生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<法灯継承者>についての考察 (中村晃生) (4000)
日時:2014年05月22日 (木) 08時50分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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<法灯継承者>についての考察@ (8396)
日時:2014年05月22日 (木) 07時17分
名前:中村晃生


マサノブ氏は、教団のイエスマンたちを支配するために、そして自分の信徒に対するマイ
ンド・コントロールをし続けるために、いくつかのキャッチフレーズ、あるいは間違った
思想、観念を植え付けようとしています。そこで今回の一連の論稿の中で、こうした問題
を取り上げて見たいと思います。


<法灯継承者について>――そのT


マサノブ教団では、最近はこの「法灯継承者」という言葉をマサノブ教祖の「枕詞」のよ
うな使い方をしています。あたかも残存信徒を、さらにマインド・コントロールしようと
しているかのようです。


つまり、教団側は――マサノブ教祖は「法灯継承者」であるから「間違いはないんだ」と
いうことで――彼への批判を抑えようということのようです。 あるいは宗教家としての
「権威」も「カリスマ性」もないマサノブ氏に、少しでもそのような装いを施そうという
ことでしょうか?


このような見え透いたマサノブ教のやり方です。 でも事情を知らない大半のマサノブ教
信者の皆さんは、(古くからの信徒の皆さんは別として)正しいことを知らないと――本
当にマサノブ教祖が「生長の家」教団の「法灯継承者」である――と誤解すると思います。


ですから私は改めてここで、この「法灯継承者」問題と、それにからんだ様々な諸問題を
論じて見たいと思うのです。


<一般的に宗教における「法灯継承」とは何か。それはどのように継承されているのか>


各宗教において、開祖から始まってその後継者への「教え」つまり「法」の継承の仕方は、
さまざまです。有名なところではキリスト教のカトリック教会では、前任教皇が亡くなっ
た場合、世界各地区の司教が集まるコンクラーベ(教皇選挙)によって教皇が選出されま
す。さすが西洋であります。選挙という民主的な方法を採用しています。このコンクラー
ベでは、その人物の宗教的な資質を含め、教皇としての資格を徹底的に議論するわけで、
そのため教皇が選出されるまでには何日もかかります。それだけに選出者の持つ権威も大
きいのです。


日本の仏教の場合は、宗派の教えは師から弟子へと「直伝」され、師の許しが無い者は「法」
を継ぐことはできません。顕教であっても密教であっても、弟子に法の継承を許す場合は、
その教えがお釈迦様から脈々と継承されて来たことをしるす「血脈」文書が必ず授与され
ます。


したがって「法」の継承を証明するものは「血統」(血のつながり)ではなく、あくまで
も「血脈」(法のつながり)なのです。


この典型的な例が禅宗です。「法灯継承者」なる言葉も、もともとが「禅宗」の言葉であ
ろうと、私は思います。つまり師の得た「悟り」(法灯)を「継承」する人間として、師
が直々に弟子を審査し、自分の目に適った人物を、「悟り」を継ぐものとして「認定する」
ということなのです。分かりやすく言えば剣道で言う「免許皆伝」です。師が、弟子の「悟
り」の状態を見て、「この人間になら衣鉢を継いでも大丈夫」と判断した時に初めて「法
灯継承者」となることが決定されるのです。つまり「法灯継承」には3つの条件が必要な
のです。


1)師が直接認定を下すこと

2)それが師の存命中におこなわれること

3)その中身、「悟り」は「嫡嫡相承」(教えの中身を変えないこと)

――なのであります。


なぜこのような特殊な「儀式」を敢えて「禅宗」で採用したのかというと、「禅宗」はも
ともとが小乗仏教の教えであり、座禅という瞑想法の実修の中で的確に「悟り」を開き、
「悟り」を厳密に受け継ぐ信仰形態を採っているからです。したがって「悟り」の中身は
書物には書いてありませんし、そのような書きものも残っていません。真理は「不立文字」
と言って敢えて文字に残すことは出来ないという教えなのであります。したがって「悟る」
ためには個々の僧侶は、先師が出された各種の「考案」を元に、その解答が何なのかを答
えるために皆命がけの座禅の修業をしなければならないのです。


したがってここでは「血のつながり」(血統)などは考慮される余地は全くありません。
ですから、先師の「子供」であろうと「お孫さん」であろうと、「悟り」を開いていない
人物に「法灯」を継がせることなどあり得ないのです。それだけ厳密に「法灯」は大事に
継承されてきているのです。


もちろんマサノブ氏のように――「今の教え」と称して始祖の「教え」を否定したり、教
えの内容を変えたり、信仰形式を「破壊」するような――トンデモナイ「法灯継承者」が
生じる余地など全くないのです。これが宗教の「本来の姿」なのであります!


その意味では今の「生長の家」は「独裁者・マサノブ氏」による――宗教本来の姿を逸脱
した――トンデモナイ教団に、なり果ててしまっているのです。私たちは、「生長の家」
の「み教え」を回復すると共に、始祖谷口雅春先生が作られた「生長の家」を、宗教本来
の姿に戻す重大な使命があるのです!
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<法灯継承者>についての考察A (4003)
日時:2014年05月23日 (金) 21時23分
名前:サーチャー

<光明掲示板>
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<法灯継承者>についての考察A (8413)
日時:2014年05月23日 (金) 03時07分
名前:中村晃生


では「生長の家」は、どこで道が外れて他教団とは違ってしまい、トンデモナイ「法灯継
承者」を生むような教団になってしまったのでしょうか? それには、谷口雅春先生が亡
くなられてから以降の、この教団の足跡を辿る必要があります。


<「生長の家」における「法灯継承者」とは何か>


前稿で述べましたように「法灯継承者」を生んだ禅宗では、極めて厳正な師の悟りの状態
の「資格審査」を経て、「法灯」が一人の弟子に「継承」されます。もちろん、「禅宗」
のような<小乗の教え>であるならばこれで良いのです。しかし、「人類光明化」の大目
標を掲げて出発した<大乗の教え>である「生長の家」では、そういう訳にゆきません。


ですから縁があって信仰に入る全ての人間に谷口雅春先生は、先生の受けた神様からの「悟
り」つまり「教え」を、ことごとく本にして開示されたのであります。したがって先生が
お書きにならなかった「法灯」(教え)などあるはずがないのです。


ということは、先生がお伝えにならなかった神様の「教え」はありませんし、その意味で
特別に特定の「弟子」、あるいは「子供」、あるいは「お孫さん」に伝えられた「法灯」
も存在しません。つまり、谷口雅春先生が亡くなられた後、特別の「法灯」の「継承」な
ど――論理的に――「生長の家」教団には初めから存在する「理由」も「必要」も存在し
ないのです!!


<2代目になり突然現れた「法灯継承者」>


この言葉は私が知る限り、二代目総裁・谷口清超先生になって、「突然」に出来た言葉で
あります。谷口雅春先生が亡くなった後、谷口清超先生がその後継者であることを何とか
「演出」しようとされたのでしょう。


長崎本山にて突然、「法灯継承式典」なるものが挙行されたと聞いております(当時、私
は「生長の家」教団が「生政連」を廃止したことに憤慨して教団を止めていましたので、
後で地元の福岡の信徒の皆さんから聞いた話です)。


二代目総裁になられた谷口清超先生は、谷口雅春先生と比べると遥かに宗教的な「権威」
も「カリスマ性」も持っていませんでした。それは教団の「創始者」と、「二代目」の人
間の差として、いわばある程度は仕方がないことだったのかも知れません。特に谷口雅春
先生が余りにも偉大だったために生じた結果――とも言えることでしょう。


私が知っている範囲内では、清超先生に対する海外の信徒からの反応が芳しくなく(海外
の人たち、特にブラジルの信徒たちですが、思ったことをそのまま口にしますので)、「霊
的な権威が無い」――といったような批判があったという話を聞いていました。


ですから清超先生の「権威づけ」に困った当時の教団が、敢えてそのような「演出」をし
た(清超先生の意向を踏まえてのこと?)ものと、考えられます。


しかし、「禅宗」の「法灯継承」と比べてみると、その継承式の「欠陥」が良く見えてき
ます。つまり、


1)継承行為そのものを谷口雅春先生が直接なされていない

2)谷口雅春先生のご存命中に継承行為が行われていない

3)したがってその清超先生が受け取った「教え」、あるいはその理解度が、師が納得さ
れるほどのものであったのか――つまり、「嫡嫡相承」であると言えるのかに関しては―
―判然としないのであります。

その意味で禅宗の基準で見た場合の「法灯継承者」としては、3点のいずれも適合してい
ないのです!!


教祖の谷口雅春先生も自分の「後継者」は想定していたのかもしれませんが、「法灯継承
者」となると意味合いが違ってきます。初めから「法灯継承者」を作ることを想定してい
ない教団ですから、その「資格」も「条件」も前もって決めてありませんでした。今から
思えば、ここに問題の根本があったと考えられますが・・・


ですから禅宗のような厳格な資格審査のないまま、「血統」という「曖昧な」基準のまま
で「後継」を決め、今日に至っている――したがって「法灯」を「継承」するどころか、
「法灯」をズタズタに「破壊」するトンデモナイ「3代目」が現れる事態になるのです。


<「法灯継承者」と称する「法灯破壊者」の出現>


「法灯継承」の問題は、清超先生が亡くなって以降、さらに酷くなります。3代目の谷口
マサノブ氏も大声で「法灯継承者」を自称しています。でも私たち、谷口雅春先生の「教
え」を受け。始祖の書物を読んで来た人間にとって――彼が「法の継承」の資格を持って
いる――などとは、全く考えていません。確かに「お孫さん」ではあります。それは「血
統」(血のつながり)だけのことで、一番大事な「血脈」(法のつながり)は全く受け継
いでいないと考えているからです。その意味では、彼は仏教で一般的に言う「法灯継承者」
ではないのであります。


つまり「法灯継承者」というのは、マサノブ氏が、一方的に「自称」しているだけのこと
であります。ですから、当然のことながら、「生長の家総裁」2代目の谷口清超先生が、3
代目の「法灯継承」の「儀式」を執り行ったということも私たちは聞いておりません。


その意味ではマサノブ氏の自称「法灯継承者」は、「法灯継承」の条件を見事に欠いてい
るわけで、本当はその資格を欠いている人間が――勝手に「偽称」している――に過ぎな
いのです。


そこで彼が副総裁の頃から言い出した「傑作な」良い訳が――「私は知らない間に法灯継
承者になっていた」――とするものです。これはちょうど浪人の学生が――「私は知らな
い間に東大に入っていた」――と自称するようなもので、真相を知っている人間にしてみ
れば、「人をバカにするのもいい加減にせい!」と、怒鳴られるようなことと同じでしょ
う。


まあ、マサノブ氏も、さすがに「生長の家」教団で独裁権を確立して以降は、こんな言い
訳は最近、言っていないようです。でもこれなども実に人をばかにした話しではありませ
んか(笑)・・・
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<法灯継承者>についての考察B (4016)
日時:2014年05月25日 (日) 17時59分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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<法灯継承者>についての考察B (8466)
日時:2014年05月25日 (日) 03時52分
名前:中村晃生


<なぜトンデモナイ男が、3代目となったのか?>


問題はなぜこのようなトンデモナイ「法灯継承者」が誕生したのか――であります。


2代目の清超先生にしてみれば、「他に選択肢が無かった」――というところでしょうが、
それだけにわざわざ後継者を「おじいちゃん」に批判的な自分の子供にした、という清超
先生の判断ミスでもあるし、「法」の「継承者」を、「血脈」(教えを継ぐ人物)ではなく
「血統」(血がつながる人物)に置いた誤りでもあると、私は考えています。


でも実際には、「お孫さん」はマサノブ氏だけではありません。弟のタカヤス氏もいます
し、次女の夫である宮沢氏もいる訳です。「他に選択肢が無かった」というのは、今一つ
理解しかねるところですが・・・今から思えば返す返すも「残念な選択」でありました。


マサノブ氏は、八ヶ岳の「森のオフィス」に移転してから、ますますもってその「独裁者」
ぶりと、彼本来の思想である「反日」「反天皇」「反生長の家」ぶりを発揮しています。


自分の「意のままにならない」と承服できない性格のマサノブ氏は、一度は「生長の家」
教団を辞任したことがあります。


内部情報として漏れ伝わっている話では、事態を重く見た清超先生と弟のタカヤス氏の2
人で、マサノブ氏を原宿の中華料理店に呼び出し、マサノブ氏に「翻意」を促すように必
死になって説得したそうであります。


その時、マサノブ氏は教団に戻る条件として「自分の思う通りにさせてもらう」ことを2
人に確約させたとか――つまり「自分が何をしても文句を言うな」ということだったよう
です。ここが、再度教団に戻ってから後の、彼の「独裁権」を振るう根拠となるのです。


私が思うのには、その当時の清超先生の気持としては「いずれはマサノブも分かってくれ
るだろう」といったようなものでなかったかと思います。一般的な父親が、「反抗する息
子」に抱く感情です。そのうち時が経てば――「生長の家」の信仰にも目覚め、立派な後
継者になってくれるだろう――といったことではなかったでしょうか。


でも実際には、ユダヤ民族の悪神である「バール神」が好機と見て手ぐすねを引いて待っ
ていたのです。ここが清超先生の誤算だったのだと思います。ですから事態は、清超先生
が考えたような方向には進みませんでした。


普通の場合、人間は年をとると「賢明」になり、時と共に自分の置かれた立場と役割を自
覚するものであります。でも、教団の周囲がイエスマンだらけになり、誰も自分を批判す
る人間がいない状態になると、「賢明でない」人間は――次第に、自分がおかしなことを
している「裸の王様」である――ことに気付かなくなるのです。


その結果、マサノブ氏は自分の勝手な思想を「今の教え」と主張して押し付け、あまつさ
え今度は、「雑木林」に礼拝する「自然崇拝教」までも立ち上げ、「生長の家」を創立さ
れた「オジイチャン」の向こうを張るまでになりました。ますますもって聖経に言う「転
倒妄想」の世界に入り込んでしまったのであります。そして「裸の王様」であり、「独裁
者」であり、「法灯破壊者」であるトンデモナイ「生長の家」3代目総裁が、誕生するこ
とになったのです。


<本来「法」は「血統者」に属するものではない>


「生長の家」を含め<大乗の宗教>では、一般的に「教え」の中身は特定の人間の私有物
ではありません。特に「生長の家」では、人類全てに「教え」は公開されているわけで、
それが始祖の意向でもあり、「生長の家の大神」の意向でもあります。


したがって、特定の個人や特定の家族に、聖典も聖経も属するはずがありません。敢えて
言うならば、それは「人類全体」に属するのです。ここらへんの議論は、今後もマサノブ
氏のような人物が出て来ないとも限らないので、しっかりやっておく必要があるように思
います。


<なぜ教団までマサノブ氏の言いなりになったのか>


普通の宗教団体では絶対に起こり得ないような始祖の「教え」に反した「法灯破壊」がな
ぜ「生長の家」で起きたのか――このことは、今後の反省材料として、私たちも含め信徒
全員が、真剣に議論してゆかねばならないと考えています。これは今後、教団立て直しの
重要な柱となるでしょう。ですから、今後同じような事態を引き起こさないためにも、教
団は「血統」での「法灯継承」を考え直し、本来の「血脈」での「法灯継承」に戻さねば
ならないと、私は信じるものであります。


教団が道を誤ったのは、いわば「独裁者」となったマサノブ総裁に対し、教団の「法」を
守る側の人々が、「奪権闘争」に敗れた結果とも言えましょう。しかし、私は専門家では
ないので、こうしたことを正し、新たなシステムを構築する仕事は、「学ぶ会」や「社会
福祉事業団」など関連の「法」を守る立場の皆さま方の、今後の活動および議論に任せた
いと思います。

よろしくお願いします。合掌。
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(訂正)

前稿の中で、何点か私の表記の間違いがありました。ブログの読者の信仰の先

輩からの指摘があったものです。


・「滴滴相譲」と書いたものは、私の記憶違いで正しくは「嫡嫡相承」(テキテ

キソウジョウ)です。

・「考案」と書いたものは正しくは「公案」でした。


ご指摘に感謝し、謹んで訂正させて頂きます。

<法灯継承者>についての考察C (4022)
日時:2014年05月26日 (月) 09時45分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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<法灯継承者>についての考察C (8491)
日時:2014年05月26日 (月) 06時04分
名前:中村晃生


<生長の家における「法灯」とは何か?>


勝手に「法灯継承者」を自称しているマサノブ氏ですが、それでは百歩譲って「法灯継承
者」なるものが「生長の家」に存在するとして、「生長の家」における「法灯」とは一体
何なのかを考えて見たいと思います。


宗教でいうところの「法灯」とは、文字通りその宗教の中核的な「教え」そのもののこと
です。つまりそれが無かったならばその信仰そのものが存立しえないような「教え」の中
身です。普通の宗教、特に<小乗の仏教>では禅宗のように、「法灯」の中身は一般の信
徒には明らかにされませんし、そのことが書物にもなっていません。それこそ「免許皆伝」
の免状のようなもので、秘密のベールに包まれていることが多いのです。


しかし<大乗の教え>である「生長の家」では、全く事情が違います。特に「生長の家」
は、「文書伝道」の形式を採っているため、「法灯」(教え)は広く書物の形で一般に公開
され、誰でも本屋に行って谷口雅春先生の書かれた本を買いさえすれば、その「教え」の
中身に接することが出来ます。


「生長の家」は、一般の人々に教えが「広く公開されている」という点では、他の宗教に
類例を見ないような、オープンな宗教なのであります。その代わり谷口雅春先生は膨大な
数の書籍を残されました。その時代、その時代に合わせ、また真理を求める人々のニーズ
に合わせて、様々な方面から書かれております。


私たちも先生の持っておられるその精力的な執筆力や。その博識ぶり、洞察力に、「良く
こんなことを知っておられるな」と、読む度に感嘆するばかりです。それこそ人間業では
ありません。ある意味で先生は、本当に――神様の「パイプ」役――だったのだなと、思
います。


その谷口先生が書かれた膨大な書物の中でも中核的な存在が、現代の「聖書」と呼ばれ、
読む人間の病気を一瞬にして癒したり、運命を好転させる力を持った「生命の實相」全40
巻であります。


昭和6年4月5日に神様が下された「万教帰一の神示」の中にも

>されど、本来われに一定の神姿はない。

 如何なる姿も欲(おも)いのままに現ずることが自由である。

 されば、嘗(かつ)てわれ汝(なんじ)に告げたのである「吾(わ)れに神殿は不要(ふ
よう)である」と。

 われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。

 供え物も要(い)らぬ。

 わが姿を見んと欲(ねが)うものは「生長の家」を読め。

 われは言葉である。

 吾が言葉を盛る雑誌こそが吾が神殿である。

 この雑誌がひろがるのこそわが神殿の大きくなることである。<

と示されているように、初期の「生長の家」誌に書かれた先生のご文章をまとめたのが、
まさに「生命の實相」40巻なのであり、それゆえに「生長の家」の聖典と呼ばれる所以
なのであります。


この聖典と併せて「生長の家」で大事なのが、聖経「甘露の法雨」であります。この聖経
「甘露の法雨」は立教以来、読誦する人々に無数の功徳を与えて来ました。簡にして要を
得たいわば「生命の實相」のエッセンスを凝縮したような経典であります。


したがって私たちが<「生長の家」の「法灯」>と言った場合に、この聖典「生命の實相」
と聖経「甘露の法雨」を指すことに異論のある人間は、「生長の家」関係者であるならば、
いないでありましょう。


<法廷闘争の末、「法灯」を失ったマサノブ教>


ところが、原宿の教団本部を「解体破壊」して八ヶ岳の「森のオフィス」に移転したマサ
ノブ教団は、見事にこの「生長の家の法灯」に相当する2つの重要教典を裁判によって失
ったのであります!!


私は、この事実を単なる人間界での「裁判闘争」によるものというよりも――神界から「生
長の家大神」様が「み教え」を護るためにして頂いたご配慮であった――と、受け止めて
います。


実際に総裁として独裁的な権力を手中にしたマサノブ氏は、「独裁者」として通常の精神
では考えられないような気違いじみた「法灯破壊」行為を、今日に至るまで次々と敢行し
てきたからであります。


それこそ谷口雅春先生を「目の敵」にしているとしか考えられないような「み教え」の隠
ぺい、破壊工作に狂奔します。その格好の例が、「本が時代に合わない」「再版してもそ
れだけ売れない」という屁理屈を付けて次々と祖師谷口雅春先生の本を「絶版」に追い込
んだことであります。その数は実に総数32冊におよび、特に愛国書など、先生の国家論、
日本人論、憲法論に集中しています。


つまりこの「絶版」を日本教文社に指示した張本人――「法灯破壊者」であるマサノブ氏
――の意図は明白であります。「生長の家」の「縦の真理」を信徒の目から隠そう、救国、
護国の作用を教団の「教え」(法灯)から排除しよう、との露骨な邪心が存在するからで
あります。そして愛国教団としての「生長の家」を、日時計主義や「四無量心」といった
ような「横の真理」しか説かない、それもほんの表面だけのものに限定し、「生長の家」
教団を完全に自分に都合のいいように「骨抜き」にしようとしているのであります!


これでは、私が指摘していますように――マサノブ氏は完全に「ユダヤ民族の悪神に憑依
されている」と――言われても、仕方がないではありませんか!
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<法灯継承者>についての考察D (4031)
日時:2014年05月27日 (火) 08時31分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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<法灯継承者>についての考察D (8505)
日時:2014年05月27日 (火) 03時26分
名前:中村晃生


<谷口雅春先生は「法灯継承者」など考えておられなかった?>


そもそも「生長の家」教団には――「法灯継承者」などという仰々しい存在は、最初から
存在しないし、必要でもなかった――というのが、私の認識です。


なぜならば谷口雅春先生は、「生長の家の大神」から受けた啓示を――そのまま自分の解
釈や意見を交えずに、なるべくストレートに――本に書き表して残そうと生涯を通して努
力されたからであります。だからこそ、先生は亡くなるまで「私はパイプに過ぎない」と
おっしゃり続けられたのです。教えの内容、その功績まで全て神様に帰されたのです。


その意味では、先生には神様から与えられた教えで、私たちに隠すものは何一つありませ
んでした。「生長の家」には、他の教団にあるような「秘儀」とか、「秘められた教え」
などは一切存在しないのです。


だからこそ「生長の家」教団には、ことさら「法灯」を「継承」する人間の存在など必要
がないのです。



<最後に長崎本山で谷口雅春先生がされた「絶叫」の意味>


それに関連して、私に鮮烈な印象を与えた晩年の谷口雅春先生の晩年の姿が、今でも瞼に
焼き付いています。それは、おそらくは長崎本山で、先生の最後の大勢の信徒の前でのお
出ましだったと思いますが、まだ私が田中六助先生の「カバン持ち」をしていた頃です。


次男のタカヤス氏が押す車イスに座られた谷口雅春先生が、壇の中央まで来られると、イ
スからスックリと立ち上がられ、私たちに向かって両手を上げられて「皆さんが谷口雅春
なんですよ!」と絶叫されたことであります。それも3回も向きを変えて絶叫されました。


その時、私は素直に「ああ、雅春先生は、私たちに生長の家の『法灯』を継いで欲しいん
だ」と、思ったものです。これが、私が谷口雅春先生の肉声をお聞きした最期でした。


つまり、先生は私たち全員に、神からの「真理」を――自分になり代わって「後世に伝道
して欲しい」――と願って絶叫された訳です。ですから、特定の身内の人間だけに特別な
「法灯」を伝えようなどとは全く思っていなかったと、私が信じている理由なのでありま
す。



<谷口雅春先生から、「パテント」は全て我々信徒に渡されている!>


私は大学を卒業後、昭和48年に読売新聞社に入社し、その後は青森支局に赴任してしま
いましたので、東京におりませんでした。そのため、40年代後半の、東京での教団の事
情は詳しく知りませんでした。でも最近、このことで先輩方に聞いてみると谷口雅春先生
は、そのころから長崎本山に移り住むまでの数年間は、盛んに「パテントは皆さんに渡し
てあります」という発言を、関東地方の様々な講習会や研修会でしておられたようであ
ります。


あるいは先生が霊界に移行される前の最後の訴えだったのでしょうか。


先般の「法灯継承者」を巡る諸氏の議論の中で、「マリーゴールド」さんも、この点を同
様に指摘せられ



>しかし私は真理の先輩から、雅春先生は晩年の講習会において「生長の家のパテントは、
あなたにも渡しましたよ。あなたにも。あなたにも」と指を指されながら、一つの講習会
場だけでなく、様々なところにおいて仰られたと聞いた時に、真理において法燈を雅春先
生は、信徒ひとりひとりに継承されたのではないかと思いました。<

と書いておられます。


先生は確かにこの頃、盛んに「生長の家のパテントは皆さんに渡してあります」という話
を、我々信徒に話しておられました。これが何を意味するのかは、しかし、少し考えて見
れば誰にでも分かる事です。私はこれも、先生の「皆さんが谷口雅春なんですよ!」との
絶叫と同じ意味だと思います。つまり「パテントを渡してある」ということは、神様から
伝えられた「生長の家」の教えは、「全て渡してある」という意味です。ですから、論理
的に言えば、ことさら特別の「パテント権者」=「法灯継承者」などは必要ないというこ
とになります。


マリーゴールドさんは、その点

>組織団体としては、長が必要だけれども、私は信徒ひとりひとりが法燈継承であると自
覚し日々の生活を送りたいと思っています。<

と女性らしく静かに語られております。


何度も言いますが、先生の全ての教えは、先生の著書の中に全部書かれており、それ以外
の秘宝、秘儀などは存在しないのです。したがって特別な「法灯継承者」なども必要では
ありません。


敢えて言うならば、マリーゴールドさんが言うように、私たち「教え」を受けた一人一人
が、「法灯継承者」なのであり、雅春先生の語られた「真理」を正しく受け継ぐ必要があ
るのです。間違っても実際には「法灯破壊者」を、「法灯継承者」などと受け止めてはな
らないのです!
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<法灯継承者>についての考察E (4053)
日時:2014年05月30日 (金) 01時41分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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<法灯継承者>についての考察E (8592)
日時:2014年05月30日 (金) 01時08分
名前:中村晃生


<「生長の家」の大神である「住吉大神」も必要のない「法灯継承者」の存在など喜ばれ
ていなかった?>――そのT


でも、谷口清超先生が始められたこの「法灯継承者」なる存在、ならびに式典そのものを、
「生長の家の大神」である「住吉大神」は認められていなかったように、私には思われる
のです。


<そもそも「法灯継承者」は、「法」の内容を変えてはならない!>


単に「教団の後継者」であるならば、それほど問題はなかったのでしょうが、「法灯継承
者」となると別です。なぜならば、「法灯継承者」には「嫡嫡相承」という条件があり、
「法」の中身を変えることが許されないからです。この点は、「信徒連合」さんも指摘し
ておられます。


>谷口清超先生の法灯継承祭における御挨拶(昭和60年11月22日)<< 世の中に
は「継承」ということを何か誤解していらっしゃる方もおられまして、谷口雅春先生のお
説きになった一言一句をその通りまた繰り返してお伝えするのであろうと、かく思われる
方も居られるかも知れませんが実はそうではなく、つまりは教えの真髄の不立文字をお伝
え頂き、それを継承する。ということであります。>> そして、「無門関」第六則<世
尊拈華>の公案を引用して説明されております。<


と、清超先生のあいさつを紹介されておりますが、ここに清超先生の「法灯継承者」に対
する「誤解」、ないし「間違い」があったと私は思うのです。なぜ清超先生は、わざわざ
こんなあいさつをされたのか?そこに清超先生が「法灯継承式典」を挙行した理由が、潜
んでいるような気がします。


つまり、自分は正式な「法灯継承者」であると誇示したい気持ちとは別に、自分は雅春先
生とは違うのだ――との「独自性」を強調したかったからであります。したがって、その
後に教団の「方向転換」という「独自性」を発揮されるに至るのであります。


その後、清超先生は「生長の家」教団を「愛国、護国路線」から大きく転換させることに
なります。それは「護国の神」である「住吉大神」の思し召しにそぐわなかった――と、
私は解釈しています。


このように清超先生は、敢えて雅春先生とは異なる自分の「独自性」を発揮されようとし
ました。そのことが「大神」様の気が召さず、様々な「異常な現象」(これは後述します)
を招いたのではなかったか――と思うのであります。


むしろ、宗教において「弟子」たるものは、

>谷口雅春先生のお説きになった一言一句をその通りまた繰り返してお伝えする<

ことこそ重要なのであり、自分の「独自性」を出しては決していけないと、私は思うので
す。


それは禅宗の「公案」のことを考えれば、良く分かります。師の作られた公案を「弟子」
が勝手に「一字一句その通りにしない」と主張して変えてしまったら、もはや禅宗ではあ
りません。何年経ようと、何代経ようと、中身を変えないからこそ、禅宗の妙味はあるの
です。これは「生長の家」でも全く同じだと思います。


先生がお書きになっているものは、「神様の言葉」そのものであります。それを自分の解
釈なり独自性を出そうとするからこそ、可笑しなことになるのだと、私は信じています。
でも考えて見て下さい。雅春先生の高みまでの「悟り」を開いていない人間が、どうして
「独自性」を出そうとして、また自分の気に入らないからといって、先生の「教え」を変
更し、「教え方」を変更し、さらには先生が歩まれた「愛国、護国路線」を、「路線変更」
するのでしょうか?


私はこれらは「弟子」としては極めて「不遜な態度」であると思います。それこそ「住吉
大神」の不興を買うのも当然であると思います。


何も「独自性」を出す必要はないのです。「一字一句そのままお伝えする」。それこそ「弟
子」たるものの務めであり、そうすればこそ信徒の皆さん方の尊敬を集めることができる
のです。


<「酷い天候」――住吉大神の怒りの現れ?>


私がこのように言いますのも(これも「法灯継承式典」に参加された福岡の信徒の皆さま
方から直接伺った話です)式典が挙行された当日の長崎本山の天候が、「暗雲ベキベキと
して」黒龍が天空を渦巻くような酷い状態であったという話であった――ためであります
(ちょうど宇治別格本山で、「大自然惨禍経」を一斉読誦しようとした時に、雷雲が発生
し、落雷が講堂を直撃したことを想起させます)。


当然のことながら、教団側はこのことを伏せたと思われます。公式にはこのことは発表さ
れていません。(これは、私が経験していない「伝聞証拠」なので、真相のほどは定かで
ありません。しかし、「そのような話を聞いたことがある」との他の人の証言もあります
ので、おそらくは本当だったのでしょう)。当日の式典参加者の話によれば、それはあた
かも黒龍が渦を巻いて「咆哮」しているような印象の、「恐ろしい状況」であったという
ことです。


御承知の通り、「住吉大神」は龍宮の神様でもあられ、龍神を統括され、天候を司ってお
られます。ですから「生長の家」の最も重要な式典が(もしもそれが神様の思し召しであ
ったならばの話ですが)、「暗雲ベキベキ」とした「酷い天候」の状態になることなど、
私の体験から言えば「絶対に」無いのです。これは断言できます。


ですから、式典当日の天候の状態が「酷い状態だった」こと――が事実であったとするな
らば、「住吉大神」がこの「法灯継承式典」をいかに嫌っておられたかを示す、一つの有
力な証拠となるのではないか――と、私は考えております。
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<法灯継承者>についての考察F (4093)
日時:2014年06月03日 (火) 08時39分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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<法灯継承者>についての考察F (8725)
日時:2014年06月03日 (火) 06時11分
名前:中村晃生


<「生長の家」には、システムとしての「法灯継承者」は必要でない>


谷口雅春先生が本当は「法灯継承者」などの存在を、「生長の家」教団のシステムとして
考えておられなかったとすると、マサノブ氏によってメチャクチャにされた「生長の家」
教団の立て直しを考える際にも、この点は十分に注意して対応する必要があるように思い
ます。


つまりは「法灯継承者」と称して実際には「法灯破壊者」であるマサノブ氏のようなトン
デモナイ人物を、二度と選出することの無いようにするためには、仏教のような「教えの
戒律」のしっかりしたシステムを、まず構築する必要があるということであります。


宗教団体として「生長の家」が犯した大きな過ちは――「教え」の「戒律」や、「人類光
明化運動」を廃止したり、「鎮護国家」を降ろすといった「踏み越えてはならない線」を
明定しないまま、教団の「後継者」(「法灯継承者」ではありません)をシステムとして
誰にするのか、その場合の条件をどうするのかを明確にしないで、単なる「血統」(血の
つながり)という「教え」とは無関係で、曖昧な基準にしてしまったことにある――と、
私は考えています。


<「血統」ではなく、「血脈」=正しい「法の継承」をこそ、大事にすべきである>


では「生長の家」が、その「生命」とも言うべき「教え」の2本の柱――「人類光明化運
動」と「鎮護国家」――を回復するために、今後の「生長の家」教団の「後継者」問題は
どうしたら良いのでしょう?


1)先ずは、過ちを正すべきです。


3代目のマサノブ氏は、生きている限り、今の地位に何としてもしがみつくでしょう。な
ぜならば、それ以外に彼が食べて行ける道はないからです。どんなに「法灯破壊者」呼ば
わりされようが、「独裁者」呼ばわりされようが、信徒が激減しようが、教団財産を切り
売りしてでも、必死になって自分の取り巻きと、今の自己の立場を守ろう――とするでし
ょう。

ですから教団の「是正」ができるのは彼の死後、つまり4代目以降のことになります。


2)教えを正しく継承する人物を選ぶべきです。

 
しかし、マサノブ氏そのものが「教え」をキチンと理解しているとはとても思えませんし、
信仰の修業そのものをしていない「不適格者」ですから、彼の直系の「血統」者(子供た
ち)から選出することはできません。


やはり宗教団体の命ともいうべき「教え」そのものをキチンと理解し、しかも教化の力量
を持つ「正統的で適切な後継者」となると、原則に戻って「血脈」(法のつながり)をこ
そ重視すべきなのであります。もちろん――教化の力量を持つ「正統的で適切な後継者」
――が、たまたま「血縁」者であったとしても、それは構わないと、思います。その可能
性は否定されるべきではありません。


要はその人物に「正しい教え」が継承されているのか否か――を判断基準にすれば良いの
です。


3)しかし、教団として今後どのようなシステムを構築するのかは、私は論議する立場に
いません。


「正しい法を守る」ため、偽教団・マサノブ教団との戦いに勝利した後に、「護法」の諸
団体と協議して決めれば良いことだと思います。 それこそカトリックが教皇を選ぶ「コ
ンクラーベ」が、学ぶべき好例になるかと思います。


<「血統」を重視するとどんな問題が起きてくるか>


日本の宗教団体の中にも「血統」を重視し、自分の子孫に「法灯」を継がせる教団は存在
します。でも、例えば親鸞の浄土真宗のように、息子に善鸞のような「教えを変える」
問題を起こして親鸞が「義絶」しなければならないような、トンデモナイ人物が出ること
もあります。


総じて「血統」で継承する教団は、浄土真宗の蓮如のような「中興の祖」が出てくれば別
ですが、血縁者は幾何級数的に増殖する訳ですから、時と共に四分五裂して「弱体化」し
てゆく傾向にあるようです。


その点、「血脈」の継承システムを採用し、大教団に発展したのが創価学会であります。3
代目の池田大作氏が、オルガナイザーとしての力量を発揮したからこそ大発展を遂げたの
だと思います。


私も、政治活動をする中で、さまざまな教団に参加したり、見て来ました。しかし、大半
は霊能者系の教団であり、谷口雅春先生が創立された「生長の家」のように理論的にもシ
ッカリし、信徒を「悟り」の道にまで導けるような素晴らしい教団は、見当たりません。
他教団とは比べものにならないほど素晴らしい「教え」なのです。


私は、「生長の家」こそ、キリスト教や仏教などと並ぶ「世界的な大宗教」に発展する要
素、可能性は大いにあると考えています。


それだけに雅春先生亡き後、2代目、3代目のわずか短期間にして、大教団であった「生
長の家」が、信徒が激減し今では見る影もなくなったことが残念でなりません。今では宗
教団体の数の中にすら入らなくなったのか、マスコミも、まともにとりあげようとはして
いません。それが私には悔しくてならないのです。


でも「生長の家」は、「教え」を元に戻し、教団のシステムさえキチンと再構築すれば、
必ずや大発展すると考えています。法の継承者、「後継者」は「血脈」(法のつながり)
に戻して、頑張ろうではありませんか。


それが、谷口雅春先生が絶叫されたあの長崎本山での先生の気持に呼応する私たちに託さ
れた使命であると信じます。またそれが、始祖の気持、および「住吉大神」の気持に、随
順することでもあるのです。

皆さん、頑張りましょう!
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