生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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こころ洗われる体験談 < ある炭焼夫の信心 > (後篇)  (307)
日時:2013年03月04日 (月) 13時27分
名前:春光




合掌、ありがとうございます。

私は古い信徒のひとりですが、生長の家の『御教え』も三代目さんになってからずい分に変ったものだと思います。特に、信徒の皆さんの体験談を三代目さんは大切にされていないと思います。ずっと昔の「神誌」と呼ばれていた時代に載っていた素晴らしい、何度読み返しても心洗われる取っておきの体験談を残しておいたものがありますので、息子に頼んでパソコンに打ち込んでもらい、雅春先生の教えを大切にされている皆様にお伝えしておきたいと思います。 再合掌



            〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



              < ある炭焼夫の信心 >



( 後 編 )




月に祈る・・・


しかし何かを為さなければならない魂の要請が、私に、今降りて来た山の向こうのその人に向かって合掌させ、礼拝の姿をとらせたのです。今降りて来たばかりの山の上には、大きな満月の光がこの静まり返った深山幽谷に染み入るように降り注いでいました。
 
その時フト思い出したことは、つい先日、父のことで尋ね歩いて、はじめて訪れた生長の家の集まりで、人間は皆例外なく善い人ばかりであると聞いた、その言葉でした。その時いただいた『甘露の法雨』が、私と生長の家の出会いだったのです。
 
今まさに炭を盗まんとしている峰の向こうにいる方も、やはり善いひとなのだ!唯合掌して「ええ人だ、ええ人だ」と拝みつづけるのでした。善人にも悪人にも等しく降り注ぐ月の光は、峰の松も幽谷の木や草も、柿の木の下で祈っているわたしをも照らしていました。

「この月の光よ、今まさに彼が重い荷を背負って、崖のふちを登っているであろうその足元を、粗相のないように照らして守ってあげて下さい」と、月に向かって祈っている私でした。もう、自分の大事な炭が盗まれることなど、眼中にありませんでした。
 
やがてお月様の光が益々その光を増すと、私の身体の一つ一つの細胞にまで貫き透って、骨の髄、心の真底までも滲み込んで来るのでした。峰の松もこの谷間の草も木も全てを透明にして、生きとし生けるものすべてが、お月様の光で支えられているのでした。 天の気と地の気を融和させて、草も木も私も、全ての人々をも生かしているところの光そのものでした。

 地球上のすべてのものを生かすために、月の水の全てを与えて、尚、支え生かしているところの慈悲の光――肉の眼では、月の表面のみを見て、ガサガサした潤いのない砂漠のようだと思うかも知れませんが、それは、恰も母親の手や顔が、乙女の瑞々しい柔らかい手や顔よりも、荒れ果てて皺だらけに見えても、その荒れ果てた手や皺には、多くの子供を育み育てて来た、大いなる神の愛と仏の慈悲の年輪が刻み込まれているのと似ています。その光は、全ての人の罪を許してまだ余りある、大いなる慈悲慈愛の光でした。

 その光の中で、唯私は合掌していればよかったのです。もう盗む人もいないし、「ええ人だ」と祈っている自分、「その人の足元が無事でありますように」と祈っている自分もありませんでした。ただお月様の光に照らされていればよかったのでした。

古の人がよく月の歌をお読みになっていらっしゃいますが、皆んな秘められた力をもつ月の光を拝まれたのだと思うのです。

 翌朝、仕事場に来てみると、やはり炭がなくなっていました。さてどうするか、と思っていると、「彼が通ったと思しき道をたどれ」という催しに従って、その道をたどって行くことに致しました。

きわだった険しい崖を登って平らな広い所に出て、それから先は道もよく、静かな下り坂になっているのですが、その崖を登って平らな所へ出たところに、炭は置き去りにされてありました。




彼の良心・・・


 そのことがあってから、彼は谷間の我が家へ、母の出す砂糖入りの茶を飲みに訪れて来なくなりました。その頃は、我が家だけが砂糖の配給の恩恵を受けていたらしく、村の人達は、この砂糖を母から分けていただくのを、何か宝物を頂くように貴重がっていました。

彼が村の英雄的存在の一面を持ちながら、村人から煙たがられるのは、欲しいものは、他人のものも自分のものも見境がつかなくなり、余所の奥さんまで攫(さら)ってしまうようなことがあったからでしょうか?でも子供心に、余所の奥さんの方が彼に惚れるからいけないんだ、と思いました。
 
良心は誰にでもあるものであって、彼は自分の良心が咎めているのでしょうか、谷間の我が家へ訪れて来なくなってから久しくなるにつれ、私達親子は、益々彼が気の毒に思えて来るのでした。

そこで父と相談してこの件については一言も触れないで、私の仕事の行き届かないところを手助けして下さらないだろうか、というお願いの相談で、父の使いとして彼を呼びに出かけました。
 
相撲で優勝したことのあるこの四国一力の強い大男が、病床の父や女子供の私達を前にして、小さく震えていました。父が丁寧に頼みの仕事の用件のみをお願いすると、今までの重荷をやっと降ろせたようにホッとして、子供のように喜んで引き受けてくれました。それどころか、それからというものは、奥さんや子供さんから小言を言われる位に、自分の仕事を放り出して、頼まれない仕事までやってくれるのです。
 
村のお百姓さんから見れば、猫の額ほどに思えるような、小さな土地を開墾して作った私達の畑が、麦や穀物の刈り入れ時になると、彼は、山坂越えて、重いモーターの鉄の塊を担ぎ込んで、脱穀しにやって来てくれるのです。

不自由しているものはないか、あれを持って行け、これをもって行け、牛を飼えと言っては、仔牛の世話をしてくれたり、蜜蜂を飼えといっては、蜜蜂の箱をかついで来て、蜜の採れる時期になると、箱から蜜を取り出してくれたりするのです。




峰の上の仁王様・・・


 或る時、私のいる谷間の仕事場に向かって、彼は山の上から私の名を呼ぶのでした。「オーイ、文とっさんよーー」私には、休む暇など少しもなかったものですから、真夏の中天に日が差しかかっていても休まず仕事を続けて居りました。その山の上の岩に仁王立ちになって、彼は言うのでした。「夏の日は強うて体に毒じゃけんのー、せめて日中の二時間だけでも、木陰で休んでからやれよー」
 
太くて柔らかい声は、仏の心が籠もっていました。その声は山々にこだまして谷間に響きわたり、この谷間全部が仏様に満ちていて、私は仏様に見守られ支えられているような有難さがこみ上げて来て、峰の上の仁王様をひとりでに拝みたくなるのでした。

しかもこの方は炭焼きの名人でした。手取り足とり、この谷間の仕事場にしょっちゅう足を運んでは、まるで自分の窯のように見届け確かめて行くのでした。
 
いつでしたか、母宛の手紙に、私たちが此処を去ったあと、谷間の家はすぐ毀され、開墾した畑には杉苗が植えられて、今は鬱蒼と生い茂り、私達がここに居たなど嘘のようで、石垣がわずかにそれを物語っていて、ここを通る度に涙がこぼれ落ちます、としたためてありました。

私達家族が東京に帰って来られたのも、この方のお蔭であって、曲りなりにも私の信仰は、この人によって培われたのであります。




仏心をいただく・・・


 まことに神様を拝むということは、仏心をいただくことであって、その外のものを頂く為に神様を拝むのではなかったのです。病気を治して頂く為に、自分の欲をとげさして頂く為に、神様を拝むのではなかったのです。

神様のみこころ通りになることが信心でありまして、信心すれば、お蔭はひとりでに出て来るものなのでした。「仏に着いて求めず、法に着いて求めず、衆に着いて求めず、斯くのごとくして吾礼拝する事を為す」。(終わり)


元・生長の家本部・神癒祈願部勤務

高見文敏氏・記






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