生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「夜郎自大」また、又、亦、本部直轄掲示板?に姿を現わした「初心者」=マサノブ君 、堂々と開祖・谷口雅春先生への反逆屁理屈論を展開、「生長の家」は、もはや君を必要としない!・・・<そのD> (3635)
日時:2014年03月26日 (水) 22時02分
名前:怒れる信徒代表




<「初心者」=マサノブ君、曰く> (余分なところを省き、各文要点を抜粋)

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11764/1376543876/



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802 :初心者:2014/03/25(火) 12:03:16

「真理を言い当てようとしている」ギリシャの時代にも「世界は水である」や「世界はアトムでできている」というようなことは言ってました。現代科学にもこうした傾向はありそうです。科学者たちも世界がなんでできているかを知りたがっているはずですから。生長の家ではどのようにいわれているでしょう。「物質はない」、「現象は心の影である」、「実相は完全である」と、このようにいわれています。ギリシャの時代とのちがいがわかりますか?ギリシャの人々は世界のなんたるかを言い当てようとしていた、ということがわかります。生長の家はちがいますね。生長の家は、世界のなんたるかを言い当てようとしているのではなく、世界を評価しようとしているのです。生長の家の「言表」とは、世界を評価するための言表です。「物質はない」と世界を評価して、世界がこの評価どおりになっているとみなすのが、生長の家の考え方なのです。わたしのいう「言表と出来事との一致」とは、自分が世界を評価して、世界は自分が評価したとおりになっているとみなすことをいっているのです。ギリシャの時代の「言表と出来事の一致」とのあきらかなちがいがここにあります。「世界は自分が評価したとおりになっている」。このように考えるのが人間中心主義です。



806 :初心者:2014/03/25(火) 13:28:00

復興Gさんはまいにち神想観を実修しておられるそうですね。訊け様がいっておられるとおりだと、復興Gさんは、おうかがいをたてて、それで「虚説を排除し、人間至上主義を実現せよ」といっておられることになりますよね。雅春先生の教えを忠実に実践なさった結果、こうした結論をえられたことになりますよね。・・・復興Gさんは、教えにもとづいて「人間至上主義の実現」ということをいっておられるのではないのですか。



807 :初心者:2014/03/25(火) 14:55:09

生長の家の人たちは、「あなたが迷っているかどうかはわたしには関係ない」とは考えませんよね。「迷っているかどうか」を、かならずといっていいほどに問題にしますよね。なぜなのでしょう。「真理の言葉で心がうちふるえた」という人がいますよね。「真理の言葉と、心がうちふるえるほどの感動はなんの関係もない」という人はいませんよね。どうしてでしょう。生長の家の人たちは、「世界はほんらい完全なのだから迷いというものはあってはならない」と、きっとこのように考えているのでしょう。思いと現実は一致しなければならないのですから、迷っている人がいるという現実が許せないのでしょう。「世界に全責任をもて」とする雅春先生の教えに反して、榎本先生は「あなたが迷っているかどうかはわたしには関係がない」と考えておられたのでしょう。もしそうであれば、このことは、榎本先生が言表と出来事との一致を問題にしておられなかった、ということを示しているようにおもいます。「相手が迷っているかどうかは自分には関係がない」とする人と、相手が迷っているかどうかが気になって仕方のない人とでは、自我の拡大の仕方がまったくちがっているということです。たいていの物事というのは、大きくなればなるほど薄まるものなのですね。クルマの排気ガスにしても、大気中にひろがれば薄まります。榎本先生の自我は拡大しつつ薄まっていかれたのでしょう。生長の家の人たちの自我は、いくら拡大しても薄まることがないのですね。なぜかといえば、生長の家の人たちは、言表と出来事とを一致させることで自我を拡大させていってるからなのです。それにしても、真理の言葉を聞いて心がうちふるえるほどの感動をおぼえるのはなぜなのでしょう。おそらくは、「どんな言表にもそれに出来事を一致させる力がある」という話を聞いて、その人のなかでつかのまの自我の拡大があったからなのでしょう。うちふるえるほどの感動とは、自我が薄まることなく拡大したことのよろこびなのでしょう。チェリビダッケという人は「自我を薄めることなく拡大させるな」と、このようにいいたかったのかもしれません。榎本先生の悟りは、言表と出来事との一致を否定することで得られたのではないでしょうか。



812 :初心者:2014/03/25(火) 16:40:16

人間という生き物は、言表に出来事を一致させようとしますよね。「田舎にすみたい」とおもった人は、「田舎に住んでいる」という出来事を実現させようとしますよね。でもですね、わたしのいう「言表と出来事の一致」はこういうことではないのです。「言表すればそれが事実となってしまう」。こういうことをいっているのです。「人間知」という言表はすでに「ある事実」をあらわしています。ある事実とは「自分が相手より上である」という事実です。「田舎に住む」というように、具体的になにかをなす必要はありません。「人間知」と言表するだけで、「自分のほうが相手より上」という事実を簡単につくりだせるのです。「人間知」と言表する人たちにとって、「自分が相手より上である」というのは、すでに確実な事実なのです。わたしが、「言表と出来事の一致」を問題にする理由がわかりますか。言表するだけで事実をつくりだしてしまう人たちの存在を問題にしているのです。こうすることで自我を拡大させつづけている人たちの存在を問題にしているのです。そうした人たちの存在が、言表と出来事の一致を真理とみなすこととどう関係するのか。・・・すでに説明したように、生長の家の真理はギリシャの時代の真理とは大きく異なったものとなっています。世界のなんたるかを言い当てるのではなく、言表がそのまま世界の評価となってしまう真理なのです。「物質はない」とする言表と、物質があるかのようにみえている現実と、はたしてどちらが優先されるのでしょう。いうまでもなく、優先されるのは言表です。世界が言表を決めるのではなく、言表が世界を決めるのです。よいですか。「言表が世界を決める」。これが生長の家の真理の考え方なのです。自我を拡大させている人たちは、言表によって世界を決めているのです。



814 :初心者:2014/03/25(火) 17:15:42

総裁は言表がそのまま事実にはならないとわかっておられるからこそ、言表を事実にするための具体的な運動をはじめられたのではないですか。総裁は、言表によって世界の運命を決めようとしておられるのではなく、具体的な活動によって世界の運命を決めようとしておられるとわたしは理解しております。



818 :初心者:2014/03/25(火) 20:07:46

わたしは、総裁が総裁としていかにふさわしい人物であるかを述べているつもりです。



821 :初心者:2014/03/25(火) 20:16:00

現時点でのわたしの主張は以下のとおりです。

○生長の家には、言表によって世界のなんたるかを決定することをもって真理とする傾向がある(「善のみ」と言表すれば、世界は善のみであると決定され、これが真理となる、というように)。

○イデア論にも同様の傾向があって、こうした傾向が、「人間の言表によって世界のなんたるかは決まる」とする人間中心主義を生みだした(「牛は食用の家畜」であるとの言表で牛の運命は決定される、というように)。

○「言表と出来事との一致をもって真理とみなす」とは、「言表を出来事に一致させるのではなく、出来事を言表に一致させることをもって真理とみなす考え方をいう。

○「生長の家は人間中心主義ではない」とする訊け様の反論は、復興Gさまの「人間至上主義」等の発言をもって十分に論駁できると考える。ただし、これにかんして訊け様からの応答はいっさいなし。以上です。



823 :初心者:2014/03/26(水) 00:33:20

人間中心主義を「言表と出来事との一致を真理と見なすこと」と定義しておりますように、人類の意識をいますぐ変えようというような、そんな大それたことを考えているわけではありません。まずはこうした真理観をあらためようということをいっているのですね。問題は、そのためにはどうすればよいのかということですが、ここでその方法を述べるつもりはありません。「事例」については、もちろんここで書くことはできません。総裁のなさっておられることがいかにまっとうなものであるか。これを説明するために持論を述べているところです。・・・仲間と話しあっているところです。これ以上のことは、ここでは書くことができません。



824 :初心者:2014/03/26(水) 11:04:17

人間はいったいどれだけの種を絶滅においやってきたでしょう。人間以外の生き物からすれば、人間は「害獣」以外のなにものでもないのはあきらかでしょう。復興Gさんは、こうした事実を(生長の家ではたんなる現象でしかありませんが)完全否定しておられるわけです。なぜそういうことになるのかといえば、「人間神の子、罪なし」の言表が雅春先生からなされたことで、人間がいかなる悪行をなそうとも、「人間は罪なし」であるとする事実が確定したからです。「現象の悪はみない」、「人間の完全性のみをみる」と言表されたことによって、人間の行為はすべてが善であるとする事実が確定したからです。もう一度いいましょう。人間が多くの種を絶滅においやったのは「出来事」です。「人間罪なし」は「言表」です。どちらをもって、生長の家は「真実」とみなすでしょう。出来事はけっして真実とはならず言表が真実となる。こういうことではないのですか。復興Gさんのは発言がこのとをみごとに例証しています。復興Gさんは、「種の絶滅」よりも「人間にとっての明るい呼びかけ」を優先しておられるようです。これが人間中心主義でないとすれば、いったいなんだとお考えですか。客観的な出来事からではなく、人間によってなされる言表によって事実を確定する。こうした考え方が人間中心主義である、というのがわたしの主張です。生長の家もおなじ考え方をしているのではありませんか。反論があればお聞かせください。



840 :初心者:2014/03/26(水) 17:02:18

それなら果実で判断しましょう。問題は、教えのもっともすぐれた果実とされる復興Gさんが「人間至上主義」を唱えておられる背景ですね。背景にあるのは、「肉食を罪」とする総裁の一連の言動ですね。とくに今回の発言は、総裁が「人間至上主義ではいけない」とされた発言にたいして、「それは人間を肉体とみる思想である」として否定なされ、その反対原理として「神の子人間至上主義」をもちだされたものであった、と考えることができます。おふたりの発言を世間にたいするアピールとしてみてみましょう。総裁は肉食を批判するために、世間にも通用する仕方で「人間至上主義ではいけない」とアピールしておられるわけです。これにたいして復興Gさんは、「人間神の子の自覚による人間至上主義の復活」をアピールしてはおられますものの、これでは肉食を肯定しているのか否定しているのか、まったくわかりません。世間にたいするアピール力は「ゼロ」といってよい発言です。復興Gさんがいっておられることは「なにかおかしい」という気がしてきませんか。総裁は動物の命を救おうとしておられるのです。これにたいして復興Gさんが異議をとなえておられるわけですが、もしそうなら、「そんなことでは動物の命は救えない。人間神の子至上主義でなければ動物の命は救えない」とこのようにいうべきところでありますが、復興Gさんの発言を読むかぎり、動物の命のことなどほとんどなにもふれられていないようなのです。復興Gさんは、このようにアピールすることで、いったいなにを実現しようとしておられるのでしょう。どうやら「信徒がよろこぶようなことをいえ」と、こういうことのようです。実現なさりたいのは、どうやらこのことであるようです。動物の命とはまったく関係のない方向へ話がもっていかれてしまいましたね。もしかしたら復興Gさんは、信徒をよろこばして、それを肉食反対運動につなげようとしておられるのでしょうか。それはないですね。「人間を肉体と認めてはならない」。こういうことをしきりにおっしゃっておられるみたいですから、肉食に反対することよりも、人間を肉体と認めることのほうが問題だと、きっとこのようにおっしゃりたいのです。人間を肉体と認めることのなにが問題なのでしょう。人間が神の子の自覚を得るということが、動物の命よりも優先すると考えておられるのでしょうか。もしそうであれば、いかに「神の子」の言葉をもちいようとも、それは人間のエゴでしかありません。人間のエゴをむきだしに、「動物の命をむやみに奪うな」とする運動に反対されておられるというしかありません。「肉食反対」ということでは、復興Gさんの言葉に、世間にたいするアピール力はゼロです。復興Gさんに人間以外の生き物を救済しようとする意思はまったくないのでしょう。生長の家にどっぷりとつかっていると、動物のことなどどうでもよくなるのでしょう。「人間を肉体と認めてでも動物を救済したい」。「愛を実践する」といわれながら、こうした思いは皆無なのでしょう。「人間神の子至上主義」をいくら世の中に訴えても、動物を救済できるはずがありません。救済するには、人間を肉体と認めて「人間至上主義はいけない」と世の中にアピールするしかないのです。こうでもしなければ、世の中の人々にはなにも訴えられないのです。復興Gさんは「神の子人間至上主義」という錦の御旗をかかげて、動物の命を救おうとする運動の足をひっぱろうとしておられるのでしょうか。運動に反対して、かわりにどんな代案を示されたのでしょうか。もしも反対するだけで、代案をいっさい示されていないとするなら、「人間神の子至上主義」は、人間のことしか考えていない人の言葉ということになりそうです。



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<一口コメント>


@ 本当に、「初心者」=マサノブ君は、屁理屈屋のデパートの店長が一番のお似合いであります。


A 彼が書けば書くほど、「総裁」とは名ばかりで、『生命の實相』をまともに読んでいないことが証明されて行くのですが、マサノブ君はそこまで思い到ってはいないのであります。それどころか、自分の考えを基準において、『生命の實相』の本に、どこか間違っているところはないか、どこか矛盾するところがないか、と猜疑心を以て読んでおり、また、逆にマサノブ教に活用できる部分はないかと考えながら読んでいることがよくわかるのであります。


B マサノブ君は、『生命の實相』に書かれているように、「丁度、吸い取り紙が水やインクを素直にそのまま吸い取ってゆくような気持ちで読み、久遠を流るるいのちの中に飛び込んで行かねばまねばなりません」のに、求道者としての素直な気持は微塵もなく、批判評論精神でのみ読み、「真理は霊的に理会することが必要です。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして真理の外的な姿を知るに過ぎません」という開祖・谷口雅春先生の言葉を完全無視して、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う式に屁理屈を際限なく言い続けているのであります。このクセが改まらぬ限り、彼は真理によって救われることは未来永劫あり得ないのであります。


C 「生長の家」の看板の下で、総裁と言う肩書きの下で書ける範囲は限定されているわけですから、「初心者」と言う名前でマサノブ君はマサノブ教の「本音」の思想を余すところ無く書きまくるのです。自尊心と自己顕示の強大なマサノブ君は、「本音」を書きたくて書きたくてウズウズしてたまらない欲求に駆られているのであります。


D マサノブ君本人は気がついていないかもしれないが、我々から見れば完全な異常性格者、それも尋常の段階ではなく、「そこまで、ようやるな!」といえる異常性格者、まさに精神分裂状態、ジキルとハイドの二重人格者、端的に言えば大悪霊の憑依状態にあるのです。此処まで来れば、もはや完全な「四面楚歌」今までのマサノブ擁護論者といえども彼を見放していくばかりであります。彼は暴力的に暴れる精神異常者ではありませんが、「反・開祖」と言うペンによる精神異常者であります。益々昂じていく精神分裂病の「総裁」など必要ではないのです。追い出されて然るべきであります。一日も早く、出頭命令が来ている“閻魔の庁”へ速やかに出頭しなさい!!





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