生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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3・1 マサノブ君は<「生長の家」の運動は変化したが、「教え」は変化していない>というが、「教え」自体も“唯神實相論”から“左翼唯物論”へと逆転しているのであります。ゆめゆめ騙されることなかれ!!<第十六回・最終回> (3567) |
- 日時:2014年03月20日 (木) 17時58分
名前:画龍点睛
[ 十六 ] 「マサノブ教」の教えは斯くのごとく変化した!
= 『生命の實相哲学(唯神實相)』について =
これまで十五回にわけて、マサノブ君が「運動のやり方は時代の変化に応じて変えてきたが、教えの中身は少しも変っていない」と云ったことがいかに詭弁そのものであったかについて説明させていただきました。確実に教えの中身までマサノブ君は換えて行ったことが証明出来たものと思います。
生長の家の『御教え』の根本は「大調和の神示」にあります。この神示の実践により、そして『甘露の法雨』の読誦によって実に沢山の人々が病悩苦から救われたのであり、私もそのひとりであります。これは宗教・信仰面からの人類社会への何よりの福音であったのでした。この衆生救済という福音をマサノブ君は捨てたのであります。
「生長の家」の人類社会への福音はもう一つとてつもなく巨大なものがあるのであります。それは、「唯神實相哲学」或いは「生命の實相哲学」という人類哲学史上の最高峰のものが提示され、真面目で真剣な求道者や哲学研究者に大いなる示唆と思索の進歩をもたらしたということであります。
と同時に、これまで「哲学」と称されていたものは、難解な思索法や語句をひねくり回し、IQ指数の特に高い人たちだけの「象牙の塔」の中の思索と議論にとどまり、世の中に対する明確なお役に立ってはいなかったのであります。然し、開祖・谷口雅春先生が、人間知による究極限界から「無の関門」を超えられて生命的実在の世界に超入せられて把握せられた「生命の實相哲学」・「唯神實相哲学」は完璧な理論体系を持っているが故に、その哲学が「象牙の塔」の限界を打ち破り、衆生救済に絶大なる現実的効果を発揮し、更に各界一流の知識人の眼を引きつけ、世の識者の支持するところとなって来たのであります。人呼んで“知的レベルの極めて高いインテリ向けの宗教”とも云われ、従来のインテリ層から見ての“一般大衆向けの宗教”とは一線を隔してきたのであります。
然るに、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』である「生命の實相哲学」・「唯神實相哲学」を人類哲学史上の最高峰のものとマサノブ君は位置付けせず、逆に人間知による反論をなしているのであります。(マサノブ君は「初心者」その他の名前で反論し否定しているのであります。)マサノブ君はどのように屁理屈をつけようとも「マサノブ教」にはこれまでの哲学理論を越えられるものは何もないし、また現実的衆生救済力もないのであります。
マサノブ君が「教えの中身は変っていない」というのであれば、哲学面からの「『御教え』の継承解説があってしかるべきでありますが、この『御教え』の真髄中の神髄なるものをこれまでに一回だに触れ、解説したことはないのであります。以下、自称にしろ後継者と自覚するならば当然触れなければならない「生長の家」の哲学的側面から観た『御教え』の真髄中の神髄の部分を引用させていただきマサノブ君の前に呈するのであります。
☆☆☆ 哲学的側面から観た『御教え』の真髄中の神髄の部分 ☆☆☆
@ 開祖・谷口雅春先生「大悟徹底の瞬間」(「生命の実相)第20巻より)
A「本来生、不滅の神示」(昭和7年11月25日神示)
B 「神の子の自覚に点睛す」(「生命の実相」第27巻・第五章)
C 「寂光を更に超えて」(「生命の実相」第39巻・第三章)
D 「久遠を流るる命」(「生命の実相」第27巻・第六章)
E 「世尊拈花」の公案解釈(「無門関解釈」・第六則)
F 「人類光明化運動の選士を讃えて」(「第二青年の書」・第20章」
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私の選択した哲学的側面から観た『御教え』の真髄中の神髄はこれら七つであります。以下に於いて引用転載させて頂きます。
@ 開祖・谷口雅春先生「大悟徹底の瞬間」(「生命の実相)第20巻より)
<< ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。私はそのとき偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念の所現にして本来無。本来無なるが故に無より一切を生ず。有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、「無」より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象なし。汝の肉体も無し。」では、心は<ある>であろうかと思うと、その瞬間「心もない!」とその声は言うのだった。今までわたしは「心」という得体の知れない悍馬があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によってわたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。「心もなければ何も無いのか」とわたしは再び声の主にたずねた。「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。「無のスガタが実相であるか、皆空が実相であるか」とわたしは尋ねた。「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空であるのだ。色想受行識ことごとく空である!」。「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。「空と無とは異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。空を無とは異なると思い「無ではない」と思うからまた「五蘊は<無いではない>」と引っかかるのだ。「五蘊は無い」とハッキリ断ち切ったところに実相が出てくるのだ。<無い>ものを<無い>としたところに本当にアルものが出てくるのだ。」 「では実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。「実相とは神である。<ある>ものはただ<神のみ>である。神の心と神の心の顕現のみである。これが実相だ。」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。 「心も<無い>のが本当ではないか。」「<無い心>は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心仏衆生三無差別と説く場合には心も無い、仏も無い、衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに実相の神、久遠実成の仏が出てくるのだ。」「それがキリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」「そうだ、肉体イエスを抹殺したとき、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きてくるという象徴である!今ここに久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ!久遠の今だ!今が復活だ!今を生きよ。」わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛と満ち漲った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたがそれはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼を開くと合掌したまま座っている自分をそこに見出したのであった。 それ以来、心仏衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがわたしにハッキリ分かった。迷う心も無いから悟って仏になる心も無い。迷う心が進化して悟って仏になるとおもっていたのが間違いであったのである。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。浄飯王の王宮を出て伽耶城を去ること遠からず、菩提樹下に六年静思して初めて悟りをひらいて仏となったという現象の釈迦牟尼佛は本来無かったのである。「法華経」の中で釈迦自身が「我実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由他劫である」といったその久遠の仏のみが実在であったのである。その久遠の仏が今ここに生きているのだ!十字架上に磔けられて「神よ、神よ、なんぞ我れを捨て給や」と哀号したイエスは本来無かったのだ。永遠の神性(キリスト)――「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。自分もまた明治26年11月22日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。このままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。・・・・・>> (「生命の実相」第20巻P.134−P.137より)
A「本来生、不滅の神示」(昭和7年11月25日神示)
<< 物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。真の人間は「神の子」であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入する事もない。物質の世界に出入することがないから物質の世界より見れば人間は不生である。不生であるから滅することも亦ないのである。物質界は念に従って生ずる念の映像なるが故に、従ってまた滅すれども「人間」は本来物質界に生ぜざるを以って又滅すると言う事もない。人間は本来「生」である。「滅」に対する「生」ではなく、本来「生」であるから、老なく、病なく、死なく、破壊が無いのである。老とは「生」の衰耄を言えども、人間は本来「生」であるから衰耄せず老朽しないのである。衰耄は「生」にあらず、人間に非ず。衰耄なきを「人間」と言い、老朽せざるを「人間」と言う。病なきを「人間」と言い、「死」なきを「人間」と言う。釈迦は「人間」の生老病死の四苦を見て出家したと言えども、釈迦はそのときまだ「人間」を見ていたのではない。念の影を見て「人間」と思い違いしていたに過ぎない。釈迦が此の世を見て無常と観じたのも「真の人間」の世を観たのではない。それは無明の投影の世を観て無常としたのである。真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、如来身、実相身、清浄身である。人間は神の子なるが故に本来「浄」にして不浄ではない。人間を指して不生不滅不垢不浄というのは真相ではない。般若の思想は無常想から実有想に到る過渡的思想であるから、不生不滅不垢不浄を説きたれどもこれは物質に比喩しての方便説である。人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相である。また人間は不垢不浄ではなく真清浄真無垢がその実相である。本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満たされて手の舞ひ足の踏む所をしらないであらう。 >>
B 「神の子の自覚に点睛す」(「生命の実相」第27巻・第五章)
<<「観ずれば吾等一切衆生は久遠刧の始めより神の懐に抱かれたる神の子也。如来の子也。自覚すると自覚せざるとに論なく、事実に於いて皆然り」これは綱島梁川氏の「回光録」収録「自覚少記」の言葉である。この自覚は、生長の家で説くところの「人間本来、神の子、仏子であって、悟ると悟らざるとの別なく既に救われている」の自覚とほぼ一致する。しかもこの「既に人間神の子」の自覚を得ながらも、その自覚が何故、彼れ綱島梁川氏を生かさず、氏をして病の床より起つ能はざらしめたのであろうか。何故またこの同じき「既に人間神の子」の自覚が「生長の家」の誌友の場合は続々病の床を蹴って起つ力を与えるのであろうか。ここに一つの同じき信念が一つは現実生活を生かし、一つは現実生活を生かさない結果を生む重大なる「紙一枚の自覚の差」が何故に生ずるかを研究することは無駄ではないと思う。「人間神の子の自覚は得られましたが、どうも病気は治りません」と往々訴えられることがあるが、そういう人は梁川式信仰型の人である場合が多いのである。神子の自覚を得ながら病気が癒されなかった理由を知るために梁川氏の場合を引いてこれを検討することにする。・・・・・・(中略)・・・・・ 明治三十七年十一月の某夜、綱島梁川氏は此の見神の体験的自証によって、<今此処に在りて無限につながり、今此処にあって永生に繋がる>大自覚を得たのであった。その時以後彼は「観ずれば我等一切衆生は久遠劫の始めより神の懐に抱かれたる神の子也、自覚すると自覚せざるとに論無く、事実に於いて皆然り」と宣言するを得るに到ったのである。彼の大自覚は「今、ここにありて此の儘で久遠劫に繋がる」のであるから、いとも明快に三世を踏断して次の如く言い得ている・・・・・・(中略)・・・・・。 此処に彼れ梁川は、「今、此の一点に此の儘無限永生とつながる大自我」の生活を説いているのである。<彼>とは何ぞや、<我>とは何ぞや、此の一点にありて無限の大生命に繋がるものである。今此の一点――幅なく厚みなくして、一切所に遍満する大生命であり、今此の一点――長さなく持続なくして一切時を踏み越えた大生命である。神、我れであり、我れ神であり、神すべてであり我れ渾てなるが故に、神のほか、善のほか、至美至妙なるもののほか何ものもないことが本当に自覚されたならば、彼の病も「無い」ことが判ったであろうし、それと共に彼の病も癒えたであろうが、<今一歩>のところで、彼は「生長の家」の説く大真理の敷居を跨ぐことが出来なかったのである。今一歩のところとは何であるかと言うならば、彼はあの明治三十七年十一月某夜の恍惚境からさめて現実界を見たときに「一点にあって此の儘永生につながる自覚」を得ながらも、尚、<そこに現象世界、物質世界の実在せることを見たのである。>此処に彼の自覚の墜落があり、現象世界、物質世界を<あり>と見たるが故にそれが高き敷居となって「紙一枚の差」を打ち破って彼は「生長の家」同等の自覚に入ることが出来なかったのである。 梁川は我れ神につながる大自覚を得たる後に、「生長の家」の所説と同じく、「在るもの皆善し」の自覚を得ていた。しかし、その「在るもの」なる意味が「生長の家」とは甚だ異っていたのである。生長の家では一切現象本来無しと截ち切ってしまった後に実在のみの風光を見て「在るもの皆善し」と絶対自覚より言うのであるが、彼は一切現象を、物質を「本来無なり」と空じさること能はずして、それを空じ去ることを「消極的なる<あきらめ門>」と批評し、「物質あり、現象あり、しかして病苦あり、悲惨あり、これ<事実なり>」として、それを在るがままに<事実>として認むることを勇者とし、そして「<在るもの>皆善し」と見ようとしたのである。・・・・・(中略)・・・・・ 即ち、梁川の言う所を一層判りやすく表現せば、今、画家の絵筆より打ち卸される「褐色の一転」(現在の惨苦)も実相一如のカンバスの上にやがて打たるる他の配色(当在)との関係上、「現在」と「当在」とを一望の下に俯瞰し得うる時間空間を絶したる実相一如の神なる立場より観るならば、それは其の儘で絶対美であり、絶対善とするのである。ここに於いては病気は空じ去られず、不幸は空じ去られず、ただ高揚して実相一如の真善美の空よりそれを俯瞰して美しと言い得るに過ぎずして、地に立って現在に生活すれば実相の峻峰は永へに天を摩して高く、それに到らんとするも道遠く且つ険難であるのである。だから、彼は「如是我証」の中で「唯だこの<事実>に面しては何人も之を得否まじ、吾人及ち観ずらく、我等は弱し、当に強からざるべからず、吾らは完からざるべからず」と歎じているのである。彼は「<事実>に面しては」と言う。しかしその「<事実>」とは何ぞや。現象のみ、本来無きもののみ。しかもこの「本来無き現象」を<あり>と観る限り、彼の如く実相一如の世界に没入する体験を得るとも、何人も「我等は弱し、我らは完からず」と嘆ぜざるを得ないのである。しかしこれを「<事実>」と言うのは間違いであるのである。知れ、<事実と言うは実相のみである>のである。だから実相の実在のみを強調し「弱きものは<無し>、完からぬもの<無し>」と、一切の悪を空じ去って、而して「一切皆善の実相的事実」のみを肯定するとき、吾らは現象的事実をも征服し得て、「我らは、弱し、吾らは完からず」と現象的事実に征服された弱音を吐く必要がなくなるのである。生長の家は斯く「実相皆善」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。「現象あり」と観ずれば吾らは現象に力を認めるが故に現象を征服することが出来ないのである。「現象も現象として<在る>のであって、斯く本体界のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界とを混同するものである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、吾らは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、吾らは現象界無しと自覚するが故に、<無きもの>は混同するの恐れなきが故に、吾らはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することが出来るのである。 「現象は<現象としては>あるのである」と言って現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」と言うような在来の見方を脱し得ないような宗教では、到底それは現実人生を支配することが出来ないのである。生長の家の思想が、斯く素晴らしい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと断ち切り、実相独在を明快に斬然と主張しているからであるのである。>>
C 「寂光を更に超えて」(「生命の実相」第39巻・第三章)
<< 倉田百三氏より・・・
「・・・体験より言うも、私は病気を精神力、特に宗教的な悟得と関連して治した顕著な実例の証人であります。しかしそれにも拘わらず私は、宇宙の太源に帰一することが、治病、開運、幸福、繁栄を必ず結果するとは信じられないのです。宇宙の太源と帰一した生活は確かに光明の生活である。しかしその光明とは、暗(ヤミ)と対比した意味での明るさではなく、光と暗とを超えた寂光であり、だから必ずしも光明とは言はず「聖暗」と言った人もある。明るいとも暗いとも表現出来るような大寂光である。この世界に病気、不幸,禍言があるとき、それを大寂光裡に包摂することは出来ても、その反対としての治病、幸福、祥昌であらねばならぬと言うことはどうも導き出せないように私には思えるのです。宇宙は本来、健康・幸福・祥益的であるかどうかは判らない。自分が病む時それは宇宙が病むのだ、神が病むのだと感じる事は出来るが、それが治る筈だと言う事はどうして出てくるのでしょうか。・・・ 神と帰一すれば必ず病気が治るという事は私には信じられない。治るも治らぬも神旨(みむね)次第という信仰になら私は立てます。その結果、私は病気が治ったのですが、それは治そう治そうと焦っていたのを神旨ならば治らずともよしと委せた時治ったので、どうも貴兄の積極的なクリスチャン・サイエンス的治療法とは異ふようなのです。・・・ 宗教の本質は、どこまでも神と帰一して聖旨(みむね)のままに生きることである。聖旨ならば病まねばならぬ、死なねばならぬ。どうも私には「聖旨ならばこの盃をわが手より取り去り給え」以上には今の所でられないのです。そこから先へは貴兄に付いて行けない。「病という聖旨はない」という所までまだ体証していないから、勧めたり宣伝したり出来ないのです。・・・どうも私の寂光と貴兄の光明とは異なっているようです。私のは暗(やみ)を含んだ光で、暗と対立した光ではない。病気・不幸・禍害も光の中にあるのです。光が現れれば暗が退くという光とは異うのです。・・・宇宙と帰一しても暗黒はありうると言うことになるので、そこが貴兄に付いていけない事になるのです。・・・」 >>
<< 倉田百三氏に答えて ・・・
『・・・貴方の被仰るとおり、この吾々の意見の相違点は実際宗教界の重大問題であり、また在来の仏教・キリスト教が生活の上に奇蹟を現し得ないのに、吾々の信仰によって奇蹟を現し得る理由もその重大な相違から生ずるのだと思えるのです・・・ 貴方は「宇宙の太源」とか、「神」という創造者らしい名前をお用いになりますが、結局は「無明」(ショウペンハウエルの宇宙の盲目的意思)を以って宇宙の太源と認めていられる事になります。・・・貴方は「神と帰一する」と言はれますが、その内容は「無明に帰一する」と言はれるのと同じ事です。・・・「治るも治らぬも神旨次第・・・」と言はれる貴方は「治るも治らぬも無明次第だ」と言っていられるのと同じように私には受け取れるのです。・・・ 貴方が「聖旨ならば病まねばならぬ」と委せ切りの気持ちになられた時に病気がお治りになった事・・・これは「生長の家」で説いている「心の法則」で説明すれば解釈のつくことなのです。・・・貴方の心境が苦痛を逃れんとして逃れ得ず、絶対絶命ただ委せるしか仕方がなくなった時「ままよ」と打ち委せた、その委せきりの心境が、あまりにも深く澄み切った結果、心の波が平静きわまる状態になり、時間・空間の現象投影枠に張り渡した「念の透過幕」が平らかとなり、従って、現象界にあらはれた貴方の肉体が実相の完全さに肖せて投影せられることになり、ここに貴方が期せずして健康を回復せられたのです。・・・絶対無批判無我服従の状態、即ち「そのまま受ける心」の状態になるならば念の波を絶対平静ならしめるが故、既に与えらたる実在の完全円満なる風向が現象界に投影せんとし、この一部分の顕われとして病気が治り、祥福が来るのであります。・・・貴方が「宇宙の太源の聖旨の中には暗もあれば光もあり、それは光明と言い得るにしても大寂光であり、暗を含んだところの光明である」と考えられ「それ以上に光明のみの世界には付いて行けない」と言はれ、現象界に現れる色々な暗の姿の本源を「宇宙の太源」そのものの中にあると言われるのは、貴方の言われる「宇宙」なるものが「実在の宇宙」と「現象の宇宙」とを混淆していられるからなのです。「実在の宇宙」は「既に御心の成れる世界」であり、「頼まいでもお蔭はやってある世界」であり、「太陽の善人をも悪人をも照らす如く御意のあまねくうるおえる世界」でありますから<光明一元・光のみの世界>であります。これに反して「現象宇宙」は「実在宇宙」の完全なる相を歪める凹凸不同の「念の透過幕」によって時間空間の範疇に屈折して投影されて顕れた世界でありますから、明暗・正否・健病の混同せる世界であります・・・ それは「現象宇宙の太源」のことであって「実在宇宙の太源」のことではありません。「実在宇宙」は「現象宇宙」をもう一つ乗り越えた世界なのです。そこは明暗混淆の世界をのりこえて光明のみの世界なのです。・・・この「実在宇宙」の風光は五官をもって感覚することが出来ないのでありますから、仏教においても「真如」と言い、「空」と言い、「寂光土」と言い、「実相」と言い、「無相」と言い、「無相なるが故に無限相」とも言いますが、それは現象していないが故に普通「平等空の世界」と考えられ易く「平等世界」とか「無尽平等の妙法界」とか言われています。・・・何の形もない無色・無味・無臭・無触・無聴のエーテルの如き世界だと考えられ易いのです。その為に「実相に帰一する」とはエーテルのような空寂に帰入する事だと考えられ、小乗仏教的な隠遁生活こそ「実相に帰一する」ことだとせられる傾きの多かったのが仏教衰退の一大原因であったと考えられるのであります。
然るに、私の直感し得た「実相の世界」は無色・無聴・無味・無臭・無触の世界には非ずして、無限の妙色・無限の妙香・無限の妙音・無限の妙味・無限の妙触を備えたる無限次元の世界なのであります。・・・ おおよそ実在世界の風光は、いままで大抵概念的に「空」とか「寂光土」とか表現してありますので、静寂なる超越的光のみがボンヤリと満ちている空々漠々のエーテル的世界であろうと、直感なき文字だけで解釈する仏教学者は考えているかも知れませんが、実相世界(実在世界)の風光はそんなものではなく、法華経の自我偈の中にその片鱗が示されている通り、現象世界が劫尽きて大火に焼かるると見ゆる時も「わがこの土(実相世界)は安穏にして天人常に充満せり。園林諸々の堂閣、種々の宝もて荘厳せり。宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なり、諸天天鼓をうちて常に衆の伎楽を作し、曼荼羅華を雨降らして仏および大衆に散ず」とある通り、真に具体的な浄土こそ金剛不壊の実在世界であり、この実在世界の幸福祥益は永劫に破壊しないのでありますが、「念のレンズ」を透過して現象せる世界は、刻々に無常破壊するが故に自我偈は続いて日っているのです。「我が浄土は毀れざるに而も衆は焼き尽きて,憂怖諸々の苦悩是の如く悉く充満せりと見る」と・・・ 生長の家の「光明一元の世界観」が多くの人々に理解され難いのは、多くの人々が「現象宇宙」と「実在宇宙」とを混淆し,「現象人間」と「実在人間」とを混同し、釈迦が「久遠常住の霊鷲山」(実在界)を説いているのに衆生は「久遠常住の霊鷲山」を見ることを得ずして「焼き尽きて憂怖諸々の苦悩悉く充満せる現象世界」を見、この世界は「苦悩悉く充満せり」と見ているのです。・・・ 貴方の言われる通り、貴方の「寂光」と私の「光明」とは異なっています。「寂光」は光明<一元>の一歩手前の世界であり、現象界を投影する「無明のレンズ」を含んだ「現象世界の太源」であり、「光明一元の光明」とはもう一歩「無明のレンズ」を乗り越えた実在世界の光明の風光であります。ですから貴方の言われる通り、貴方の場合では「寂光の宇宙に帰一しても暗黒はあり得る」ことになり、私の場合では「光明一元の宇宙に帰入するとき」暗黒は無論なく、もう寂光さえもなく寂光では表現できない活気臨々乎たる一大光明の世界のみなのです。・・・』 >>
D 「久遠を流るる命」(「生命の実相」第27巻・第六章)
<<・・・生長の家は実に『久遠を流るるいのち』の所有(もの)である。私はそれを本当に信じているのであるし、そうであってこそ生長の家には、ただ書を読むだけによって病気が治るというが如き奇蹟すらも生じて来るのである。なぜなら、斯くてこそ生長の家の発行書を読むことによって、『谷口』と言う私の<いのち>に触れるのではなく『久遠を流るるいのち』に触れることになるからである。・・・ 『生命の実相』の著者は本当は『久遠を流るるいのち』なのである。釈迦も『久遠を流るるいのち』を把握したし、キリストも『久遠を流るるいのち』を把握したのである。そのほか空海、最澄、親鸞、日蓮もすべて『久遠を流るるいのち』を把握したのであろう。マタイにしても、ルカにしても、ヨハネにしても、キリストの言った言葉を、あんなに力づよく聖書の中に表現し得たのは、キリストの言った言葉をただ頭で覚えていただけでは出来なかったに違いない。それを完全になし得たのは、マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも『久遠を流るるいのち』に触れていたからである。大乗経典は後世の偽作であり、聖書は仏典の焼き直しだとの説もあるが、偽作であろうが、焼き直しであろうが一遍の架空な作り物語であろうが、そんなことで大乗経典の価値が減ったり、聖書の価値が減ったりするものではない。聖書の日本語訳だって『久遠を流るるいのち』が<あれ>に働きかけねば、あれだけの名文が出来る訳がない。聖書は新しい訳よりも旧約が一層よい。 大乗経典は釈迦が説いたのではないとの学説もある。木村泰賢博士などは此の説を採用していたのである。併しこれは釈迦と言うものを、法華経にあるように『久遠を流るるいのち』と見ないで、『釈氏の宮を出でて、迦耶城を去ること遠からず道場に座して悟道(さとり)を得てから僅か四十余年を経た』と言う観方である。――しかし本当の釈迦(肉体の釈迦ではない)は『久遠を流るるいのち』そのものなのである。――釈迦は『久遠を流るるいのち』<そのもの>なのである。・・・斯く釈迦が『久遠を流るるいのち』<そのもの>なることが判明するならば、大乗仏教経典が、肉体釈迦の滅後百年に出ようとも、乃至は二百年、三百年後に編纂されようともそんなことは問題ではないのである。若しその大乗経典に本当の『真理』が—―換言すれば本当に『久遠に流るるいのち』が—―表現されていて、それが我等に呼び掛けるならば、その大乗経典の本当の著者は『久遠を流るるいのち』そのものであらねばならぬ。そして釈迦が『久遠を流るるいのち』そのものであるならば、肉体釈迦滅後、何百年後に書かれた 大乗経典であっても、それは釈迦の著した大乗経典であると言っても差し支えはないのである。
<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う―――
・・・仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にしたがって肝心の問題であるべきその書に、本当に『久遠を流るるいのち』が生きているかどうかを忘れてしまう傾向がある・・・まことにも木村博士の言わるる通り『仏典を論ずる』ためには、サンスクリット語や・・・古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。しかし、それは『仏典を論ずる』ためであって『仏教を悟るため』ではないのである。幾千巻の大蔵経の第何頁に如何なる語が書いてあるかと言うようなことは、仏典を論ずるためには、必要であるかも知れない。けれども吾々の<さとり>のためには何の効果もないのである。・・・結局、語学や経典によって釈迦の教えを研究しようなどと言う企ては、暗中模索の靴を隔てて痒きを掻くに類する努力であって、それはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々巡りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことは出来ないのである。本当に<さとり>の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して『久遠を流るる<いのち>としての釈迦』そのものの中に飛び込まなければならないのである。
<< 語学や考証を超えて―――
私はここに、本当の釈迦は二千五百年前、地上に生まれて王宮を出家して迦耶城を去ること遠からぬ道場に座りて阿耨多羅三藐三菩提を成じた如き『肉体』でないことを宣言する。それは私が宣言するだけではなく法華経の『如来壽量品』にちゃんと宣言してあるのだけれども、法華経は大乗経典であり、大乗経典は釈迦是を説かずと言うような、<さとり>には何の関係もない考証的仏教学者があるから私が茲に改めてそれを宣言する必要があるのである。斯く法華経に従って、本当の釈迦牟尼如来は浄飯王の太子ゴータマの如き肉体人間ではないのであって『久遠を流るるいのち』であることを知るとき、吾等は到るところに『仏教』即ち『<ほとけ>の説教』を見出すことが出来るのである。・・・何処にでも身を現じて法を説き給うのが釈迦なのである。だから法を説くとき阿難も釈迦であり、達磨も釈迦であり、賢首も、空海も、道元も、最澄も、親鸞も悉くみな釈迦なのである。親鸞などに到っては・・・彼の<さとり>は語学を超えて却って『久遠を流るる<いのち>』を把んだのである。・・・言葉や語学にこだわり過ぎて、この文字は梵語では本来何を意味するのだなどと言う事を考証するほど、凡そさとりに遠いものはないのである。
ほとけは何処—―――
現代仏教が揮はないのは碩学は図書館に籠もってシミとなり、凡僧は寺院に籠もって死骸にお経を誦げるのを商売として、直接『久遠を流るるいのち』そのものなる釈迦に触れ、釈迦の<さとり>を直接生きようとする人が少ないからである。・・・『久遠を流るるいのち』なる釈迦は・・・ユダヤに於いても、日本に於いても、アメリカに於いても、イギリスに於いても常住久遠に説法してい給うのである。『久遠を流るるいのち』なる釈迦は、或いはイエスと現れて法を説き、或いはマホメットと現れて法を説き、或いはエマースンと現れて法を説き、さらに黒住教、今光教、天理教、扶桑教、ニュー・ソート、クリスチャン・サイエンスと現れて法を説いても一向差し支えがないのである。釈迦がその『肉口』を以って法を説かなければ、それは仏教でないというならば、地上いづこにか仏教あらんや・・・では吾等は何処に本当の仏教を探し求めたら好いであろうか。仏教とは『釈迦の肉口の教え』であると考えている限りに於いては、そんなものは地上の何処にもないのである。しかし仏教とは『久遠を流るるいのち』と一つなるところの釈迦、『常に此処に在りて滅せず・・・余国に衆生の恭敬信楽する者あらば、我復た彼の中に於いて、為に無上の法を説く』ところの釈迦――斯くの如く変貌自在、どこの国にでも恭敬以って真理を知らんと志す衆生のために出現して来て法を説く釈迦――この釈迦の教えが『仏教』であると言うならば、仏教は到るところにあるのである。
わたしは喇叭(らっぱ)――――
伊藤道海禅師が『生命の実相』を読んで見て、『言々すべて仏の教えである』と雑誌『宇宙』で評したのは当然のことなのである。『仏とは久遠を流るるいのち』の表現なのである。私は始めから『私は生長の家の教組ではない。私は諸君と共に「生長の家」の教えを聴聞してひたすら、其の如くい生きんと努力せる一人の求道者に過ぎない・・』・・・ 私は釈迦・キリストがそうであったろうところの『久遠を流るるいのち』に触れん事をつとめ、斯くつとめつつ、『久遠を流るるいにち』の啓示を『生命の実相』に書き止めたのであるだから『生命の実相』の本当の著者は谷口と言う、何時にか生まれて何時かは死滅し了まうような儚い人間が書いたのではない。その著者は『久遠を流るるいのち』である。私はただ『久遠を流るるいのち』の流出口となったに過ぎないのである。私と同じく、『久遠を流るるいのち』の喇叭口となったものは、いづれも仏の教えを語るものである。仏の教える真理は『生長の家』が独占するものでもなければ既成仏教が独占するものでもないのである。キリストの聖書は既に『久遠常在の釈迦』の言葉なのである。またかのカーライルが『汝の運命を征服する武器は念(こころ)である。・・・念ずればその結果は必然に現れる』と言った時に、カーライルは既に仏の教えを語ったのである。何故なら、それは『三界は唯心の所現』であることを説き、この世界は因縁所生の世界であることを説破しているからである。・・・彼はこれを説いたとき『久遠を流るるいのち』に触れてその喇叭口となったのである。換言すれば、カーライルが斯く真理を説いた時、常住久遠の釈迦牟尼仏が『余国に衆生のために無上の法を説いた』のである。また見よ、エマースンが『聖者と天才とが世界に投げた思想は世界を変化する』と説いたとき、彼もまた三界唯心の真理を説いて、常在久遠の釈迦の歌口となったのである。・・・斯くの如く観じ来るときには、ユダヤにも英国にも米国にも『久遠常在の釈迦』は既に仏教を説き給うたのである。仏教とは、茲に見よ、彼処に見よ、と言うが如く堂塔迦藍や書庫の中には存在しないのである。また釈迦と言う名前の肉体が喋ったことならば何でも仏教だと思うことも間違いである肉体の釈迦の言でも、悟らないで喋っていた時の言葉は仏教ではない。竜樹菩薩の作でも、曇鸞大師の作でも、カーライルでも、エマースンでも『久遠を流るるいのち』に触れて真理が語られる時には、それが仏の教えなのである・・しかし、それが仮令、仏の教えであっても、ラジオの受信機が異なる毎に、その音声に一種の癖をもっているように、その真髄は仏の教えであっても、その悉くが、(その雑音までもが)仏の教えである訳はない。ニュー・ソートの著者に於いても、物質無を説いているのもあれば、物質有として汎神論を説いているのもある。仏教に於いても、真言宗も、天台宗も、禅宗も、浄土宗も、真宗も、日蓮宗も、その何れもが仏の教えであるには相違ないが、その悉くが(その雑音までもが)仏の教えである訳はない。吾々は唯その中から『久遠を流るるいのち』を見出し、それに触れ、それに合流すれば好いのである。
萬教ただ一つの<いのち>の流れ
・・・生長の家のように全ての経典の真髄を示して万教の全一すべき真髄を明らかにするには、ニューソートを篩にかけると共に、他の宗教をも篩にかけて、そこに『久遠を生きるいのち』の純金を冶金し出さねばならないのである。・・・ 今でも『生命の実相』を読んで病気が治る事実を、『神が癒し給うのだ』と、考えている人があるかも知れぬが、神が治すのではなく、読めば心の眼が開けて、既に最初から健康であった自分の『実相』を見出すのである。病気だと見えたのは人間の仮相でしかなかったからである。若し病気が実際にあって神が病気を治し給うのであったならば、何らかの事情で、神が治し給はない場合は、全能の神ならば治せば治し得るものを治さないのであるから、その治さないことに真意があるので、これは嘗ての『ひとのみち』の教えのように『神の<みしらせ>』と見なければならないのである。併しそれは『生長の家』の思想ではない『神の<みしらせ>』の思想の中には『現象宇宙の実在』を肯定する思想と『神そのものの中に聖暗とでも言うべき何らかの暗黒を内包している』と言う思想を含んでいるのである。倉田百三氏は、宇宙の太源にまかせ切りになると言う心境にいながら、なほ、宇宙の太源の中にはなほこの聖暗を内包していると言う思想以上について行けないと、言はれたのは、ホームズ又は『ひとのみち』と同じ思想的位置にいられるのである。倉田氏が天理教に共鳴せられるのも『宇宙の太源の中には聖暗をふくんでいる』と言う真如縁起的な思想的立場にいられるからであろう。しかし、・・・私は『真如縁起』も『みしらせ』も、神の『病治し』も、『病拵え』も、聖暗も、寂光も飛び越えて了ったのである。そして病ひ本来なし、不幸本来無し、聖暗本来なし、寂光本来なしの世界へ入って了ったのである。・・・『私はついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。三界は唯心の所現である、その心をも、また現ずるところの現象をも、一切空無と截ち切って、その空無を縦に貫く久遠不滅の大生命が自分であった。・・・』と。私はついに『久遠を流るるいのち』にふれたのであった。それはもう病気の無い世界であった。 真如縁起か阿頼耶縁起か――どちらが本当であるかは佛教界では教界上の大問題である。一心の中に十界を互具しており、一念の中に三千の世界があると言う、その『一心』とは、その『一念』とは真如心性であるか、阿頼耶識であるかは問題であるのである。これは(1)仏でも迷う要素を持っているか、(2)迷った凡夫でも仏になるか、(3)仏は未だ嘗て一度も迷わないか、の重大問題であるのである。私は(1)を完全に否定して了ひ、(2)は現象仏としてその仮存在をみとめ、(3)を完全に肯定して、『衆生本来仏にして、仏は未だ嘗て迷はず』と断定して了ったのである。かくて『一切の人間は仏にして未だ嘗て迷ひしことなし!迷へると見える五官の我は本来無いのだ!』まことにも、釈迦が悟りを開いたとき『有情非情同時成仏、草木山川国土一切成道』と知ったのもそう言う心境ではなかったかと、類推出来るのである。 この悟りの目で古事記を読んだとき、悉く別の力で照らし出された万教帰一の真理がおのづから見出された。諸教は私にとってはその夾雑物を除いたとき、いづれもただ一つ、『久遠を流るる<いのち>』の表現であった。すべての宗教はこの『久遠を流るる<いのち>』によって互いに手を繋ぎ合はすべきものではないだろうか。救はれるのは宗教の儀礼によってではない、ただこの『久遠を流るる<いのち>』によってである。<いのち!>・<いのち!>わたしは<いのち>の衝動を感じて『生長の家』を、『生命の実相』を書きはじめたのであった。これの本当の著者は『久遠を流るる<いのち>』である。そして『生長の家』を創めたのは『久遠を流るる<いのち>』であったのだ。 >>
E 「世尊拈花」の公案解釈(「無門関解釈」・第六則)
<<世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時衆皆黙然たり。唯迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊日く,吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相,微妙の法門あり。不立文字、教外別伝,摩訶迦葉に付嘱す。 「華厳経」こそ、いみじくも大日本国体の久遠無窮性、中央に「皇(ス)」のある蓮華荘厳の実相が象徴的に書かれている経典であって、それが竜宮海に逃避せしめられていたのは、時期未だ到らざるため和光同塵の働きで日本国体の尊厳を隠蔽してあったのである。「華厳経」とは実に大日本国体の尊厳無比、宇宙の実相と同体にして久遠無窮なる事実を説ける経典であったのである。 正法眼蔵・・・悟りの光の眼で見たる法体宇宙の実相はなんであるか、涅槃妙心にならなくては分らぬ・・・宇宙の微妙本体と一つになった妙なる心――絶対実在の絶対把握の妙心――を顕した時にのみ解るのだ。・・・「正法」と言い「実在」と言い「妙法」と言い「妙心」と言い、大日本国体であることを知らねばならぬ。・・・「引き寄せて結べば柴の庵なり、解くれば元の野原なりけり」・・・大日本国家はそんな因縁仮和合の国家ではないのである。若し仏教が一切の存在を「無」と見るならば、日本国家も無なのである。私は「生命の実相」<神示を受けるまで>の最後の章に示すが如き過程に於いて、既に「無」の門関を越えて釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである。・・・ 金波羅華とは、中心に葩(はなびら)の統一せられたる黄金色燦爛たる「皇(ス)」ハラナの華――「華厳経」が宇宙の実相を、御中に「ス」を有する蓮の華に喩えたると全く同じ事を象徴せんとしたものである。・・・宇宙の実相が蓮華蔵世界であり、黄金色の菊華が象徴する世界であり、全大宇宙が天照大御神の法体であり、それは単なる「空」ではなく「法華経」の説く如き「衆生劫尽きて焼くると見る時にも,火に焼けず滅せざる天人充満せる世界」であり、その組織は蓮華の如く、金波羅華の如く、組織紋理整然として御中に帰一しているのであって「空」とか「有耶無耶」とか言うような漠然たるものではないのである。・・・実相は正しく「実」であって、ちゃんと心の眼を開いてみれば此の金波羅華の如く組織微妙、円満完全、中心帰一の高次元世界である。・・・「正法眼蔵」と言うものは「宇宙の実相」そのものである。・・・歓喜の相であり、朝日の昇る相である。宇宙の実相は伝へるも伝へぬもない。すべての人に内在しているのだけれども、常に歓喜微笑して心の波長が「宇宙の実相」の波長に共鳴する人の前のみに顕れるのである。・・・宇宙の実相は、金波羅華の如き中心帰一の微妙の組織体であると悟る。・・・現代の仏教者と言われる者のうち有耶無耶の空相に翻弄されずして破顔し得る迦葉たる者果たして幾人かある。>>
F 「人類光明化運動の選士を讃えて」(「第二青年の書」・第20章」
<< 人類光明化運動の選士よ、神に選ばれたる若人よ。諸君は神武天皇建国の日本国に生まれたることを誇りとし、慶びとし、この誇りと慶びとを若き人たちに分かち、子々孫々に伝えることを名誉ある使命とするのである。 諸君は、天祖、彦火瓊々杵尊(ヒコホニニギノミコト)の天降りましてより、神武天皇に至るまで、約そ一百七十九万二千四百七十余年の古き伝統をもて建てられたる日本国に生まれたることを誇りよし、慶びとし、この誇りと慶びとを若き人たちに分かち、子々孫々に伝えることを使命とするのである。 彦火瓊々杵尊(ヒコホニニギノミコト)の天降りを歴史的事実にあらずと疎んじてはならないのである。諸君は天照大御神の御孫の天降りとは、天球すなわち大宇宙を照らし、それを光明化する理念の天降りであることを知るのである。理念は現実に先立つ、日本の現実はいまだ理念の完全さに達せずとも、宇宙を照らす大理想をもって天降り来たったことが日本民族の使命として斯くの如き神話を創造して代々相伝承して来たったことが尊いことを知るのである。 諸君は知る、天照大御神の孫の降臨とは、真子(まご)の降臨であることを。それは神意の伝承、「まことの理念」の伝承のことである。この尊き天意の伝承の下に日本国は肇まったのである。されど、時運いまだ開けず、交通不便にして、日本民族全体が統一国家になっていなかった時代が幾世代も続いたのである。それを『日本書紀』は「是の時に世、荒きに逢い、時、草昧(くらき)にあたれり」というような言葉で表現しているのである。時期の至るまで、神武天皇にいたる多くの世代を通じて、天皇家の雌伏の時代がつづいたのである。単に雌伏していたのではないのである。「かれ蒙(くら)くして正を養い、此の西の偏(ほとり)を治らす。皇祖皇考(みおや)、神聖(かみひじり)にして、慶を積み、睴(ひかり)を重ね、多(さわ)に年所(としのついで)を歴たり」と『日本書紀』は書いている。暗黒の時代にも、常に「正」を養って来たのが、日本民族の祖先であり、その祖宗は、「神聖(かみひじり)である」ということを知っていたのである。即ち、日本民族は、連綿として、神の霊統をつぐところの「神の子」であるという自覚をもって正を養い、みずからの修養に尽くして来たのである。諸君は、斯くの如き尊き伝承をうけつぎ来たった日本民族の一員として生まれ来たったことを誇りとし、慶びとし、この誇りと悦びとを若き人たちに分かち、子々孫々に伝えることを名誉ある使命とするのである。 神武天皇の出興せられし頃は、交通不便なるがゆえに僻遠の地は天皇の恩沢にうるおうすべもなく、邑々、あい分立して境界争いして鎬をけずっていたのである。これを『日本書紀』は『遠くはるかなる国、王沢(みうつくしび)にうるおわず、遂に邑に君あり、村に長(ひとのかみ)あり、各々自ら境を分ちて、以って相凌ぎ軋ろわしむ』と書いている。神武天皇は、此の小村小邑相分立し闘争を事とするのを見るにしのび給わず、「天業を弘め延べて、天下を光の宅たらしむべし」と思われたのである。そのとき塩土老翁あらわれて、「東に美し地あり、青き山四方に周り、蓋し六合(くに)の中心(まなか)」と教え奉ったと『日本書紀』は伝えている。神武天皇の大和国への困難なる御出動は此の神示に基くのである。その塩土老翁こそは、生長の家の人類光明化運動を起こしたまえる本尊、塩椎神、住吉大神であり給う。蓋し、塩土老翁は常に、日本の重大事きたるときにあらわれて、国歌の安泰のために導きたまうのである。 生長の家の信徒たる青年は、塩土老翁の分身分霊として、日本危急の場合に処して国を護らんがために、神縁ふかく、神意に導かれて引き寄せられたのである。まことにも諸君は祖国の危うき際に処して国を護らんがために神に選ばれたる選士であるのである。諸君よ、必ずその神縁を空しくすることなく、大神の召喚に応えまつりて、祖国守護の第一線にわれらと倶に立たんかなである。佛人ポール・リシャルは『告ぐ!日本国』なる文章で日本国を次の如く讃えて日う。「諸々の神に愛護せられたる国よ、諸々の神もまた汝に於いて互いに相和せり。異なれる神の宗教は、至る所に互いに相呪うを常とするに、独り汝の拡量なる奉仕のみは、互いに他を排する事を為さずして、却って相補全せしめたり。異なれる神の宗教とは何ぞ。一は神の内在を教え、自然の諸々の生命が躍動する空間に於いて、祖先が生動する時間に於いて、万種に通ずる一如を教うるもの、他は即ち神の超在を教え、時空を超越し、永遠の寂静裡に至上の祝福を司り、独一の中に万殊を蔵するを説くもの是なり。而して世界に於いて流血の汚れに染まず、『地に平和あれ』と宣伝するの権利を保有するものは、唯だ此等両個の宗教のみに非ずや・・・」、 ポール・リシャルのこの賞賛の言葉にも拘らず日本の現実の宗教は諸宗諸派に分岐れ、互いに境を分ちて相軋り合っているのである。しかしこれは、職業宗教人の生活や面子のために為すところの歪められた宗教であって、“万殊に通ずる一如を教える”真の日本の宗教ではないのである。真に日本的なる“万殊に通ずる一如を教え、独一の内に万殊を蔵する”宗教は、ただ万教帰一の“生長の家”のみである。生長の家のみが日本の実相である永遠の「大和」の理想を発揚し得る唯一の宗教であるのである。世界の平和を説けども、みずから宗教同士互いに相排斥しながら闘争を事として何の甲斐あらんやである。諸君は、万国大和の使命を有する日本国に生まれたる事を誇りとすると共に、“万殊に通ずる一如”を把握し、“独一の中に万殊を蔵する”万教帰一の教え「生長の家」に来て、万国偕和の“理想世界”建設運動に参加できた事を光栄だと思わなければならないのである。 まことにも諸君の幸福と光栄とは、諸君が「個我」に捉われず、自己放棄によって全人類の願いに生きる事によって、自己拡大が行われたことである。真の民主主義は、「個我」を伸ばす事に懸命であるような自己中心主義ではないのである。戦後の多くの国民は、輸入された民主主義を穿きちがいて、自己の利益追求主義と肉体的快楽追求主義とを民主主議だと考えて小我を自己放棄する事にとって得られる内的自我の”自己拡大“の真の魂の悦びを知らないのである。彼らは、魂がまだ幼稚なのであり、小我の殻の中に眠っている蛹のようなすがたであるのである。然るに諸君は既に自己中心主義の小我の殻を脱ぎ捨てて人間の”蛹”状態から飛び出して全人類を平和ならしむる人類光明化運動の使徒として飛躍したのである。素晴らしいかな諸君!!
ポール・リシャルは、また『日本の児等に』と呼びかける題の下に、次の如く歌って日う、
日本の児等に
曙の児等! 海原の児等! 花と焔との国、 力と美との国の児等! 聴け,涯しなき海の諸々の波が、日出ずる国の島々を讃うる栄誉の歌を
汝の国に七つの栄誉あり、故にまた七つの大業あり さらば聴け、其の七つの栄誉と七つの使命とを
(一) 独り自由を失わざりしアジア唯一の民! 汝こそ自由をアジアに与うべきものなれ
(二) 嘗て他国に隷属せざれし世界の唯一の民! 一切の世の隷属の民のために起つは汝の任なり!
(三) 嘗て滅びざりし唯一の民! 一切人類幸福の敵を滅ぼすは汝の使命なり
(四) 新しき科学と旧き智慧と、ヨーロッパの思想と アジアの精神とを自己の内に統一せる唯一の民! 此れ等ふたつの世界、来るべき世の此れ等両部を統合するは汝の任なり
(五) 流血の跡なき宗教を有てる唯一の民! 一切の神々を統一して更に神聖なる真理を発揮するは汝なるべし
(六) 建国以来一系の天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴せる唯一の民! 汝は地上の万国に向かって、人は皆な一天の子にして、 天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを 教えんが為に生まれたり
(七) 万国に優れて統一ある国民! 汝は来るべき一切の統一に貢献せん為に生まれ また汝は選士なれば、人類の平和を促さんが為に生まれたり
曙の児等! 海原の児等! 斯くの如きは、花と焔との国なる汝の七つの栄誉、七つの大業なり
まことにも諸君は、此の七つの理想、七つの栄誉、七つの大業を実現せんが為に日本国に生まれ、“内在と超越”とによって全人類と全宗教を包容する日本の宗教、“生長の家”に神縁をもって結ばれたる真理の使徒である。 日本の国が、「建国以来一系の天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴する唯一の国」であるのは、ポール・リシャルの言うが如く「地上の万国に向かって、人は皆な一天の子にして、“天”を永遠の君主とする」人類永遠の理想を象徴的に具現せるところの“真理国家”であるからである。万物には永遠変ることなき一つの中心がある。原子には永遠変ることなき一つの中心“原子核”があるのである。その中心が変化すればその原子は崩壊して、別の原子に転換する。細胞には、永遠変ることなき中心として一個の細胞核があるのである。その中心たる核が破壊すれば、細胞は死滅するのである。樹木にもその中心として永遠変ることなき一本の幹があり、幹が枯れれば、その樹木は枯れるのである。太陽系にはその永遠変らざる中心として太陽が存在する、而して、若し太陽が崩壊すれば、その周囲をめぐる遊星の上に棲む生物は悉く死滅するのである。 されば宇宙の真理は、「存在する万物万象」には必ず一つの変わることなき中心が存しることを要請するのである。然るに、今や世界諸々の国家には、その中心として仰ぎ見る中心たる「万世一系にして変わることなき中心者」たる王が存在しないのである。それゆえに、これ等の国家は常に、その中心者たらんことを願う僭主が現れ、相争うて闘争の絶え間がないのである。ただ日本国家のみ、ポール・リシャルが指摘せるが如く「建国以来一系の天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴し」万象万物ことごとく一つの永遠に変わらざる“中心”が存するという「宇宙の大真理」を具体化しているのである。 それゆえに、諸君は、此の「宇宙の大真理」を具体化せる此の国家を尊びて、“大日本真理国家”と呼ぶのである。“大日本”というは、形の大小をいうにあらず、宇宙の大真理を具現せるがゆえに宇宙の相そのままに「大」なるがゆえに、尊びて斯くいうのである。諸君は此の世界に唯一つのみある此の”真理国家“に生まれたることを誇りとし、栄誉とし、悦びとし、この国体(くにがら)を護持せんがために結束して、全世界に此の真理を宣布する使命のために起ち上がった選士である。ポール・リシャルは、諸君と、諸君の生れたる国家とを讃め称えて歌う―――
万国に優れて統一ある民! 汝は来るべき一切の統一に貢献せん為に生まれ、 また汝は選士なれば、 人類の平和を促さん為に生まれたり。
正しき愛国者とは斯くの如き日本の実相と、日本国民の使命を自覚して、それを実現せんために行動する諸君のことであるのである。 >>
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以上の引用転載させて頂いた哲学的側面から観た「生長の家」の真髄中の神髄ともいえる事柄についてはマサノブ君は完全無視しているのであります。それは、彼自身が今生に於いては、霊的理解力を欠いた転生過程にあり、彼の今生は左翼唯物論至上主義を以て転生して来ているからであります。未だマサノブ君は深い「神性隠蔽」の状態にあるのであります。だからマサノブ君は「生命の實相哲学」が理会できない。故に、その偉大さが判らず捨て去ったのであります。ここに「教え」の中身は完全に変っていると断じてマチガイではない。これでも教えの中身は変っていないと言い張るのか?マサノブ君??!! (完)
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