生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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大自然賛歌経批判 (完) ・・ 中村晃生 (30) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時42分
名前:サーチャー
光明掲示板に連載されているのですが、余りにも素晴らしいので転載させていただきました。
中村晃生氏にお断りしていないのですが・・・
大自然賛歌経批判@ (5926) 日時:2013年01月25日 (金) 11時20分 名前:中村晃生
大自然賛歌経批判<はじめに>
ようやく数日前に無事退院いたしました。入院中の皆さまのお励まし有難うございました。
私が、住吉大神に関する「護国の神」としての側面を、大神をこの現象世界に引っ張り出した神功皇后さまの切り口から論じようと考えているのは、マサノブ氏の八ヶ岳教団が、ますますその「環境カルト」としての本質を暴露して、本来の「生長の家」教団の持つ「鎮護国家」の役割を晦まそうと動き始めたからです。
本掲示板の論者の皆さまの多くが指摘おられますように、確かに八ヶ岳教団は、今年をもって八ヶ岳に引越し、環境カルト、マサノブ教の動きを本格化すると思います。しかもそれは生長の家の大神とは違う「別の存在」に操られています。つまり別言すれば、我々は、これは「神国日本」を守る日本の神々と、一見「生長の家」を語りながらも、「大自然」を前面に出した「別の存在」との戦いであると、認識しなければなりません。また今後は益々そうした戦いの様相を呈してくるでしょう。その意味で、両者の相違を明確にするためにも私の本論が存在するのです。
しかし、本論に入る前に先ずマサノブ氏に憑依していると思われる「別の存在」が主張する「大自然賛歌経」に対する批判と、なぜこれが「生長の家」の大神から由来していないのかを論じてみたいと思います。
その理由の第一が、この長文詩が発表された意図が、昨年1月の思いもよらなかった高等裁判所での敗訴を受けて、「甘露の法雨」が失われる(「生命の実相」の方は既に教団内で使用を禁じている)と慌てふためいたマサノブ総裁が、明白に聖経に代わる経文を「作り出さないといけない」と考えて「作詩」した人為的な偽経だからです。この「大自然賛歌経」は、マサノブ氏のブログに昨年の4月1日から発表し始めたものです。でも敗訴を受け、大あわてで準備したのでしょう。
3月のブログには、一応しおらしくも>私の長編詩は、形式としてはこれら聖経(甘露の法雨など)に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義−−例えば自然と人間との関係など−−について補強を試みている<と、わざわざ断りを書いています。
しかし、その後の成り行きは皆さまご承知のように、八ヶ岳教団とマサノブ氏は、「大自然賛歌経」の経文の印刷、発行。さらには信徒への売りつけを通して、聖経の「補完」ではなく、「聖経そのもの」として、各種会合ではもちろんのこと、先祖の前でもあげるように強要するに至っています。このような意図をもって作られた経文(しかも悟ってもいない迷妄の中のマサノブ氏が作詩した)が、雅春先生が神智を感受した「甘露の法雨」などと同じ次元で、仏前、神前で上げてよかろうはずがないではありませんか。
8月の宇治で「大自然賛歌経」の発表会のまさにその時点で、天がにわかに掻き曇り、カミナリが会場の大講堂を直撃、講堂内が真っ暗闇になるといった前代未聞の大事件が発生した(教団のHPではそのことに一切触れていませんが)のも、住吉大神の「怒り」に外なりません。八ヶ岳教団およびマサノブ氏は、このことが何を意味するのかは、十分に分かっているはず(ひょっとすると分からないのかもしれません。だとすればそれは最早信仰うんぬんを言う資格がありません)ですが、敢えて大神の怒りを無視して、「偽経」の読じゅを強行しています。まさに「神の意思」を無視した、宗教者とは言えない「怖れを知知らぬ者」の所業と言わざるを得ません。
私のように、住吉大神との黙契を体験し、確信している人間ならよく分かりますが、住吉大神は、龍宮に住まわれる大神であり、天候を全て管理されておられます。「善し」とみなされる時にはこのような悪天候、ましてやカミナリの直撃などということは「絶対に」ありません。(私の体験からもこのことは強調しておきます)大神がどうご覧になっているかは、天の証を見て判断すれば良いのです。つまり、住吉大神は、決してこの「偽経」を認めておられないし、仏前、神前で上げることをも認めておられないということです。この点を我々は、先ずシッカリ認識しておかなければならないのです。
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大自然賛歌経批判A (31) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時47分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判ANEW (5993) 日時:2013年01月27日 (日) 16時02分 名前:中村晃生
<そもそも「自然即我」とは何のことか>
マサノブ氏は、大自然賛歌経の中で、人間の自然克服が悪の根源のような議論をゴタゴタ並べた後、最後の部分で突然に「自然即我」「我即自然」の概念を持ち込むのである。いわば強引に自分の「考え出した論理」を持ち込むのである。おそらくは雅春先生の「神の子我」の悟りの教えを模倣して、拡大解釈したものであろうが、私のような普通の人間の頭脳には、論理が飛躍しすぎていて、何とも珍妙に聞こえる。
なにしろマサノブ氏の説くところの「自然」は、自然界の森羅万象からバクテリアまでをも含む広大無辺なシロモノだからである。大自然賛歌の中で、ここのところを最後の方に、>かくの如く人間の意識高まりて 自己内奥の神を我なり≠ニ観ずるに到らば、自然と人間との戦いは消え、大調和の秩序地上に顕現せん<と説明している。
つまりは「自然即我」「我即自然」と観ずることによってのみ、自然と人間との戦いは消えるという訳だ。果たして「自然即我」を説いているマサノブ氏自身が、そのような自覚を持って生きているのであろうか?
本掲示板の皆さんが指摘するように、自分の兄弟たちとも調和できないような人物が、そんな広大無辺の愛情を森羅万象に対して注いで生きているとは、「観念論」の言葉の遊戯ならイザ知らず、とても私には、信じられない。
確かに観念的には、そのような考え方もありうるのかも知れない。それは「私は、病原菌のバクテリアとも調和しています」といって、病気で亡くなった生長の家の先人があったということでも知りうるのである。しかし、それが正しい心の持ち方だとは、私は考えていない。生物にはそれぞれ生かされる領域が自ずと存在し、その中で住み分けして生きてゆけばいいのだ。そのことが、人間が傲慢な証拠ではないし、自然と闘争している訳でもない。
この「自然即我」「我即自然」の観念が、実は「環境オタク」のマサノブ氏が、自分の頭をひねくり回して作り出した、世にも珍しい「珍説」であることは、古今東西いかなる宗教もこんなバカなことを説いていないことでも分かる。どこの宗教も「神と人間との一体」は説いても、「自然と人間との一体」など唱えていないのだ。
「なぜか」――それは万国共通の認識とはなりえない。つまり、世界の自然はマサノブ氏が賛美するような美しい存在ではなく、「大自然賛歌」の中で描かれた美しい自然の姿そのものが、日本および一部の西欧地域にしか当てはまる様相でしかない。つまりは真理ではないからである。
またこの詩は、マサノブ氏の知識の無さを暴露していると、言わざるをえない。世界を旅してみれば、よく分かることだが、キリストが説教に旅したような中東の不毛な「荒野」を見れば、いかにユダヤ人、あるいはアラブ人が、自然の中に峻厳な「目には目を」的な応報的な絶対神を想定したかが良く理解できる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など世界の3大宗教が現出した地域の「自然」は、決してマサノブが「自然即我」と唱えるような、美しく優しい存在ではないのだ。むしろ不毛で、水も無く、一歩間違えば死が待っている。そのような峻厳な自然が実際の姿なのである。そこでは人間は必死になって自然と格闘しなければ生きてゆけないのだ。
もちろんそれを「悪」と定義することはできまい。つまり、いかに彼の長編詩が人為の詩で神予のものでないかが分かるのである。
そもそも抽象概念としての「自然」と、具体的存在としての「人間」がどうして「自然即我」になりうるかがさっぱり分からない。こんなバカなことを真剣に吟じていたり、念じていれば、いずれは精神が犯されてしまうのではないかとか、魔界に引きずり込まれてしまうのではないかと、真剣に心配してしまうのは、私一人であろうか?
私は、「体験的信仰論」の中でも述べたように、実は宗教のことを良く知らない人間が、宗教を弄ぶことは大変危ないことなのである。というのも、本人は偽経を懸命に読んで、諸霊が喜んでいると思っていても、実際には諸霊は喜んでいないし、神ではない「別の存在」が、大口を開けて笑っている可能性もある。だからこそ、経典は悟りを開いた人物が書いたものしか、普通は読まないものなのだ。ましてや悟りも開いていない、信仰の素人のような人間が浅薄な頭脳で作詩したものを聖経として読むなどということは、まさに狂気の沙汰以外の何物でもない。
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大自然賛歌経批判B (32) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時50分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判B (6069) 日時:2013年01月29日 (火) 14時35分 名前:中村晃生
<自然を救うのか、人間を救うのか?>
物事には、何事も存在理由というものがある。宗教団体には、創設者がその宗教団体を設立した理由が存在するわけで、それを喪失した時には、その宗教団体は崩壊の運命にある時だ。今の八ヶ岳教団は、まさにその重大な岐路に立たされている。今の八ヶ岳教団は、谷口雅春先生の意向とは全く逆の、反保守的、左翼的総裁を抱く中で、ますます環境カルトの色彩を強くしており、雅春先生の唯神実相論から逸脱した環境崇拝、自然崇拝の信仰に変質してしまっている。しかも教団にしがみついている幹部はおろか、長老たちまでが、「大自然賛歌経」を恥ずかしげも無く、読じゅして「当然だと」平然とした顔をしているというのだから、あきれて物が言えない。
しからば、こうした環境カルトにしがみついている人々に問いただしたい。果たして宗教団体としての「生長の家」の使命は、自然を救うことにあるのか? それとも人間を救うことにあるのか?
「大自然賛歌経」は、「自然と人間の調和」の必要性を歌い上げてはいるが、それにどんな意味があるのか? ある人は、そうでなければ地球を環境破壊、あるいは気候変動から守れない――と言う。しからば、自然に感謝する、あるいは調和することで環境破壊が阻止できて地球が救えるのか? 決してそうではないだろう。
自然を救う、自然との調和は、優れて環境団体のやる仕事で、宗教団体のやる仕事ではない。宗教団体は、人間を救うことが第一義の仕事なのである。ここをマサノブ総裁を始め教団幹部は、履き違えてはいないか? どう転んでも、決して「自然」を救うことではない。
宗教団体とは、人間が抱えている様々な苦悩――現象世界に生きることで必然的に起きる人間関係あるいは夫婦間の葛藤、ガンを始めとした様々な病気――を具体的に解決し、治癒し得てこそ、その存在理由があるわけである。それを解決する力を持っていたのが、雅春先生が住吉大神から授けられた「生命の実相」であり、聖経「甘露の法雨」であった訳だが、八ヶ岳教団は谷口雅春先生および住吉大神をないがしろにしたため、両方とも失ってしまった。これは一面、マサノブ氏および八ヶ岳教団が、社会福祉事業団に対して嫌がらせをしたための自業自得ではあるが、一面、神罰とも考えられる。そこで急遽、マサノブ氏の「大自然賛歌経」の作詩となった訳だ。
「甘露の法雨」が読む人に様々な奇跡を起こしうるのは、その裏に多くの神霊が守っているがゆえである。その意味では、「大自然賛歌経」を何万回上げても、高級神霊は守護していないので、人々は迷いこそすれ、間違っても「神癒」を経験することは無いであろう。そもそもが迷っている人間が、あせって聖経を模倣して、血迷って作詩したものだからだ。
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大自然賛歌経批判C (34) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時53分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判C (6086) 日時:2013年01月30日 (水) 10時49分 名前:中村晃生
<果たして「自然」は、信仰対象となりうるのか?>
マサノブ氏の詩では、「自然即我」として自然を神と同一の存在に位置づけている。ここが、私がバカげた「珍説」とみなす点であるが、そもそも何ゆえに「自然」が「自分と一体となるべき」神と同一の存在になるのか?マサノブ氏は、それを明確には説明していない。
3月31日の「新年度の始まりに寄せて」というブログの中で、彼は、
>人間が自然から略奪したり、自然を敵視して破壊することが人間の幸福につながるとする迷妄があると感じる。また、人類の集合的無意識の中に、自然に対する愛と憎悪のコンプレックス(欲望)が渦巻いているのではないか。これらを解消し、あるいは昇華するためには、私たちが日常的に「神−自然−人間」の大調和を心に強く描くことが必要だと考える。実相においては、自然と人間は神において一体である。そのことを心に強く印象づけるために、私はすでに祈りの言葉を書き、『日々の祈り』に収録した< と、「自然即我」の概念を持ち出した事情を説明している。
「人間の集合的無意識の中の」「自然に対する愛と憎悪のコンプレックス」を「解消し、昇華するために」、日常的に「神―人間―自然」の大調和を心に強く描く必要性を説くところまでは、マサノブ氏の独自の論理としてなら理解できるが、なぜそれが突然に「自然と人間は神において一体」となるのか?これが全く理解できないのである。
彼の言う「自然」は、あくまでも抽象概念である。賛歌経の中にでてくるように、この詩の中の「自然」の概念には、無数の動植物、さらには微生物など、その様相は無限とも言え、それに山、海、川、砂漠に至るまであらゆる存在、事象を含んでいる。それとどのようにして「大調和」するのか?
「四無量心」ですか?これは「慈悲喜捨」の仏の心のことだが、それも具体的な人的対象があって初めて実践、体得しうるもので、決して「自然」という抽象概念に対しては行えない。マサノブ氏お得意の「観念の遊戯」としてはあり得ても、実際の信仰にはなりえないのだ。
元々、全く次元の異なるものを、同一視して(ここに彼の迷妄があるのだが)論じるところに、根本的に論理の誤謬、無理が存在する。どうして神の実体の無いもの(神性はあるかもしれないが)に、「神―自然―人間」と、神と同一の立場を与えたのか、理解しかねるところだ。
世界中の誰も肯定しない、むしろそんなことを主張すれば、笑いものになるだけの自分の「身勝手な論理」に得意になって、他人の批判に謙虚になることを知らない暴走する「裸の王様」を、イエスマンだらけの八ヶ岳教団には、最早「総裁に物を言えば自分の首が飛ぶ」として、諌める人間などいないということなのだろう。考えてみれば、哀れなことである。
一般的に宗教団体の信仰は、信じる対象を特定の神様や仏様に絞っている。決して「自然」といった、漠然とした抽象概念は信仰の対象にしていない。何故ならば、その方が集中できるし、一般の人もイメージしやすいからだ。また悟りを開いた創設者が、神霊との交流の中で、啓示を受けた対象を崇めているからである。だがそればかりではない。その実、「真実の神霊」を信仰する場合、信徒側にもその対象となる神霊との交流が生じる。実は信仰の妙味はここに存在するのだ。
神霊の働きが発生するからこそ、「神癒」や「奇跡」が、信者側に起きるのである。この信仰の原理を、宗教そのものを良く知らないマサノブ総裁は、全く理解していない。だからこそ谷口先生の教えをひたすら行じることなく、ただ自分の浅薄な頭脳で持って、――自分が「生命の実相」あるいは雅春先生の「論理的な間違え」を正している――といった不遜な思考方法になるのだ(その実、神ではない「別の存在」に憑依されているとも知らないで)。
住吉大神の命に背き、訳のわからない抽象概念の「自然」を崇拝し、その結果として高級神霊もマサノブ氏と八ヶ岳教団に愛想をつかして離れてしまった。これでは、宗教団体の生命ともいえる「神癒」や「奇跡」が起きるべくもない。それでも総裁にひたすらへつらう教団幹部は別として、「神癒」や「奇跡」の全く起きなくなった宗教団体に、いかなる存在理由が存在すると言うのか!
昭和の初めに谷口雅春先生が、住吉大神の啓示を受けて「生長の家」をスタートさせた当初は、奇跡が続出したという。その宗教的エネルギーは、先生がお亡くなりになるまで続いた。こうしたエネルギーは、真の「法灯継承者」である我々が、雅春先生の教えに、自らが研鑽し、行を積み、信仰を深めることで復活させることができる。またそのために雅春先生はその膨大な著書を残されたのである。私たちの使命は、住吉大神の命を受け継ぎ、「生長の家」の真の生命を再び燃え上がらすことにある。人々の苦悩を救い、日本国を危機から救う――「住吉大神の使徒」としての我らが「本流の生長の家」の信徒の使命は大きいのだ。
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大自然賛歌経批判D (35) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時55分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判D (6161) 日時:2013年02月01日 (金) 14時01分 名前:中村晃生
<そもそもここに出てくる「天の使い」とは何物か?>
大自然賛歌経では、面白いことに突然「天の使い」が地上の「自然」界に降りてきて、自然についての自己の論説を説き始める。しばらく経った後に「天の童子」と対話を始めるという構成になっている。もちろん甘露の法雨を模した偽経の所以だが、
>或る日天使(てんのつかい)虚空の水晶宮より出でて緑の森へ降り立ち給う<
というわけだ。ところでこの長編詩には、神は後の方で、これも突然とってつけたように出てくる。それも「甘露の法雨」の言葉を自分の論理に都合の良いようにアレンジしている。
だがこの「天の使い」は、一見「甘露の法雨」の中に出てくる「天の使い」のように見えて、実際は現象面の問題をクドクド述べるばかりで、「甘露の法雨」の「天の使い」とは、全く違う。「現象」に拘泥し、スパッと「実相」に直入しないのである。その後に出てくる「天の童子」との対話もまたしかりで、「現象」面の自然と人間の葛藤についてクドクド論争するばかり。あるいは、この「天の使い」は、実際は迷っているのではないか?との疑念すら抱かせる。
むろんこの「天の使い」は、マサノブ氏の想像の産物であろうから、ある意味でそれも当然なのかもしれないが。「天の使い」と言う以上、天にいます「何らかの存在」の使いの者であるはずだ。それでは誰の使いなのか?そこで気になるのが、この「天の使い」がわざわざ「虚空の水晶宮より出でて緑の森に下りてくる」点である。別に天の使いならば、天上にいて「天の童子」と対話すれば良さそうなものだが、わざわざ森に下りてくる――なぜか。私はそこにマサノブ氏の深層心理が反映されている気がしてならない。
「甘露の法雨」では、「天の使い」は「生長の家」の神の使いであることは明らかであり「実相」と「現象」の違いを明快に区別し、我々の迷妄をスパッと覚ましてくれる。
だが大自然賛歌経では、誰の使いかがハッキリ明示されていない。一応最後の方で「人間神の子」などの「甘露の法雨」の中の言葉をところどころ散りばめているものの、実体がハッキリしないのである。読む方で漠然と「甘露の法雨」に示されている神様と同じ存在だと錯覚を覚えさせるような巧妙な表現になっている。
いうなればその存在は、「大自然」の陰に隠れている。だが、私はこの疑問を解くカギは、「地上に降りてくる天使」にあると考えている。この詩自体を、マサノブ氏が何らかの存在に導かれて書いたのだとしたら、この天使は、おそらくは「地上に落ちた天使」、つまりは「堕天使」なのだと思う。
「堕天使」とは宗教のことを少しは知っている人間ならば、それがルシフェル、つまりは大悪魔であることを知っている。
本掲示板にも多々指摘のあるところであるが、信仰心に欠け、神的な心情の無いマサノブ氏には、当然のこととして神的な存在は降りてこない。降りてくる理由が無いのだ。まして「生長の家」の大神である住吉大神など、絶対に降りてこない。
降りてくるとすれば、自分の心情に近い存在――つまり他人を支配したい、信徒を騙してもいい、言行不一致でも構わない、金だけは何としても信徒から巻き上げたい――
そうした「どす黒い欲望」を持つが故に、デモーニッシュな存在しか近寄ってこない。従って悪魔的な存在に憑依されやすいのだ。「自然と人間の大調和」「自然と共に歩む」と、マサノブ氏の教説は二言目には「自然」という言葉に満ち溢れています。おそらくは生長の家の大神である「住吉大神」などは、彼の頭の中には最早存在せず、むしろ「自然」を絶対視する「自然神」が彼の尊崇の対象になっていると思わざるを得ません。
「自然神」ということから言えば、かつて私が神様からインスピレーションを受けた(マサノブ氏に憑依している存在を教えてくださいと祈っていた時に)返ってきた「それはバール神である」との答えが、想起されます。バール神はもともとは、オリエントの農業神、自然神との説があります。しかし、実体は貪欲な人間にとりつく悪魔であり、そのデモーニッシュな存在が、ある意味で現実味を帯びた、不気味な姿を持って浮かび上がってくるのです。
このようなデモーニッシュな存在に憑依されると、「真実の神」そのものに反発する行為に走ることはもちろん、憑依された人間の顔つきも暗くなり、顔そのものが変形すると言われております。
最近のマサノブ氏の講習会で、帰途について会場を出たマサノブ氏夫妻の顔を見た私の知人は、「二人とも、ものすごく暗い顔をしていて、ビックリした。とても信仰しているような人には見えなかった」と話していました。私の心配事が単なる杞憂であれば良いと思うのですが・・・
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大自然賛歌経批判E (36) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時56分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判E (6240) 日時:2013年02月04日 (月) 11時42分 名前:中村晃生
<マサノブ教では、大自然と調和することなど出来ない>
百歩譲って、マサノブ氏の主張するように「大自然と人間との調和」が、地球環境にとって大事でそれが八ヶ岳教団の使命だと、仮定しましょう。それでも、彼は致命的な間違いを犯しているし、彼の言う通りでは、この調和は実現できないと、言わざるをえません。
というのも問題は、実にその大調和を図る彼の方法論にあるのです。
彼は、最近は「政治に加担しない」との従来の主張をかなぐり捨てて、彼本来の左翼的姿勢を露骨に表明し始めています。あたかも「最早、教団の絶対的支配権を握った。もう何をしても、自分に反対する人間はいない。何を言っても教団の誰もが、唯々諾々として従う。これまでの仮面をかぶる必要はなくなった」とでも言わんとばかりの、なりふり構わぬ独善的で独裁的な色彩を強めています。
従来からの肉食の削減、「ノーミート」にせよ、CO2を削減せよ
に加えて、曰く――選挙は民主党を支持せよ、原発は撤廃せよ、法施よりも物施重視で、ソーラーパネルを信徒は皆設置すべし――などなど。
おそらく今後は、さらなる左翼的指示、あるいはそうした政治的なスローガンを含め政治運動にまで持って行こうとするでしょう。
なぜか――その方が彼の主張の論理的帰結であることと、彼の言う「大自然と調和する」方法に従うならば、そこまでの行動を取らざるを得ないからです。つまりは、大自然に関する彼の「妄想」に基づく諸々の発言を、実際に実現しようとすると、必然的に政治運動化するのです。
私は、これまで彼に憑依している神とは違う「別の存在」について言及してきましたが、最近のマサノブ氏の「暴走ぶり」や「妄想ぶり」を見ていると、ますますその感を深くしています。だが、まだ八ヶ岳教団にしがみついている信徒の皆さん、こうした左翼的な、あるいは物質的な方法論で、「大自然との調和」が果たして可能であると、お思いでしょうか?
私の解答は明白です――百年経っても、おそらくは永久に不可能でしょう。分かり易く言えば、「大自然との調和」を目指して登っているはずの山が、実際には間違っているからです。マサノブ氏は、自分の理論を正当化するために、雅春先生の教えの中の、自分に都合のいい部分だけを採り上げて勝手に解釈を強弁しています。だが真理を自分の一方的な解釈で捻じ曲げても、真理にはなりません。これは「大調和の神示」においても然りで、間違いを引き起こす元なのです。
彼は、この神示の意味を――「大調和の神示」の「天地一切のものと和解せよ」とは、人間は自然の一部である事を謙虚に自覚して、「神・自然・人間の大調和を実現せよ」という解釈をしなければならない――と勝手に解釈を強弁しています。つまり大調和の対象を自然に限定しているのですが、
神の本当の意向は、言葉通り「天地一切のものと和解せよ」であり、決して自然に限定したものではないのです。ここが間違いの元です。ですから、本当に「大自然と調和」したかったら、先ずは「大調和の神示」に戻る事です。神示の中には冒頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とハッキリと明示してあり、大自然の優先度は、「天地一切のもの」と比べると当然のことながら低いのです。だが何でも良いから和解すれば良い、という訳にはいきません。和解するには「順序」があります。天地一切のものの内、先ずは兄弟と和せよと教えられ、「汝らの兄弟のうち、最も大なるものは汝らの父母(なかんずく祖父の雅春先生)である」と示されています。「神に感謝しても、父母に感謝しえない者は神の心にかなわぬ」という訳です。先ずは最も大事な存在である「祖父や兄弟」と和解しない事には、その先に進めません(マサノブ氏は、そのいずれにも和解していないので、当然その先に進めないのです)。鳥や虫への感謝など(本当にそう考えているのだとしたら)、遥か後でいいのです。でも兄弟と和解できないマサノブ氏は、「大自然と人間」の和解、調和には、とても行き着きそうにありません。
彼の最近の政治的な行動を見ていて、「ハハン」と分かったのですが、「大自然と人間との調和」も、彼の心の中では、単なる「政治スローガン」に過ぎない、ということです。マサノブ氏は実際にはそんなことなど達成できない事は百も承知でいながら、「政治スローガン」として、「大自然と人間との調和」を提唱することで、谷口雅春先生の教えを捻じ曲げることさえでき、信徒を自分の作り出した環境教へと誘導できさえすればいいのです。こうした邪悪な心が彼の本心である事を、我々は見抜かなければなりません。
それと間違いのさらに大きなところ。それは、誰が「大調和を図るのか」についてです。どうも彼は、この点をよく理解していないようなのです。要するに彼は「人間の心が変わればいい」と考えています。つまり主体はあくまでも人間に置いているのですが、これは真理に照らして間違いです。「大調和を図る」のは、神様を置いて他にないのです。まさに神様の恩寵があってこそ実現するのです。だからこそ、「大調和の神示」の中に、感謝して「天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は、神の救いの念波をよう受けぬ」と示されているのです。
大自然との調和も、自分の都合の良い人間や、何も言わぬ動物や虫とだけ調和して、神様の「天地一切のものと調和せよ」との意向を無視しては、絶対に実現しないのです。雅春先生の教えを捻じ曲げ、長崎の住吉大神の本宮を「鎮護国家」から「世界平和」へと勝手に変更を強行した「神をも恐れぬ」所業のマサノブ総裁よ。
神様の意向を無視して、一体誰の力を借りようというのですか?
神とは違うあの「別の存在」ですか?
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大自然賛歌経批判F (37) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時57分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判F (6299) 日時:2013年02月06日 (水) 16時08分 名前:中村晃生
<不勉強振りが露呈したお粗末な観世音菩薩賛歌経>
大自然賛歌経を見たところで、次に5月に発表された「観世音菩薩賛歌」をみてみましょう。この長編詩は観世音菩薩を賛歌するために創作されたものですが、実際は、マサノブ氏の観世音菩薩に対する知識の無さ、不勉強振りをマザマザと世の人々に見せ付けている「駄作」であり、早急に廃経にした方が、世間の物笑いにならないで済むようなシロモノだと思います。
この長編詩の作成の意図をマサノブ氏は、5月27日のブログの中で、 >ところで、私がこの詩(大自然賛歌のこと)を書きながら気づいたのは、現在「聖経」と呼ばれている長編詩の中には、“生長の家の礼拝の本尊”とされている観世音菩薩について、あまり言及がないことだ。「聖経」の中には『聖使命菩薩讃偈』というのはある。しかし、このお経は、真理宣布の使命を感得した信徒が、自ら悟りに至る前に他者を救おうとの菩提心を起こすことの功徳を説いたものである。これは法施の素晴らしさを説いてはいるが、観世音菩薩とは何であり、その救いはなぜ来たり、救いの働きはどうであるかなどについて、一切触れていない< と述べています。
マサノブ氏は、「鬼の首」をでも取ったように >現在「聖経」と呼ばれている長編詩の中には、“生長の家の礼拝の本尊”とされている観世音菩薩について、あまり言及がない< と書いていますが、これは彼が「生長の家」の教えそのものを実際には信仰していない、またあまり教えそのものを勉強していないために、起きた「表面的な誤解」と言えます。
仮に「観世音菩薩」が「生長の家のご本尊」だとするならば、博学な創始者の雅春先生のことです、観世音菩薩についての「言及があまりない」どころか、何冊も観世音菩薩についての本やお経を書きあらわしたことでしょう。先生の本や経典に余り観音様についての言及がないのは、生長の家では、観世音菩薩が直接の信仰対象ではないからです。信仰の対象は、あくまでも住吉大神なのです。だから大神が活躍する「古事記」の解釈を、生長の家では重要視するし、教えの主流もそれに準拠しているのです。
また彼は、生長の家のお経の中では「観世音菩薩について、あまり言及がない」と言っていますが、必ずしもそうではありません。私が知る限りでも、「日々読誦三十章経」の「三日の経言」の中で、「観音妙智観」として雅春先生は、観世音菩薩様の御徳と、観世音菩薩との一体感を観じる祈りの言葉を書かれております。実際は、この「観音妙智観」の方が、マサノブ氏創作の「観世音菩薩賛歌」よりもはるかに簡潔で、しかも要点を得た観音菩薩様への「賛歌」となっています。不勉強のマサノブ氏は、ここを良く読まれるといい。あなたの「自然教」の論説の参考なりますよ。
雅春先生は、「観音妙智観」の中では、観音様の御徳についてこう書いておられます。「観音経には、『あるいは怨賊(おんぞく)のかこみて、おのおの刀をとりて害を加ふるに値はんにも、かの観世音の力を念ずれば、ことことくすなわち慈心(じしん)を起さん』・・・と書かれているのである」との説明があります。実際、観世音菩薩の幾多の恩徳については、法華経の中の「観音経」と言われる部分で、それこそ詳細に触れてあります。
私は当初、「マサノブ氏は、観世音菩薩に関しても長編詩を書いた」と聞いたものですから、さぞかしこの「観音経」に準拠して、マサノブ氏一流の「今の教え」的解釈を書いているものとひそかに期待していたのですが、完全に当てが外れてしまいました。法華経の中の「観音経」は、般若心境同様、仏教の中では極めてポピュラ−な経典で、仏教の各派の経典には必ずと言って良いほど、入っている経文です。有名な「念披観音力」という言葉が、断続的に入っており、読む者にとっては実に心地よいリズムを生じる経典となっておりますし、それが人気を呼んでいるのだと思います。
実際に、観音様の持つ広大な恩徳と、その作用、人間への恩恵が書かれた「観音経」に言及しなければ、観世音菩薩様の何らの「賛歌」にもならないのです。可笑しなことに、マサノブ氏創作の「観世音菩薩賛歌経」には、「観音経」に書かれているような観音様の御徳、御働きのことには全く書いてありません。こうした諸点に触れずして、何処が「観世音菩薩の説明」なのでしょうかネ?
そこで疑問が生じます。彼がポピュラーな「観音経」に触れなかったのは、実は彼が不勉強で、「観音経」の存在について知らなかったからではないか?
――おそらくはそれが正解なのでしょう。
だとすれば、彼は仏教の基本的な経典のことも知らない、また読んでもいない訳で、宗教家としては全くの不勉強であり、宗教関係者からは「そんなことも知らないのか」と、呆れられ「不合格」の烙印を押されることでしょう。あるいは実際は知っていたのに、敢えて触れなかった(?)。だと考えても、なぜそうしたのかの説明がつきません。先達の「観音経」に触れもしない、この不完全な「観世音賛歌経」の不備を人々から笑われるでしょう。
実際、彼の「観世音菩薩賛歌経」には、「甘露の法雨」の文言を多く引用してして「生長の家」で説くところの真理を援用してあれこれ論じたり、「観世音菩薩は33身に変化して衆生を救う」との説明が、ああでもない、こうでもないと、縷々敷衍して書いてあるだけで目新しいことは何も書いてありません。肝心の観世音菩薩については、その「救いの働き」やその様相には触れていないし、現代ではそれが如何なる意味を持つのか(むしろ、これに触れるべきだった)にも言及していません。これでは彼の不勉強ぶり(「観音経」を少し勉強すれば分かることなのに)と、あせって作った「即席」経典の不備が、露呈していると言われても仕方がないでしょう。
マサノブ氏は、こうした疑問にどう反論されるのでしょうか?まさか今度も「不備な経典、結構じゃないですか」などと言わないでしょうね。
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大自然賛歌批判G (38) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時58分
名前:サーチャー
大自然賛歌批判G (6339) 日時:2013年02月08日 (金) 11時15分 名前:中村晃生
<生長の家に出現された観音様は、「観世音菩薩賛歌経を」を喜ばれない>
マサノブ氏は、ブログの中で>生長の家の本尊とされている観世音菩薩」<と書いていますが、そもそもいつから「生長の家」の「礼拝の本尊」が、マサノブ氏の独断的な解釈にあるように、観世音菩薩となったのでしょう?
私の理解では、「生長の家」の本尊は、あくまでも住吉大神であり、それ以外の存在ではあり得ないと考えています。
観世音菩薩は、万教帰一の立場からの「生長の家の大神」の応現の相(雅春先生も「仏教では観世音菩薩として出現している」とされています)ではあっても、決して大神に取り変わるべき御存在ではない――はずですがネ。
ここらへんのことは、谷口雅春先生が書かれた新版「真理」第3巻に、生長の家の運動が始まった当初に出現された観世音菩薩様の様子を詳しく伝えています(139ページ)。
当時熱心な観音信仰をしておられた門脇観次郎という方が、「生長の家の神様のお姿を拝させて下さい」と神想観をして祈っていた折、「生長の家の観音様」が出現され、頭に変わったマークのつい宝冠をかぶっていたというのです。その3年後に、発表された生長の家のマークを見て、「ああ、あれは3年前に観音様が付けていたマークだ」と分かったということです。
つまり、現象世界に先立って、実相世界では既にマークが出来上がっており、観音様がそれをかぶって出てきた。ということは、生長の家の「光輪卍十字架」のマークは、観音様と一体の存在であるということです。観音様は、あくまでも生長の家の教えが「万教帰一」であることで、それを印したマークを頭部の宝冠につけて「生長の家の大神」様の働きを補足的に説明する形で、出現しておられるのであります。決して「ご本尊」として出現されているわけではありません。
しかし、皆さんご承知の通り、マサノブ氏は「国際平和運動」という左翼が良く使う名称をつけた運動を展開するとし、生長の家のマークも「光輪卍十字架」から、フリーメーソンの「目玉」のマークに良く似た「地球と鳩」のマークに、勝手に変更してしまいました。現在では、八ヶ岳教団のHPはもちろん鳩と目玉のマークに変えており、どこにも「生長の家」本来の「光輪卍十字架」のマークを見ることはできません。
観音様そのものが象徴しておられる「光輪卍十字架」のマークを、勝手に変えてしまったマサノブ氏と八ヶ岳教団が、住吉大神が恐いからといって、今さら観音様にヨイショしようとして「観世音菩薩賛歌経」を即席で創作しても、「生長の家の観音様」が喜ぶはずがないではありませんか!
それにしても、どこまでこのマサノブという人は、神仏をバカにするのでしょう。片方の手で頭を叩き、もう片方でヨイショしたところで、普通の人間ですら、誰も喜ばないのです。
でもマサノブ氏と八ヶ岳教団は、そうまでしてでも大幅に教義内容を変更したいのでしょう。そこまで変えたいのなら、それこそ「生長の家」の看板を外して、「自然観音教」とでも看板を変更した方が、むしろスッキリするのではないですか?
でも今後とも真実の「生長の家」では、住吉大神の信仰が、観世音菩薩信仰に変わることはありえないし、何人といえども、そのような勝手な変更をしてはならない――ということを、我々「本流の生長の家人」は、確認して行きたいと思います。
しかし、ゴマスリ教団のゴマスリ幹部たちは、マサノブ氏の「住吉大神から観世音菩薩へのギアの切り替え」に実に敏感です。私が住んでいる福岡県では、最近の教化部の練成会で、何を血迷ったのか、教化部に隣接する太宰府市にある観世音寺(昔からある有名な天台宗の寺であるが、今では寺としては機能しておらず、中に安置してある数体の古仏の拝観をさせている)にまで全員で出かけ、練成会参加者にこの偽経を一斉読誦させたというのですから呆れました。
そこまでしてゴマすらなくても、よいでしょうに。さぞかし、居並ぶ神妙な顔をした古仏たちも、突然、何のことか分からない意味不明のお経を集団で上げられて「この教団の人たちは、一体どうしたのだろう」と、苦笑したことでしょう。
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大自然賛歌経批判H (39) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 15時59分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判H (6417) 日時:2013年02月11日 (月) 14時17分 名前:中村晃生
<マサノブ氏が、相次いで2つの経典を作成した意図は何か>
最初の「大自然賛歌」の長編詩は、4月初めにマサノブ氏のブログの中で発表されました。当初は「裁判によって『甘露の法雨』は確実に我々の教団から失われるであろう。何とかして『甘露の法雨』に代わる経文を作らないといけない」とのあせりから、自己の身勝手な論理を、「マサノブ教」の経文の形で速成で作り上げたものです。もちろん一応は
>私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない<
と、ブログにはわざわざ「断り書き」を書いています。しかし、本心が明らかにそうではないことは、前回述べたように、これに引き続いて5月末に発表した「観世音菩薩賛歌」の長編詩を見れば明らかなのです。というのも、この詩は「甘露の法雨」と全く同じような詩文の構成をして、いるからです。明らかに経典化を意識していると言っていいでしょう。内容は、「甘露の法雨」とは比べ物にならないほど、格調もレベルも低いものです。でもその中でグダグダと書いている詩の章分けが、「法則―秩序―自由―善―愛―祈り―観世音菩薩」となっており、まさに新しい経典、そしてその後の経文としての新経作成を意図したものであることが明らかです。
マサノブ氏は、この「観世音菩薩賛歌経」を書いた意図は、いつもの言い訳どおり、教えを「補足する」ということなのでしょう。しかし、そういうわりには前回も指摘したようにマサノブ氏は、あまり観世音菩薩さまのことを、良く知らない、あるいはあまり勉強してないようなのです。
彼は「大自然賛歌」を書いた後に >ところで、私がこの詩を書きながら気づいたのですが< と断りながらも、生長の家の聖経には観音様の記述があまり無いことに「気付いた」というのですから、4月の「大自然賛歌経」に引き続き、不勉強はそっちのけで「長ければいいだろう」と、直ちに「観世音菩薩賛歌経」の創作に取り掛かった事が分かります。
だとすればこんな中途半端なお経を、読誦させられる信徒もはなはだ迷惑と言わざるを得ません。でもこれが事実だとすれば、彼がいかに経典作りにあせっていたのかも分かります。つまり、この相次いで発表された「大自然賛歌経」と「観世音菩薩賛歌経」の2つの新経は、決して別々のものではありません。明らかにワンセットで作られており、同じ意図を持っていると判断する方が正しいのです。
要するに「本流派」との裁判に負けたため、「生長の家」の信仰を、強引にマサノブ流の「自然信仰」並びに「観世音信仰」に、仮面を脱ぎ捨ててでも、何としてでも切り替えて行こうとの邪悪な意図、魂胆のもとに作成されたものであるということです。要すれば、「生長の家」本来の「甘露の法雨」と「生命の実相」をベースにした大神からの神智を捨てて、「別の存在」に導かれた「別の教え」に大きく「ギアチェンジ」したということです。この本質を我々は、キチンと把握しなければならないと思います。
問題は、何故「甘露の法雨」の代替物として「自然」と併せて、突然に「観世音菩薩」を賛美することになったのかということです。一見すると、この両者には何の関係も無いように見受けられるのですが、私はその理由は、マサノブ氏の強引な「自然即我」「我即自然」の「論理の飛躍」の正当化にあったと考えています。いくら一般の信徒がマサノブ氏の意のままになりつつあるといっても、抽象概念の「自然」を神と同列に置いて、それとの一体化を強要しても、人々が精神異常をきたしているなら別として、なかなか普通の人間には違和感があって受け入れがたいものです。
そこで住吉大神の排除工作をすることで「神罰」を恐れたマサノブ氏が、苦肉の策で持ち込んだのが、「生長の家の大神」の応現の姿としての観世音菩薩の導入であったと考えられるのです。こう考えると、皆さんの疑問も氷解するでしょう。本尊である住吉大神を、観世音菩薩に変えて、信者の目から晦ませようという訳です。いわば「住吉大神隠し」をしようというのであります。だからこそ「観世音賛歌経」の中でマサノブ氏は、わざわざ「南無」観世音菩薩と書いているのです。「南無」とは「帰一する」といった意味ですが、「生長の家」総裁が「帰一」すべきは、住吉大神以外の何があると言うのですか!
マサノブさん。しかし神仏をバカにしてはいけません(これが環境オンリーで「信仰オンチ」の総裁の恐いとこですが)。これほど大神に対する大きな侮辱、大きな罪は存在しません。いわば「謗法」の罪です。
私個人は、こうした住吉大神に対する無礼を働いているマサノブ氏と、こうした暴挙をそのままに放置している八ヶ岳教団には、形はどうであれ(地震や落雷があったように)、近いうちに必ずや新たな「神罰」が下るものと確信しています。まだ偽経を読まされている信徒さんたち、ご警戒あれ!
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大自然賛歌経批判I (40) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 16時00分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判I (6458) 日時:2013年02月13日 (水) 13時10分 名前:中村晃生
<このお経が引き起こす凶事――私が恐れていたこと>
前にも度々触れましたが、宗教のことを良く知らない素人同然の人間が、適切な指導者の指導を受けないで(高級神霊に導かれている場合は別ですが)宗教を弄んだ場合に、非常に危険なことを指摘しました。というのも目には見えなくても、我々が住むこの現象世界には、実際には迷っている多くの霊魂が、何とか人間に取り付いて救済して欲しいとか、あるいは人間に憑依して利用したいと思っている悪霊が、そこら辺にウヨウヨしているためです。だからこそ、我々が神想観する場合には、招神歌を必ず上げて神様のご加護を祈るのです。禅宗など瞑想系の宗教でも、座禅に際し魔界に引きずり込まれないように座禅を実習する人に注意を促しています。私も似たような体験をしており、警告の意味合いがよく分かります。
昔、1年間ほど気功法の先生について気功を勉強していた時に、強い気が出せるようになり、得意になって不用意にも、他人に私の気を注入して元気にさせていたことがあります。ところがある時、気を注入した相手が霊的な障害を持っていたようで、逆にその人間の持つ邪気、悪霊の影響をまともに受けて、その人間は元気になったものの、翌日は私の方が、具合が悪くなって寝込むといった失敗もありました。ことほどさように、こうした霊的なものを正しい指導者無しに弄ぶと、危険性が多いのです。
だから、神様からの啓示を受けて作られたものでないマサノブ氏作成の2つの偽経には、「人間罪の子」「自然と人間の闘争」といったマサノブ氏の持つ「マイナスの想念」を放映しているため、悪霊や迷える霊魂を呼び寄せる可能性があり、大きな危険性があるのです。
マサノブ氏本人は、自分の「優秀な右脳」によって作詩したと、得意になって考えていますが、私はこの偽経は、神とは違う「別の存在」が憑依してマサノブ氏が書かされたものだと判断しています。もちろんそれは証明できません。しかし、読誦することで悪い事象や異常な現象が多数出てくれば、それは悪霊が書かせた有力な証拠であると言っていいでしょう。例えば、日常的にこれら偽経を読んでいた人間が精神異常をきたすなどの現象がそうです。どうも八ヶ岳教団の本部講師などで、突然東京から遠方に送り込まれる人物には、そんな人間がいるといった噂があります。
トキ掲示板でも新経の危険性を指摘するいくつかの書き込みがあると、志恩さんの指摘がありました。
>朝、宇治での災害のニュースを観た時、濁流に沢山の御霊さんの涙が見え、それが私の胸に流れ込んでくる、感覚的なものではあるのですが映像が流れ込んできました。それなので、これは警告とも言えると思い、連絡させて頂きました。真におそれ多く、言葉が見つかりません。大自然讃歌の様な現象有り、現象の人類を断罪するものが読まれると、どのような事になるか、想像もつきません< と書かれてあります。
確かに2つの偽経は、マサノブ氏の持つ「人間罪の子」「人間と自然との闘争」との「マイナスの想念」の元に書かれているので、この偽経の一斉読誦などすれば、「類は類を呼ぶ」の法則によって、空中に浮遊して迷っている同じようなマイナスの想念の霊魂たちが集まってくる可能性が高いのです。霊視能力のある人には、そうした霊魂が雲集しているのが見えるでしょう。
20年ほど前、私はグアム島からロタ島へと仕事で行ったことがあります。その時、お付き合いをしていたある霊能者から「あの島々では多くの日本軍人が戦死していて帰りたがっている。日本人が来れば、本土に戻れると思ってすぐ取りつくよ」との警告を受けたため、般若心境を和紙に何枚も清書して、体の前後に巻きつけて防備体制を固めて行ったことがあります。それぐらいの防備を固めないと助けを求める霊魂からの憑依は避けられないのです。
私の姉も、10年ほど前にニューヨークに旅行して、無防備なまま、テロ攻撃で2つの高層ビルが崩壊し、何千人も亡くなった「グラウンド・ゼロ」の見学に出かけ、「おそらくは日本人と思われる多くの霊魂に取り付かれた」と、後で述懐していました。それも体内で増幅するのでしょうか、帰りの飛行機の中で、「体が膨れたようになって困った」と話していました。
ですから、まだ八ヶ岳教団に残っている信徒の皆さん。このような危険性を孕む偽経の一斉読誦の集会、あるいは会合には出席しない方が賢明ですし、万が一そのような集会に出くわした時には、何らかの理由をつけてその場を去り、自己防衛をした方が賢明なのです。
トキ掲示板に書かれた警告では、 >新経典の場合は、病気でも仕事でも法事でもこしらえて、謝絶する必要があります。あと、信徒さんの場合、出席した行事で新経典を読まされそうになったら、携帯電話で話すふりをして、会場を飛び出すのが良いでしょう。< と、さまざまに為になる防御方法を教示しています。
無論、そんな「生長の家」本来の教えから逸脱した「百害あって一利も無い」ような教団は、早く退会する事にこしたことはありませんがね。
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大自然賛歌経批判J (41) |
- 日時:2013年02月18日 (月) 16時01分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判J (6509) 日時:2013年02月15日 (金) 10時38分 名前:中村晃生
<観念論に過ぎない大自然教賛歌経も廃経にされたらいかが?>
八ヶ岳教団総裁のマサノブ氏は、トキ掲示板の中で面白いことを書いています。彼が「初心者」とのハンドルネームで時折書いていることは、本流の掲示板の皆さまには、良く知られている事実ですが、2月5日の書き込みの中で >現象世界は実相人間の共同幻想なのか自己幻想なのか。どうですかみなさま、なかなかに観念的なよい問いかけではありませぬか。観念の遊戯?けっこうではないですか。揚げ足取りと人格批判にあけくれるだけが人生ではありますまい。<と書いています。
つまりこの大自然賛歌経の中の「自然即我」「我即自然」の概念を、私が「妄想」であると見破って酷評したことを受けて、「実相人間の共同幻想か個人幻想」と評しており、「自然即我」の彼の強引な概念が――実は自分が「観念の遊戯」として創作した「幻想」であることを――彼も自嘲気味に認めているのです!
もちろん、そのマサノブ氏自体が、「幻想」とする「自然即我」など本気で信じていないことは当然でしょう。ともかく、彼は宗教家として犯している重大な責任など省みることなく、マサノブ氏「個人の幻想」を、八ヶ岳教団と多数の信徒を巻き込んだ「共同の幻想」にまで作り上げようと強行を目論んでいるのです(それが彼に憑依している悪神の真の狙いでもあるのですが)。悟りを開いた谷口雅春先生は、その時の様子を「生命の実相」の中に、詳しく書かれております。
ところで、マサノブ氏が主張する「自然即我」「我即自然」が実現すると、一体世の中は、どうなってしまうのでしょう?
そこを彼は、具体的に何も提示していません。「創作者」として無責任極まりないともいえるのですが、彼はブログの中で、その必要性だけに言及しています。つまり、 >人間が自然から略奪したり、自然を敵視して破壊することが人間の幸福につながるとする迷妄があると感じる。また、人類の集合的無意識の中に、自然に対する愛と憎悪のコンプレックス(欲望)が渦巻いているのではないか。これらを解消し、あるいは昇華するためには、私たちが日常的に「神−自然−人間」の大調和を心に強く描くことが必要だと考える。実相においては、自然と人間は神において一体である<と、独自の「珍説」を展開しています。
でも大事なのは、>「神−自然−人間」の大調和を心に強く描く<とどうなるのかなのです。
雅春先生の場合は、神一元の世界を悟った訳ですが、マサノブ氏の「自然即我」に没入するとどうなるのか?マサノブ氏自信が、そんな世界に没入していないため、彼はどうなるのかに関しては全く言及していません。そもそもこの「自然即我」を含め、「大自然賛歌経」それ自体が、彼の頭の中で考えた「観念論」に過ぎませんので、言及する事など出来ない――というのが、本当のところでしょう。
仮にそれを「強く描いた」信じた信徒たちが、その「観念論」を本気で信じ、あるいは彼と同様に悪霊、悪神に憑依されて気が触れておかしくなっても、「幻想」のせいだとして彼は笑って済ますことでしょう。そうした結果に対し、宗教団体の総裁として負うべき責任など、彼な、はなから取る気はないのです。ただ「宗教」の恐いところは、信者が物は何であれ総裁の言うことを無批判に受け入れてしまうことです。その責任は実に大きいのですが、宗教を弄んでいるマサノブ氏は、全く気にしていません。
私は、「観世音菩薩賛歌経」に関して、マサノブ氏の知識の無さ、不勉強振りが世間の人に知れ渡るので、この経典を廃経にした方がいいと勧めましたが、この「大自然賛歌経」に関しても、私のマサノブ氏へのアドバイスとしては、これ以上、いろいろ多くの悪い事象が起きる前に早くこのような偽経を廃経にすることを、お勧めします。純真な信徒の皆さんの心を自分の「幻想」の中に引きずり込むことは、大きな罪である事をマサノブ氏は自覚すべきでしょう。
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全部ご掲示頂き有難うございます! (63) |
- 日時:2013年02月19日 (火) 11時04分
名前:中村晃生
サーチャーさま、
私も、回数が重なると、これまでの投稿が分からなくなるので、
どうしようか思案していたところでした。
第1回からの分を、まとめて頂き、感謝申し上げます。
今後も、さらなるマサノブ氏批判の投稿をしようと思っていま
す。
よろしくお願いいたします。
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大自然賛歌経批判K (64) |
- 日時:2013年02月19日 (火) 11時49分
名前:サーチャー
大自然賛歌経批判K (6578) 日時:2013年02月19日 (火) 10時44分 名前:中村晃生
<マサノブ経作成の持つ霊的な意味>
ではマサノブ氏作成の2つの偽経に対する批判の総論に入ります。私は、今回のこの2つの偽経は、実際にはマサノブ氏の意思とは係わり無く、日本国の「護国の神」としての住吉大神、そして「護国の教団」としての本来の「生長の家」を攻撃すべく、外国の悪神がマサノブ氏に取り付いて作ったものであると判断しております。つまり私は、外国の悪神が、日本の正神を攻撃する構図の総仕上げとでも言うべき事態の現われが、昨年4月から5月にかけてのこの2つの偽経の作成として現れたと見ているのです。
我々は、表面に現れた現象面だけを見て批判するのではなく、その中に内在する「霊的な意味合い」をも、正確に認識しなければならないと思います。
それは、今年の1月の教団の「聖使命新聞」に、2つのマサノブ経の大々的な推進を図っている事にも表れていますし、今年10月には八ヶ岳教団が、本格的に八ヶ岳に移転する準備を始めているのも、そのためです。「人類光明化運動」の拠点として枢要な場所であり、住吉大神のご加護があった原宿の土地を離れ、そうしたご加護の全く無い(彼はむしろ加護が無いから引越ししたのでしょうが)、「自然」の環境の中の「森のオフィス」にわざわざ引っ越すのも、「人類光明化運動」を捨てて、左翼が好んで使う「国際平和運動」に取り組むというのも、長崎の本山から「鎮護国家」の位置づけを取り外すのも、その魂胆は見え透いています。
その狙い、目的は1つしかありません。要は、「護国の教団」、「愛国の教団」として尊師谷口雅春先生が立教した「生長の家」を潰そうとする外国の悪神のたくらみなのです。またそう解釈することで、この20年来続いて来たマサノブ氏の異常なまでの雅春先生の「本流の教え」に対する憎しみの本当の理由が理解できると思うのです。
悪神がいつマサノブ氏に取り付いたのか?詳しいことは不明です。私が想像するに、おそらくは米国に留学中に何らかのそうした悪神と関係した団体(フリーメーソン?この団体は本当は悪魔崇拝だと噂されている)との接触があったのではないかと考えております。というのも、私が知っているマサノブ氏は、サンケイ新聞の記者を辞めて「生長の家」教団に入った当初、既にかなり権力を振るう「傲慢な、邪悪な人間」に変身していたからです。
雅春先生に対して敵意を抱いていたマサノブ氏には、住吉大神という強力な守護神も付いておらず、性格的に悪神たちと同じ波長を持つ、比較的簡単に憑依し易い対象だったのではないでしょうか。
私は当初、マサノブ氏の雅春先生への異常な憎しみを始め、彼の――左翼的な気質、唯物論者的な感性、どこまでもジコチュー的な精神――は、大学生の時やそれ以前に醸成された彼の性格と考えていました。しかし、そう考えても最近の異常なまでの教えへの否定的行動とそのエスカレートぶり――特に2つのマサノブ経を創作する事態に至っては――これは「悪神の仕業だ」と判断する以外に無いのです。また彼の、反日的、反国家的な言動は、悪神の勢いが増したかのように、最近ますます酷くなる一方のようです。
「霊的国防」という言葉がありますが、我々、雅春先生の忠実な弟子、愛国者として改めて「神国日本」の「霊的国防」の観点から、我々の戦いを考えてゆく必要があるように思います。この戦いは、「霊的に見れば」実際には日本の正神の集団と、日本を潰そうとする外国の悪神の集団との戦いであります。そしてその戦いの中心に置かれて激震しているのが、現在の「生長の家」なのです。悪神たちは、ここに狙いを定めて総攻撃を仕掛けています。
これが突如として、マサノブ氏が気が狂ったような「神をも恐れに所業に出た」、つまり、神予の「甘露の法雨」を真似た偽経を、臆面も無く短期間で「作詩」して立ち上げた(実際には悪神たちがマサノブ氏を操って立ち上げさせた)真の狙いなのです。
我々は、この戦いに負けるわけには行きません。我々の戦いは、単に「生長の家」の本流の教えを守るだけではなく、「天皇国日本」を守る国家的な意味合いの戦いであることを、シッカリと認識しなければなりません。皆さんと共にここに改めてこのことを確認し、我々の戦いのさらなる前進を図りたいと思う所以です。
これで本稿を終わります。有難うございます。
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<今後の論理の展開> (155) |
- 日時:2013年02月23日 (土) 22時07分
名前:サーチャー
光明掲示板にて 中村晃生氏 による新講座がはじまりました。 こちらにも引用させていただきます。
2〜3回ぐらいだされてから、別スレッドにて対応させていただきます。
<今後の論理の展開> (6583) 日時:2013年02月19日 (火) 17時57分 名前:中村晃生
私はこれまで自称「宗教家」マサノブ氏の、「自然」への異常なまでのこだわりを、彼の個人的な趣味に過ぎず、人間の苦悩を解決する事を第1義にすべき宗教家としてはそれこそ「ナンセンス」なこと、考えてきました。全く相手にしていなかったというのが本音です。しかし、最近はその病気がますますこうじているように思えます。
でも、今や谷口雅春先生が立教された「生長の家」とは全く関係の無い「自然観音教」への衣替えまで図るに至っては、多くの迷っている信徒さんたちのためにも、彼の「神」―「自然」−「人間」の論理の誤謬を、つまりは彼の「自然神格論」の迷妄と、何が間違っているのかをキチンと説いてあげないと、「このまま魔道に陥るな」と考えるに至りました。
「甘露の法雨」に言う「闇に対しては光をもって相対せよ」ということです。「闇」の中に完全に入ってしまったマサノブ氏に対して、「それは間違っている」といくら声を大にして言ってみたところで、「闇そのものが正しい」と思い込んでいる人間、およびその同調者を正す事はできません。「光」はこうであり、こうすれば「光」に至るのです――という説得の仕方の方が効果的な気もします。
私の本論(住吉大神と神功皇后)になかなか入っていけませんが、本論はしばらく置いてもこの論点に入って行きたいと思います。おそらくは八ヶ岳教団からの信徒の大量脱退も近いと想定されますので、「大自然賛歌経批判」に続いて、稿を改めて、
1.マサノブ氏と、八ヶ岳教団が「森に行く」ことへの疑問
2.マサノブ流自然主義の問題点、我々「本流の生長の家人」としてこの問題をどう考えるべきか。などを論じて行きます。
3.また最近、私が顧問をしている福岡の「桃の實会」の吉田会長の方から、「生長の家の『縦の真理』を、私たち新しい信徒に分かりやすいように解説して欲しい」という要請がありました。考えてみれば、谷口雅春先生がご健在な時代に生長の家に触れた人間にとっては、当然のことであった「縦の真理」は、先生が亡くなられた昭和60年以降は、教団内部でも十分に教えられていないのかも知れません(本掲示板に投稿されている多くの方にはその必要性はないと思いますが)。その意味では、その後に入信した新しい信徒さんたちのためにも改めて谷口先生の「縦の真理」を、今は絶版になった先生の愛国書などを駆使して、分かりやすいように解説する必要があるのかなとも思います。
幸い私の手元には、絶版になった先生の書籍の多くが存在しています。果たして私が適任かどうかは別として、吉田会長からの要請を、住吉大神からの要請と受け止め、この任に努力して当たってみたいと思います。私の論説の不足なところは、教えの先達の皆々様のご指導をお願いします。ご自由に補足して下さい。
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盂蘭盆供養大祭の“激しい雷雨” (弁解を・・) (267) |
- 日時:2013年03月02日 (土) 02時06分
名前:サーチャー
<生長の家、公式ホームページ> ======================================== 自然災害物故者追悼慰霊祭で『大自然讃歌』を読誦 宝蔵神社盂蘭盆供養大祭 214万柱のみ霊を奉安
自然災害物故者追悼慰霊祭で、 生長の家総裁夫妻はじめ参列者全員が 『大自然讃歌』を一斉読誦
去る8月17日〜19日の3日間、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山で、第57回宝蔵神社盂蘭盆供養大祭が行われた。その中、18日午後4時から1時間10分、東日本大震災をはじめとする自然災害の物故者を慰霊し、合わせて自然と人間の大調和する世界の実現を誓う「自然災害物故者追悼慰霊祭」が、谷口雅宣・生長の家総裁が斎主いつきぬしとして奉祀ほうしされ、谷口純子・生長の家白鳩会総裁が出席され、初めて執り行われた。 慰霊祭前から、空は暗くなり、強い雷雨となった。同本山では、自然災害の物故者を慰霊する「自然災害物故者慰霊塔」が建立されることになっており、慰霊祭は、その建立地前で執り行われる予定だったが、雷雨のため、急遽、祭場を宝蔵神社大拝殿に移した。強い雨は、再び思い出される遺族や物故者の悲しみとも、その悲しみを浄化する雨とも思われた。 午後4時、谷口雅宣総裁、谷口純子白鳩会総裁がご入場。修祓、招神歌の後、谷口雅宣総裁が祈願文を奏上され、玉串奉奠たまぐしほうてんされた。 続いて、楠本加美野・宮司による「招霊の儀」、献饌と進み、楠本宮司が「慰霊祭の詞」を奏上した後、谷口純子白鳩会総裁が玉串を奉奠された。 次に、楠本宮司、磯部和男・生長の家理事長が玉串奉奠の後、聖経『天使の言葉』の一斉読誦が行われる中、参列者は、東日本大震災など自然災害による物故者に深い慰霊の思いを込めて焼香した。 引き続いて、妹尾壽夫・長老(大阪教区教化部長)の先導により、この大祭に合わせて発刊された新経本『大自然讃歌』(谷口雅宣総裁著)の一斉読誦となった。すでに多くの参列者が真新しい『大自然讃歌』を手にしており、先導の朗々とした声に合わせて、参列者も声高らかに噛みしめるように読誦。自然災害による物故者を慰霊すると共に、自然と人間の大調和した世界を実現せんとの誓いを新たにした。 慰霊祭は、その後、撤饌、みたま抜きの儀と進み、大調和の歌をもって滞りなく終了した。 ========================================
『慰霊祭前から、空は暗くなり、強い雷雨となった。同本山では、自然災害の物故者を慰霊する「自然災害物故者慰霊塔」が建立されることになっており、慰霊祭は、その建立地前で執り行われる予定だったが、雷雨のため、急遽、祭場を宝蔵神社大拝殿に移した。強い雨は、再び思い出される遺族や物故者の悲しみとも、その悲しみを浄化する雨とも思われた。』・・・・
これが生長の家の公式見解であります。
「強い雨は、再び思い出される遺族や物故者の悲しみとも、その悲しみを浄化する雨とも思われた」・・そうであります。
マサノブ氏よ! 落雷は <住吉の大神> のご叱責なり!!
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中村晃生氏の発言は正しいのか? (487) |
- 日時:2013年03月16日 (土) 23時43分
名前:サーチャー
<トキ掲示板(本流対策室/4)> ======================================== 641 :トンチンカン:2012/10/29(月) 00:36:32 ID:9yITXFI2
中村晃生氏の発言は正しいのか?
“生長の家光明掲示板”に 中村晃生氏 の投稿が続いております!!
それらに対する雅宣総裁の代弁者 初心者さん の <反論意見> が何故か見当たりません。
ということは、中村晃生氏の書かれていることは 正しい ということの証明でしょうか?? ========================================
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