生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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復習: 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 I (360) |
- 日時:2013年03月07日 (木) 14時07分
名前:ハスの華
合掌、ありがとうございます。 < 小は個人の病を癒し、大は国家の病を癒す > といわれて数えきれないほどの奇蹟が生じた天来の聖経『甘露の法雨』も、今や三代目の雅宣総裁は捨て去り、自分の頭で考え出した人間罪の子意識による「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」に置き換えようとことを進めております。果たして雅宣総裁の新・聖経?は『甘露の法雨』を凌ぐ奇蹟を生じさせるでしょうか? この際、これまで生じてきた『甘露の法雨』の奇蹟の数々を復習する事は大変意義のあるところであり、ニュー信徒さんにも認識を新たにして頂きたいと思います。
なお、『甘露の法雨』がどうしても手に入らない方々は、(株)光明思想社 TEL: 03−5829−6581 へ申し込めば手に入ります。また、末端の誌友会では、まだまだ『甘露の法雨』による地方講師の指導が依然として自信を持って行われておりますので、奇跡的な結果も指導を受けた信徒さんの身の上には起っていることも沢山あります。其の際には、間違っても「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」による奇蹟だとすりかえられないようにご注意願います。
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聖経『甘露の法雨』の奇蹟(10)
<深き神界の御経綸>
無血終戦の偉勲者・田中静壹大将のこと
=本部講師 中嶋與一先生記=
(生長の家四拾年史 P.332−335)
<<昭和十八年十月二十九日、陸軍大将田中静壹氏夫人の操さんが生長の家本部へ訪ねてこられました。その日、谷口雅春先生は九州御巡錫(じゅんしゃく)中にて、私が本部道場の指導を受け持っておりました。操夫人が訪れた時には私はすでに道場へ出ていたので、受付氏が「道場へいらっしゃい」と言ったのですが、「待たせていただきます」と言われ、四畳半ほどの薄暗い部屋で約三時間待ったようであります。私が道場から下がって会ってみますと、その用件は「夫が病気で重態です。すでに諦(あきら)めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみがあるように思えるのです。可愛そうで見ていられないので、その心の苦しみを取り去って安心させてあの世へ送りたい」ということでありました。
「病院はどちらですか」 「陸軍第一病院でございます」 「軍人さんですか」と尋ねますと、夫人は名刺を出されました。見ると『陸軍大将 田中静壹』とあるのです。
「はぁー、これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが私はお断りします。誰か他の講師を紹介しましょう。」と、椅子から立って部屋を出ようとしますと、夫人はあわてて、「なぜでございます。」と詰め寄ってこられました。「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。」と言いました。というのは、その時分、私は牛込の憲兵隊や名古屋の憲兵隊から呼び出されて、「おまえは“海行かば”の歌はいけんちゅうて講演しとるそうじゃな」と、さんざん油をしぼられ、その頃は身体に油気が少なくなっていた上にさらにしぼられたので意識が不明瞭になったほどでありました。そこで、「私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。とてもお会いする勇気がありません。」と言いますと、夫人は、「私の夫は大将でございますけれども至極やさしい人でございます。お友達から貴方様を紹介されましたので主人もお待ち致しているのでございますから、是非お願いいたします。」と懇願されるのです。
「そのお友達というのは誰のことですか。」 「東条大将の奥さんです。」ここに至って私はいささか狐につままれたような気持になりました。「はぁ--、少しへんですねえ。私は東条夫人は新聞でお顔を知っているだけですが-----。」「奥さんもそう言っておられました。お会いしたことはないけれど、毎月この雑誌の文章を読んで知っているだけなのですが、きっといい指導をして下さると言って紹介して下さったのです。」
その雑誌は『白鳩』でありました。夫人は「主人は貴方様を神様の次のようなお方と思って会いたがっております。」と言われ、その言葉にそそのかされて私は逢(あ)ってみようかという気になったのです。
十月三十一日午後五時頃、病院を訪ねたのでありました。病室の入り口には「面会禁止」とあり、その下の机には山のように名刺がおいてありました。
病室にはいると、将軍が寝台に長い体を横たえて、目も閉じ口も閉じております。その傍に腰をかけ、ちょっと挨拶の言葉をかけてみたけれども返答がありません。額に掌をあててみると相当に熱い。「お熱があるようですね」と言ってみたのですが相変らず、黙然としているのです。こうなると心持がわるくなって「さようなら」をするところでありますが「主人が待っている」という夫人の言葉を真にうけて腰をあげることができない。しばらく考え込んでおりますと、フト何気なくポケットに手が行って『甘露の法雨』を取り出したのであります。そこで、「これから生長の家の聖経『甘露の法雨』をよみますから、閣下はそのままの姿勢でお聴きください。」と宣言して読みはじめたのであります。 二人の位置の関係上、私の右の掌は将軍の額に当り、聖経をくりひろげる左手は胸部に置いている恰好でありました。
最後に「聖経終」と読み了えたとき、田中大将はカッと目をあけて、案外やさしい声で、「ありがたいお経ですね」と言ったのです。それから私は『甘露の法雨』の講義をやったのであります。
田中大将はフィリッピンへ出征中、その年の三月十二日に発病し、三十九度を越す高熱がつづいているにもかかわらず原因が不明、マラリアに似ているが病菌が発見できず、ついに八月六日、飛行機にて東京の陸軍病院へ送還されたということでありました。将軍の語ったところによりますと、アメリカ駐在武官としてワシントンに在ったころ、マッカーサー氏(当時佐官)と親交があり、その友人を今では敵とすることになった、悪因縁でしょうね、と自嘲(じちょう)されるのでした。また田中大将は、こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない、同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない、といとも悩ましげに話されるのです。
そこで私は、因縁というものにとらわれているには“迷い”です。迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。
“肉体は心の影”“われに使命あり”と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌(つち)をもって大地を損ずることがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありなせん、と言い放ったのであります。
すると将軍は一つ一つうなずいて聴いて、そして最後にニッコリして「有難うございました」と一言われたのであります。翌十一月一日、朝七時に田中大将夫人から電話が入りました。その要旨は、主人は昨夜グッスリ眠り、今朝は上機嫌に目を覚まし、これまで出しぶっていた尿が快調に出て大層心持がよろしい、また熱も三十七度に下がり、私としましては嬉しくて、たとえようもございません。これは奇蹟です、涙がこぼれて仕方がありません、というのです。
その日、もう一度病院を訪ねると、将軍はちゃんと寝台に端座して私を待っておられました。そこで再び『甘露の法雨』の講義を致し、以後毎日講義をつづけたのであります。講義中は実に真面目に聴講せられ、その態度はさすがに立派でありました。
ある日、病院の下で一人の看護婦から呼びとめられました。その人は田中大将を看護している三人の看護婦の中の一人でした。「先生、毎日御苦労様です」と挨拶されてから彼女が私に語ったことによると、長い間閣下は一言もお言葉がなく、何をしてさしあげてもあの大きな目でジロッと御覧になるばかりでした。それが先生が来られてからというもの、ガラリと態度が変わり、検温が終りますと「有難う。ごくろうだね」と笑顔をむけられるようになったというのです。今までは病室へ行くのを三人で譲り合って、誰も行きたがらなかったのが、この頃では皆で行き、将軍をまじえて大声で笑い合うようになり、こんな嬉しいことはありません、というわけです。
こうして田中大将自身は日ましに恢復し、また操夫人は各方面へ『生命の實相』を配ったのであります。退院した田中大将は、やがて東部軍管区の司令官として多忙な軍務にいそしむようになったのです。
* * * * *
昭和二十年八月十五日、終戦の御聖断が下ってからもなお戦争続行を主張する青年将校たちの反乱が起こりました。その反乱をめぐって重要な役割をし、後に監禁された私の以前からの知人から、次のような驚くべきことを聞いたのであります。
その日、正午から陛下の御放送が行なわれるという直前、反乱軍の幹部将校七名によって、今上の御命を頂戴し幼い皇太子を擁立し戦争を続行する、との密議が行なわれたといいます。かかる激越な行動に移らんとした青年将校たちを説得し、とり静めたのが田中静壹大将であったことは、総裁先生(註・開祖・谷口雅春先生)のお話によって、つとに知られるところであります。かくて陛下の歴史的な放送により、事なく終戦を迎えたのであります。
想うに、今上の御命をお救い申しあげるについて田中静壹氏の偉勲(いくん)は無上であると申しても過言ではないと思います。その田中大将は、すでに昭和十八年に病にて絶えるはずであったと思われるのが『甘露の法雨』によって救われたのでありますから、田中静壹大将を通じて住吉大神の御使命が具現せられたということであります。
陛下には田中大将の働きに対し、八月十五日午後五時十五分、蓮沼侍従武官長侍立の上拝謁をたまわり、
「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」
との優渥(ゆうあく)なるお言葉があったと承っております。
しかして八月二十四日、一切の使命を完うして田中大将は極楽浄土へ移籍せられたのでありました。>>
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