生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第十七話> (356) |
- 日時:2013年03月07日 (木) 09時22分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第十七話(通算第343話)
絶対精神の問題――特にマルクスの模写説を反駁す(3)
マルクスの「模写説」について
(『解放への二つの道』P.164−165)
マルキシズムはこの我々の精神というものが出来てくるのは、認める「自分」も認められる「外界」と共に物質であって、外界に物質的なある存在があるのを、それを内部に模写するのだ、それが内部に映って精神として現れるというので、「模写説」というものを取っているのです。
例えば湯呑みなら湯呑みというものが外界にある。それを見て、自分の心の中に湯呑みの形が描かれて、それが認められるというのは丁度、あちらにあるものがこちらに鏡があって、その形が内部に模写されて写るんだというのです。
物があって、精神がこれを認めるのじゃなくて、鏡のように外部のものが内部機構に写るから、ここに湯呑みがあると判るのである。物が先にあるからこそ写る。物がかったら、人間がいくらいたからとて、写りようがない。だから物が先にあって、精神の方は結果だと言うような考え方をするのです。所がこれは一寸無理な考え方だということは明らかです。
模写説の誤謬について
(『解放への二つの道』P.165−167)
何故なら、考えて見てください。吾々は決して「物」だけを心に思うのではないから、「物」が映って精神現象を生ずるとは言いがたい。
例えばですね。我々は絶対精神なら絶対精神と云うものを考える。これは外界にある「物」が映ったのではない、絶対精神というものは、そんな「物」が外界にある訳ではない。
我々が心の中に思うものは、皆、外にある「物」が写って来て、模写してここに心のハタラキとしてあらわれるのだったら、「絶対精神」というものは外界の何処にあるか?またそれは外にある「物」ではない。それに肉眼で見える世界に物質としては存在しない。
それを我々が心に思い浮かべるということは、心のハタラキは決して外界にある物質を模写する計(ばか)りでないことを証明している。
そうすると精神というものは物質の模写ではなく、独自のハタラキであって、独自に絶対精神という観念をも思い浮かべることが出来るのだといわなければならない。
だから、物が先にあって、それが写って心のハタラキになるという所の、マルクスの考え方は間違いである、ということになるのであります。
或いはまた吾々は「正義」というものを思いうかべ、心に正義を愛する。これも外界にある「物」の模写でしょうか。
「正義」というものは、一体外界の何処にあるか、何処にも「物質」の形としてはない。だから我々が「正義」の観念を心の中に思い浮かべても、これは決して「物」の模写ではない。
マルキシズムはこのように詭弁を弄して「心」を「物質の模写」だといおうとするのでありますけれども、決して吾々が心に思うものは必ずしも外界にある「物」が写ってくるのではないことは以上の説明で明らかであります。
それよりも、「絶対精神」とか「正義」とか、「純潔」とか「貞操」とかいうものは絶対精神の世界に先ずその原型があって、その絶対精神の一部が人間にやどって人間の霊となっているから、その絶対精神の中にある「正義」とか「純潔」とか「貞操」とかいうものが人間の霊におもいうかべられるということになるのです。
この絶対精神が神である。この神の生命がわれわれにやどっているから人間を「神の子」というんです。
だからわれわれ人間のいのちの中には絶対精神の中にある所のすべてのものが此処に宿っているわけです。換言すれば神の有ちたまうすべてのものが人間のうちにやどっている。
だからこの絶対精神の表現であるところの自然界の一切の存在と、絶対精神(神)のいのちがやどっている人間とは本来一体であるから心が物を理解することができるのであります。
すでに絶対精神の中にある所のすべてのものが人間に宿っているのであるから、だから絶対精神の表現として出来た所の自然界の一切のものを人間はよく理解することができるのです。
たとえばあの無辺の空間に輝く無数の星でも、われわれの精神の中にとらえてこれを理解し得るのはそのためであります。
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