生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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マサノブ流「精霊の時代」の思想は頭デッカチの足が地に着いていない考えである。 彼の思考に潜む傲慢性と思考不足について考える! (3794) |
- 日時:2014年04月17日 (木) 10時39分
名前:画龍点睛
合掌、ありがとうございます。マサノブ君は「自然との共生」、「神・自然・人間の大調和」、に引き続いて「精霊の時代」という言葉を彼の“語録集”に付け加えたのであります。頭デッカチのマサノブ君はセレブ族独特の自己中心主義を表わす「めんどうくさいが地球を救う」とか、「人のお役に立つ人生はつまらない生き方」という誤解して読まれるフレーズを使って文章を書くクセがどうしても直せないのであります。
今回は、マサノブ君の考えていることを、出来るだけ善意(ひいき目)に捉えても、彼の思いあがり・傲慢性は拭い去ることが出来ないこと、そしてまた、『生命の實相』を熟読していない為に思考不足な点がまだまだ見出されることについて考えて見たいと思うのであります。まず、マサノブ君の考えている思考内容、――「精霊の時代」と云う事に限定して、それに部分に関する投稿文を抜き出して見る事に致します。
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5422 名前:身分いやしきもの(=マサノブ君) 投稿日: 2014/01/06(月) 22:55:05 ID:iei0MD3c 精霊の時代とは、自分のなかに霊的な意識をもつ人たちがあらわれて、教会も聖書も必要でなくなる時代です。精霊の時代においては、相手にたいしてその心をゆさぶるべく働きかける必要はないものと考えます。
5427 :身分いやしきもの(=マサノブ君):2014/01/07(火) 07:08:50 ID:iei0MD3c 精霊の時代を生きられるのは5人ぐらいだろうということです。ですから「わかってほしいのは5人だけ」ということになります。現総裁は、啓蒙主義ではなくロマン主義的な考え方をしておられるのです。 ロマン主義者は、権威的な物言いをきらい、みずからの力で考えようとします。ロマン主義者は精霊の時代を生きるべく運命づけられている。生長の家を、精霊の時代にふさわしいまったく異なったべつの組織につくりかえること、教勢の低下は総裁にとって渡りに舟
5428 :アンドロイド(=マサノブ君):2014/01/07(火) 07:34:25 ID:wiK/MMSE >>精霊の時代とは、自分のなかに霊的な意識をもつ人たちがあらわれて、教会も聖書も必要でなくなる時代です。<< いまだこの精霊の時代には首を突っ込んだぐらいの時期だと思われます。だからこそ、生長の家が先駆で、その精霊の時代の運動を展開すべきと私も思います。
5429 :身分いやしきもの(=マサノブ君):2014/01/07(火) 08:25:27 ID:iei0MD3c 精霊の時代とは、教団のみならず、『生命の實相』でさえも必要としなくなる時代なのですね。真理の書にたよらずとも、神性とでもいうのでしょうか、そういうものが人々の内面から自然にあらわれてくるのが精霊の時代である気がいたします。精霊の時代がもとめているのは、「衝撃的な感動」ではなく「静寂なる歓喜」である
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@ マサノブ君は、自分自身のことを「精霊の時代」を生きる資格のある人間であると思っているのです。単に思っているだけではなくして「1000人の中の5人」の中に入る選ばれた優秀?な人間であると自負しております。そしてマサノブ君は、自らを「ロマン主義者」と位置づけ、「理想主義者である」と思っております。
A マサノブ君は、「精霊の時代」を、霊的な意識が高度に開発されている人たちだけで構成されている社会、宗教的救いや特定の宗教や信仰の必要でない社会であると定義しており、そのような社会の到来を強く望むのだといっているのであります。そしてその方向へ『生長の家』が先駆的役割を果たさなければならないと考えているのであります。この意味ではマサノブ君はひいき目に見れば理想主義者だといえるのでありますが、然し、“夢想的”という形容詞がつくところの、生活の糧を自分で稼がない大閑の“ボンボン”が陥りがちな“道楽理想主義者”でしかないということを忘れるべきではありません。
B マサノブ君は「生長の家」を「精霊の時代」に相応しいスガタに作り変えていかなければならないとして、谷口雅春先生原理主義者を排除し、御神像を撤去し、鎮護国家を降ろし、聖典『生命の實相』と聖経『甘露の法雨』を埋没処分とし、救済・信仰路線から脱・宗教、脱・信仰路線へと方向転換したのであります。別の表現をすれば、従来の「生長の家」を国家主義と民族主義の宗教として捉えてこれを悪となし、国家と民族を超えた地球全体の自然保護と統一世界政府と世界市民思想と絶対的平和主義を掲げる非・宗教団体へと衣替えしていくことを目標としているのであります。
C マサノブ君のこの考えは、戦後の日教組教育を受けた人たちには受け容れ易い思想でありますが、彼にとっての理想とする「精霊の時代」に変化せしめていく方法手段を“左翼的唯物論”で以て達成していけると考えているわけですが、ここのところに彼の思考方法の最大の間違い、――認識不足な点があります。
D マサノブ君の思考方法の誤りは次の点まで考えが及んでいないのであります。<宇宙における地球という天体の存在意義>と<個生命(霊魂)の進化>という二大重要事項にまでは彼の思考範囲が及んでいなかったという点であります。開祖・谷口雅春先生の御著書から引用いたします。
イ、<< 地球やその他の天体は、人間の霊魂がそこにおいて修行し、向上し、内在無限の神性をより多く発揮するための「場」だということができるのである。>>『生命の實相』第九巻P2
ロ、<<地上で果たすべき最後の過程を卒業した霊魂は高級天体の世界に移住して、もう地球上に帰還することはない。その卒業移住と引き替えに、他の、地球よりも、もっと低い階級の天体に住んでいた未発達の多くの霊魂が、恰も中学卒業の子供が高校へ入学して来るように、地球に移住して来たのである。それが戦後に生まれて来た人たちの霊魂である。彼らは他の天体に今まで住んでいて、他の天体で発達した文明と文化と習慣との中で生活した霊魂であるから、今まで地球で住んでいた人類の道徳とは異なる道徳的基準を身につけており、絵を描くにしても、音楽をたしなむにしても、衣裳をつけ、髪形を調えるにしても、男女交際のあり方にしても、全く戦争前地球人とは全然異なる趣味と表現と風習とをもっているのである。>>『神真理を告げ給う』(P.65−66)
ハ、<< 「生まれ更り」即ち「輪廻転生」と云うことは、人間の個性命が肉体の死後も存在して、再び新しい肉体に生まれるという意味であります。輪廻転生を以て、魂または「個体精神」の進化の方法だと考えるのは東洋の宗教思想であって、何億という多数の人間同士の間に存在する現世の不平等の生活を解釈する最も合理的なそして最も理論的な説明の仕方だと云うことができるのであります。この原理は、貧富の懸隔、文化の差異、能力の相異、肉体的に不利なものと完全なものとを生ずるその根元に遡って、精神的天賦(てんぶ)、徳性、及び霊的進境の相異の説明に適用されるのであります。 この説は、次の如き概念の上に築かれているのであります。即ち一個人、一身体の生命期間では生得の可能性及び精神的可能性を充分に発揮する機会が与えられるためには不十分であるから、神聖にして公正なる神の摂理は、各人の魂に自己の現世及び前世で学んでいないことがらを他の生命から学ぶ機会を与えるために、また別の環境にその魂を生まれ更って出て来させ給うのであります。即ち政治、社会、経済、文化等の偶然的な環境条件のために個生命は、一生涯の期間中だけでは著しい進歩を遂げるために必要な経験を通過することが出来ない場合が多いのである。また幼少時代の師友関係、及びその環境条件に於ける経験は個々の魂に或る偏った習慣を与えるし、両親、牧師、教師等の無智のために、その人の魂は束縛されて、奴隷化され、自由な広い経験を得るたの機会ガ奪われることも多いのであります。だから人間の魂は、如何なる人でも、一生涯だけでは完全な発達の機会を与えられないから生まれ更って出ることによって、その不足せる発達を補うという説であります。>>『別冊・真理<正死を越える道>P56−59』
ニ、<< 大自然を見渡せば鉱物の王国から植物の王国、動物の王国へと「生命」というものが、何れも次の一段高い王国の到来を預示しているのであります。人類の王国も亦、一層高次の高い王国を預示していると私は思うのであります。進化の段階が上昇するに従い、上位の王国は下位の王国を支配し、最後の段階の人類の王国はすべての王国を支配しております。私は生命原理の進化の段階に、更に現在の人間の上に、なお一層のすぐれたる段階が出現するということを期待しているのであります。それは生命の第五王国――超人――の出現であります。・・・人間よりも一段上の王国の可能性は人間のうちにある・・・人間の身体的性質と構造が変化する事を意味しない・・・人間が自己の内に超人となるための新しき力を発見するという意味であります。・・・上位の力を獲得した新しき人類は物質意識の標準から出て、キリスト意識、超人意識にまで上るからであります。第五王国の新しき人間とは貧乏、病気等を克服し得るのみならず、恐怖、不安、その他すべての精神的感情的不自由から解放された人であります。・・・第五王国の人々は、下位王国の人々を見捨てるのではなく、・・・民衆と共に住み民衆と共に生活すべきであります。・・・第五王国の人民は隣人の間違や悪についての噂話を決してしない。虚栄と偽善とがない。彼らには心配、恐怖、憤慨、嫉妬、自責のような、みづからの活力を消耗(しょうこう)し、力を滅ぼす種類の精神的習慣がない。彼らは思想に於いても、行為に於いても、他の人と公正正直に交わり、人間の思想が破壊的であるならば、それは荒々しい声や残酷な行為と同じ程度に、他人に有害であることを知っているのであります。彼らは他人に属する物を欲しがらないで、必要なもの、欲しいものを手に入れるために、心の法則を正しく応用することによって誰をも犯すことなしに獲得する道を知っているからであります。本質的に言えば、第五王国は平和と調和の満ちたりた世界であります。あなたが精神科学を知って第五王国の住人となれば、内界が平和であれば外界を平和に保つことが出来ることを知るでしょう。感情的精神的生活の統制が出来ていれば、あなたの生命は力学的均衡状態にあるのであって、何の争いも緊張も無く人や状況と調和することが出来るのであります。>> 『別冊・真理』P.16〜22)
ホ、<<霊魂は同一遊星に生まれ変わって来る場合は、幾度生まれ変って来ても同一の霊体を備えている。そして進化するにつれてその同一の霊体が浄化されるのである。しかしながら、地球(他の遊星における場合も同様である)に属する最後の更生(うまれかわり)を経た上は、その霊魂はもはや物質的世界に生まれかわり出るべき必要のない進化の段階に到達する。その霊魂はもはやどの遊星にも、どの恒星にも属しない。この瞬間より、霊体なるものはもはやその霊魂にとって不必要のものとなってしまう。本来霊魂なるものは、精霊とその有機的器官とを結び合わす媒質だったのである。ここにおいて彼は永遠にこの媒質を放棄する――棄てられた媒質はその属する遊星において新しい結合体をつくるための材料となる。霊魂はこの時あらゆる繋縛(しばり)から解放されて、ただ精霊そのものとなる――この状態は人間の知性では理会しがたきものである。>>『生命の實相』第9巻霊界篇上巻(P.172−173)
E マサノブ君の思考は、上記の如き「宇宙における地球の位置」及び「個生命の進化」のことまでは達していない、と云うよりはむしろ、上記引用文の中から自分のために利用(自己主張と自己弁護)できるところを探し出し、自分が1000人の内の5人に入る選ばれた者であると認識し、同時にヨアキム(中世イタリアの神秘思想家、キリスト教神学者、修道士にして1195年頃、弟子たちを連れてコゼンツァ東方のシラ山へ行き「フィオーレ」と呼ぶ、修道院を建てて死ぬまで瞑想と著述に従った)思想をそこへ結びつけているのであります。即ち、ヨアキムは三位一体的構造を世界史に当てはめ、全歴史は三つの時代からなるとした。第一の時代は「父の時代」で、地上においては祭司と預言者の時代であり、旧約の時代にあたる。第二の時代は「子の時代」であり、教会の時代で、キリスト以後現在まで続いているとした。これは過渡的な時代であって、第三の時代である「聖霊の時代」によってやがて克服される。第三の時代において、世界は完成し、地上においては修道士の時代が出来する。ヨアキムの考えでは、第三の時代において現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は廃され、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。
F このヨアキムの思想の「聖霊の時代」を「精霊の時代」に読み替え、< 現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は廃され、> の部分を <精霊の時代とは、自分のなかに霊的な意識をもつ人=マサノブ君たちがあらわれて、教会=総本山・原宿本部も、聖書=『生命の實相』・『甘露の法雨』も必要でなくなる時代> と読み替えて自己催眠状態に入ったと考えられるのであります。この修道士・ヨアキムの、<1195年頃、弟子たちを連れてコゼンツァ東方のシラ山へ行き「フィオーレ」と呼ぶ、修道院を建てて死ぬまで瞑想と著述に従った> という部分も、マサノブ君が「森の中のオフィス」を建て、本部職員を引き連れ移住し、自然と共に生活するということとも符合し、マサノブ君はヨアキムをモデルとしたのかも知れないのであります。マサノブ君は「精霊」と言う言葉が大変気に入っているようであります。「精霊」と言う言葉の一般的意味は、万物の根源をなしているとされる不思議な気のことで 草木、動物、人、無生物などひとつひとつに宿っているとされる超自然的な存在であるとされ、自然の営みの担い手という意味であります。亦「精霊」には肉体から開放された自由な霊 という意味もあり事物の中に宿り,自由に遊離することができると考えられる人格的な霊的存在という意味もあります。自由主義者を辞任するマサノブ君はこのような意味での「精霊」に一種の憧れみたいなものを持っているのだとも思われるのであります。
G 然し、マサノブ君には「精霊」とか「精霊の時代」と言う言葉を口にする資格などはないのであります。開祖・谷口雅春先生の御著書からの引用文の(ニ)と(ホ)からも解りますように、本当の「精霊」というものは、個生命の霊的進化の極致の概念であります。無限の最高度に開発された霊性を備えた存在であります。この<最高度に開発された>霊性のレベルに、マサノブ君の個生命のレベルがはたして達しているのかが問題であります。これまで「掲示板」で指摘されてきたマサノブ君の宗教家としての“法罪”(教祖反逆罪・信徒欺瞞罪・焚書坑儒罪・看板不正使用罪・目的外浄財使用罪・度重なる言行不一致罪等々)から考えて、マサノブ君の霊魂としてのレベルは「精霊」とか「精霊の時代」を語るには余りにも幼稚すぎる若い若い未熟者の段階にとどまっているのであります。彼の霊性はこのところ急激に退化に退化を重ねているのであります。自分自身がこの様な霊性開発レベルの低いことを全く自覚せずして、「精霊の時代」を生きることが出来る選ばれた5%の一人であるとの傲慢さと驕慢さ、想像以上の“神性隠蔽”、・・・何をか況や! であります。これ以上の生き恥を晒さないように、マサノブ君はこのあたりで引退し教団を立ち去るのが彼のためにも一番善きことであります。もう二度と柄にもない「精霊」とか「精霊の時代」と言う言葉を使わないように・・・再合掌
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