生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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亡国の「マサノブ経済学」 (3771)
日時:2014年04月14日 (月) 15時07分
名前:画龍点睛



合掌、ありがとうございます。
「トキ掲示板」で「初心者」=マサノブ君が、「生長の家の経済学」について批判的見解を示している投稿文がありましたので反論を書く必要を感じた次第であります。戦後の唯物論教育を受けた現代人の多くの人は、マサノブ君の言う“地球を救おう”とか“地球温暖化の原因は化石燃料の膨大使用によるCO2の増加が原因”とか“自然との共生”と云った言葉に共感を感じるでありましょう。そしてそこから導き出した「人間至上主義経済」否定の主張にも首肯する現教団の信徒さんも多く居られるでしょう。『生命の實相』を熟読しないでおりますと、同じく『生命の實相』をアラ探しの目で批判的にしか読んでいないマサノブ君の考えを、<時代の変化に伴う尤もな考え方>だと思えてくるからであります。しかし、この「マサノブ経済学」は、本来の『御教え』に基づく「生命的経済学」とは随分と違った内容で「左翼唯物論のマサノブ経済学」とでも言った方がよいものであります。然し、「生長の家」の看板を掲げている以上「マサノブ経済学」をそのままに捨ておくことはできないのであります。そこで、非・生長の家「マサノブ経済学」が本来の『御教え』から観れば如何に間違ったものであるかを此処に明らかにして置きたいと思う次第であります。



先ずは、「初心者」の名前で投稿されてある「マサノブ経済学」の投稿文を転載いたします。そして、その次に、開祖・谷口雅春先生の御著書から「経済」に関して説かれている御文章を転載し、閲覧者の皆様に比較してお読みいただくことに致します。



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http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1356490558/l50

2107 :初心者:2014/04/02(水) 09:51:43 ID:k.9Qtig6

復興Gさんが「生命的経済学」――、生長の家の経済学は、地球上の資源を有限と見てその分配を考えるという従来の経済学とは基本的に違います。生命を礼拝し、生命の無限生長をもたらす幸福の経済学、ということになるでしょうか。資源を有限のものとはみずに生命を礼拝する。これが復興Gさんがいわれる「生命的経済学」の基本となる考え方であるようです。・・・「生命的経済学」とは、資源を有限とはみずに生産されたモノを生かして使う、ということであるようです。消費優先の経済学であるようです。「資源を有限とはみない」とはどういうことをいうのでしょう。・・・戦後の日本が驚異的な経済成長を遂げたのは、地上の有限な資源を奪ってきたのではなく、物質的資源はもたないのに、外国から資源材料を買ってこれに知恵と愛をはたらかせ、付加価値をつけて輸出することにより世界の人々に幸福を与えたからである。・・・日本は自国の資源をほとんどもちいずに、外国の資源を買っているのだから、自国の資源が減ることはないのだから有限と考える必要はないということ。復興Gさんは、日本がいくら資源を使おうとも、「地上の有限な資源を奪ってきたのではない」のだから資源が減ることはない、と主張しておられるようです。智恵とか、愛とか、幸福とかの言葉をちりばめることで、いかにもこれが真理であるというような印象を読み手にあたえようともしておられます。読み手はこれらの言葉に反応して、「復興Gさんは真理を語っておられる」と判断するでありましょう。「生命的経済学」で復興Gさんが言っておられるのは、生命を礼拝しつつ消費することで多くの人々に仕事がゆきわたるということです。しかし、日本の輸出攻勢によって外国の産業が衰退したのは事実でありましょう。日本はよくても、外国においては、復興Gさんのいっておられる「生命的経済学」とは逆の現象がおきていたのです。これでも復興Gさんは「幸福を与えた」といっておられるのです。はたしてこれは正しい認識なのでしょうか。復興Gさんが提唱しておられる「生命的経済学」を実践することで経済問題や環境問題は好転するのでしょうか。問題を解決しうる方策として世間に公表できると考えておられるのでしょうか。総裁がいっておられることと復興Gさんがいっておられることと、いったいどちらが虚説なのでしょう。



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上記の投稿文から解ることは、


マサノブ君の指摘する「生長の家経済学」(生命的経済学)のマチガイとは、――

@ 資源を有限であるに拘わらず無限と観ている。
A 消費優先の経済学である。
B 生産技術の進歩について、知恵とか愛とか幸福とかの言葉を散りばねて入るが、所詮は「地上の有限な資源を人間至上主義で人間だけの幸福追求のために奪って使いつくことにしか過ぎない。
C 日本の輸出攻勢によって、外国の産業が衰退したのは事実である。
(注・以上は批判のための批判にしか過ぎない)



「マサノブ流経済学」(神・自然・人の大調和経済学)とは、――

@ 地球上の資源は無限ではなく有限と認識しなければならない。
A 消費=幸福度との認識を改め、自然から奪わないで共生する経済社会を作っていくことである。
B 人間至上主義に立脚した生産技術の進歩は不必要、外国から資源を奪って加工し輸出する自国民の利益優先の貿易経済は世界規模での自然破壊に繋がっている。故に自国中心の経済制度は地球世界を破滅に導く。神・自然・人の大調和経済学こそ地球を救う経済学である。
C 国境を廃止し、世界一国家とし、自然との共生の原理に立脚した新文明を構築する「神・人・自然の大調和経済学」が必要なのだ。
(注・以上は批判だけで、具体的内容は不明)



では、本来の『御教え』による「生長の家経済学」(生命的経済学)に関する内容は、――



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☆☆ 「自然流通の神示」は、斯く語る ☆☆

<<・・・あらゆる人間の不幸は、当たり前で喜べないために起るものであることを知れ。当たり前で喜べるようになったとき、その人の一切の不幸は拭いとられる。病気も無ければ貧乏もない、また搾取された富もなければ、搾取した富もない。踏みにじられた弱者もなければ踏みにじった強者もない。唯、一切が渾然として一切のものが富んでいる。これが實相である。大いなる生命の流れが一切者に貫流し、とどまらず、堰くところなく、裕に流れて、ものの供給もおのづから無限である。一切のもの必要に応じて流れ入ること、一つの大河の流れより水を汲み取れば、となりの水きたりて其の虚を埋めるのと同じさまである。流通無限、貧に執せざるが故に貧とならず、富に執せざるが故に他を搾取せず、流通せざる固定の富無きが故に、みづから豊富なる供給の流れを受くれどもそれを占拠せず、執着せず、来るに従って拒まず、受けて更に価値を増して他を霑す。自給自足などとは自他に捉われた狭い考えである。自他は一つである。『生長の家』は自給多足、他給自足、循環してとどまらず、大実在の無限流通のありさまを見て、その有様の如く現実世界を生きるのが現実界の『生長の家』である。貧に執する聖者も、富に執する富者も、『生長の家』人ではない。当たり前の人間を自覚し、当たり前に生きるのが『生長の家』の人である。『当たり前の人間』が神の子である。皆この真理を悟った人が少ない。『当たり前の人間』のほかに『神の子』があるように思って異常なものを憧れるのは、太陽に背を向けて光を求めて走るに等しい。・・・貧しさも異常現象であるから、人間の心が自然に還ればなおるのである。異常現象のなかに神があると思うな。そこには好奇を喜ぶ不自然な心があるばかりである。怒り、憎しみ、恐れ、妬み、他を踏みにじって打ち勝ちたい心――すべてこれらは異常な心であるから病気の因である。異常な心を去れば病気も貧しさも治る。当たり前の人間になる事が大切である。当たり前の人間のほかに神の子はない。>>



☆☆ 「無限供給の神示」は、斯く語る、――開祖・谷口雅春先生の解説文より抜粋 ☆☆

<< ・・・現象は無常でありますけれども、「空」なる実在は不滅である。「空」とは何にもないのではなく一切がそのうちに蔵されているのであります。太陽光線が「無色」でありながら「七色」が蔵されているようなものであります。「空」は「無一物中無尽蔵」であります。・・・「無一物中無尽蔵」の神であるから、その「無尽蔵」を別の名称であらわして「多寶如来」と称するのであります。・・・「多寶如来とは、本源の神の「無限供給」の面を名称にあらわしたのであります。・・・『法華経』をお説きになる釈尊に多寶如来が半座を分たれて同座し、一体になられたように、皆さんも真の「法華経」即ち「生命の實相」をお説きになるならば、そこに七寶の塔があらわれ多寶如来と一体となり、自然に無限供給が実現するのであります。・・・かく示し給う生長の家の御本尊は、一宗一派の神様ではなく、どの宗派にも異なる名称で姿をあらわしてい給うところの宇宙の本源たる“唯一の神”であられますから、・・・吾れに汲むものは涸(かわ)かず、吾れは無限の光、無限の生命、無限の愛、無限供給の泉である。・・・>>



☆☆ さらに、「霊魂進化の神示」は、斯く語る ☆☆

<< 『神の子』なる人間の實相を現象世界に実現するのが人生の目的である。現象世界とは現界、幽界、霊界を通じて呼ぶ言葉である。人間の運命とは『神の子』なる人間の實相(因子)が現象世界に投影する時、時間的空間的に展開するのに、おのずから一定の順序を追うて展開して行くように大体定められているのを言う。・・・神の子なる實相人間も、その投影を現象界に完成するには大体一定の時間を要し、・・・或いは幸福に恵まれ、或いは逆運と戦うことによって、ついに実相人間の現象界への投影を完成するのである。併し、その投影が完成するには、その投影は『念波の集積』で成り立っているのであるし、人間は心の自由を持ち、自由に實相の悟りによって念波を浄め得もすれば、迷いによって念波を一層汚すことも出来るのであるから、現象世界に實相人間を顕現する過程(進化の過程)を心次第で縮めることも長くすることも出来るのである。霊魂進化の過程を短縮するのは、念の浄化による。念の浄化には實相を悟ることが第一であり、物質慾に捉われざることが第二である。物質慾に捉われざる為には『物質本来無し』の真理を悟るが第一である。『物質本来無し』の真理をさとる程度に達せざる者には、物質の快に捉われざるための修行として、自ら進んで苦を求めて喜ぶか、物質に快を求めて却って苦を得る体験を通じて、ついに物質欲に捉われざるに到るかの二途しかない。前者は自ら進んで嘗める苦行であり、後者は幸福を求むれども求むれども運命的に他動的にやってくる苦難である。その他に過去の悪業の自壊する過程として自己の霊的流動体に起る擾乱現象の苦痛もある。苦難がみだりに取り去られず、多くの霊魂の霊界通信が苦行の価値を力説しているのも此の色々の理由によるのである。>>



☆☆ さらに、「開放への二つの道」は、斯く語る ☆☆

<< 生長の家も「存在」を発展変化の過程として認めることはマルキシズムと異ならないのです。しかしその場合の「存在」と云う語(ことば)の意味は、五官の感覚に触れる「現象的存在」のことであります。<「生長の家の七つの光明宣言」の第二条には、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。> というように、「発展変化の過程」だということを「生命顕現の法則は無限生長の道なり」というふうに表現してあるのであります。つまり「生長」ということは、それ自身のうちにそれを否定して一層発展せるものを生ずることであり、その発展せるものをも更に否定して、尚一層発展するものを生ずることでありまして、たしかに生長の家の哲学は弁証法的哲学であります。マルクスは人間の歴史さえも、経済制度の歴史さえも此の発展流動の中にあって、一時と雖も同一の所に止まっていないものだと観る。そしてそれを存在のすべてであると観る。「現象存在のすべてを発展流動のもの」として観る点は生長の家も全く同じであるが、マルキシズムはその「流動せる無常なる現象存在」だけを存在のすべてであるとして、その奥に「生命」とか「精神」とか「心」とかいうものを認めないが、生長の家はその「流動発展の現象的存在」の奥に「生命」というものをみとめる。事物が「流動発展」するのは、その奥に「無限に完全な生命の實相」(ほんとのすがた)というものの内部的圧力があるからであり、事物の現在を否定する「自己矛盾」が生まれて来るのは、現象的事物はそれ自身で存在しているのではなく、その奥にある「無限に完全なるもの」(即ち生命の實相)の顕現であるから、現象的に一時的には完全と見える如何なる現象でも「無限に完全なる實相」の顕現としては不足しているから、中から現在の顕現を否定して、尚一層完全なる顕現を押し出そうとするのです。
 だからこの現象世界は永遠に発展流動の形をとるのであります。これを生長の家では「吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ」と言っているのであります。マルキシズムでは、生命とか精神とかいうものを単なる物質の作用として見て、事物の背後にある「絶対存在」として見ないから、何故、事物が発展流動の形式をとって顕現して来るかという其の「何故」が説明がつかない。すべての顕現としての存在が「自己否定」を含むのは「無限に完全なる實相」がその奥に存在するからだという根拠からのみそれを説明し得るのです。だからマルクスの唯物論に合理的の根拠を与え得るのはむしろ生長の家だといわなければならないのです。



☆☆ 「生命に實相」第四巻第八章<「無」の経済>は、斯く語る ☆☆

<< 一燈園の経済は無一物の経済であります。無一物から無尽蔵が出て来る経済だといわれています。すべてを捨てたときにすべてが得られる、という真理を一燈園は経済的にそれを実証しているのであります。・・・物を捨ててものに頼らなくなって、天爾自然(てんにじねん)に「生命」が動き出す、――そうすると「生命」というものは、それ自身「動」でありますから、天爾自然になれば必ず動き出すものであります。「生命」というものは、本来宇宙全体が一つで、自他一体のものでありますから、天爾自然の生命の動き出し方は必ず自他一体の愛の働きとならざるをえないのであります。自分も他人もない、ただ天地一体の生命で動いている、そうすると無辺天地の生かす力がその生命を生かす、――その生命も、この生命もないわけでありますが、「生命」は“動”であり、“愛”であり、“無限無辺”であり、“生かす無限の力”でありますから、生きるほかに道はないのであります。・・・一燈園では「物」に頼らないでも生きる自己の「生命」の實相を自覚するために、すべての財を棄てて無一物にいったんなるのであります。――わたしも自身で托鉢をした経験もあり、一燈園の生活の基礎となっている根本的原理というものも、哲学的叉は宗教的にそうとうわかっていたつもりでありましたが、本当に一燈園というものがハッキリわかってきましたのは、わたしが「生長の家」の生活を創開するようになってからであります。一燈園では「無一物になったら、お光が生かしてくれる」というのでありますが、――その意味が本当にわかったのはつい近ごろでありまして、それは「人間は物質ではない」と言う真理を知ってからであります。・・・ところが真の“無一物の生活”というものが、そんな浅いものでないということを私がわかったのは、生長の家神の「物質は“無”の別名である」との嵩厳きわまる神誥(かんつげ)を受けてからであります。「物質は存在しない。それは“無”の別名である。人間は神の子であって霊的存在であるから、物質によって生きるのではない、物質はただ“念の影”に過ぎない。」この神誥によりまして、無一物生活の神髄がピタリとわたしの魂の奥底に体得されてきたのであります。「物質はない!」「人間は物質にやしなわれるのではない」「人間は霊的存在であって神の言葉によって養われる」この根本的真理が把握されなければ、<いったん物質を捨てても、神から来る物質にたよっていることになり、>、実際の無一物生活ではない、物質にたよる生活ということになり、人間生命の神の子たる自由自在な真性を自覚できないのであります。・・・「物質はない」ということが解った人にとっては、光泉林の立派な殿堂も一個の化城にすぎない。それは幻術師が現わした蜃気楼のようなものである。・・・われわれ自身が神の子なる霊的存在であって物質ではないと解る、肉体ではないと解る、―― 一燈園の無一物の経済はそこから始まり、無一物の医学もそこから始まらねばならないのであります。・・・< 生活難も病気も神の造り給うたこの世界にはないのであります。> ただわれわれが迷って、その迷いの心が生活難や病気を造っているのであります。迷いを去れば生活難も病気も治るのであります。>>



☆☆ 「生命の實相」第二巻第六章<経済問題の解決>は、斯く語る ☆☆

<< 本来の人間は「知恵」においても「富」においても「生命」においても本来無尽蔵です。それは水脈が神に通うているがために、必要に応じて汲めども汲めども水のつきぬ井戸の様なものであります・・・富もうと思う者は人間に本来与えられている無限の供給に気がつかねばなりません。・・・言葉は神であることを知らねばなりません。そして三界は唯心の現われであることを知らねばなりません。・・・言葉を強く強く自己に自信ができるまで思念せられるがよいのであります。毎日一定時間静坐して自分の心にこのことを強く強く刻みつけるための修行「神想観」・・・人間は現実に富む前に、まず「心」が富まねばなりません。・・・貧困になやむ人は他を恨んだり憎んだりするよりも、まず自己の心を顧みることであります。心の無限力を認めず、自己の境遇を他人の略奪の結果だとする経済観には「生長の家」は賛成できません。われわれの立場は本源の世界すなわち心の世界から貧困を治そうとするのであって、本源に貧困の原因をそのままにしておいて、末流に小細工や膏薬貼りをしようとするのではないのであります。心から貧困の原因を取り去らないでおきながら、暴力で富める者から略奪して貧者に富ませても、その人の心に貧困の原因が存在している限り略奪した物資を使い果たしてしまったらすぐまたその人は貧乏にかえります。だから最も大切なのは心であって物ではありません。・・・心が一切の元であるから、境遇でも運命でも心しだいで思うとおりにねじ曲げられる、――こういう真理を「生長の家」が発見したということはただ富だけの問題ではない、健康だけの問題ではない。もっと深い問題、人間の無限性、人間の自由性が悟られるので尊いのであります。われわれは神の子であって無限の神の供給源から養われているのでありますから、われわれに与えられている能力にしましても、健康にしましても、各個人の富にしましても、それは決して有限のところから取ってくるのではないのであります。・・・われわれの富は何も会社からばかりくるものだと考える必要はないのであります。富はわれわれが無限の供給――すなわち神――と離れない限り、どこからでも必要の応じてやってくるものであります。「生長の家」ではこう考えるのであります・・・ところが宇宙全体からいって物が足らぬということを「生長の家」では認めないのであります。科学の方でも、「物質不滅則」という法則がありますが、いくらわれわれが使っても物質はなくなってしまわない。何か別の形になって残っていて、ある方法を加えればまたもとの姿になって帰ってくるのであります。なるほど何か一つのものについていえば、それは足りなくなることはあります。しかし何もわれわれはその一つのものに引っかかっている必要はないのでありまして、その一つが足りなくなったならば何か代りになるものは必ず与えられるのであります。・・・信仰心の深い人は「もったいない」ということをよくいわれますが、・・・どんなものでも元は神さまが作ってくださったのだからもったいない、――そのところまでは同じでありますが、次は違います。わたしどもでは、使わないではもったいないから出来るだけ生かして使えというのであります。あたえられていないものまでを無理をして使うのはいけませんが、あたえられているものを生かさない節約は人類の敵であります。・・・だから「生長の家」では買うことを節約せよとはいいません。買う生かせというのであります。大いに生かすためには大いに買わねばなりません。こうしますと購買力は増え、収入が増加し、ますます購買力は増え新事業の計画も・・・生産者側からいっても消費者側からいっても消極と積極とではこうも異って来るのであります。・・・「買う」ということは、働きという尊い生命活動に価を支払い、次の生命活動を起すだけの養いと勇気とを与えることになるので、一層とうといのであります。・・・「生長の家」では「心の法則」ということを常に申しまして、身体は心で思うようになるというのでありますが、経済界も心で思うようになるのであります。・・・経済界もこれと同じことでありまして、財を一箇所に停滞せしめないように根本からすれば問題はないのであります。・・・循環しないで一小部分の人間のところに富が蓄積するから、ここに近代の資本主義経済組織が出来上がったのであります。マルクスは唯物史観を説きますが、「生長の家」は唯心史観であります。近代の経済組織は節約しなければ万一のために困ることが起こる、という人間の恐怖心が原動力となって築かれたと観るのであります。この恐怖心がもとになって富が一部に蓄積され、有無相通ずる流通が完全に行われないために、貧富の懸隔がますますはげしくなり、資本家が無資産家を脅かすようになったのであります。だから、この不完全な経済組織を改造するには、何も制度そのものに斧鉞(ふえつ)を加えるにはおよばない。人間の心からこの恐怖心を取り去り、財をわれわれは蓄積しないでも、われわれの生活になくてならぬものは必ず神が与え給う、――換言すれば無尽蔵の大生命から与えられる、――という大信念を人間に与えるようにすればよいので、こうすれば財がある一箇所に片寄って有るという畸形(きけい)な状態はなくなって、全体の人間に平等に富が循環するようになるというのであります。・・・だから心という器を大きくし、富想を持続するようにしさえすれば、われわれは欲する事物を自分のところへ呼び寄せることができるのであります。心を大きくするには、神すなわち無限供給者、無限叡智者、無限能力者、無限生命者と一体であるとの自覚をふかめることにまさるものはありません。かくして無限供給者なる神にわれわれが精神を集中するとき、同波長のものを呼び寄せる原理に従って、霊知的活動または霊知的微粒子体で互いに交流して、想念の内に描いた富を実現できるのであります。>>



☆☆ 「別冊・真理」第二章は、斯く語る> ☆☆

<< 「生命」進化の段階を一段一段昇るに従って、あなたがそこから昇って来た低い生命の法則を支配することができるのであります。鉱物の王国は地球自体の巨大さ全部をもって代表されています。次は植物王国であって、これは地球の表面だけを森林その他の植物をもって覆い、更に海中には地上よりも大きな森林や植物があって、広大なものではあるが、鉱物の世界に比べれば極めて小さな量であります。次は動物の王国でありますが、之は植物の王国に比べれば、一小片に過ぎません。更に第四の王国たる人間界は海中及び地上の動物に比すれば数に於いても量に於いても言うに足りない程のものであります。・・・しかしながら、人間は精神的な力を持っており、その精神的な力を通して機械を使用することにより、肉体の力を拡大して他の三つの世界の支配者となっているのであります。然しこの「生命」上昇の段階は、人間の知識と技術との究極に来ると、其処で止ってしまってそれ以上進むことが出来ない。なぜなら知識と技術とは物質的なもののみを取扱うからである。物質の彼方に霊界が存在する。そして人間は物質的な体に包まれた「霊」である。それゆえに人間の霊は、人間の念願を触覚として物質と空間とを越えて超感覚世界に達しようとするのであります。人間は夢を見る、そして自己の不滅の生命の幻と無限の可能性とを見るのです。たとい足は物質の地上を踏んでいても、霊は高き世界に昇り、謂わばキリストと共に「神の右側に坐す」のであります。この人間の理想への夢を、生命の幻を、そして無限の可能性を現実に翻訳することが必要なのです。人間はアダムの子孫として肉体という物質的な低い本性の上に立ちながら、その實相に於いては神の子たる霊的存在であって、吾らは、その霊的實相を自覚することによってのみ一段高い世界の市民となることができるのである。この一番高い世界の市民となると云うことは、物質界とは異なる新しき秩序の世界に入り精神的にも、道徳的にも、経済的にも、完全なる自由を獲得すると云うことを意味するのであります。>>



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< 総括コメント >



@ 「マサノブ経済学」に於いては、人類が地上で生活する為に必要な資源は“有限”であると考えています。然し、本来の『御教え』によれば「無限供給の神示」にある如く、神の子人間は「無一物中無尽蔵」の神に直結しているのでありますから、人類が地上で生活する資源もまた無限に裕に与えられずみなのであります。この無尽蔵の資源をとり出して神の子に相応しい生活を、我欲を滅して神の叡智を出して送る事が出来るのであります。このことは「別冊・真理」にある如く、<上位の王国は下位の王国を有効に生かして活用できる>と言う意味が書かれている事からも解るのであります。



A 資源を有限と見る「マサノブ経済学」は、言葉を代えれば唯物的な「横取り」の経済であります。
これに対し、本来の『御教え』は「無一物中無尽蔵」の神からの「縦取り」の経済であります。



B 「横取り」の経済は“神”なき経済であります。現在の地上経済社会は、資源を単なる物質と考え、人間至上主義による物質的繁栄、金銭至上主義による飽くなき利潤追求、そのための資源の買占めや奪い合いと云った迷いの心の展開した経済であります。そこには“山川草木国土悉皆成仏”という資源を拝んで使う心や資源に感謝する心は極めて薄弱な状態となり、無制限に資源を乱獲して金銭に変えて蓄財しようとする、そして社会全体としては富の偏在が起こり、富者と貧者との闘争を導き出しているのであります。

これに対し、本来の『御教え』は、「無一物中無尽蔵」の神からの「縦取り」の経済でありますから無限供給、無限循環・無限流通であります。“流れる水は腐らない”の喩えの如く行き詰まることなき大調和の経済社会であります。戦後の日教組左翼唯物教育を受けてそれが正しいと信じる人たちは、神の子人間の實相を蔽える“神性隠蔽”が極めて部厚い為、この實相世界を観る目が曇らされており『御教え』に反発しているマサノブ君もその一人であります。



C 「マサノブ経済学」に於いては、人間至上主義による地球環境破壊という無常なる現象を批判しますが、「解放への二つの道」のなかで開祖・谷口雅春先生が説かれている、その奥にある「無限に完全な生命の實相」と言う内部圧力によって現代資本主義社会内の矛盾と行き詰まりが生じてきているところまでは言及していないであります。「マサノブ経済学」に於いては根因(第一原因)を言わないのです。故に、「マサノブ経済学」は唯物論経済学の域を脱することが出来ないでいるのであります。

これに対し、本来の『御教え』である「生命的経済学」に於いては、「無限に完全な生命の實相」と言う内部圧力を認めているのでありますから、人類はその無限に完全なる實相顕現を目指して現実的には自己矛盾を惹起せしめつつもそれを克服し、想念の自由をフル回転せしめて一層完全なる現象顕現の状態を作り上げようと努力して行っているのであると説かれているのであります。



D 「マサノブ経済学」に於いては、物的経済発展を環境破壊の点から批判し、欲望渦巻く都会から田舎へ移住し、自然との共生の生活を推し進めています。然し、“マサノブ流の自然との共生生活”は自然から略奪加工した近代技術生産物を最大限に取り入れた、いわば“金持ちの豪華別荘暮らし”がその実態であります。「マサノブ経済」の抱かえる内部矛盾を本当に克服する為には原始生活に戻らなければならないのであります。地球を環境破壊から救う為に自然から資源を略奪する事をやめ自然保護を徹底するための原始生活復帰には誰も賛同しないし、国家政策として採用すれば国家経済は破綻し、国防力はなくなりますから、共産中国は一挙に日本を占領してしまう結果となります。だから、「マサノブ経済学」は“亡国の経済学”であるといえるのであります。大きな暇を弄んで机上で考えだした道楽者の机上の空論であります。自然との共生思想の具体的実践として「森のオフィス」を実現させたというが、それは大勢の信徒の浄財を使って初めて出来たものであることを忘れてはならない。信徒の浄財が無ければ実現などできなかったのであります。マサノブ君よ、自分で150億円を稼ぎ出してから言いなさい!



E その他、「マサノブ経済学」の見落としている点を挙げれば、――

イ、個生命の霊的進化向上のために地球という星が存在しているのであるという事を考慮していない。

ロ、「マサノブ経済学」は日時計主義でも光明思想でもなく、暗黒思考による「ヒキコ森経済学」である。

ハ、経済主体たる人間を神性隠蔽された状態のまま扱って、物理的手段と方法を優先して、政府行政による環境問題と同じ取り組みをしていることである。したがって地球全体に対して「マサノブ教団」の環境保護貢献度(投入産出係数)はまことに微々たる且つ低いもので、自己満足にしか過ぎない。



F 人類の到達した現代資本主義経済の最大の善き特長は、この経済制度は、人間の持つ無限の可能性を存分に発揮して自己の霊魂の進化向上が図れる最高の経済制度であります。然しその主役たる人間が唯物思想に毒され、極めて厚い“神性隠蔽”の幕に覆われているのを放置したままに於けば、物的資本主義の抱かえる内部矛盾――資源の浪費と枯渇、利益追求至上主義、環境の破壊、過剰消費、貧富の差の拡大、病悩苦の増大、倫理道徳心の低下等々――が生じ、それが許容限度を越えたときには法的・財政的な力を持つ政府と行政が物理的手段で国家的な規模での改善策を実施して行くのであります。



G 一方、宗教は政府行政の手の届かない分野――資本主義経済制度の内部矛盾発生の根因である人間の“神性隠蔽”の消去、つまり唯物的価値観からの生命的価値観への転換分野を担当するのが宗教本来の役割であります。この様な「生命の経済」への価値観の転換をなした人が多くなるにつれて、自然界から有限の資源を略奪破壊し浪費し使い捨ての浪費消費優先経済は、“拝んで資源を使用し、加工生産物を買って生かす消費態度となり、留まることなき川の流れの如き無限供給・無限流通の無限循環の實相経済が顕現してくるのであります。このときには<別冊・「真理」>にある如き<新しき秩序の世界に入り精神的にも、道徳的にも、経済的にも、完全なる自由を獲得すると云うこと>になるのであります。然し、そこまで到達できるには、地球という天体は霊魂進化の道場でありますから現実的には相当な時間を必要とします。然し、この「生命経済学」の思想に転換した人たちは、<無の経済>の章で示されているように、天爾自然(てんにじねん)に「生命」が動き出すのでありますから、唯物的資本主義社会の戦場に於いても傷つかず(犠牲にならず)に過ごせることになるのであります。



H 唯物論に立脚し、唯物的手段で現代資本主義経済を改変しようとする「マサノブ経済学」は突き詰めれば“亡国の経済学”だといえるのであります。人類社会の本当の無限繁栄のためには、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』に基づく「生命の経済」への人類規模での価値観転換の浸透が必須事項であり、これこそが政府や行政の成し得ざる宗教分野の役割であります。われわれ生長の家が目指さねばならぬ事柄は、一部金持ちの別荘暮らしと揶揄される「森のオフィス」の自然との共生活動ではなく、教団を本来の姿に復活させ人々の病悩苦を救済し、「生命の實相」の価値観を広汎に伝道して、「森のオフィス」ではなく、「生長の家総合学園」を造って、「生命の實相哲学」の価値観を体得した将来の日本を背負う人財輩出に浄財を有効投資すべきであります。 再合掌







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