生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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遂に「初心者」=マサノブ君は“本音中の本音”(開祖の否定と脱宗教・脱信仰)を公にした。そして影武者「曳馬野」も応援に馳せ参じたのだった・・・そして以前の「ももんが」=マサノブ君の過去の考えもあぶりだされたのだった・・・<そのE> (3648)
日時:2014年03月28日 (金) 14時34分
名前:怒れる信徒代表

「初心者」=マサノブ君は、お抱え掲示板で早速、鎌首をもたげ出して来た・・・

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1356490558/1975
部室板/4




1975 :初心者:2014/03/27(木) 22:12:44 ID:k.9Qtig6

人間中心主義をことさらに否定しようとは、わたしは考えておりません。真理によって言葉を支えるようなやり方はもはや古い、ということをいいたかっただけです。人間中心主義の批判にことよせて、生長の家はもちろんのこと、あらゆるイデア的な思想はもはや時代おくれである、ということをいおうとしたのです。こちらでなんどもいっておりますように、イデア的なものの考え方は、すでにソシュールによってそれが成り立たないことが示されています。あなた方はソシュールを、そしてイデア論の本質を理解しておられないために、そのことがわかっておられないだけなのです。わたしは20年まえにこのことに気づき、ソシュールを乗り越えようとしてきましたが、それが不可能であることに気づかされました。つまり、イデア的な思想は真理としては成り立たない、ということを認めたということです。イデア的思想のあとにくるものはなにか。それもわかっております。答えはソシュールのなかにありました。それに気づかされたのは、ある哲学者の業績が関係しています。トキさんは「うまく行かない」といっておられますが、この方法はすでに一般化しています。「うまく行かない」どころか、大勢の人がこれを実践しています。「イデア論のあとにくるもの」の理論的な体系もすでに完成しています。実践の方法もわかっております。のこる課題は、運動としての体系や思想をいかにしてつくりあげるかということです。いまは、じっさいに活動しているグループや個人の情報を集めている段階です。それは、まだほとんど世に知られていない最新の哲学理論なのです(実践と哲学はべつです)。もちろんここで手のうちをあかすわけにはまいりません。そのために、説明はあいまいなものとなってしまいました。ギリシャの哲学は、もちろんカムフラージュです。こんかい気づきましたのは、総裁がなさっておられことに矛盾はないということです。生長の家の教えを説きながら人間中心主義を批判しようとするのは矛盾以外のなにものでもないからです(両者に構造的な違いはありません)。わたしは、総裁の正当性を示すために人間中心主義を批判いたしましたが、わたし自身は人間中心主義に興味はまったくありません。トキさんにはいろいろと述べていただきましたが、わたしとはまったく関係のないことばかりです。ただ、わたしもこちらで「人間知」であるとしてさんざんたたかれましたから、総裁のお気持ちはわかる気がしています。総裁を擁護したい気持ちはとうぜんのごとくあります。それでも、宗教とのかかわりはできるだけ早くたちきりたいというのが本音です。時代おくれの思想を批判したところで意味などないのはわかっております。ではこれにて。



1977 名前:初心者 投稿日: 2014/03/28(金) 09:20:39 ID:k.9Qtig6

「妄想」ですか。では妄想を語らせていただきましょう。生長の家の人たちの言表の正しさを支えているのは真理である、というのがわたしの妄想ですね。「虚説」にしても、「人間知」にしても、こうした言表の正しさを、生長の家の人たちは真理によって支えている、というのがわたしの考えです。では総裁はみずからの言表の正しさをなにによって支えているのかといえば、それは真理ではなく論理であるとするのがわたしの妄想です。言表の正しさを真理によって支えようとするのがプラトンのイデア論であるとわたしはおもいますが、アリストテレスがプラトンを批判して、「言表の正しさを支えるのは論理である」としたように、総裁はプラトンを批判するアリストテレスであるとわたしはみています。では、訊けさんは自身の言表の正しさをなんによって支えているのかといえば、それは「論理」以外に考えられません。訊けさんは、雅春先生の教えを語ってはおられますが、その発想はプラトンよりもアリストテレスに近いものがあるとわたしはみてます。訊けさんが「雅春先生の教えは正しい」としているのは、雅春先生の教えが論理的であるから、というのがその理由であると考えられます。本流が、雅春先生の教えを語る訊けさんをなぜ否定するのか、その理由が長いあいだわからずにいましたが、訊けさんが自身の言表を真理ではなく論理で支えていることに本流が気づいているためではないかと、今になってようやく気づいた気がいたします(あくまでも推測ですけども)。訊けさんからすれば、いくら本流が雅春先生の教えを語っていようとも、本流の主張が論理的でないことが許せないわけですね。本流が「総裁は教団を崩壊させようとしている」と主張しつつ、「総裁は信徒数の減少を食い止めようとしている」と主張するのを問題にするのは、本流が論理的でないということを言いたいがためであるはずなのです。言表を支えるものの違いが問題をひきおこしているようにおもいます。総裁と本流の対立とは、論理によってみずからの言表の正しさを支えようとする総裁と、真理によってみずからの言表の正さを支えようとする本流の対立のようにおもえます。「両者の和解ははたして可能なのか」ということをこうした観点から考えてみる必要があるのではないでしょうか。わたしのこうした考えは、訊けさんからすれば「妄想」であり、相手をするのは時間の無駄であると感じられるようです。それならそれでかまいませんが、では訊けさんは今の対立をどうとらえているのか、けっして時間を無駄にすることがないすぐれた見解を、ぜひとも聞かせていただきたいものです。「立論の前提」がなにを意味するのかわかりません。前提はあくまでも「総裁は論理で言説の正しさを支え、本流は真理で支えている」というものです。これ以外になにかありましたでしょうか。



http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358853467/l50

6584 :曳馬野:2014/03/27(木) 23:08:22 ID:I5eaYRLI

法を継ぐとは本当の真理を継ぐと云うことです。雅春先生の無門関解釈は禅の世界では亜流の解釈で笑われています。○○白雲とか言ったかな。正法眼蔵は手が出なかったのじゃないかな、それを清超先生は物したんだね。その辺を考えないといけませんな、前に言ったけれど剣禅一致とか弓禅一致とか、合気武道の神髄とかいうものから見ると、雅春先生の悟りには?が付く。親鸞の教えについても禅の説くところと一致しているけれど、先生はそうは説いていないのではないかな?清超先生のことには誰も触れないと云うことが?ですね。訊け氏も再度言いますなんて言うだけですし。トキ氏だけでなく訊け氏も白アリなんですかね〜



<参考までに>

6587 :志恩:2014/03/28(金) 01:20:07 ID:.QY5jUA6

安谷白雲 著「無門関」も、以前に、ももんがさんがご指摘されてたので、私は買って読みました。
「香厳上樹」という公案の頁の 最後の部分に、ほんの少しだけ、谷口雅春先生の公案の解釈について、触れており、感想が書かれてあります。そこには、「谷口氏のお人柄の好いところでは、あるまいか。」というような批判的な文は、確かに書かれています。しかし、それではと思いまして、私は、安谷という禅僧のお人柄をいろいろと調べてみたのですが、この人は、地位は偉い人なのですが、かなり狭量な激しい性格であることも知りました。著書にお写真も載っていますが、眉間に深い縦じわがあり、いかにも陰険そうな人相をされてます。安谷は、三宝教団 創始者でもありました。仏教関係の宗教団体のトップの人ですから、他宗を受け入れるタイプの人と、そうでない人が居たと推察出来ます。2000年になった時、この三宝教団は、過去の創始者である安谷白雲は、過激で極端な軍国主義者であったとして、過去における安谷白雲の言動に対する謝罪文を 発表したほどの人なのです。



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<コメント>



@ 尻尾を巻いて引き下がったはずのマサノブ君、余りにも大閑すぎるのと悔しさの余り、またまたお抱え掲示板に早速と顔を出したのであります。そして、今度は「本音中の本音」を書いたのであります。



A 「初心者」=マサノブ君は、「本音中の本音」を曰く、――

イ、< 生長の家の思想はもはや時代おくれである >と明確に述べたのであります。

ロ、< 宗教とのかかわりはできるだけ早くたちきりたいというのが本音です。>とこれも明確に意思表示をなしたのであります。

ハ、そして、仮称・「マサノブ教」を作り上げるとの意思表示を示したのであります。曰く、< 「イデア論のあとにくるもの」の理論的な体系もすでに完成しています。実践の方法もわかっております。のこる課題は、運動としての体系や思想をいかにしてつくりあげるかということです。いまは、じっさいに活動しているグループや個人の情報を集めている段階です。それは、まだほとんど世に知られていない最新の哲学理論なのです(実践と哲学はべつです)。もちろんここで手のうちをあかすわけにはまいりません。そのために、説明はあいまいなものとなってしまいました。ギリシャの哲学は、もちろんカムフラージュです。>



B かくして、マサノブ君は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を時代遅れとして抹殺(原宿本部の建物解体、次は総本山と宇治別格本山の解体売却)し、宗教色を消し(「御神像」と「聖経」隠しと『實相』額(軸)の隠蔽)、信仰色を消し(「神想観」と先祖供養および体験談の軽視から排除へ)、徐々に脱宗教・脱信仰へと教団を変化させる。そして最終的には「森のオフィス」一つを残し、「統一教会」と合体する。そして、世界一極統一を最終目的としている欧米エシュタブリッシュメント(世界的巨大金融財閥を中心とした横断的な新世界秩序を目指す権力機構)の一員として行動する仮称・「マサノブ教」に組みかえて行く。これが彼・マサノブ君の本音中の本音、彼独特の人生目標であると推量できるのであります。彼のDNAには超独裁者志向があり、そのための資金源を確保し続けなければならないために出来るだけ長く「生長の家」と言う看板を抱え続けなければならないのであります。そこの所を彼は、< 「イデア論のあとにくるもの」の理論的な体系もすでに完成し実践の方法もわかっております。それは、まだほとんど世に知られていない最新の哲学理論なのです。もちろんここで手のうちをあかすわけにはまいりません。そのために、説明はあいまいなものとなってしまいました。ギリシャの哲学は、もちろんカムフラージュです。>と云っているのであります。だからわれわれ「本流」即ち「正統・生長の家」は一日も早く、マサノブ君を更迭して「生長の家」看板を取り戻さなければならないのであります。



C マサノブ君は、開祖・谷口雅春先生を快くは思っておりません。清超先生は<すべて自由に振舞わせてくれた>意味でありがたい父親であったと思っているのであります。だから、この際、「曳馬野」と言う影武者となって同時出現し、<雅春先生の無門関解釈は禅の世界では亜流の解釈で笑われています。○○白雲とか言ったかな。正法眼蔵は手が出なかったのじゃないかな、それを清超先生は物したんだね。>と開祖・谷口雅春先生を貶め、清超先生を持ち上げているのであります。そして、此処で○○白雲(安谷白雲)を登場させたのは、開祖でさえ間違ったことがあれば教えの後継者であっても批判訂正してもよいとの先例を示して置きたかったのであります。開祖・谷口雅春先生は<偏狭な国家主義者・民族主義者・国粋主義者>であった。その誤りを後継者の自分は訂正しても差し支えない、ということを正当化するために「曳馬野」=マサノブ君=(「ももんが」)を出してきたものと思われるのであります。






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