生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「初心者」はかくのごとく生長の家の『御教え』を否定する! <その14> (328) |
- 日時:2013年03月05日 (火) 16時12分
名前:四万十分析官
「初心者」という人物は、「トキ掲示板」において下記の如く生長の家の『御教え』を否定しているのである。「トキ掲示版」規約には「基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためのサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。」と書いてあるが、一連の「初心者」と名乗る人物は、この投稿規約に反する投稿を続け、管理人氏も未だに一回も注意を与えていない。「初心者」と「トキ掲示板」との関係は主従の関係にあり、この様なところから「初心者=雅宣総裁」と言われているのである。そして、雅宣総裁としては、決して公の“総裁”としての立場では言いたくても言えない開祖・谷口雅春先生への反逆の「本音の思想」を「初心者」なる名前を使い、思う存分吐露し続けているとも考えられるのである。この意味からでも、彼のやり口は宗教家として非常に卑怯そのものであり、“総裁更迭”に十分に値するのであり、信徒はもっと声を大きくしなければならないのである。
以下、生長の家の『御教え』を否定する「初心者」なる人物の投稿を転載させていただき読者のみなさんの判断に供するものである。
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「トキ掲示板」より
242 :初心者:2012/07/17(火) 10:53:25 ID:TfQ0e6RA
神想観がエーテル体と関係しているのは、ほぼあきらかですね。エーテル体は、学習能力があり、持続力もあるといわれてますよね。人が、行と称して特定のイメージを念じ続けていると、エーテル体は、それに見合ったイメージをこしらてその人に見せることができるようになります。・・・神想観の行によって学習訓練を受けたエーテル体は、霊的世界や、あるいはそれをさえも超えているおもえる「超感覚的世界のイメージ」を提供できるようになります。このことはほぼ間違いないと考えます。・・・神想観をやっているがゆえに神想観がよくわかる、ということがはたしていえるのでしょうか。自分の行為や選択に価値を置きたがるがゆえに、かえって真実から遠ざるということはないのでしょうか。むしろ客観的に評価している側に真実があるという現象が起きてきても不思議ではないという気がいたします。神想観は、シュタイナーのいうイマギナツィオンに近いものであると考えられます。イマギナツィオンによって得られたイメージはけっして真実を語るものではないのでそれを捨てよ、とシュタイナーはいっているはずです。訓練されたエーテル体は、確信をともなった超越的な体験を提供してはくれるでしょうし、それが実際の奇跡的体験や実感をともなった真理観にむすびつくことはあるにしても、だからといって、そうした体験がいかなる真実性をも保証するものではないということは知っておくべきことと考えます。
247 :初心者:2012/07/17(火) 12:05:41 ID:TfQ0e6RA
神想観によって映像が見えたという話を聞いたことがあります。この映像はどうやって見ているのでしょう。その仕組みはどうなっているのでしょう。こうしたことを追究することも真理の追究のひとつと考えます。たしかに、救済や信仰とは別次元の話です。混同は避けなければなりませんね。それにしても、実相世界の存在はどのようにして確認されたのでしょう。それは映像によってではなかったのでしょうか。もしも映像であったとすれば、それがつくり出される仕組みを知る必要があります。・・・しょう。小さな器ではどうにもならないところに来ています。小さな器しか用意できていないところで和解といってみたところで、そんなものに収まりきるような話ではないでしょうね。・・・対立を呑み込むに足る大きな器を用意するよりほかに問題解決の道はないはずなんですけど。
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<問題点>
@ ここに「初心者=雅宣総裁」は、谷口實相哲学の奥義である「神想観」に対する“懐疑的態度”、否むしろ“否定的態度”を明確に示したのである。曰く、――
* < 神想観をやっているがゆえに神想観がよくわかる、ということがはたしていえるのでしょうか。>
* < かえって真実から遠ざかる >
* < 実際の奇跡的体験がいかなる真実性をも保証するものではない >
* < 神想観によって映像が見えたことは、救済や信仰とは別次元の話です。>
* < 現状を超えるには、より大きな「知の体系」をつくりあげるよりほかはない >
* < 対立を呑み込むに足る大きな器を用意するよりほかに問題解決の道はない >
以上一口で言えば、「初心者」なる人物は、「神想観」という観法を、信仰者の立場から実践的に見ようとせず、第三者的立場に立って学者・評論的に観察している。つまり、實相の世界に坐すことなく現象の世界に坐しながら實相世界を見ようとしているのである。こんなことではいつまで経っても“實相”を垣間見ることすら出来ないのである。“学者と金持ち後回し”の典型的事例の一つである。肉体頭脳のIQ指数は高くても、そんなものは信仰や霊的真理探究のためにはむしろ弊害となるのである。こう言ったことが「初心者=雅宣総裁」には理解が出来ていないが故に議論の世界に信徒を引きずりこんで自己顕示をしたがるのである。
A とにかく雅宣総裁は、彼自身の霊的体質上「神想観」が嫌いなのである。だから「神想観」が雅春先生の人間的工夫によるものではなく“神授”されたものであり、また、「神想観」最大の認識事項である「吾、いま此処、五感の世界を去って實相の世界に入る」ということが眼中に入らないのである。故に、「吾と今と此処」の同時一体も把握できていないし、「神想観」を為すのは“現象(肉体)の自分”が“現象の世界”に座って瞑想する事だと理解せざるを得ないのである。この様な理解から雅春先生が神授された「神想観」は“補強”の必要ありとして「ヴアージョンアップ神想観」を着想したのである。
B 霊体質上「神想観」が嫌いな雅宣総裁は、講習会に於いても午後の部最初の30分の神想観の時間を講習会の最後尾に10分程度の付けたしみたいな形にしてしまった。「吾と今と此処」の同時一体の説明も「實相の自分が實相世界に坐して實相を観ずる」という大切な説明もせず、なんの感情も籠もらない暗記セリフの棒読みだけで済まし、すぐに大好きな世界平和の祈りに入って行き、ハイ終わりとなるのであります。雅宣総裁は「唯観實相」の最高観法が「神想観」である事が全然判らない。實相は理詰めだけで理解できると思っているのであるから、本心では「神想観」の時間は廃止したい、しかしそれは時期尚早、だから形だけは残すのが現在の信徒対策としては得策と考えているに過ぎないのである。
C 雅宣総裁は雅春先生が五感六感を超えた「實相覚」によって直視せられた實相世界の有様を単なる脳内イメージとしてしか考えず、左脳右脳の脳科学理論で解明できると考えているのである。完全な唯物論者である。此処から「御神像」は偶像崇拝であるから撤去したいとの考えが浮かんでくるのは当然な思考回路である。
D 「初心者=雅宣総裁」は、開祖・谷口雅春先生が神界から直受せられた「神想観」という観法はまだまだ不完全であるからそれを補強することに留まらずに、それよりもっと完全な「神想観」に代わる「瞑想法」(より大きな知の体系)を肉体頭脳の思索によって考え出し完成させるはずだ。しかしそれはまだ思索中の段階である、今のところは未だ解らない段階だ、と最後は問題を提起するだけで終っている。「初心者=雅宣総裁」は、鳴り物入りで偉そうな事は言っているけれども開祖・谷口雅春先生の足許にも及んでいないことを結局は自白せざる絵を得ないのである。
E 信仰の世界、霊的真理探究の世界には、傲慢な性格の唯物論学者や評論だけする人は必要ではない。雅宣総裁よ、機は熟した。信徒たちは貴殿がほんとうの宗教家ではないと気付きだした。はやく、己が最も住むに適したところへ出て行きなさい! これが全信徒の諫言の言葉だと受け取るべし!!
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