生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
森のオフィス批判(光明掲示板より) (339) |
- 日時:2013年03月06日 (水) 15時23分
名前:神の子A
森のオフィス批判@ (6643) 日時:2013年02月22日 (金) 10時40分 名前:中村晃生
<八ケ岳に移転する本当の理由は「人類光明化運動」からの逃
避?>
マサノブ氏は、今年10月から待望の八ヶ岳に教団本部を移転し、
自然主義に特化した教団作りに移行します。その意味で、私は彼
の「自然」への固執と
それがどんな意味を持つのかを、自分なりに把握したいと思い、
本屋に出かけてマサノブ氏の「森の中へ行く」という本を買って
きました。
この本の中で、彼は大上段に「文明の転換点」とか「文明の転
換」という
言葉を度々使って移転の理由を説明しています。
それはある意味で善意に解釈すれば、「化石燃料による文明から
脱する」との
「宗教家(?)としての」彼の使命感の現われかもしれません。
でも、この本をいくら読んでも、私にはなぜマサノブ総裁が、
敢えて原宿を捨てて八ヶ岳に「生長の家」を移転させたいのか
――その必然性、積極的な理由が、あまり良く分からないので
す。
一応は、彼が「生長の家」の自称「法灯継承者」として過去20年
来考え、
実践(?)してきた環境主義者、自然主義者(信仰者ではありま
せん)
の「総決算」としての意味合いがあるのだろうな、
ということは想像できます。
確かに空気も悪い、喧騒の中の現在の原宿は、
一歩通りを間違えると、今や若者のファッションの中心地に変ぼ
うしており、
私たちが中学生や高校生の頃に毎朝、山手線に乗って
「本部」の大道場に早朝神想観に通っていた頃の
様相(昭和35〜40年ごろ)とは比べ物になりません
(当時はまだ静かで良い場所でした)。
マサノブ氏は、「忙しい」のか「大閑」なのかは良く分かりませ
んが、
現在のところ、毎日のパソコンに向かってのブログ書きと、
時おりの講習会への「講演」(信徒は誰も興味を持たない
環境論が主体の)が唯一の仕事のようです。
都会から離れたいとの彼の欲望に加え、
「生長の家」の法灯継承者であれば本来は担うべき
「人類光明化運動」といったような煩わしい仕事から解放された
い。
そのためには鳥や虫しかいなくて、あまり「人類」のいない場所
に行くしかない
――ということであれば、極めて良く分かる話ではあります。
それならそうと「正直」に言えば良いのです。
でもそんなことを言えば、「それならオマエは総裁を辞めろ」と
信徒の皆さまから
お叱りの大合唱を受けることは目に見えています。
他にこれといった才能も無く、いわば「デモシカ総裁」
(デモシカ教師になぞらえた私の造語。
つまり「総裁シカできない」「総裁デモやるか」という意味)
であるマサノブ氏は、死ぬまで総裁の椅子にしがみつくしかない
訳で、
それだけは「死んでも」言えないのです。
というところが「森に行く」マサノブ氏の「本音」だろうと想像
しています。
もちろん「森に行く」というマサノブ夫妻の共著の中には、
そんなことは一切書いてありません。
この中には、例によって、ああでもない、こうでもないと
「森の中に行く」ことのさほど説得力の無い理由を、
マサノブ氏がいくつも挙げております。
そこで、今後の論考は逐一、これらの理由を採り上げて、
――果たしてそんな必要性が本当にあるのか?
本当の「移転」の理由は何か?――
などの論考をして行きたいと思います。
-
|
|
森のオフィス批判A(光明掲示板より) (340) |
- 日時:2013年03月06日 (水) 15時26分
名前:神の子A
森のオフィス批判A (6708) 日時:2013年02月25日 (月) 13時08分 名前:中村晃生
<ことの発端>
マサノブ氏が、谷口雅春先生と住吉大神の記憶が消えない
原宿の教団本部から、「人里離れた森に囲まれた事務所へ移転す
るらしい」
という話は、既に教団関係者の一部には
10年以上も前から漏れ伝わっていました。
つまり「森に行く」とのマサノブ氏の決意は、
決して昨日今日の話ではなく、
また彼が言うような「文明の転換に向かって」行くといった
大そうな話ではなく、
彼がかなり前から心の中に暖めていた構想だった
ということなのです。
先ずはここのところをキチンと押さえておかないと、
彼の教団移転の本当の理由も判然としなくなってしまいます。
我々が「学ぶ会」の運動を始めてまださほど経たない頃、
原宿の教団本部で、驚愕の事件が起きました。
ある日、1階正面の玄関に「建物がある業者に売却されることにな
った」
旨の張り紙が貼られたというのです。
私は、その張り紙を実際に見ていないので、どのような文言が書
かれていたのか
良く分かりませんが(ご存知の方いたら教えてください)、
おそらくはこの張り紙を見た信徒さんたちが
騒ぎ出したためでしょう、問題の張り紙は数日で撤去され、
その後は何事も無かったかのようになりました。
こんな重大な決定が、教団の実力者であるマサノブ氏の了解なし
になされたとは
考えにくく、実際は彼の決断で始まったのだが、余りにも反響の
大きさに
思いとどまったというのが真相だと思います。
とりあえずは、教団内部の独裁権を確立し、イエスマンだらけと
なる
今日まで待ったということでしょう。
当時、原宿の教団本部周辺には「森ビルが生長の家の地上げをし
ているらしい」
との噂が飛んでおり、実際にそうした動き(一部土地での不動産
の取得)
が行われていたようです。
マサノブ氏が展開する論理で、我々が気をつけなければいけない
ことは、
彼の場合は、「先ず結論が先にある」という事です。
つまり、結論が先にあり、後は理屈をゴタゴタ並べて
理由を正当化しようとするわけです。
だから、辻褄の合わない理屈だったり、
屁理屈(特に強引に雅春先生の教えを変えようとする場合)が、
後に続くことになるのです。
私は、マサノブ氏の「森に行く」構想も、10年以上も前から
狙っていたもので、前回の失敗に懲りたマサノブ氏が
教団の独裁権を確立して、信徒の皆さんも含め、
教団幹部全員がマサノブ氏に
「絶対服従する体制」を固めてから、
移転に乗り出したのだと考えています。
私が、その当時聞いていた「移転の理由」の噂は、
マサノブ氏が「講習会で話をするのが嫌いだから」ということで
した。
つまり生長の家の総裁になれば当然、生長の家の真理を語り、
「人類光明化運動」を推進する必要がある訳で、本当はしたくな
いそうした話を、
なるべく講習会をしないで済む環境に身を置いて、
しないで済ませたいといったようなことでした。
これは今でも変わりませんが、彼には「人類の苦悩を救う」とい
った
宗教家の使命などはなから持っていないのです。
――人類など救う気は無い。
「人類」のいない、鳥や虫しかいない自然環境で、
パソコンで一日中遊び、信徒の浄財を元に、勝手気ままな人生を
送りたい
――というのが、
彼の理想的なライフスタイルだったのではないでしょうか。
それを「森に行く」の本の中で信徒の皆さんに宣言して理屈付け
をした。
私には、そう思えて仕方ありません。
だからこそこの本をいくら読んでも「森に行く」
本当の理由が、どうももう一つピンと来ないのです。
-

|
|
森のオフィス批判B(光明掲示板より) (341) |
- 日時:2013年03月06日 (水) 15時27分
名前:神の子A
森のオフィス批判B (6776) 日時:2013年02月28日 (木) 11時05分 名前:中村晃生
<文明の転換期とは何か>
マサノブ氏は、「生長の家」教団が「森に行く」理由として、
「文明転換期である今、・・生長の家もその一端を担いたい」
(P6)と大げさな自己正当化をしています。
彼の説によると、なかなか動かない「化石燃料による文明から脱
する方向に」
政治や社会を動かすためにその先導的役割を果たしたいというこ
とのようです。
その例として、
彼は「満員電車で老人に席を譲る」ことを取りあげ
「本当は自分でやりたくても、いろいろな理由をつけて実行しな
い行為を、
目の前で他人がした時、自分の中の“本心”に多くの人が目覚め
るに違いない」
と書いています。つまり、本教団が先ず「森に行く」ことで、他
の多くの教団も
これに続くだろうと考えている訳です。
彼の「夢想」はいいとしても、果たして世の中はマサノブ教団が
八ケ岳の「森に行」ったぐらいで、そんな簡単に他の教団が追随
するのだろうか?
という素朴な疑問です。
というのも、「森に行く」必要性を彼は
>自然から分断化された生活に別れを告げるため、率先して森に
移転し、
地球を温暖化させない生活へと歩み出す<
と宣言しているからです。
地球を温暖化させないための手段はいろいろある訳で、必ずしも
「森に行く」必然性はないように思えるのですが、
彼はその必然性があるように説きます。
どうも彼の発想は、頭の中で勝手に「観念論的」に描いたことに
対して
一般性を持たない「独善的な結論」を導き出す、間違った傾向を
持つように思えてなりません。
それを世間一般、普通では「一人よがり」あるいは「自己満足」
というのです。
だがどんなに総裁が「突拍子の無い」ことを言い出しても、
反対する人間が誰もいなくなった集団ほど、恐ろしいものはあり
ません。
本人はそんなことを言い出したら「世間の物笑いになる」ことが
分からないでいるので、それこそ「裸の王様」で得意になって周
囲に君臨します。
また本人はそれで良しと考えてしまうので、ますます可笑しなこ
とになり
結果的にその「裸の王様」ぶりに呆れた人々は、次第に離れて行
くことになります。
マサノブ教団の「一人よがり」ぶりは、これまでのISO140
騒動を
見てみれば良くわかります。あれだけ大騒動して本部職員以下、
各県教化部に至るまで「エコ化」「脱CO2」を掲げて、
鉛筆1本に至るまで倹約する大運動をし、また大金を払って
「宗教団体で初めて」取得したと派手に喧伝したISO140
は、
その後どうなったのでしょう?
他の教団がISO140取得に「追随した」という話は、ついぞ
聞いたことがありません。
八ケ岳教団は「自然と共に伸びる」を大目標に掲げ、各地の教化
部では、
大きな看板まで掲げて宣伝している所もあります。
だがこのスローガンにしてみたところで「自然と共に伸びる」と
は、 一体どんな事なのか、普通の人には判然としません。
そのような意味不明のスローガンを掲げることを、一般的には
「一人よがり」「自己満足」というのです。
少なくとも普通の人々から見れば、「ここの教団は、可笑しなこ
とをいう人たちの
集まりだろう」と、全く相手にされなくなり、結果として信徒は
減少する一方
ということになるのです。こうしたマサノブ氏主導の「観念論」
あるいは「妄想」に基づく「一人よがり」が、今日の教団の衰退
を招いた
大きな原因の一つでもあるのです。
それではマサノブ総裁が、1人であるいは夫婦2人で「森に行」
けば
(この森は、「ヒキコ森」と言います)良さそうなものですが、
彼は1人で行くことがキライなようです。
教団幹部も含め、職員まで引き連れて「森に行く」と言います。
「個人幻想」を個人だけに留めておくことが出来ないで、
大勢の人々を巻き込んだ「共同幻想」にしなければ気が済まない
ようです。
これはどことなく「赤信号みんなで渡れば恐くない」式の構図に
似ていませんか?
要するに彼は、自分1人で「可笑しなこと」をするのがイヤなの
です。
全く困ったものですが――そこが「裸の王様」の王様たるゆえん
なのでしょう。もっとも、信徒の浄財で高給をもらっている八ケ
岳教団の人たちは、
どこまでも「裸の王様」夫妻に従うしか仕方ありませんがね。
-

|
|
森のオフィス批判C(光明掲示板より) (342) |
- 日時:2013年03月06日 (水) 15時28分
名前:神の子A
森のオフィス批判C (6817) 日時:2013年03月01日 (金) 11時05分 名前:中村晃生
<「人類光明化運動」を放棄して、森に行って何をするの?>
ところで、マサノブ教は、果たして森に行って
何をしようというのでしょうか?
これが私の最大の疑問でもあり、関心事でもあります。
というのも最近、マサノブ氏は、雅春先生の立教以来の大命題で
あった
「人類光明化運動」を放棄して、左翼が好む
「世界平和(信仰)運動」に摩り替えてしまったからです。
でもこの「森に行く」本の中では、
谷口純子夫人は、まだ正直に(当時の運動方針に沿って)
>私たちの「人類光明化運動」「国際平和信仰運動」は、
一人でも多くの方に生長の家の教えを伝えてゆくということで
す。
そのためには、今の日本では東京を中心に交通網も発達しており
ますし、
いろいろな面で、東京を基盤にして本部があった方が
大変効率の良い運動ができるわけですね。
それを、どこか分からないけれども、
地方の「森の中」にオフィスを構えることによって、
本当に私たちの運動が成り立って行くのだろうか
という疑問がありました<
との疑念を、率直に投げかけています。
ある意味で、これはまさに正論です。
「生長の家」の本来の使命をキチンと把握しているだけでも、
マサノブ氏よりも、遥かに教団トップとしての自覚があると言え
ましょう。
でも良く考えてみれば、「人類」のいない「森に行く」
ことを決断したマサノブ教団としては、
論理的にも「人類光明化運動」を放棄することは、
必然的な帰結だったのかもしれません。
マサノブ氏は一応、本の中にはあれこれ「森に行く」理由は列挙
しているものの、
「人類光明化運動」を放棄したことで純子夫人が指摘するよう
に、
>一人でも多くの方に生長の家の教えを伝えてゆく<
という明確な教団の目的が失われたことには、変わりはありませ
ん。
一応純子夫人は、この本の中で、自分でもあれこれ勉強した結果
(あるいは夫が頑として自説を曲げないので仕方なくか)
>神により自然と共に生かされ、自然を守り、そして万物を生か
す「人間・神の子」の
生き方が、私たちが森に行って、自然と共に生活することによっ
て、多くの人に伝えられるのではないか、ということを、私もよ
うやく理解いたしました。<
と結論付けています。
いわば「自然と共に生活する」ことが
「人間・神の子」の本当の生活であると
言わんばかりの結論です。
それでも「自然と人間が調和する」自然生活の先駆者として
具体的に何をどうなさるのか?
に関しては具体的に書いてありません。
いくら考えてみても、イメージとして湧き上がってきません。
それは余計なことなのかも知れませんが、
今後は私たちもその「お手並み」を是非とも拝見したいもので
す。
でも明確な目標を失った団体ほど、求心力の無い存在はありませ
ん。
「自然と共に生活する」ことは、理念としては理解しえても、
「明確な目標」にはなりえません。
「人類光明化運動」を放棄した。
――したがって論理的には、マサノブ教団では
今後の講習会に人間を集める必要が無くなった――
(「とにかく何でもいいから多くの人を集める」というマサノブ
総裁の
「自己満足」を満たす目的以外においては)
わけであり、これが悪循環を生んで、
マサノブ教団の今後の行く末(急速に衰退する)が、
ますます心配されるところです。
-

|
|
森のオフィス批判D(光明掲示板より) (343) |
- 日時:2013年03月06日 (水) 15時29分
名前:神の子A
森のオフィス批判D (6846) 日時:2013年03月02日 (土) 15時09分 名前:中村晃生
<何だかんだ言っても、所詮は環境運動なのですね?>
マサノブ教団が、「森の中へ行く」との構想を打ち出したのは、
2004年7月26日の「森のオフィス構想の基本的考え方」の中でで
す。
すでに当初の構想から10年経過しているわけですが、
現在建築中の「森のオフィス」も基本的には、
この当時の構想をベースにしています。
その構想は、
一応「自然との共生に向けての職員の意識改革」を真っ先に掲げ
てはいるものの、
主体は「自然との共生を図るオフィスの実現」に置いています。
具体的には、
1.電子空間上のオフィスの活用:ペーパーレス化、イン
ターネットの活用
2.自然と共生できる場所の選定:自然度の低い森に設置
3.環境と共生できるオフィス(建物)を実現:環境共生
建築
4.CO2を極力排出しない省エネ・オフィスの実現:太
陽光、風力、水力などの
自然エネルギーを基本的なエネルギー供給源とする
5.水の有効利用と汚染防止の実現:地下に雨水の貯留タ
ンク。下水を中水に。中水を再利用。
6.ゼロエミッションオフィスの実現:最終廃棄物をゼロ
にする。
と、いろいろ盛りだくさんの目標を掲げております。
これを環境団体がなさることなら大いに結構であります。
しかし、間違えてはならないのは、八ケ岳教団はあくまでも宗教
団体
であるということです。
今回の森のオフィス建設は、その目的が「自然との共生」に力点
が置かれ過ぎ、
肝心の「信仰」の方が全く見えてこないのです。
確かに、環境に配慮したオフィスを建設するのは、
大金をはたけば出来る事ではあります。
でも建設事業は、それを実施すれば、それで仕事は終わります。
宗教団体は、その後が肝心なのであり、
「どうやってこのオフィスを活用して人々の救済を図ってゆく
か」
が大きなポイントのはずです。でもそこが全く見えてこないので
す。
これには少なからず頭をひねらざるをえません。
この本の中は、最初から最後まで「自然との共生」をどう図るか
が
書かれており、信仰らしきことではほんの少し「四無量心」の記
述が出てきますが、
それ以外の記述はほとんど皆無。本来は宗教団体のはずが、環境
運動しか読めないのです。
まあ、「人類光明化運動」を放棄して「ヒキコ森」に行こうとす
るマサノブ氏
のことですから、関心は鳥や虫以外にないのかもしれず、
肝心の「人間を救う」ことには、頭が回らないのかもしれません
ネ??
-

|
|
森のオフィス批判E(光明掲示板より) (344) |
- 日時:2013年03月06日 (水) 15時30分
名前:神の子A
森のオフィス批判E (6890) 日時:2013年03月04日 (月) 10時16分 名前:中村晃生
<森への異常な愛情、こだわりは、一体何なのでしょう?>
たとえ我々から「ヒキコ森へ行くのだ」と笑われようと、たとえ
信徒さんたちから反対されようと(本の中にはある信徒からの反
対意見も紹介されていますが)、断乎「森へ行く」と宣言されて
いるマサノブ氏。彼の森への思い入れは相当なものだということ
は、想像がつきます。でもそれにしてもその執着ぶりは異常なよ
うに見えます。特に「森」に対する執着ぶりが激しいのです。
例えば、
(P21)>森林伐採の背後には、経済的ないろいろ複雑な背景
がありますね。国際的な“南北”の経済格差や都市化、途上国の
統治能力の問題などが絡んでいて、「木を伐る」という行為につ
ながっている。日本の場合は林業が衰退しているから、逆に「木
を伐らない」ことから生まれる森林の荒廃があります。だから人
類が森林面積を減らさないような生き方を実践しない限り、地球
温暖化を止めるのは難しいですね<
また「森のオフィス」構想の「活動指針」の中には、
自然との共生に向けての職員の意識改革として
(P224)>ローエネルギーこそが「自然と共生できる」とい
う強い意志を持ち、職員が「森に学び、森で働き、森で遊び、森
を守る」というライフスタイルを確立し、自然との共生を目指
す。<
といった具合です。
ともかく「森林面積を減らさない生き方」、「森=自然との共
生」が大命題となって、「森に行く」決意のようです。でも我々
普通人の感覚からすると、それだけの森に対する偏愛、こだわり
は、一体何なのだろう?その必然性は何処にあるのだろう?
と正直、素朴な疑問を感じざるを得ません。あたかもマサノブ氏
個人が、地球温暖化ないしは森林の減少、ひいては世界の破滅に
対する全責任を背負っているような「焦燥感」をすら、そこに感
じてしまうのです。
もちろん、そうした地球温暖化などの原因は、マサノブ氏個人の
責任でもありませんし、これまでの「生長の家」教団の責任でも
ありません。また現在のマサノブ教団の皆さまがこぞって「森に
行った」としても(信徒はほとんどついて行かないでしょう
が)、それでどうなる問題でもないのです。
もっとも、本の中には一応そうしたことは書いていても、谷口雅
春先生の立教の悲願である「人類光明化運動」を、簡単に放棄し
てしまうマサノブ総裁です。そのような人類救済あるいは地球を
救うといった大悲願が、ある訳もありません。それでもこのよう
な「森」に対する偏愛あるいは執着の原因は、一体何なのだろう
との疑問がやはり湧いてきます。
私は、この本を何度も読み返してみましたが、サッパリ分かりま
せんでした。どうもピンと来ないのです。
あるいはマサノブ氏個人の幼少期に、人には言えない何らかのト
ラウマがあって、それが動因となり、「森に行かせている」のか
もしれません??
それでも「森を偏愛する」マサノブ氏本人は、満足しているでし
ょう。
ただそうしたマサノブ氏個人の「焦燥感」を元に、十分に納得で
きないまま一緒に不便な「森に行く」ことを強制され、あまつさ
え「森に学び、森で働き、森で遊び、森を守る」という森偏重の
ライフスタイル、生活を確立しなければならない職員の皆さん方
は大変だろうな、との哀れさを感じるのです。
まあ、そんなことは余計なことだと言われればそれまでですが。
-

|
|
森のオフィス批判F(光明掲示板より) (346) |
- 日時:2013年03月06日 (水) 15時33分
名前:神の子A
森のオフィス批判FNEW (6930) 日時:2013年03月06日 (水) 10時45分 名前:中村晃生
<「太陽がいっぱい」から始まる連想ゲームが、その理由?>
なかなか「ヒキコ森」に行くことの本当の理由が判然としません
が、
この本の中にそれに関する理由らしい面白いことが書いてありま
す。
それを少し引用してみます。
>(P150)読者がもし「なぜわざわざ森の中か?」という疑
問をまだ抱いているとしたら、この「太陽エネルギー」という言
葉にその解答がある。つまり、生長の家は、未利用の太陽系エネ
ルギーが豊富にある地域に国際本部を移すのである。何のため
か?それはこれらの太陽系エネルギーが人間の生命源でありなが
ら、現代人はその生命源との接点を失いつつあるからだ。生命源
の近くに住み、そこで働くことで、人間本来の神性・仏性の自覚
が深まるだけでなく、そこから新たな、他から奪わない、自然と
共存する文明を築き上げることが、二十一世紀における人類の使
命である。それを人さまより少し早く実行するだけなのである<
と、移転の大義名分を彼一流の屁理屈をこねて、縷々書いていま
す。
彼の屁理屈は良いとしても、実際に「太陽エネルギー」が豊富な
ことが、そうした効果をもたらすのだろうか――については、大
きな疑問を感じます。
果たして本当に
>生命源の近くに住み、そこで働くことで、人間本来の神性・仏
性の自覚が深まる<
のでしょうか?
だとすれば大いに結構なことですが、それは実際には、マサノブ
氏の勝手な思い込み、そして「観念論」であることは、ちょっと
考えれば分かります。だって「太陽エネルギー」が豊富なことに
そんな効果があるのであれば、寺院などは「太陽エネルギー」だ
らけの砂漠地帯や海辺に建造すればいいわけですし、「太陽エネ
ルギー」をいっぱい浴びている人(つまり日焼けしている人)
は、精神性が高いことになります。
でも誰が考えても、そんな訳はないですよね!
私の考えでは、「人間本来の神性・仏性の自覚を深める」ために
は、実生活における修行、つまり「信仰を深める」以外にはあり
ません。だからこそ私たちは真剣になって「生命の実相」を読
み、神想観に打ち込むしかない――と、思うのですがいかがでし
ょう、皆さん。
太陽が万物の生育にとって大事であることは事実です。だからと
いってそれから
「太陽エネルギー」→「生命源」→「神性・仏性の自覚」→「他
から奪わない・自然と共存する文明」→「人類の使命」
とそこまで、「論理の連想ゲーム」をドンドンやって、移転の理
由を大きく飛躍させ、導き出していいものでしょうか?「連想ゲ
ーム」は、出発点の「太陽エネルギーが豊富にあることが、」
「人間の神性・仏性の自覚を深める」ことになる、が間違ってい
れば、その先も必ず間違うのです。マサノブ氏のこの一方的な飛
躍した論理には、全く驚くほかありません。少なくとも多くの信
徒に影響を与え、職員たちを森の中へ強引に引っ張って行こうと
いのですから、もう少し慎重に、物事を検証した上で議論を進め
てゆくのが、総裁たるものの責任ではないでしょうか?
こうした「論理の連想ゲーム」「論理の大飛躍」の中に、マサノ
ブ氏特有の「まやかし」が存在するといって良いでしょう。
我々は、このような論理に騙されないようにしなければなりませ
ん。
最近のマサノブ氏は、代表者会議のあいさつなどで、しきりに
「新たな文明の創出」を訴えているという話を聞きますが、実際
は「森に行く」ことは、そのような「新たな文明の創出」などと
いった大それたものではなく、そのベースにはこのような「ヒキ
コ森」に行くことをきっかけにした、彼一流の「論理の連想ゲー
ム」に基づく「大飛躍した観念論」が存在するだけのことなので
す。
-

|
|
森のオフィス批判G(光明掲示板より) (372) |
- 日時:2013年03月08日 (金) 11時50分
名前:神の子A
森のオフィス批判GNEW (6961) 日時:2013年03月08日 (金) 11時16分 名前:中村晃生
<なぜ自然と人間の営みの基の農業が出てこないのか?>
森に対する偏愛は別として、このマサノブ氏の本を読んでいて不
思議なのが、
彼がこれだけ「自然との共生」を謳っていながら、日本人の自然
観の根底にある「農作」あるいは「稲作」に対する記述が全く見
られないことです。あたかも農業なんてものは「自然」とは何の
関連性も無い、とでも言いたげな素振りが見えます。我々が「自
然からの恵み」を最も感じるのが、日常的に頂いている「食」で
あるし、その基盤が「農業」です。何故彼はことさら、意識的に
農業を無視しているのでしょう?
もっとも、これは日本の左翼の環境主義者に共通している心情な
のです。
つまり、日本の農家はこれまでほとんど保守党支持であったた
め、左翼の人たちの支持基盤がないためです。本質的に考え方が
左翼的であるマサノブ氏は、だからことさら農業を無視している
のかもしれません。ひょっとしたら敵視しているのかも。
でも日本における「農作」その中でも特に「稲作」は、日本人の
思考方法や生活、信仰と密接に結びついており、それを無視して
は、何事も論じられません。ましてや農業抜きの「自然との共
生」など、とんでもないことです。それこそ「観念論」と笑われ
るのが落ちでしょう。何しろ、日本神話では高天原から下界に降
りてこられた「天孫」のニニギノミコトが、天界から持ってこら
れたのが「稲」であった訳ですから。
日本人は、米から酒を醸造することを学び、したがって、いかな
る「お祭り」でも
神様をお祀りするし、神様を前にして共に酒を飲むことがつき物
なのです。
再度言います。「自然」は「農業」と無縁では存立しえません。
「農業」つまり、日本人の「食」の根幹に関わる問題とキチンと
取り組まないことには、
マサノブ氏の「自然との共生」論も、所詮は「机上の空論」にな
ってしまいます。
宗教団体でいち早くこの問題と取り組んだのが、「世界救世教」
です。
創設者の岡田茂吉氏は、谷口雅春先生と、ほぼ時を同じくして大
本教を離れ、昭和10年にこの教団を立教しています。
そうした中で、同教団は早くから自然農法の重要性を採り上げ、
日本の自然農法の草分け的な存在となってゆくのです。教団がい
くつにも分裂した現在でも、自然農法への普及の努力は続けられ
ており、自然農法によって生産された農作物の販売店などを立ち
上げるなど、日本人の食生活へ与えた影響は相当大きなものがあ
ります。それこそ宗教団体として多大な社会貢献を果たしていま
す。いわば「自然と人間の共生」の問題に真っ先に取り組んだ宗
教団体と言っても過言ではないでしょう。
でもこの本の中には、このような「食」のことに関しては何も書
かれてありません。
そういえば、八ケ岳南麓の教団敷地内にも農園の場所があるよう
にも見えません。
マサノブ氏は、職員に「森に学び、森に働き、森で遊び、森を守
る」というライフスタイルを確立し、自然との共生を目指すよう
強調していますが、農業に関する記述は、全く見当たらないし、
ましてや職員が「農作業すべし」などとは何処にも書いていませ
ん。
でも、生きるためには食の問題は避けて通れません。食の問題は
どうするのでしょう??
「ヒキコ森」に行かれ、野菜中心の「ノーミート食」を提唱され
るであろうマサノブ総裁夫妻のことです、八ケ岳教団ではまさか
「食べ物」は、他人が農薬で生産したような野菜は食べないです
よね?
-

|
|
森のオフィス批判H(光明掲示板より) (418) |
- 日時:2013年03月11日 (月) 20時32分
名前:神の子A
森のオフィス批判HNEW (7049) 日時:2013年03月11日 (月) 13時24分 名前:中村晃生
<何でも自分に都合の良いように拡大解釈する手口>
「ヒキコ森」に行く八ヶ岳教団は、信仰面ではどうやって「自然
と共生」されるのでしょう?マサノブ氏お得意の「四無量心」
が、ここでも顔を出します。
彼は、自分の理屈に都合の良いところは積極的に谷口雅春先生の
ご文書を利用して引用し、そうでない部分は「抹殺する」「無視
する」あるいは自己流の「勝手な解釈を強要する」という非常に
狡猾な人間でありますので、我々も騙されないようにしなければ
なりません。
いずれにせよ、彼はこの本の中で、いつも通り(あるいはバカの
一つ覚えとでも言うべきか)「四無量心」を引用するのです。
彼は、この本の中で、谷口雅春先生のお説きになる「慈悲喜捨」
の人間への愛についての解説を、強引に「自然」へと拡大解釈し
てしまいます。
だから一見分かるようで、実際には何のことだか分からなくなる
のです。
>人間同士が人類だけの身になって考えるのでは不十分です。
地球生命すべてのものと私たちは一体である、というところまで
感情移入を拡大していく。そういう生き方が必要となってきてい
るのです。
これは“自然と共に伸びる運動”の重要なポイントであると私は
思うのです<
と、彼は拡大解釈の正当性をここで論じています。しかし、私は
「慈悲喜捨」を内容とする「四無量心」とは、あくまで人間がい
てこそ成立する思想であると考えています。本来、人間がいない
ところでいくら「慈悲喜捨」をしても
「自然」は感情を持っていないし、したがって反応もありませ
ん。
これでは「慈悲喜捨」をする意味がないのです。つまり、我々が
「慈悲喜捨」の精神をいくら「感情移入」しても、それは無機物
の石に対して「感情移入」しているのと一緒で、相手の反応はむ
ろん全くありません。それは「自己満足」に過ぎず、そんなこと
をやっても仕方がないのではないでしょうか??
それとも「自然との大調和」がそれで図れるとでもいうのでしょ
うか。
もしこうした「自然」相手に「感情移入」している人間がいると
すれば(当然のことながらマサノブ氏は、毎日必死になって行っ
ているのでしょうが)、
普通の人間社会では、「少し頭のおかしくなった」人間と、受け
止められてしまいます。それこそ「一人よがり」の「自己満足」
の類です。
それでも百歩譲って、彼が本の中で言う「自然への四無量心」が
ありうると考えても、それが具体的な事柄となると、一体何なの
かはサッパリ訳が分かりません。
――どうも「自然」のあらゆる物に「感情移入せよ」――
ということのようですが、だから何なの、どういう意味があるの
という説明が全く無いのです。
漠然とそれが彼の主張する「自然と調和する方法なのかな?」
と、ここでも勝手に想像するくらいしかありません。
でも、こんな信仰でも何でもない、神と直結しない、それこそ
「頭が可笑しいのではないか」と思われることを必死になってや
っていたら、実際に頭がおかしくなりますよ!私は断言します。
八ケ岳に精神異常者の集団を作り出す前に、百害あって一利ない
「自然への四無量心」など止めた方がいいのではないでしょう
か。
あるいはこれが分からない私の方が、頭が悪いのでしょうか?―
―イヤ実際はそうではなく、要するに、いつも通りのマサノブ氏
の「観念論」に過ぎないということでは無いのかと思っていま
す。彼は何処まで行っても“宗教ゴッコ”をして遊んでいる「観
念の遊戯」「個人幻想」が好きな御仁ですから。
-

|
|
森のオフィス批判I (451) |
- 日時:2013年03月14日 (木) 10時41分
名前:サーチャー
森のオフィス批判I(7094) 日時:2013年03月13日 (水) 07時17分 名前:中村晃生
<マサノブ氏の主張する「第三の選択肢」のはらむ危険性と「異常性」>
マサノブ氏は、マサノブ教の目指す方向として「自然と共に伸びる」ことを指導方針としています。でも私が何度も指摘しているように、では具体的に「自然と共に伸びる」とはどういうことかについては、余り明確にはしておりません。
だがマサノブ氏は、この本の中で >我々はむしろ「木を植える」ことで豊かになる生活を実現したい。森の中でそういう仕事をしていたら、映画館や劇場に行けない、レストランに行けない、本屋にもゆけない、アレもできない、コレもできない、ということになる。そういうことが「自然に譲る」ことの意味だと思います。< と、彼は植林して「自然に譲る」生活の必要性を強調するのです。またその1例として面白い例え話をしています。
>(P20)「ハチが来た!」となると、都会では急いでスーパーへ行って殺虫剤を買ってきて、シューとかけるでしょう。しかし、それでは“自然と一体“ではない。ハチを殺すのでもなく、ハチから逃げるのでもない”第三の選択肢“を考えなくてはならない。そのときに、人間としてのそれまでの立場が問題になる。自然から奪うだけでなく、ある程度は「譲る」という生き方にならなければなりません。これだけは自然からいただくけれども、この部分は自然に譲り、また与えなければならない・・私はこれからの時代は、人間が自然にして少し遠慮して“譲る気持”にならなければならないと思います。<
一見、非常に「立派な」心がけのように読めるのですが、良く考えると「トンでもない」ことを書いています。ちなみにハチがやってきて「殺すでもない逃げるでもない」第三の選択肢をとったらどうなるのか――結論は、明白です。そうです。ハチに刺されるしかないのです。そんなことも分からないで、「第三の選択肢」などと偉そうなことを書かないで欲しいものです。純粋で信じやすい一般の信徒さんたちは、何か実際に良い「第三の選択肢」があるのかと勘違いするではありませんか!
でも、考えてみればこの論理は、左翼が好んで良く使う「無抵抗主義」の変形とも言えます。昔、社会党全盛時代に流行った「非武装中立論」です。「平和憲法さえ守っていれば、敵国から侵略されない」といった「幻想に過ぎない」ありえない論理と軌を一にしています。つまり、マサノブ氏一流の左翼的「観念の遊戯」に過ぎないのです。
実際にハチが来れば、無抵抗のまま刺される必要はありません。その場から逃げるか、殺虫剤を堂々と散布すれば良いのです。このような非現実的な「第三の選択肢」を唱えるマサノブ氏は、ご自分ではどうなさるのでしょう?その“第三の選択肢”とやらを是非聞きたいものです。
でもマサノブさん、こんな「観念論」を振り回して、批判精神が麻痺してしまった高齢の信徒さんたちを惑わしてはいけませんよ!ホントに。また彼は、「他から奪わない」ことを非常に強調しています。つまり、収奪する、あるいは収奪されることに非常に敏感なのです。これは階級闘争史観を持つ唯物論者に共通して見られる傾向です。この本の中にも「他からできるだけ奪わない生活」を強調し、「自然と共に伸びる」生活を推奨しています。
ただここで気になるのが、さっきのハチの問題と一緒です。
>(P136)公園の特徴は、都市と同じく「人間の生活にとって不利なものをできるだけ排除している」ことだ。もっと具体的に言えば、カやブユやハチなどの発生源となってはならず、その他の“害虫”や“害獣”がいれば駆除されるべき場所である。そういう空間を拡げたり、増やしてゆくことは、「自然と共に伸びる」ことには必ずしもならない<
と、述べていることです。なぜ「害虫」や「害獣」を排除してはならないのでしょう?そこらへんの感覚が、私には全く持って理解できないのです。実際、「害虫」や「害獣」が発生しても「自然と共に伸びる」八ケ岳教団では、それを放置したままにするのでしょうか?そんなバカなことをすれば、おそらくは八ケ岳教団は、「害人」集団として周辺の人々から「駆除される」運命になるのではないか、と心配しています。
最近のマサノブ氏は、国歌斉唱の時に一人だけ尻を向けるなどといった「異常な行動」が報告されていますが、「異常な行動」は貴方だけでよろしい。イエスマンだらけの八ケ岳教団をも、自分と同じ「異常な行動」に引き込まないで下さい。
-

|
|
森のオフィス批判J (光明掲示板より) (461) |
- 日時:2013年03月15日 (金) 11時24分
名前:神の子A
森のオフィス批判J 日時:2013年03月15日 (金) 09時43分 名前:中村晃生
<国際本部って何? 国際平和信仰運動って何なの?>
どこまで行っても、「森に行く」本当の理由が分かりません。
でも、この本の中には余り説得力の無いことも書いてあります。
(P152)>オフィス全体の“炭素ゼロ”を実現した上での国
際本部移転が計画されている<
というのです。そうか国際本部の移転が主目的だったのか――と
いうことが、何回も読み直して、初めて判明しました。この本の
中に確かに「国際本部」という表現は数ヶ所出てきます。谷口雅
春先生の悲願であった「人類光明化運動を」アッサリ捨ててしま
った八ケ岳教団は、あと残すところ「国際平和信仰運動」しか、
宗教団体としての「運動」は存在しません。
その国際本部を「森の中に」移転するということのようですが、
実際には国際平和信仰運動とは、何をやっているのでしょう?こ
れも寡聞にして聞いたことがありません。
そこで教団内部のことに詳しい人に聞いてみました。でも返って
きた言葉は、言いにくそうに「ほとんど何もしていない」という
ことでした。というか、今のマサノブ氏の谷口雅春先生の教えの
「抹殺路線」が激しくなったここ数年、米国やブラジルでの教団
の統制がほとんど取れなくなったようなのです。
考えてみれば、これは十分理解できます。日本国内でこそ、マサ
ノブ独裁体制が確立して、反対する人間は誰もいませんが、海外
では別です。まだまだ谷口雅春先生の教えが生きているわけで、
そうした中で突然「森に行く」と言い出しても、耳を貸す人間な
どいるはずもありません。所詮は、カリスマ性皆無の「一人よが
り」総裁の発言ということになってしまいます。
ほとんど何もしていない――そんな有名無実の「国際平和信仰運
動」のためにわざわざ本部を移転する必要があるのでしょうか?
はなはだ説得力が無いことがおわかりでしょう。
「国際本部移転」の理由に疑問を抱かせるもう一つの点が、八ケ
岳教団が掲げている英文HPです。私はここ10年近く、英国の政
治経済週刊誌「エコノミスト」の日本語版の編集長兼翻訳者をし
ています。毎週末になると、英国人記者の書く難解な英語と取り
組んでいる人間ですが、それだけにマサノブ氏の書く(だろうと
考えていた)英文HPを楽しみにしていたのです。何しろ私は、
「米国のコロンビア大学に留学した」という触れ込みに関して、
彼は本当に十分に英語を読んだり話したりする能力があるのだ
ろうか? についての疑問を抱いているものですから(笑)。
しかし、英語に堪能な割には、待てど暮らせど、肝心の彼の英語
のブログないし記事がこのHPには上がってきません。いまだも
ってほとんど白紙状態のままです(実際にはマサノブ氏直筆の下
手な絵と、それに対する若者らしい数人の感想が載っています
が)。
これでどうやって「国際本部」の機能が発揮できるのでしょう
か?
この「国際本部」そのものが、マサノブ氏お得意の「テンプラ
(中味の無い衣だけの意味)」なのではないかと、邪推すらして
しまいます。
少なくとも「英語の堪能な」マサノブ総裁、この程度の英文HP
しか構築できなくて「国際本部移転」の理由付けは、いただけま
せんよ!
テンプラは、内容があってこそ人が信用するものです。ブログで
も記事でも結構です。何か英語で文章を書いて下さい。海外の信
徒さんたちとの交流があってこその英文HPなのではないです
か?
-

|
|
森のオフィス批判K (518) |
- 日時:2013年03月18日 (月) 15時40分
名前:神の子A
森のオフィス批判KNEW (7169) 日時:2013年03月18日 (月) 11時58分 名前:中村晃生
<ナーンダ、本当の理由は、自分の別荘からの通勤都合?!>
「森に行く」マサノブ教団の本当の理由が最後まで判然としない
ままで、この連載を終わらざるをえないのかなと思っていたとこ
ろ、ようやくその解答らしいところに行き当たりました。そのヒ
ントは何と本の「はしがき」の冒頭部分に書いてあったのです!
そこにはこう書いてあります。
>私は今、この文章を書きながら、夏の八ヶ岳南麓を吹き抜ける
風の心地よさを背中に感じている。耳からは、エゾハルゼミの穏
やかな合唱が絶えることなく、全方向から聞こえてくる。山荘の
壁にかけた温度計は三〇度を指しているが、時おりの涼風のため
暑さは感じない・・・標高一二〇〇メートルのこの地に山荘が建
って、もう九年になる。が、今年は洗濯物の乾きが悪い、と妻は
言う<
と、マアこんな調子です。
この記述から分かることは、マサノブ夫妻の別荘である「山荘」
が、八ヶ岳南麓1200メートルの地点にあり、しかも建設後9年経っ
ている事実であります。私は、これまでマサノブ氏が別荘を持っ
ていることは知っていましたが、それが何処にあるかまでは知り
ませんでした(一応は教団も秘密にしています)。しかし、この
本の「はしがき」の中で、マサノブ氏本人が、それが「八ヶ岳南
麓」にあることを暴露しているのです!!
これを読んで私は、「ナーンダ。『森に行く』とか、『文明の転
換に一石を投じる』とか大げさに宣伝しているわりには、新しい
本部事務所は、自分たちの八ヶ岳の別荘から近いんじゃないか」
と、大いに鼻白み、かつビックリした気持ちになったのです。
(これは推測ですが、「森のオフィス」は、リゾート地の「清
里」に近い場所に建っていることからして、マサノブ夫妻の「山
荘」も、「清里」に近い場所にあるのかもしれません。そこで質
素な信仰生活ならぬ、セレブなリゾートライフを味わっているの
かも?)
なぜビックリしたのかといえば、仮にマサノブ氏が――「宗教家
としての使命感」が理由で移転したのでなく、「単に自分の別荘
からの通勤がしやすい」という――俗人的な理由が本当の理由
で、あれこれもっともらしいことを言って「正当化」しながら移
転したのだとしたら、それは神様および多くの信徒の皆さまに対
する「重大な背信行為」となると思うからです。
「ジコチュー」のマサノブ総裁が、住吉大神に対しては、大事な
「人類光明化運動」の本拠地であった原宿の教団本部を、「自分
の都合で」八ヶ岳にある別荘の近くに、逆に引き寄せたというこ
とになります!
マサノブ氏のダマシのテクニックは、最近の「ノーミート」騒動
を見るまでもなく我々にも馴染みのものになっていますが、それ
でもこれはないだろう!というのが私の正直な感想でした。
また一般信徒の皆さんに対しては、(移転新築費にいくらかかっ
たか知りませんが。一説には土地所得費も含め150億円かかったと
か!)巨額な信徒の「浄財」を、さほど必要性のないものに浪費
したということになるのです。
マア、その理由はどうであれ、移転はマサノブ氏にとっては実際
的な便宜も与えます。
つまり、「森の中に行く」ことで、一般信徒と顔を合わす必要も
なくなるし、
全国の教化部、や教団幹部には森の中に居ながらにして指示が出
来、またインターネット会議もできる事になります。つまり、自
分の大好きな「パソコンの世界」に入り浸ることが可能になるの
です――アアッ!
いろいろ「森に行く」とのマサノブ教団の欺瞞性について論じて
きましたが、いつまでやっても切がありませんので、ここらへん
でこの論考も終わりにしたいと思います。
でも、実際に「森のオフィス」の現場も見ずして批判するのも、
説得力に欠けると思います。そこで、私も実際に北杜市にある
「森のオフィス」の建設現場に見学に行ってきました。次回から
その現場からのルポルタージュを数回にわたり、ご報告いたしま
す。
-

|
|