生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「トキ管理人」氏の、「議論をするのは信仰ではない」に対する批判はオカシイ! (4257)
日時:2014年06月19日 (木) 15時23分
名前:画龍点睛


合掌、ありがとう御座います。昨日の「トキ管理人」氏の掲示板投稿文の内容について意見を申上げます。
次の投稿文であります。



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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4
2663 :トキ:2014/06/18(水) 21:20:40 ID:cz/HhVsI

 これは教団だけではなくて、本流復活派と言われる人達にも見られる光景だと感じます。 例えば、ある言動について、信仰上の根拠を問われると、返答をしない、あるいは、「議論をするのは信仰ではない」などと返答をする本流復活派の人を見ると、なかなか問題の根は深いと感じます。 谷口雅春先生の教えを復活する、というのなら、信徒からの質問にも素直に返答をするのが筋だと感じます。 そこで、翻って、この一連の総裁の「暴走」を考えると、背景にあるのは教団の官僚化、硬直化ですが、さらにその土壌となったのが、この議論をしない、異論を言わない事をもって、信仰であるという指導であり、それをもって信仰の深化と誤解した信徒の態度だと思います。 確かに、「ハイ」という言葉は素晴らしいし、素直というのも大切な徳目です。が、何に「ハイ」か、何に「素直」か、というと、真理にハイでなければならず、自己内在の神様に素直でなければいけないはずです。これが、生命の実相に書かれていた事であり、また、私が古い信徒さんを見ていて感じた事であります。 ちなみに、戦前の生長の家を知る私の縁者である人は、ある白鳩会の役員さんが、「谷口雅宣先生は時代を先取りしている、素晴らしい指導者だ」と言うのを聞いて、 「あなた、頭は大丈夫ですか? 常識というものを忘れるのは信仰ではありませんよ。」と返答をした事はありました。



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@ 「トキ管理人」氏の主張は、十把ひとからげにして「議論する」ことを禁じたり抑えたりする事はよくないとの主張のように見受けられるのであります。現にこれまでも同氏は「トキ」掲示板では議論歓迎の意思表示を盛んにされていました。そして、今回の上記投稿文では「議論をするのは信仰ではない」という本流復活側信徒の考えを強く批判されています。



A 「議論」というものについて、何でもかでも十把一からげに括って考えることはマチガイであります。本流復活側の信徒のいう「議論をするのは信仰ではない」という主張は、『生命の實相』に書かれている<真理>について喧々諤々の議論を戦わすことは間違っている、その真理を自分の考えだけでア〜ダコ〜ダと主張するのは間違いであるといっているのであります。



B 我々信徒が忘れてならない事は、『生命の實相』に書かれてある真理は、開祖・谷口雅春先生が「無の関門」を超えられて「大悟徹底」された暁に生長の家大神様から直接に啓示された實相宇宙の神示でありこれが生長の家の真理であります。それに対して、未だ「無の関門」も超え得ず、「大悟徹底」の境涯に達していない修行途上の一般信徒が、肉体頭脳の人間知を基にして、アレコレ議論すること自体信仰者としては採るべき態度ではない、ということなのであります。真理についてアレコレ議論する事は宗教学者のする事であって、求道者のなすべきことではないのであります。



C 現に、開祖・谷口雅春先生は < 『生命の實相』を読むときは、丁度、海綿がインクや水をそのまま吸い取っていくが如き心境で読まなければ真理は自分のものにはなりませんよ。真理は知識として知るだけが目標ではなく、完全に自分のものとして生活に実践するものです。理屈の世界で議論する事は議論の堂々巡りをするだけであっていつまで経っても真理の奥堂へは達せられないのです。『生命の實相』の真理は、神示であり、完成済みのものですから、議論したり研究したりするものではありません。> このように御講習会で話されていたのを古参の信徒さんなら覚えておられると思います。



D このように「真理」については、議論せず『生命の實相』を繰り返し、声読・心読・熟読する事が一番大切であって、生半可なところで議論と称して自分の考えを主張する事は間違っているといえるのであります。「真理」に関する“議論”については以上のごとくでありますが、「真理」以外のこと、例えば光明化運動の進め方や組織運営に関することがら、会議で出される議題、さらに憲法問題、マスコミ論調等々については喧々諤々の議論はなされて然るべきであります。(しかし、生長の家信徒であるならば、『生命の實相』第九巻に書かれている「高級霊界における会議は議論をする事なく、全員が自然に同一の結論に達する」、このことを常に心に明記しておかなければなりません。これが理想であり、霊魂の神性開発度つまり「霊性進化・實相開顕」が進めばこういう理想的会議が可能となるのであります。)



E 次に『生命の實相』の中から<真理と議論>についての開祖・谷口雅春先生の御文章を掲げさせて頂きます。


□□□『生命の實相』第四巻 P.2 □□□

<< 真理は霊的に理会することが必要です。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして真理の外的な姿を知るに過ぎません。霊的に真理を理会するということは、「生命」の実相そのものに全身全霊をもって貫き入り力の本源をつかむ事になります。全身全霊をもって、生命の實相につらぬき入り力の本源をつかむことになります。全身全霊をもって、生命の實相につらぬき入るには、この書を頭で読もうとせず、全身全霊で読む、黙読する・朗読する・目で読み・声で読み・声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端坐して「神想観」を行じ、行じ終わって動き出すとき神(愛)の生活を活きる。かくする時、知恵と愛との揃った生活が実現するのであります。>>


□□□『生命の實相』第十五巻 ・人生問答篇上 P38〜42 □□□
 
<< 杉野: ところがこの四、五日来憂鬱が来ましてねえ。理由がわからないで心境が朗らかになれない。別に原因がないのに心が憂鬱なのです。そうしますと今まで順序がトントン拍子にいっていた会社の仕事が一時失敗(しくじり)ましたのです。それは委(まか)してある店の者が不良品を買ったというようなことですが、わたしの心が朗らかであればこんな事は起こらない。わたしの心が朗らかでないために、それが会社の仕事、店の者の仕事に反映してそういうことが起こったのであります。実に環境はわが心の影というわけですねえ。それでどうしてわたしの心にこういう朗らかでない心境が起こってきたのであるかどうかもわからない。ところがよくよく反省してみますと四、五日前に『三日会会報』というのが来ました。それをポケットに入れて電車の中で読んだのであります。いつでも会社へ往復の電車の中では聖典『生命の實相』を読むようにしていましたのですがちょうど『三日市会報』が来たものですから、この雑誌も『生長の家』の分身だと思うものですから、読んだら真理を知る上に同じ効果があるつもりで読み始めたのですが、読んでいると『生長の家』と少しちがうところがあるような、変な不安な憂鬱な気がしてきたのです。なんだかその理論は物質の存在を認めているような、小我自我(にせもののわれ)の存在を認めているような点がありますので、読んでいるうちに物質も存在する、現象も存在する、というような気がしてきたのです。

谷口: 「ニセ物の我」とか「本物の我」とかいう区別はない。いずれも真我(ほんもの)の顕現だという、偽説に迷いなさるな。「生長の家で物質は無い、現象界は蜃気楼のように心の影にすぎない」と申しますのは理論や理屈でそう言うのではなく、実際真理において「物質は無い」から“無い”と言うのであります。實相から観て現象は映像(かげ)であるから映像(かげ)であるというのであります。< そのほかに別に理屈はないのであります。> むろん聖典『生命の實相』の中には椽大(てんだい)の筆を揮(ふる)って物質の無い理論が詳しく書いてあります。しかしそれは實相の悟りに導くためにそう書いてあるだけでありまして、理論がこうだから「物質は無い」と結論するのではありません。理論は、真実の悟りに導く方便として後から造ったものであって、< 理論より先に「物質は無い」という真理があり、その真理の啓示を解りやすく納得させるために理論を説いているのであります。> だからその真理に権威があって読んで信ずる人の心に「生命の實相」を悟らせ、自由自在の心境に達せしめ、その副作用として医術難治の痼疾(こしつ)でもズンズン治る例がたくさんあるのであります。むろん、理論はどうにでもつけられる。「物質は有る」とでも「ニセ物の我こそは本当の我である」とでもどうにでもつけられます。そしてその理論を信じたい者は信ずることができます。それを信ずることも自由であります。しかし、そう云う理論を信じますと、信じなくとも多少在来の信念に動揺を来しますと、「物質がある」という自己の信念の結果、物質によって自分自身が自縄自縛せられることになり、先の自由自在な心境が不自由な心境になり、不完全なる「ニセ物の我」を真我(ほんもの)の一顕現として肯定する結果、不完全な状態が自分の世界に一層多く顕われて来、今までトントン拍子にいっていたことがトントン拍子にゆかなくなるのであります。われわれが五官で物質を観、現象を観、それに立脚していろいろ複雑な理論を作りあげて、物質もある、現象もあると肯定するのはいともやさしいことなのであります。科学者はみんなそれをやっている。しかし實相覚で「物質は無い」というのは理屈ではないのです。誰でも頭の善さを信じて理屈で真理に這入ってゆこうとして理屈をますます複雑にし、「物質は無い」と単純に承認すればよい所を、「物質は無いと有るとを超越したところの“有る”である」と無理に複雑化して言ったり、「ニセ物の我は無い」と単純に否定すればよいところを「ニセ物の自分も真我(ほんもの)の一顕現として実在である」などと複雑に言っていられると、いつのまにかその人は物質があるやらないやら、自分自身で理屈を言っていながらわからなくなるのです。理屈は迷わせるものです。

南: それでは、われわれは「物質は無い」「ニセ物の我は無い」と単純に信じていれば一番よいのでございますねぇ。

谷口: そうです。それを反駁する理論づけをすることは、肉眼で見て“有る”ように見えるものを“有る”といい、意識に“有る”ように感じられる「我(われ)」を“有る”というのですから最もやさしいことで、最も信じられやすい理論ができるのですが、それでは今までの人間智恵であって人間が新たに生まれ更わって救われる真理にはならないのです。>>


□□□『生命の實相』第十六巻・人生問答篇下 P.110〜112 □□□

<< 谷口: ・・・「生長の家」の救いは悟りと共に現実も救われるので、あなたのおっしゃるように病気があり、家族が不仲で、経済難で、それでいて心だけ悩まないというような諦(あきら)めではないのです。

高津: どういう原理によって現実界も救われるのです?

谷口: 現実界は、自分の肉体も境遇も、すべて自分の心の影だからです。心が変れば形が変る、――これが原理なのです。

高津:わたしもこの現象世界がこのまま実在だとは信じない、影だと思う。そして現象のうらに実在があり真理があるということを信ずる、その生命を見て、どんなに苦しみがあろうともそこに意義があることを感じありがたく感ずるのです。

谷口: しかしあなたが現象世界を影だと言われる、その影だという意味は、わたしの言う影だという意味とは違いましょう。あなたは現象をそのままで肯定し、現象の裏に生々の生命があるから苦しみも争いも病もあってそのままで調和していて善いと言われる。わたしの言う影という意味は「苦しみや争いのある現象世界は<有るがごとく見えていても本来無い>」ただ苦しみも争いもない大調和の世界があると言う。この大調和の世界を観ることによって、現実の苦しみを超越するだけでなく、現象世界を変貌せしめて、現象世界を如実に苦しみなく病なく悩みなき世界になしうると言うのです。これを病気について言えば、あなたは人間は病気になるのが生命の真理であるから病気を喜べと言うのです。「生長の家」では病気は無いから有るように見えても無いのだからあってもあると思わず喜べと言う。同じ病気を超越するのでも、病気があるのが生命の實相だと思って、超越するのが高津さんの方法でありますが、病気は無いと悟って病気そのものが消滅するのが「生長の家」なのです。あなたのように病気があるのが生命の實相だと思って病気を超越したのでは「<有る>」という念の作用で、病気は起ってもなおらないけれども、この「生長の家」の超越の仕方によれば「病は無い」という念の作用によって病気が治ってしまうのです。

高津: それはどういう根拠からそう言われるのですか?

谷口: 議論ではない、実際にそうなのです。医師がとうてい助からぬと言った結核や癌でも『生命の實相』を読んで心が変ると共にその病気が治った実例がたくさん有りますから。

高津: しかし、すべての人間の病気が『生命の實相』を読んでも治るというわけにはゆかないでしょう。

谷口: そうです。すべての人間の病気が治るとは定(きま)っていません。

高津: そうすると、『生命の實相』を読んだので病気が治ったと断定するわけにはゆかない。

谷口: 『生命の實相』を読んでも心が真にそれに共鳴せず、實相を悟ることができない人は治らないのです。真理は種であるから、それを植えても生えない不毛の地や石地に播いては生えないけれども、それは真理という種が悪いのではない。――十本の同じ種を植えて、半分も生えれば、その種は生える力がある、生えないのは土地が悪いのだと断定してもよいでしょう。人間は心的存在ですから、酸素に水素を交えたら必ず水ができるというふうに、人間に「生命の實相」を混ぜたら必ず病気が治るというように一定の結果を生ずるというわけには行かない。「生命の實相」を話せば話すほど、素直に受けないで、議論でできるだけ反発して来られるあなたのような人もある。だから「生命の實相」を受ける心の相異に従っていろいろの結果を生ずるのです。しかし、それを読んだ大多数の人々が病気からすくわれている事実を否定することはできません。>>



F 「生長の家」の信徒というものは、開祖・谷口雅春先生の説かれた真理を素直にハイ!と受け取らなければ信徒ではないのであります。その真理についてアーダ、コーダと自分が開祖・谷口雅春先生よりも悟りを開いているが如き態度で真理を俎上に載せて議論し合う事は信徒のなすべきことではなく、ましてや議論して自分の方が相手を打ち倒したと威張るなんてそれは信仰ではないのであります。われわれ信徒は学者になってはならず、自己霊性の進化向上をこそ望むべきであります。この点、開祖・谷口雅春先生の説かれた真理についても大いに議論しようとする姿勢が見える「トキ掲示板」は求道者の進む道ではないのであります。幾人かの本流復活側からの出張投稿者を除いて、マサノブ擁護温存の色彩の強い投稿者は、みな議論好きな方々であります。その中での最右翼投稿者はマサノブ君であり、彼は「初心者」始め幾種類ものハンドルネームを駆使して開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判と自説の主張をいつまで経っても続けているのであります。それほどまでして、本来の『御教え』にケチを付けたいのであれば「生長の家」と言う文字の入った掲示板から退散して自由に外部で自説を展開すればよいのであります。「生長の家」と言う文字の入った掲示板で本来の『御教え』批判の議論を展開する事は、信徒の皆さんのまともな真理探究心に支障を来すものであり、この有害性を放置せしめている「トキ管理人」氏には猛省を促すものであります。 再合掌






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