生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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全く興味の湧かないマサノブ君の「旅先からの便り」 (3777) |
- 日時:2014年04月15日 (火) 09時40分
名前:怒れる信徒代表
またまた懲りずにマサノブ君は「旅先からの頼り(7)」を「枯れ松模様」(退屈ブログ)に発表したのであります。今回は、比較的短文なのでその文章の全部を次に掲げます。
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4月12日 (土) = 旅先からの便り (7) =(全文)
<< お元気ですか? 今日は佐賀市に来ています。 最近、自由意思とは何かということを考えます。 例えば今日の昼食後、羽田空港の待合ラウンジで十数分を過ごすために、飲料のセルフサービスのコーナーへ行き、コーヒーカップと皿を手に取りました。これは、自分の自由意思でそうしたのだと、ハッキリ自覚していたのです。いつもとは違う行為だからです。 通常は、空港での昼食では野菜が少ないことを考えて、トマトジュースを飲むことにしていました。ところが、今日はちょっと気分を変えようと思い、コーヒーを選んだつもりでした。ところが、それを見ていた妻が近づいて来て、「あら、コーヒーなの?」 と意外そうに言ったのです。 その途端、私は自宅を出て小淵沢駅でコーヒーを買い、JR中央線の列車の中で仕事をしながら、チビチビとそのコーヒーを飲みながら新宿まで来たことを思い出しました。 現代の多くの飲み物がそうであるように、コーヒーにも中毒性があります。それほど強いものではありませんが、そのカフェインの作用のおかげで、私は空港でもコーヒーに近づいたのかもしれない−−そのとき私はそう思ったのでした。 となると、 自由主義者を自認する私ですから、“コーヒー中毒”を思わせるような行動は自分にふさわしくないと考え、手に取ったばかりのコーヒーカップと皿とを元の場所に戻すことにしました。では、代りに何を飲もうかと思いながら顔を上げた私は、自分がすでにトマトジュースを取りにいくための行動を開始しているのに気づきました。「これが自由な選択だろうか?」 と、私は思いました。 空港のラウンジには、コーヒーとトマトジュース以外にもいろいろな飲料がもちろんあるのです。しかし、その時の私には、紅茶も日本茶も、ビールもウイスキーも、頭の中の選択肢にはなかったのです。とすると、私がトマトジュースを選んだ行為も、前々からしていることの単なる繰り返し−−つまり習慣による行動であって、自由意思にもとづく意識的な選択とは言えないのではないでしょうか? こんな疑問が湧き出てくるのでした。>> 谷口雅宣
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<講評>
マサノブ君のこの「旅先からの便り」のシリーズ投稿文の一大特色は、マサノブ親衛隊の白鳩オバサンは言うに及ばず、あの神奈川の堀講師(準教務)というマサノブ軍団親衛隊長まで何の関心も寄せていないと云う事であります。
「旅先からの便りシリーズ」の読者コメントの数は本日午前9時現在、第一回ゼロ、第二回ゼロ、、第三回ゼロ、第四回 1、第五回ゼロ、第六回 2 、第七回ゼロ、と殆んどゼロであります。此のことはマサノブ親衛隊の(狂信的)信徒さんでさえ呆れ果てていていつもの絶賛コメントを書く気力も失せてしまっているのでしょう。とにかく、マサノブ君は旅シリーズの始め(「旅人の被災」)から信徒には大不評でありました。書くたびに信徒は愛想を尽かすばかりなり・・・
なぜ、此処までわれわれ信徒は、マサノブ君の旅先で飲む飲み物まで関心を払わされなければならないのか? 彼が旅先でコーヒーを飲もうが、トマトジュースを飲もうが、お茶を飲もうが、ビールを飲もうがどうだっていいのです。そんなことに関心は何もないのです。どうぞご自由に何でも飲んだらいいのです。然し、此のことだけは忘れないで戴きたい。“あんた” (此の言葉は、あのお通夜の事件以来有名用語となっている)が旅先で飲む飲み物を買うお金の出所は、遡れば信徒の浄財なのですぞ!
今回の投稿文の最後は、「私がトマトジュースを選んだ行為も、前々からしていることの単なる繰り返し−−つまり習慣による行動であって、自由意思にもとづく意識的な選択とは言えないのではないでしょうか? こんな疑問が湧き出てくるのでした。」と書いてありますが、習慣的行動は何によって起こるか? 答えは、無意識の意識である潜在意識から来る行動である。自由意思にもとづく意識的な選択のようであっても、すべて因縁果の法則による無意識の意識が関係している。従って、潜在意識を常に明るく浄化して、類でないものは反発する心の法則を働かせて悪運・不運を引き寄せないようにしておくことの大切さ・・・と云ったこと位は自称総裁であっても書けなければならない筈であります。それを“疑問が湧き出て来た”と放置したような表現で終えるなんて本当にアンタは『生命の實相』を読んでない証しであります。
ここまで書いた時にマサノブ君の現在の心の思いの中味に急遽関心が高まってきたのであります。彼の心的状態は現在、極度のイライラの状況下にあると思われるのであります。詳しく言えば、教勢低下が続くその原因は、宗教本来の使命である衆生救済を放棄し、實相礼拝を雑木林の礼拝へ変更し、先輩信徒の献資の結晶である原宿本部建物を破壊し、顕斎殿への土足登殿、聖典と聖経の切り替え等々の開祖反逆行為によって熱心な信徒がアンタに反発と愛想を尽かして次から次えと去っていく現状、講習会での講話下手は知れわたり、四面楚歌で幹部職員も表面の諂(へつら)い顔の奥では冷笑している・・・如何な鉄扉面のアンタでもその空気を感じてイライラが昂じてくるのは当然であります。更に、大閑である事も指摘され、掲示板で「初心者」や「馬曳き」の名前で書けば徹底的にそのマチガイ部分を指摘されボコボコにやり込められる。然し非は自分にあるのだから反論できない。特に、アキレス腱ともいえる「ニセの法燈継承の自作自演劇」や「兄弟方の追放劇」その他の「言行不一致のデパート」振りを指摘されると反論したくても出来ない状況に追い込まれてきているのが実情であります。
アンタのブログもまさに「枯れ松」模様となってしまった。信徒達からは「売り家と唐様で書く三代目」の典型的見本とも蔭で評価されていることも承知している。そして、教団の実情を知る信徒達から“辞めろコール”が沸きあがりつつある。身の危険すら感じて総裁室は防弾ガラス入りと信徒に知れわたっている。防刃チョッキを着込んでの講習会講話、その前でボディーガイドが睨みを効かす???
「策士、策に溺れる」教団内独裁権力と終生総裁を保障する1000億円の教団資産の独裁処分権力を握ってはいるが、この分では終生総裁の椅子さえも危うい、あすの運命さえ不安に思える毎日(?)となりにけるかも?・・・表面では強気を装ってはいるが、マサノブ君の潜在意識内の精神状況は斯くの如しかもね??!! そろそろ教団退去の花道をイソベ君に準備させていかが? 総裁の椅子に執着すればするほどアンタの来世は予測さえ不可能な苛酷極まる運命を甘受せねばなりますまい・・・
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