生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


「夜郎自大」また、又、亦、本部直轄掲示板?に姿を現わした「初心者」=マサノブ君 、堂々と開祖・谷口雅春先生への反逆屁理屈論を展開、「生長の家」は、もはや君を必要としない!・・・<そのC> (3619)
日時:2014年03月25日 (火) 11時32分
名前:怒りの信徒代表



<「初心者」=マサノブ君、曰く> (余分なところを省き、各文要点を抜粋)

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/




760 :初心者:2014/03/24(月) 11:03:12

「主観と客観の一致」ということでわたしが言っておりますのは、雅春先生の教えの矛盾とか、そういうことではないのです。わたしがいいたのは、雅春先生の教えは、言表と実際の出来事との一致を必要としているのかしていないのか、ということです。「物質はない」との教えでありながら「物質」が本当は実在していたというように、言表と実際の出来事が一致していなくても、雅春先生の教えは成り立つのか、ということです。「病気はない」との教えでありながら、病気が治るという出来事がひとつも起こらないというように、言表と実際の出来事が一致していなくても、雅春先生の教えは成り立つのか、ということです。



761 :初心者:2014/03/24(月) 12:01:24

「総裁のいっていることは虚説だ」といってる人は今もいますね。これにたいして、「どこが虚説なのか、具体的にいってみろ」と回答を要求したところで、ロクな答えは返ってきません。しかしそれでも、総裁を「虚説」といいつづける人がいます。こうしたことから、客観的事実とは関係なく、「虚説」という言表はその人にとって絶対的な事実であることがうかがえます。自分が「虚説」と言表すれば、それとおなじ出来事が客観的世界でも起きているとその人は信じきっている、と推測されます。ここで問題にすべきは、世間のごくふつうの人々も「虚説」という表現をもちいるのか、ということです。わたしは聞いたことがありません。「あの人のいってることはおかししいんじゃないか」とか「「あの人のいってることは自分の考えとちがう」とか、こういうのは聞きますけど、「虚説」といって相手を否定する人とは出会ったことがありません。
世間の人々というのは、気に入らぬ言い分ではあっても客観的に評価しようとはしますよね。ところが、「虚説」といってる人にはこれがない。客観的に評価しようという気がまったくないのです。なぜこうなるのかといえば、「病気はない」といえば病気がないのが絶対的事実であり、「実相がある」といえばこれが絶対的事実となる世界に、そのひとが住んでいるからなのです。
「虚説」といってのけられる人というのは、言表と客観的事実とが絶対的に一致する世界に住みつづけている人なのです。そのために、言表をうたがおうとはしなくなった人なのです。「虚説」と言表すれば、それがその人のなかで客観的事実となってしまう人なのです。生長の家は、こういう人々を大量につくりだしてきましたよね。わかりますか。言表と客観的事実とが絶対的に一致する世界が真理の世界なのです。真理の世界とは、世間の常識とはおよそかけはなれた、言表の帝国なのです。ひとたび言表すればそれが真実となってしまう言表の帝国なのです。「真の生長の家の教え」と言表するだけで、それが事実とは関係なく絶対的真実となってしまう世界なのです。言表と出来事との一致をもって真理とすることがなぜ問題かといえば、事実がしめすように、客観的評価とは関係なく、自分の言表と客観的出来事とをいともやすやすと同一化させてしまう人物をつくりだしてしまうことにあるのです。こういうことを疑問にもおもわない心理状態をつくりだしてしまうことにあるのです。言表の帝国に住みつづけている人はどうなるとおもいますか。その人の言表が世界の価値をすべて決めてしまうようになるのです。「虚説」と言表すれば、客観的評価とは関係なく、もはや相手にはそれだけの価値しかないのです(ここでいう「価値」とは真理にかかわるものですから、個人的評価ではなく絶対的価値基準による評価となります。それだからこそ「虚説」とみなされるのです)。
天地万物の価値は人間が決める。これが人間中心主義です。「虚説」といってる人は、総裁の絶対的価値を、たんに言表することによってすべて自分中心に決めているのです(自分の言表は、真理に照らしてすべて真実ですから、こういうことが可能になります)。
言表と出来事との一致を真理とみなすような人は、ついには、自分が「真である」と確信する言表はすべてが絶対的真実であると思い込むようになります。



763 :初心者:2014/03/24(月) 12:27:24

「天地の万物を神として礼拝する」と書かれたときには、「これこそが人間中心主義の思い上りだろうが」と反発を感じ、「天地の万物に礼拝される」と書くのがほんとうだろうがと、じつはそのとき考えたのです。



768 :初心者:2014/03/24(月) 13:46:56

雅春先生のご文章を貼りつけるのは上手でも、真理を語れない人っていますよね。ですから、ほぼ正確に語られたとしても、それは語っておられるのではなく、「解説」しておられるだけなのではないでしょうか。
総裁はおそらく、「真理はこんなに素晴らしいんだ!」というようには真理を語っておられませんね。「生長の家ではこのようにいわれています」というように、真理を淡々と解説しておられるのではないかと想像しております。「総裁が宗教家として適性を欠いているとみなされるのは」の投稿でわたしがいいたかったのは、「偶然かもしれないが、総裁がなさっておられることに矛盾はない」ということなのです。どう矛盾がないかはすでに書いたことですので、ここでは書きませんけども、もしも偶然でなく意図してやっておられるとするなら、たいした深慮遠謀家というしかありません。いずれにしても、騒いでいる連中というのは、深いところをみることができずに、浅いところだけをみている連中であるのは間違いありません。
「真理とはなにか」といえば、総裁がいっておられますように、「病気がこうして治った」というのは真理ではないということですね。わたしはかねてより、「真理とは仕組みである」といっておりますが、仕組みを探究していくうちに、「言表と出来事の一致」を真理とみなす従来の真理観とは根本的に異なった「大地の真理」に出会ったといったところでしょうか。・・・組織の方針にしてエコロジー運動にして、宗教的なものを、否定している・・・宗教的なものというより、古代ギリシャ風の環境運動というのはどうでしょう。古代のギリシャでは、大地から真理をあらわしだすのに霊的秘儀をもちいていたのかもしれませんが、現代では大地から真理をあらわしだす方法が哲学的に確立されておりますので、宗教色を否定しつつも宗教的味わいをかもしだすのは可能かと存じます。たとえば、自然の言葉というのは、人間が言葉をそれに似せた途端に逃げていくものですね。それで追いかけていって、ふたたび言葉をそれに似せると、また逃げて行くことのくり返しとなりますね。こうした仕組みを古代ギリシャ風に「ポイエーシス」と呼ぶことができそうですから、こうした用語をふんだんにおりまぜた、古代ギリシャ風の「大地の真理」を、総裁にはぜひとも実現していただきたいと考えてます。



771 :初心者:2014/03/24(月) 14:32:10

雅春先生の教えが否定されるとか、そういう問題ではなくて、言表と出来事の一致を真理とみなすような考え方は最終的に人間中心主義にむすびつく、ということをいっておるのです。このことを#761で詳しく説明したつもりなのですが、読んでいただけてないのですか(わかりにくかったとはおもいますが)。いずれにしても、雅春先生の教えが真理であるかないかを問題にしているのではなく、言表を出来事と一致させることに快感をおぼえた人々がおちいりやすい心理状態を問題にしておるのです(「現象はない」と言表すれば、たしかに気持ちがよいでしょう。そのうち、あらゆることがらにたいして自己中心的な言表をしたがるようになるのです)。イデア論とは、対象となる相手にイデアがあらわれているかどうかを問題にする思想なのです。生長の家もおなじです。相手に実相があらわれているかどうか、生長の家の人々は、つねにこれを問題にしているではないですか。そのイデア論によって,大地中心主義から人間中心主義への大転換が行われたということは、すでに書きました。「実相があらわれているかどうか」と、イデア論とうりふたつの発想をする生長の家が人間中心主義の拡大に加担しないとする保証がどこにあるというのでしょう。・・・未読暴走?それなら、総裁を「虚説」というように、「相手方を決め付けて」おられた復興Gさんは「未読暴走」ということになりますね。復興Gさんはたしかに「虚説」という言葉をつかって総裁を批判しておられましたよね。復興Gさんでさえも未読暴走なさったということなのですね。復興Gさんは#761で述べたケースに、あきらかにあてはまりますね。復興Gさんでさえこのありさまです。生長の家が人間中心主義の拡大に加担しないとする保証はいったいどこにあるのですか。



775 :初心者:2014/03/24(月) 15:22:44

 病気を治せない真理、あるんじゃないですか。たとえば1+1=2は真理であるはずですが、これで病気が治るとはおもえません。「病気を治せる」というのは真理の必要条件とはおもいません。・・・なにを根拠に病気治しが真理の必要条件とお考えなのでしょう。もちろん、雅春先生の教えを根拠にした説明は無効です。それでは、我田引水の説明にしかなりません。ところで、総裁の著作ですが、ただの1冊として読んだことはありません。「偶然かもしれないが」と書いておりますように、すべて想像です。しかし矛盾がないのは事実なんですよ。矛盾だらけの復興Gさんが矛盾のない総裁を「虚説」と批判しておられるのですね。「総裁と和解を」といっておられた復興Gさんが、「虚説と和解してはならない」といっておられるわけですから、これはどうしたって矛盾ですよね。復興Gさんの暴走問題についてなにかコメントいただけますでしょうか。



778 :初心者:2014/03/24(月) 15:38:37

病気の治癒や奇跡の実現の仕組みは、Dブレーンをもちいれば説明可能かと存じます。ただしわたしはド素人ですので、想像的に説明してみることしかできません。たとえ稚拙であっても、それらしい説明はできますので、なにが起きても「不思議」という感覚はありません。じっさいわたしのまわりでも、説明できないような出来事は数知れずおきております。雅春先生の教えとの直接的な関係はないものとおもわれます。政春先生は、病気の治癒や奇跡を起こす仕組みを発動させることに長けておられたのでしょう。・・・何度でもいいますよ。貼りつけ上手で真理を語れない人とは復興Gさんのことです。



782 :初心者:2014/03/24(月) 16:32:00

なんどもいいますが、わたしがいっているのは、言表と出来事とを一致させようとすることの問題点です。「虚説」と言表すれば、その人のなかで、矛盾がないはずの総裁が虚説となってしまうことの問題点です。
「虚説」といっている人の側に虚説があるとします。それで、この虚説を消したらなにが起こるのですか。それまで虚説であった総裁が虚説でなくなるのでしょう。「虚説」と言表すれば総裁は虚説となり、「虚説はない」と言表すれば総裁は虚説でなくなる。その人のなかですべてが処理されるわけですよ。総裁が虚説であるかないかはその人がぜんぶ決めるわけです。言表と出来事は一致するわけですから、その人が「虚説」といえば総裁は虚説となり、「虚説はない」といえば総裁は虚説でなくなるのです。これを人間中心主義といっているのです。自分中心にすべてが決まる。これを人間中心主義といってるのです。雅春先生の教えでどうなのか、ではなく、一般的にどうなのか、でなければならないでしょう。雅春先生の教えでは必要条件だが、一般的には必要条件ではないというのであれば、「必要条件ではない」となるではないですか。



783 :初心者:2014/03/24(月) 16:44:43

復興Gさんの暴走問題は「未読暴走」では片づかんでしょう。雅春先生の教えがこのような人物をつくりだしたと考えるしかないでしょう。復興Gさんでも「未読暴走」であるなら、ほぼ全員が「未読暴走」の危険性をはらんでいるということではないですか。



791 名前:初心者 :2014/03/24(月) 22:38:04

あやまって「未開」と呼ばれる人々のなかには、なにをするにも大地や聖霊におうかがいをたてる人々がいるといいます。たとえば聖霊に「総裁は虚説か」とうかがいをたて、「虚説である」との答えがあれば、総裁は人々によって虚説とみなされ、逆の答えがあれば、虚説とはみなされないわけです。こうした人々は、自分の言表と客観的出来事とを一致させようとはしていないので、人間中心主義におちいることはありません。文明人のあいだでは、言表と出来事の一致は、誰も問題にしないほどに、いまやあたりまえのことと考えられています。誰におうかがいをたてるでもなく、「地下資源は人間のものだ」と言表しさえすれば、すべての地下資源は人間のものとなるのです。「牛は牧場で飼って食用にすべき生き物だ」と言表すれば、それが客観的真実となって、牛は食用の家畜にされてしまいます。文明人にとって、自分の言表が客観的事実となるのは、もはやあたりまえのことなのです。言表すれば、それが客観的事実となるのです。ギリシャの時代はどうであったのでしょう。いまでもうかがいをたてている人々はいるわけですから、ギリシャの人々も、必要とあらば大地におうかがいをたてていたのかもしれません。イデア論の登場によって事情は一変したはずです。言表と出来事とを一致させることが人々の課題になったからです。おうかがいをたててなにかを決める時代ではなくなったのです。「あのものにはイデアがあらわれている」と言表すれば、あのものにはイデアがあらわれていることになるのです。「あのものにはイデアがあらわれていない」と言表すれば、あのものにはイデアがあらわれていないことになるのです。イデア論の登場によって、人間が「あのもの」の価値を決められる時代になったというわけです。人間中心主義がこうして開始されました。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



<一口コメント>



@ もう、支離滅裂な精神分裂のマサノブ君である。「生長の家」は君を必要としない!

<< 「物質はない」との教えでありながら「物質」が本当は実在していた、「病気はない」との教えでありながら、病気が治るという出来事がひとつも起こらない >>

<< 「虚説」と言表すれば、それがその人のなかで客観的事実となってしまう。生長の家は、こういう人々を大量につくりだしてきました。 >>

<< 真理の世界とは、世間の常識とはおよそかけはなれた、言表の帝国なのです。ひとたび言表すればそれが真実となってしまう言表の帝国なのです。「真の生長の家の教え」と言表するだけで、それが事実とは関係なく絶対的真実となってしまう世界なのです。>>

<< 天地万物の価値は人間が決める。これが人間中心主義です。「虚説」といってる人は、総裁の絶対的価値を、たんに言表することによってすべて自分中心に決めている。自分が「真である」と確信する言表はすべてが絶対的真実であると思い込むようになります。>>

<< 「病気がこうして治った」というのは真理ではない。「真理とは仕組みである」>>



A 「未読暴走」の第一人者は、マサノブ君であった!
 
<< 総裁の著作ですが、ただの1冊として読んだことはありません。「偶然かもしれないが」と書いておりますように、すべて想像です。しかし矛盾がないのは事実なんですよ。>> (この文章こそ「初心者」=マサノブ君の何よりの証明――「すべて想像、然しマサノブ思想には矛盾はないのは事実!」とはよくも言ったり、――まさに憑依せる悪霊の知恵としか考えられないのである。)



B マサノブ君には、宗教的感性は全くナシだ! 開祖・谷口雅春先生の次の御文章について回答したまえ!! 異見を感じるならば、君は宗教界に身を置く資格なし、トットと出て行き学者・評論家の仲間へ入りなさい!


<< 思想理論よりも宗教的感情の興奮 
     生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師

 治病能力のすぐれたる人に宗教的感情の深い人が多い。 理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。 理論は脳髄皮膚の意識でも組立てられるのであって、理論で肯定しながら、感情の底では反発しているような人もある。

 思想や理論では戀する訳にも行かないし、戀しなかったら子を産むことも出来ないのである。 戀とは思想や理論でなくて感情である。 時には例外があるかも知れぬが、『子を産む』 即ち創造力の本体は 『感情』 であるのであって思想や理論にあるのではないのである。

 人を真に動かすものは 『感情』 の力である。 人を癒やす力も 『感情』 にあるのである。 世に迷信視せられている 『お婆さん』 や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、それに理論が透らないと云う理由で、また偶々感情興奮を伴わない智的な人に試みて治病成績が挙がらなかったと云う理由で、それらの治病宗教を詐欺視するが如きは、治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。

 『生命の實相』 が、それを読むことによって病気が治るのは、文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。 この点に於て 『生命の實相』 は文章芸術である。 理論だけ簡単に透らそうと思って、手紙で簡要な返事さえ貰えば好いと思っている人は、この点を見のがしているのである。

 尤も現代の知識人(インテリゲンチャ) は 『お婆さんの宗教信者』 と異って理論が透らないようなものは頭から排撃して了って、いくら名文でも宗教興奮を惹起し得るものではない。

 だから 『生命の實相』 は理論に於ても古今独歩、古今一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる一大生命学の理論体系を成しているのである。 この点に於て 『生命の實相』 は一大哲学とも云えるのである。

 芸術であり、哲学であり、而してその及ぼす治病の体験数は医者が一つの事を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、数千の実験礼状となって顕れているので、実験の蒐集であるから科学であるとも云い得るのである。

 而してその読書による感情興奮の種類は、個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮せしめるのであるから、宗教であるとも云い得るのである。

 藝術であり、哲學であり、科學であり、宗教であるのが 『生命の實相』 である。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=1215





「虚説」という言葉に思いわずらっているご様子。 (3620)
日時:2014年03月25日 (火) 14時05分
名前:九州方面の信徒

初心者さんは、「虚説」という言葉に大きく心がひっかかっておられるようですが。この問題は、道義的な問題かと思います。

紹介して頂いている、雅春先生の『思想理論よりも宗教的感情の興奮』を読みましても、やはり、初心者さんなどにとっては、虚実ははっきりとしないものなのかもしれませんが、宗教を通して人に寄り添って、『お婆さん』と共にこころを寄せて歩んだ幾多の人々の存在がわかるのです。そこに人の道が見えるのです。

さて、初心者さんが総裁が説くべきだとおっしゃっている、古代ギリシャ風の『大地の真理』ですが。まずその『大地の真理』で人々を動かしてみて欲しいと思います。生長の家の信徒に強制的に買わせるのでなく。雅春先生が乳母車に神誌を載せてお配りになられたように、聖書の預言者が社会的な反対や抑圧をもろともせず、真理を述べ伝えたように。ローマ兵をキリスト教に改宗せしめたように。真理と無一物の自身のみで、ご自分の彗眼の根拠を信じて歩まれたらよろしい。

企業の二代目三代目が、親の財産を食いつぶすがごとく、親の威光を背にして、得意先を平伏させている様子には、道義的に長く展開してゆく道は見えません。

信じるものと自身のみで立て。
そうしたときに「虚説」などと囃し立てる言葉に煩わされるような、どうしても振り払い切れない、つきまとう不穏な気持ちはなくなると思います。初心者さん。

現総裁は生命の実相の真理を理解していない。 (3622)
日時:2014年03月26日 (水) 01時20分
名前:不動明王

『現象は無い』と言うと目に見える世界は無いと言っていると理解しているようですね。『病無し』も病など何にも無いと・・・だから病が治るのはおかしいと思うわけですね。幼稚ですね・・・
『色即是空』か分かってない人が総裁なんて言うのですから世間の笑いものです。

以前は石油が枯渇すると大騒ぎ、天然ガスの埋蔵が解ると今度は温暖化、そして10年前には今や東西冷戦は終わりグローバルな世界観が必要だから、愛国、愛国の運動はもう外縁の運動となった。と宣言していたじゃありませんか。
東西冷戦終結どころか世界各国の戦略世界になって来ていますよ。これこそ人間世界の業の集積です。人間は傲慢で自然界に反逆して来たの雅宣教の教えこそが、人間罪悪感を持ち自己処罰の心が蔓延してくるのです。

領土を奪ったり、侵略思想は全てこの自己処罰のぶつかり合いなのですから。



Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板