生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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- 日時:2014年06月06日 (金) 18時26分
名前:中仙堂
今年はまた例年になく天候が安定しない様です。 さて、生長の家の神様はご存知のように
底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。海の神、航海の神、また和歌の神とされる。 住吉は「すみよし」は、元は「すみのえ」と読んだ[1]。住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住」(スミ)と「吉」(エ)の間に助詞の「ノ」を入れて、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり[要出典]、澄江、清江とも書いた。
伊邪那岐尊と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒男命が、瀬の流れの中間で中筒男命が、水表で表筒男命が、それぞれ生まれ出たとされる。
日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。このとき、住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り、荒魂は突風となり、神功皇后の船団を後押しするとともに、三韓の軍をおおいに苦しめたとされる。 尊師谷口雅春先生の御教えでは、生長の家の神様は宇宙浄化の神様で、しかも龍宮の神様で有らせられる。 龍宮の神さまで有ると云う事で、気象、天候を支配為されるとお聞き致しました。 勿論気象を支配すると云う事は、旱魃や、逆に豪雨、洪水の守りも為さると云う事で、小生は余り詳しく存じませんが、宇治別格本山でも、何かの折に、大変な落雷が有ったともお聞きいたします。 九州の出龍宮顕齋殿のご建設の時も様々な瑞祥(龍の形の雲が湧き出たとか)が有ったとお聞きいたします。 話しが長く成りましたが、この頃の日本の気象の荒れようも、当然、低気圧とか、温暖化云々も、現象としてありますが、根本的には、どなたかの圧力で、出龍宮顕齋殿の正しい祭り事が為されていないからでは無いでしょうか。 神が悪天候を齎すのでは無く、自然には法則と云う目に見えないものがあります。法則に合わなければ、自然と云う物は荒れる(神では無く、人間の心持ちの間違いが反映)と云う事になるのでは無いでしょうか。
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