雰囲気と 一体にして境なし ああ讃うべきかな生命 われが生命である歓びよ 生かされている! 生かされている! 生かされている! 生かされているこの歓びを 心にみたして眼をひらけば 眼前に 朝の太陽は微妙の光をはなち 庭の木の若葉に生命が照り輝く 若葉の生命の中を 別にまた一つの生命が躍っている 雀が金色に輝いて枝から枝へ飛びうつる。 空気が躍っている、 内も外も 燦然たる生命の大光明世界だった。>>


ハ、 昭和の哲人・橋本徹馬師の「宇宙生命と自己との全面的感応」の生命的直接体験

<< (断食)四日目の朝、生の歓喜を感じつつ戸外に出たが、久々に地上を踏むことの嬉しさに心が躍った。そうして眼にふれる一切の物に対して好感を持つ、優しい愛情、――断食以前の私にはなかった種類の普遍の愛情――が私の心身に満ちていた。折りしも六月の末であり、万地の草木が生命力一杯に繁茂しつつある時であった。私は河原の辺に生えている雑草を愛撫しつつ、なんともいえぬ親愛の念を感じ、古の「傷める葦をも折らざりし」聖者の気持を、いまこそ理解しうると思った。つまり心から万物を愛し、万物と一体の感じが、私の人格となって現われてきたのである。昔親鸞上人は、同じ求道のための自分の弟子達のことを呼ぶのに、御同輩御同行という言葉を以ってしたが、今の私の心情からすれば、同じ志の人間ばかりか、そこらの草木雑草さえも、皆等しく宇宙大生命の作用によって生じ、その摂理のもとに日々の営みを続けている意味において、御同輩御同行であると思われた。私はこうして悟りの一端に触れたのである。・・・<万物は生命の流れである>――(断食六日目の朝)窓をはね上げて東天を見た時の私の心境は、昨日までの心境とは全く違っていた。昨日までの私はそこらの山川草木を見る時、それを大体物質的存在と見ていた。が、今見る山川草木の姿は悉くこれ大生命という一より出でて、多に分かれている生命そのものであり、この現象界そのものも、大きな一連の生命の流れであると感じ、そうして私自身も、その大きな流れに連らなる存在の一つであることを感じた。それゆえ「われと大地有情と同時に成道す」とは、釈迦が悟りを開いてみたならば、自分ばかりか一切の人間、一切の存在は、皆そのまま成仏成道の境涯であるという、大生命の真姿、宇宙の實相を知ったと云う事である。>>(橋本徹馬著「霊感と奇蹟の話」P.35〜41)


ニ、 黒住教開祖・黒住宗忠師の大悟徹底

<< それは今を去る141年前(昭和31年基準)、彼のスティーブンソンが始めて蒸気機関車を走らせた年、正確にいえば、文化11年の庚戌の旧暦11月11日の冬至一陽来復の朝のことであった。宗忠は、早起きして浄衣を着し、含漱潔斎して、心も清々しく日輪を礼拝したのである。未明に起きいでた宗忠は、操山の南端のあたりをさしのぼる真紅の大日輪を拝して、常にもまさる感動に打たれた。紫雲の厚い襖の底から、ゆらゆらと揺れのぼる太陽ほど、この世にありて、崇高なものはあるまい。それは彼にとりては、単なる自然の一情景ではなかった。それはこの世に於ける奇蹟の中の最高の奇蹟というべきものである。「ありがとうござります!」と、宗忠は思わず叫んだのである。次の瞬間、彼は無意識のうちに、アッパと口をあいた。すると、団々たる紅輪は、無限の天空を一気に馳せ来って、彼の胸中にとびこんで来たのである。彼は思わずハッとして眼をとじた刹那、彼の全身は、大光耀の中に完全に融合した。それは、時間にすれば、一秒か二秒にすぎなかったかも知れない。しかし、彼は、その短い時間の中に、『永遠の自己』、『本来の自己』に面接したのであった。『永遠の自己』それはまさしく、真の大父母であった。真の大父母には、生まれることもなく死ぬこともなく、いわゆる喜びもなければ悲しみもなかった。それはただ、限りなき豊富であり、充実であって、自他の区別はなく、善悪の差別もなかった。それは相対的な認識の世界ではなかった。認識できるものは、みな有限のものにすぎなかった。言葉にすることも筆にすることもできないものに、彼が吸収された。かくいうても、もとより画餅にすぎない。宗忠自身の口を以ってしても元より表現出来ることではない。高弟・星島良平は、これを、「天地生々の霊機を自得し給えり」(御小伝)といっている。比較的真に近い表現であろうが、霊機とは、普通の語句にない。霊とは眼に見えない神秘の気であり、機とは「はたらき」と読む。星島氏は、この一行に振仮名して、「天地生々の霊機(いきもの)を自得(つかまえ)し給えり」という。天地宇宙を生々発動せしめている所の目に見えない活物に感じて、これを自らのものとなし得たとするのである。>>(「真人宗忠」延原大川著P.31−34)



G マサノブ君の「自然と人間は本来一体である」、「自然即我・我即自然」の解説は、自らの生命的霊的体験の無いところの唯物論的分析知によるものであるから読者に霊的感銘を与えることが出来ないのである。そこで、たとえ、彼自身に宗教的霊的直接体験がなくとも、偉大なる先達諸師の悟道の直接体験によって解説するのが教えの後継者と称するものの踏むべき道である。間違っても未だ悟りの境に達せぬ人間知による霊的レベルの低い、唯物論的分析解説などは為すべきではないのである。現在のマサノブ君には宗教家であるとか求道者であるとか言える資格も資質も能力もないのである。


(つづく)




<第十五回> (3545)
日時:2014年03月17日 (月) 17時18分
名前:画龍点睛




[ 十五 ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した!

 = 「体験談」について =




マサノブ君の「体験談」嫌いは、夙に有名であります。奇蹟的に病を癒されあるいは家庭苦から救われた信徒さん達がその喜びの体験を講習会場の体験談発表の時間で語った時、マサノブ君は「それはタマタマでしょう!」と云ったとか! その発表者の信徒さんは余りのことに目が点になったとか!!・・・
開祖・谷口雅春先生はその御講話の中では必ず信徒の皆さんが語った体験談を「真理の証し」としてお話され、又、清超先生も体験談を「真理の証し」として重視され、講習会翌月の神誌では、その体験談を真理に基づいて極めて分かり易く解説されておられたのであります。



然るに、マサノブ君は、未だかつて一回も体験談を引用して真理の講話をしたことがないのであります。自らも、真理の証しとしての体験を経験したこともないのであります。彼は、数多くの生長の家信徒の皆さんの奇蹟的体験談を、現代科学に反するもの、すべての人が必ずそうなるとは限らず、一部の人たちに現われた「鰯の頭も信心から」式の暗示感応力の強い人に起った“タマタマ”現象だと思っているのであります。だから、講習会での体験談発表の時間は退屈な為、“聞き流し”ながら机の上で紙に落書きをして過ごしているのを目撃せられたこともあるのであります。では、マサノブ君の信徒の奇蹟的体験談に関する見解を以下、まとめて見る事に致します。



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@ << 私はこれまで、生長の家の講習会などで信仰に関する体験発表を数多く聞いてきたが、時々、生長の家の教えとは違うことを堂々と語る人がいた。体験発表をする人は、信仰の深浅にいろいろの段階があっていいから、発表内容をあまり厳密に審査することは却って逆効果になる。だから、そんな時も、私は大抵“聞き流す”ことにしている。しかし、教義にまっこうから反する場合は、その後の私の講話で訂正することもあった。>>(平成24年5月17日「唐松模様」)



*** マサノブ(自称)総裁に問う、――***

★ 「聞き流す」とは、体験談発表者に失礼だ!

★ マサノブ君自身の『御教え』による生命的信仰体験はあるのか?

★ マサノブ君には、信徒の体験を共に歓ぼうとの気持は全くない。

★ 「厳密に審査することは逆効果になる」とは、体験談は科学的合理性に欠けていると云う事なのか?、

★ マサノブ君は、奇蹟的信仰体験をタマタマの出来事と考えている。だから、“真理の証し人”とは見ない。なんと傲慢な心構え! また、日頃説く“四無量心”の精神はどこへ行ったのだ?!

★ “教義にまっこう反し、その後の講話で訂正した”という実例をブログ「唐松模様」で、発表者の言葉そのままに録音記録で発表されたし! <講話で訂正した>事実を「唐松模様」で発表せよ!



A マサノブ君によれば、<社会問題(炭素ゼロ運動)よりも、個人的な救済(体験談)を重視する事はマチガイ(原理主義)である>からであります。(「信仰による平和の道」P.7)

★ マサノブ君は彼の言う“原理主義”の定義のC番目に<個人的な救済を重視する事>を入れているのであります。だから、講習会で、生長の家真理の証し人が、いくら随喜の涙を流して“体験談”を語っても、マサノブ君は冷たい軽蔑の眼で無視し続けるのであります。「よくもこんな非科学的な迷信を話すものだ。理性で判断すれば、体験談こそ『谷口雅春原理主義』の典型ではないか! アホラシクテ聞いていられない。しかし、これも講習会に信徒を呼ぶ為の必要悪の一つだ。まあ、15分か20分の辛抱だ。」と思っているのであります。だから、マサノブ君は、講習会での体験談発表には無関心であり、講話や著書の中でも一切取り上げないのであります。この様な総裁は、一日も早く、更迭されねばなりません。



B 更に、マサノブ君は次のように「衆生救済」を「初心者」という名前で否定しているのであります。

1722 :初心者:2012/06/30(土) 17:53:20 ID:TfQ0e6RA
そもそも救済とはなんなのでしょう。救済を欲する状態から抜け出すこと。これをわたしは救済の条件にいたしたいとおもいます。雅春先生の教えで、この条件は達せられるでありましょうか。雅春先生の教えは、実際に救済につながっているといえるのでしょうか。私が見るところでは、みなさま方は、雅春先生が書かれた文字に執着し、いつまでたっても、その書かれた文字に救いを見いだそうとしておられるように感じられます。

128 :初心者:2012/07/10(火) 12:54:55 ID:TfQ0e6RA
雅春先生の教えによって実現された救済は、人々を奴隷状態から解放してきたといえるでしょうか。むしろ実現された救済は、奴隷状態を居心地のよいものへと変えただけであるような気がいたします。・・・いかに快適な奴隷生活を実現するか。生長の家では、このことだけが考えられてきたとおもわざるを得ない、というのが経験的に得られた結論です。

357 :初心者:2012/08/17(金) 15:20:51 ID:TfQ0e6RA
「救済運動」の具体的なヴィジョンをお持ちなのでしょうか。わたしは、新興宗教は、成熟した宗教となるために、「病気治し」を第一とする時期をすでに脱したとも考えておりますが、いまだ新興宗教は「病気治し」を第一に取り組むべき時期にあるとお考えなのでしょうか。「雅春先生は教えの問題点と限界をご存じであったのか」との問いであります。教えの限界をまったく問題にすることなく、その完全無欠性や万能性を信じ込んでいるあいだは、みずからの立場を相対化し、客観的に評価することなどけっしてできるはずもありません。おのれの全能感に酔い知れ、大言壮語するのが関の山であり、これが教えの絶対化やイデオロギー化の温床となる可能性さえあります。



*** 然らば、マサノブ君に問う、 ***


★ この「初心者」の傲岸不遜な言、<雅春先生の教えは、実際に救済につながっているといえるのでしょうか>と。然らばマサノブ君よ、君は立教以来の何万ともいえる真理による奇蹟的治癒や環境からの奇蹟的脱出の体験記録を如何に観ずるや? 正直に答えてみたまえ!


★ マサノブ君よ、君は、講習会場にて真理によって救われた人達(真理の証し人)の体験談を、<奴隷状態を居心地のよいものへと変えただけ>と、冷ややかな目で見ているだけなのか? この様な観方が君の深層心理であるから、講習会の講話や著書で体験記録を一切取り上げないのではないのか?


★ マサノブ君よ、君は<「病気治し」を第一とする時期をすでに脱した>と宣言しているが、医学益々発達して病気で苦しむ人たちが一向に減らぬどころか増え続けることの現実を如何に見るや? また医学では治らぬ病人の増加に対して最後の拠り所の役目を持つ宗教の世界は必要ではないと冷酷に断言するのか? また、「病気治し」すら出来ぬ宗教が果たして宗教と言えるのか? 答えは如何?「成熟した宗教」の内容とは“病気治しは病院の役割、成熟宗教は自然との共生・地球環境保護に専念”と云う事であるのか? マサノブ君よ! ためらわずに返答すべし!!



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では次に開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』から観た「体験談」の意義についてわれわれ信徒は正確に理会をして置かなければならないのであります。



@ 『生命の實相』第36巻・幸福生活篇(P.8〜9)

*** 体験記録の集積は科学である ***

<< 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、以前にも申しましたが総ての科学というものは体験の集積であります。科学者が、ある条件の下に於いて体験せられる事実の体験記録――これを抜きにしましては、科学というものは存在し得ないのであります。ニュートンが林檎(りんご)の落ちるのを見て萬有引力を発見したというのもこれはニュートンの体験であります。ニュートンだけが体験したのであったら又ウソかも知れぬのです。ところが他の人も亦やはり物体が上から下へ落下するという事実を見ましてその体験録を発表したのです。そして誰も彼も皆よく似た体験録を発表したものですから、そこでなるほど萬有引力というものは存在するものであるという科学が確立したのであります。尤も物体は必ずしも上から下へ落下するものではありません。軽い物体や微小な塵埃は逆に下から上へ上るような例外もあります。それにはそれで又理由があるのであります。然し萬有引力は肯定せられました。『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことように御遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。>>



A このように、開祖・谷口雅春先生は信徒の体験談をことのほか重視されました。真理の御講話のときでも、御著書の文章の中でもほとんどが信徒のみなさんの体験談を載せられております。それは何故か、と申しますと、真理を述べるだけではある意味“机上の空論”に等しい。科学の理論は必ず実験結果に裏付けられたものでなければならない、それと同じく、信仰の世界での真理も実際生活に生かして証明されて始めてその真理が間違っていないことが分かる。したがって、“真理の証し人”としての信徒の体験談を開祖・谷口雅春先生は大変重視されたのであります。



B 清超先生も、講習会の時の信徒達の体験談発表の時には、非常なる関心を以って聞かれており、体験者の発表が終ってからその傍まで行かれて聞き漏らしたり不明な点などを聴きなおして確認をせられていました。そして、清超先生の御本は信徒の奇蹟的体験談を真理の面から見て、実に分かり易く解説されているものが多くあります。



C 信徒の体験談を重視された開祖・谷口雅春先生は、昭和12年に「實相体験集成・第一集」を出版され、翌、昭和13年には「實相体験集成・第二集」を出版されたのであります。戦後においても、昭和42年から『生長の家・体験談集』全十巻、昭和59年から『生長の家体験ドキュメント』全十巻が発行されております。体験談集の編集者は次の如く述べています。



D << 生長の家総裁谷口雅春先生は『生命の實相』をはじめ数々の聖典の中で、生長の家の真理の実証たる各種、多数の体験を掲げられており、それらは恒に時代を超え、老若男女・国籍を問わず多くの人々に読み続けられ、感銘をもたらしております。副総裁谷口清超先生の御著書にも、わかり易く解説を付けられた体験が、多数紹介されております。かつては、ラジオ放送「幸福への出発」に体験者の生の声をとり入れられ、対談形式で真理の探究、指導に成果をあげて来られたのであります。>>



E 昭和50年8月1日発行の<体験談集10>の見開きページには、――

<<心を開き、光を受けた人々!!――ここにどんな不幸災難をも超克する『真理』があり、その『真理』によってさまざまな苦しみが癒された“証し”がある。常識ではとても解決のつかない難問題、不治の病・・・を克服し、人生に光をとりもどした体験談、発表者の感謝にみちた“ナマ”の声が読む人の心をうつ!>>と、書かれています。このようにして『生命の實相』の真理によって救われた人たちは組織内信徒・組織外信徒・一般読者を含め膨大な数に達しているのであります。



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■■ 一方、自称・三代目のマサノブ君はどうでありましょうか? 繰り返しますが、彼は全く体験談には関心を持ってはいないのであります。むしろ、心の中では「そんな非・科学的なことなんか信じられない。信じて欲しいなら科学的に証明してみなさい。その体験結果は貴方の場合だけであって、すべての人が同じ結果を出せるとは限っていないよ、あくまでも偶然的なタマタマなんだぜ!」といって冷笑しているのであります。その証拠に、雅宣総裁自身、生長の家の『御教え』に基づく体験を持っていません。持っていれば既に発表しているはずであります。さらに、講習会場で彼が信徒の奇蹟的体験をもとに『御教え』の解説をした事を聞いたことがありません。また、彼自身の著書やブログのなかでも信徒の奇蹟的体験を紹介したこともないのであります。



だからマサノブ君が<<教義にまっこうから反する場合は、その後の私の講話で訂正することもあった。>>(平成24年5月17日「唐松模様」)というのであれば、その録音記録をそのまま発表してもらって、彼が<教義にまっこう反する>と判断したのはどの部分か、そして<その後の講話で訂正>したその内容に付いて私達はシッカリと検証する必要があると思うのであります。これによって又、新たに、マサノブ君の『御教え』への把握と理解度がどの程度のレベルのものであるのかも判明いたします。



とにかく、開祖・谷口雅春先生および二代目・清超先生が“真理の証し人”としての信徒の体験談を尊重されたのに比し、自称・三代目のマサノブ君がそれに挑戦する態度である事は許されないことであります。「教えの内容は変っていません」などとは言えないのであります。< 実現された救済(病悩苦からの解放)は、奴隷状態(病悩苦の状態)を居心地のよいものへと変えただけであるような気がいたします。・・・いかに快適な奴隷生活を実現するか。生長の家では、このことだけが考えられてきたとおもわざるを得ない、> これがマサノブ君の本音の思想であります。体験談への疑義と忌避ないし否定は本来の『御教え』の否定であります。


(つづく)






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