生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「夜郎自大」また、又、亦、本部直轄掲示板?に姿を現わした「初心者」=マサノブ君 、堂々と開祖・谷口雅春先生への反逆屁理屈論を展開・・・<そのB> (3601) |
- 日時:2014年03月24日 (月) 11時45分
名前:怒りの信徒代表
<「初心者」=マサノブ君、曰く> (各文要点を抜粋) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/
732 :初心者:2014/03/22(土) 14:06:39 >>727
世界とはすべてが根源的な一者の自己表現であって、現象というものはどこにもありませんでした。ところが雅春先生という人があらわれて、「現象はない」と言いはじめられたのです。現象というものはそれまで本当にどこにもなかったのです。ところが、雅春先生が「現象はない」といわれたことで、一部の人々のあいだで現象というものが姿をあらわしたのです。 その一部の人々に向かって、雅春先生は「現象はない」とお説きになられました。いったいなにが起こったのでしょうか。それは、もともとなかった現象を雅春先生がおつくりになられて、それを「ナイものはナイ」といって否定なさるという出来事であったのです。雅春先生は、なぜこのような手の込んだことをなされたのでしょう。 それはですね、ここにある苦しみを今すぐ消し去るには、ないはずの現象をつくりだして、それを「ない」と否定するしかなかったからです。ないはずの現象をつくりだすことでしか、ここにある苦しみを消し去ることができなかったからです。人々の苦しみを消し去るためには、ないはずの現象をつくりだして、それを「ないとするしかなかった」ということです。 それまでどこにもなかったはずの現象を雅春先生がおつくりになられたことで、一部の人々は、ふたつに分割された世界を認識するようになりました。「現象はない」ということをすんなりと受け入れられる人もいましたが、受け入れられない人もいました。 受け入れられなかった人々は、ないはずの現象を自分の「心の影」と思い込むようになりました。そして現象を自分中心にコントロールしようとしはじめたのです。雅春先生が現象をおつくりにならなければ、このようなことはたぶん起きてなかったでしょう。 じっさいにも雅春先生は、#727の引用文のなかで「現実人生の支配力」という言葉をもちいておられるではないですか。人間中心主義がもちきたしたもの、それが「支配することへの執着」なのです。
733 :初心者:2014/03/22(土) 14:21:02
対機説法の件ですが、ほんらい対機説法とは相手にあわせて個別になすものではないのですか。「対機」とは相手にあわせることではないのですか。どうやれば文書伝道で、不特定多数の人々にあわせた説法ができるのでしょうか。矛盾がつぎからつぎと出てきて、読み手は混乱するばかりではないですか。 いったいなにが真実なのか、どうやってみわければよいのですか。「真の生長の家の教え」といっている人のように、どれが対機説法でどれが「真の教え」であるかをみわけられる人ならよいですが、そうでない人はどうすればよいのですか。
736 :初心者:2014/03/22(土) 16:18:15
本流説では総裁は、生長の家を「崩壊させるために存在」してんでしょ(笑)ならば雅春先生をカタチだけでも重視する姿勢、「採らないハズ」だよね(笑)そんな目的が、あるのなら。ようするに、本流説とは、総裁は教団の崩壊を防ぎつつ崩壊させようとしている、ということなんでしょ。でもですね、本流は、「総裁は教団を崩壊させようとしている」と主張しているときは、「総裁は教団の崩壊を防ごうとしている」と主張していたことを忘れることができるんですね。もちろん、逆の主張をしているときにも、もう片方の主張を忘れることができます。だから、本流にしてみれば矛盾はどこにもないわけです。雅春先生の教えにも似たような矛盾があるのではないですか。たとえば、「実相には形がある」といいつつ「形がない」といってみたり、「現象世界は一者がつくりだしている」といいつつ「ひとりひとりがつくりだしている」といってみたりといった具合にです(「出典を示せ」といわれても、雅春先生のご著書は手元にないので無理です)。ようするに、「矛盾はいっさい考えない」、これが生長の家のやり方なのです。「矛盾はいっさい考えない」とは、「矛盾するものはけっしてむすびつけない」ということです。これが生長の家のやり方ですから、総裁にかんしても「矛盾するものはけっしてむすびつけない」とするいつものやり方が効果を発揮するわけです。ちなみに、矛盾するものをむすびつけると、人間知として否定されます。
738 :初心者:2014/03/22(土) 18:19:48
<< われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。>> #727で引用されていた上記の雅春先生のご文章ですが、これがまさしく、わたしのいっている人間中心主義なのですよ。雅春先生がいっておられるのは、実相の完全性を現象の不完全に投影してこれを完全なものに変える、ということですよね。「征服」とはつまり不完全をなくすということですよね。問題は誰が投影するのか、ということです。もちろん投影するのは人間ですよね。人間が投影することで不完全を征服するということですよね。このことには、じつはふたつの問題があります。ひとつはこれが人間中心主義であるということです。人間には現象を支配しコントロールする力がある。こういうことをいっているわけですから、これはあきらかに人間中心主義の考え方です。さらに別の問題があります。この問題こそが、雅春先生の教えを完全否定する問題なのです。上記の引用文で雅春先生がなにをいっておられるか、雅春先生は「主観と客観を一致させよ」といっておられるのですよ。わかりますか?実相を主観、現象を客観と考えればわかりやすいでしょう。 主観と客観は一致しない。ソシュールによってこのことが証明されています。一致は不可能なのです。この不可能を雅春先生は要請しておられるのです。雅春先生の教えは、ソシュールによって完全否定されています。
740 :初心者:2014/03/22(土) 21:16:58
「実相をみる」といっている人たちは、なにをなさろうとしておられるのですか。「実相をみる力が自分にはある」とおもうからこそ「実相をみる」といっているのではないのですか。いったいぜんたい、こういう人たちはなにをなそうとしているのですか。「実相をみる」というとき、この人たちは全員が神になっているということですか。神になって世界を変えようとしているということでしょうか。・・・「病気はない」とおもうとすれば、これは主観ですよね。ふつうに考えれば、「病気はない」という主観と「病気が消えた」という客観的出来事の一致をもって「これは真理だ」ということになりますね。主観と客観の一致をもって「これは真理だ」といいますよね。・・・一致が必要ないのであれば、治ろうが治るまいが、どっちでもいいことでしょう。「奇跡が起きた」とことさらに言い立てる必要もないでしょう。ところで、雅春先生は「現実人生を支配する」といっておられますよね。これも対機説法の方便ということですか。主観も客観もなければ支配のしようがありませんから、これも方便ということなのですね。これをはっきりさせてください。
741 :初心者:2014/03/22(土) 21:43:22
よくはわからないのですが、生長の家では「いいことを思えばいいことがあらわれる」といいませんか?もしいっているとすれば、これは主観と客観の一致ではないのですか。雅春先生は「いいことを思っていいことをあらわしなさい」と信徒のみなさんに要請しておられるのではないのですか。このようなかたちで、主観と客観の一致を要請しておられるのではないのですか。
742 名前:初心者 :2014/03/23(日) 08:52:25
イデア論とはなにか、というと主観と客観の一致なのですね。主観としてあらわれたイデアと、客観としてあらわれている物質界とをいかにして一致させるか。これがイデア論がなそうとしていることなのです。 では、古代ギリシャの思想がなんであったかというと、それは言葉の一致です。言葉の姿をいかにして一致させるか。これが古代のギリシャ人たちがなそうとしていたことです。主観と客観の一致と言葉の姿の一致。むつかしいのはどちらでしょう。ふつうに考えれば、言葉の姿を一致させるほうがたやすい、となりますね。でも事実は逆です。主観と客観の一致は不可能なのですね。不可能であるからこそ、逆に「一致できた」と簡単におもえてしまうのですね。言葉の姿は一致させることができます。ここでいう言葉の姿とは、自然の言葉の姿と、人間の言葉の姿です。このふたつの言葉の姿は一致させることができます。 一致させられるということは、一致しているかどうかがわかってしまうということです。一致していなければ、「一致していない」ということが実感としてわかってしまいます。「この言葉は一致していない」ということがじっさいにわかってしまいます。無数にある人間の言葉のなかで、自然の言葉に一致させられるのは、おそらくひとつだけでしょう。このたったひとつの言葉をみつけださなければならないのです。みつかったときには、「一致した」との実感があります。しかしこれは簡単なことではありません。しかも自然の言葉は、「一致した」とおもえた瞬間に、まるで狩りの獲物が逃げていくかのようにその姿を変えてしまいます。その変化した姿にふたたび言葉を一致させなければならなくなります。もしかしたら自然は、このようにしてみずからの言葉を語りかけているのかもしれません。 主観と客観の場合は、一致を確認するすべがありません。たとえ一致してなくても「一致していない」ということが実感としてわからないのです。そのために人は、なんとなく一致しているような気になってしまいます。 西行はいいました。「自分が歌を詠むのは、たんに風景や文物に心を動かされて詠んでいるだけではない。それを超えた歌という形にの中にあるもの、形に見えないもの、その向こうにある、えもいわれぬ真実をつかまえたいとおもう。それは仏道で悟りを得ることと同じことなのだ」。いっけんすると、歌を詠むということは主観と客観とを一致させることのようにおもえますが、ほんとうはそうではありません。西行がいうように、歌を詠むのは、自然の言葉の姿と自分の言葉の姿とを似せるためであるのです。そして、このことが「仏道で悟りを得ることと同じである」と西行はいっているのです。一致したか一致してないかがわからぬような心など、ほんとうはどうでもよいものなのです。言葉こそがすべてなのです。自己をはこびて万法を修証させようとするはイデア論であり、迷いなのです。万法すすみて自己を修証するとは、万法に言葉の姿を似せようとすることであり、これこそが悟りなのです。西行はこういうことをいっているにちがいありません。※言霊としての和歌は主観と客観を一致させようとするものであり、この意味ではイデア論といえるのかもしれません。
743 名前:初心者 :2014/03/23(日) 16:59:40
古代のギリシャ人は、大地には真理が隠されていると考えていました。その大地からいかにして真理をあらわしいだすか。ギリシャ人はつねにこのことを問題にしていました。プラトンがイデア論を唱えたことで状況は一変します。イデア論は、イデアの真理によって大地をいかにして照らしだすか、ということを問題にしていたからです。イデア論以降、大地は、真理が隠された場所ではなく、真理を照射する場所であるとみなされるようになりました。真理を照射するのはもちろん人間です。たいへんに大きな変化があったということがわかります。極論すればこれは、大地が人間の運命を決めていた時代から、人間が大地の運命を決める時代への変化なのです。イデア論の登場によって、大地中心主義から人間中心主義への大転換がおこなわれたのは間違いありません。人間中心主義とは、「人間が天地万物の価値を決める」とする、思い上がった発想をいいます。総裁は、時計の針を逆転させ、人間中心主義から大地中心主義へと回帰しようとしておられるにちがいありません。
744 名前:初心者 :2014/03/23(日) 17:29:35
先ほどの投稿で、「真理を照射するのはもちろん人間です」と書きましたが、「照射する」とはどういうことかおわかりでしょうか。それは「それがなんであるかを真理の言葉で言い当てようとすること」なのです(「物質はない」とは、物質の非存在を真理の言葉で言い当てようとすることです)。 日本人は真理を言葉で言い当てようとはおそらくしてこなかったですね。むしろ自然がそのつど語りかけてくる真理を言葉に変えようとしていたのではないでしょうか。 「物質はない」、「現象はない」、「実相は完全である」。このように、真理を言葉で言い当てたがるのはなぜなのでしょう。なぜ生長の家の人々は、このようなことを延々とやりつづけているのでしょう。ふつうの日本人がおそらくはやろうとしていないことを、なぜ延々とやりつづけるのでしょう。 いったいなにがそうさせているとお考えですか。わたしには「主観と客観とを一致させたい」とする衝動にとりつかれているとしかおもえないのですが、いかがお考えでしょう。
745 名前:初心者 :2014/03/23(日) 20:03:02
病気治しと環境破壊から自然をまもることと、どっちが大事だとみなさんはお考えですか。いくら病気を治しても、自然が破壊されたらおわりです。どっちが大事かはあきらかでしょう。 このようなことをいえば、なぜ宗教団体が環境運動をやるのか、ほかの団体や個人にまかせておけばよいではないか。このような批判が返ってきますね。宗教がやらないとダメなんです。環境破壊の原因は人間中心主義にあるんです。人間中心主義をなんとかしないかぎり、問題はなにも解決しないのです。そして、それができるのは宗教だけなのです。生長家が率先して自然宗教へと回帰し、大地中心主義を世の中に広めなければならないのです。・・真理を言葉で言い当てようとすることじたいが、すでに人間中心主義なのです。「物質なし」といってしまえば、これだけで立派な人間中心主義なのです。・・・「虚説」といってるほうが虚説なのです。総裁は真理を言葉で言い当てようとしておられますでしょうか。おそらくそれはないですね。・・・批判を覚悟であえて言い当てようとはなさならなったとすれば、これは「さすが」というほかはありません。
746 名前:初心者 :2014/03/24(月) 06:49:07
わたしのいう人間中心主義を定義します。「言表と出来事との一致をもって真理とみなすこと」。これを定義にいたしたいとおもいます。ちなみに、「言表」とは「言葉で言い表すこと」です。たとえば「病気はない」と言表してじっさいに病気が治れば、言表と出来事とが一致したのでこれを真理とみなすのが人間中心主義です。したがって、「言葉で真理を言い当てられる」とおもうことも人間中心主義です。あるいは、「言葉で真理を言い当てたい」と欲するのも人間中心主義です。ようするに、そのものの価値、たとえばそれがあってよいものなのか、あってはならないものなのか、といったようなことはすべて「人間が決める」、と考えるのが人間中心主義です。この意味で、生長の家は人間中心主義といえます。
747 名前:初心者 :2014/03/24(月) 06:52:36
#711の投稿でわたしは、「筋書きの妥当性」を訊けさんに打診いたしましたが、訊けさんからは「雅春先生は人間中心主義ではない」とのご返信をいただきました。 どうでしょう。雅春先生の教えは、これでもやはり人間中心主義とはいえないとお考えでしょうか。雅春先生は、言表と出来事との一致をもって真理としておられないのでしょうか。あるいは生長の家の方々がそのように考えておられるとはいえないのでしょうか。いかがでしょう。 イデア論は「言表と出来事との一致」をもって真理とみなそうとします。こうした真理観が「ものの価値は人間の言表によって決まる」との思い込みを生みだしました。言表とは主観でもありますから、イデア論は「物の価値は人間の主観によって決まる」との思い込みを生みだしたということになります。これが、のちに環境破壊をもたらす人間中心主義のはじまりです。
748 名前:初心者 :2014/03/24(月) 07:44:41 総裁が宗教家として適性を欠いているとみなされるのは、以下の3つの理由によるものと考えられます。 @人間性に問題がある。 A真理を語れない。 B救済を否定している。 以上の3つが「適性を欠いている」とされる理由であるとおもわれます。人間性はいくらでもごまかせる、掲示板の事例でもあきらかでありますから、これは問題にいたしません。 真理を語れない。これが事実であるとして話をすすめます。事実は、語れないのではなく、語ることを欲しておられないのです。真理を語るとは、真理を言葉で言い当てようとすることです。すでに定義いたしましたように、これは人間中心主義です。総裁は人間中心主義を否定しておられるわけですから、真理を言い当てようとなさるはずがありません。 真理を語ろうとすれば、どうしても人間中心主義におちいってしまいます。人間中心主義を否定していながら、それでも真理を語ろうとするのは矛盾なのです。 「自然環境をまもりましょう」といいつつ、それでも真理を滔々としゃべれる人物など誰が信用いたしますか。総裁が救済を否定しておられるとすれば、その理由は、救済が人間中心主義にむすびつくと知っておられるからです。 「病気はないのです」といってしまったら、この時点ですでに人間中心主義を認めたことになります。人間中心主義を否定しておられる総裁がもしも、「心をいれかえて、これからは個人救済もやります」といわれたなら、このひと言で総裁の信用は地に堕ちるでありましょう。個人救済と環境問題を計りにかけられたとき、総裁は環境問題の解決を優先されたのだとおもいます。
以上が、総裁が真理を語ろうとなされない理由であり、個人救済を否定される理由と考えられます。総裁は、宗教家として節度ある判断をなさっておられるのではないでしょうか。このようにいったところで、みなさま方は、総裁を余計に否定なさるかもしれません。逆効果といえば逆効果でありますが、なぜそうなるのか、その理由を考えるのはけっして無駄ではないと考えます。
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<一口コメント>
@ マサノブ君は、「夜郎自大」この言葉に尽きるのであります。独裁権力者になり「生長の家」教団に絶対権力を振るいたい。開祖・谷口雅春先生をなんとしてでも見下してやりたい。その為に、「谷口雅春哲学」以上のものを確立したい、総本山以上の世間が注目する異色の巨大建築物(「森のオフィス」として完成ズミ)を完成させたい、脱宗教・脱信仰の「マサノブ新文明論」を発表したい、――この様な権力と自己顕示のカタマリの悪玉(敢えて言う)人間であります。
A そのために、1000億円の教団資産を活用しなければならない。然し一挙にすれば失敗する、自分は90歳以上は生きられる。徐々に徐々に1000億円を換金して絶対権力者の立場で自分の目標必達のために活用する、それまでは「生長の家教団」を延命させておく。「谷口雅春哲学」は一挙に潰さずに徐々に切り崩していく方針である、――かく考えているのがマサノブ君の現下の姿であります。
B 「谷口雅春哲学」を徐々に切り崩していく為に「生長の家総裁」としての立場では言えないことを、「初心者」と言う名前で「マサノブ哲学」を語るのであります。今回の引用文中で、特に注目べきは次の個所で彼の本音が現わされているのであります。
<< なぜ宗教団体が環境運動をやるのか、ほかの団体や個人にまかせておけばよいではないか。このような批判が返ってきますね。宗教がやらないとダメなんです。環境破壊の原因は人間中心主義にあるんです。人間中心主義をなんとかしないかぎり、問題はなにも解決しないのです。そして、それができるのは宗教だけなのです。生長家が率先して自然宗教へと回帰し、大地中心主義を世の中に広めなければならないのです。>>
<< 「物質なし」これだけで立派な人間中心主義なのです。>>
<< 生長の家は人間中心主義といえます。>>
<< 真理を語るとは、真理を言葉で言い当てようとすることです。すでに定義いたしましたように、これは人間中心主義です。総裁は人間中心主義を否定しておられるわけですから、真理を言い当てようとなさるはずがありません。>>
<< 「病気はないのです」といってしまったら、この時点ですでに人間中心主義を認めたことになります。>>
<< 以上が総裁が真理を語ろうとなされない理由であり、個人救済を否定される理由と考えられます。>>
これらは、マサノブ君の本音の思想を表現した言葉であります。「初心者」=マサノブ君よ、「生長の家」教団から立ち去りなさい!! 信徒の浄財を何と心得居るや??!!!
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(3602) |
- 日時:2014年03月24日 (月) 16時03分
名前:九州方面の信徒
@人間性に問題がある。 A真理を語れない。 B救済を否定している。
問題点はもう一つある。
C何を持って法灯継承と言うか。その根拠について。
初心者さんの理屈では、法灯継承は、イデアを言い当てたと云う言葉遊びの域を出なくなるが。いかに?
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【個人救済】を一切否定しました。 (3603) |
- 日時:2014年03月24日 (月) 16時17分
名前:九州方面の信徒
>以上が、総裁が真理を語ろうとなされない理由であり、個人救済を否定される理由と考えられます。総裁は、宗教家として節度ある判断をなさっておられるのではないでしょうか。このようにいったところで、みなさま方は、総裁を余計に否定なさるかもしれません。逆効果といえば逆効果でありますが、なぜそうなるのか、その理由を考えるのはけっして無駄ではないと考えます。
>考えるのはけっして無駄ではないと考えます。
とありますので、考えました。 環境が壊れたら個人の病気や個人の不調和やら個人の家庭不和や個人の人生問題なんて言っていられませんものね。
現教団が、【個人救済】を一切合切、否定している事を、福音として、現況団の信徒の方々に教えてあげたいと思う。
八ヶ岳教団を見限る、良い知らせ。まさに福音。
もう一度。現生長の家は【個人救済】を一切否定しました。
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