生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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7・5「唐松模様」のマサノブ発言<生長の家は、かつて政治運動をして失敗した>に意義あり!「生政連」は、日本国を左翼勢力の侵略から護った! <第一篇> (4482) |
- 日時:2014年07月08日 (火) 09時51分
名前:信徒連合
マサノブ君は7月5日の「唐松模様」(別名・枯れ松模様)の中で、< 生長の家は、かつて政治運動をして失敗した >と書いています。しかし、事実は逆なのであります。 @ 昭和41年12月9日、「建国記念の日」の制定 A 昭和51年11月10日、「天皇陛下御在位50年奉祝行事」の全国民的実施 B 平成11年11月21日、「国旗国歌法」の制定施行
われらの「生長の家」は、この様な国家的な重要時に関して大いなる役割と貢献を果たしてきた実績を持っているのであります。それにもかかわらずマサノブ君は、<生長の家の政治運動は失敗した>という。汝、何を持ってその言を為すや? 自称とは言え総裁としての明らかな失言!取り消したまえ! 全信徒に謝罪すべきであります。
かつて、「生長の家」は「生長の家政治連合」(生政連)を結成し、左翼勢力から日本の国を護り、日本国の實相顕現のために大いなる活動を展開していました。それを、当時からサヨク思想を持つマサノブ君は心よからず思い、裏面で「生政連」を解散させるべく動いて、清超先生の名前で「生政連」を活動凍結(実質的解散)に追い込んだのであります。マサノブ君の人並みすぐれた押し強い性格とその後の現在に至る「生長の家」解体の実績から考えて、「生政連」を実質解散に持って言った影の立役者はマサノブ君と見て間違いはありません。厳密に言えば、実質的解散ではありますが、表現上の公式な言葉は“活動凍結”であり、現在もそれが続いております。“活動再開”の意味を含んでの“活動凍結”なのであります。
かつて、「生長の家今昔物語」では、閲覧者の質問(「生政連」についての詳しいことを知りたい)に応えて、特集記事を纏めて掲載いたしました。その当時以降に入信された信徒さんにもこの「生政連」について正しく知っていただいて、「生政連」が大嫌いであったマサノブ君の虚言・妄言・洗脳に惑わされないようにして頂きたいと存じます。本日から数回に分けて別スレッド(親記事)として再掲示させて頂きます。
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「生政連」への谷口雅春先生の熱き想い
<第一編>
新しき宗教の使命
開祖・谷口雅春先生は、昭和42年度「生長の家青年会全国大会」での御講話で
<<・・・従来の宗教というものは、単に個人が悟りを開く、そして自分の生活がよくなるとか云うような問題も、むろん人間を救う上では必要でありますけれども、さらに国家の成仏と云う事が、それが出来る宗教でなければならないと云うわけであります。 国家の成仏と云うのは、お釈迦さんが示された金波羅華の世界の、その秩序整然たるすがたにこの世界をならしめると云うのが、それが国家の成仏というわけなんです。つまり、お釈迦さんは何のために出現したかというと、この世界が金波羅華の世界、もうひとつ言い換えると蓮華蔵世界、蓮華の荘厳たる姿を内に蔵している蓮華蔵世界である。その有様を地上にですね、完成する。そうすると地上の国家が成仏して(成仏とは“仏のいのちそのまま”になる)、言い換えると実相の世界“そのまま”になると云う訳なんであります。それが新しき宗教の使命でなければならぬと考える訳であります。>>
と、日本国実相顕現運動の真義を説かれたのであります。
この様に開祖・谷口雅春先生(=生長の家)にとっては、<日本国実相顕現>は、先生終生の悲願でありました。日本国実相顕現=国家の成仏=実相世界に厳然として実在せる金剛不壊の中心帰一真理国家のモデルを、先ずこの地上の日本に於いて実現(顕現)することでした。しかし、日本の現状を観ると“夜も充分に眠れぬ”とお書きになっていました。斯くの如き生長の家創始以来、長く先生の心の中にあった他の追随を許さぬほどの実相透徹の愛国心の具体化行動が遂に時機来たって昭和39年8月28日『生長の家政治連合』(生政連)の結成となったのでした。開祖・谷口雅春先生は、『人生の秘訣365章』の中で・・・
<<吾々が政治活動に踏み切ったのは、中央にただ一つの中心があり、その中心は神意を受けたる神聖中心であり、すべての民族、国家、国民、悉くその神聖中心に帰命し奉りて調和して繁栄せる万徳円満の理想世界の招来を希望して、その実現を心に描いて神想観し、祈り続け来たる結果、その実現の行動化の過程として内から“催し”て来たところの自然的運動にほかならないのである。>>と、書かれております。
『生政連』結成への淵源
しかし、開祖・谷口雅春先生のこの『生政連』結成への“想い”の淵源をたどれば、昭和21年1月8日設立の『生長の家社会事業団』綱領に表現されてあり・・・ <<綱領――真理は吾等を自由ならしめん。吾等は真理を政治に実践し、且つ社会的国家的に進展せしめざるべからず>>
そして『生長の家社会事業団』の事業10項目の具体策が決定され、その第一として『全国精神主義連盟』(別称「政教倶楽部」)が結成され、その綱領にも<<綱領1――真理は吾等を自由ならしめん。吾等は真理を政治に実践し、真理によって国家経綸を行はんとするものなり。>>と謳われております。
開祖・谷口雅春先生は『全国精神主義連盟』を結成され、自らも終戦直後の第一回衆議院選挙(昭和21年4月)に京都から立候補するとの決意を示された。だが当時、誌友の意識が未だ政治力にまで高められていなかったために実現されなかった。しかし、谷口雅春先生の日本再建のために「真理を政治に実践し、かつ社会的に国家的に進展せしめる」という信念は揺らがず、続く昭和22年4月の第一回参議院選挙に教育部長の矢野酉雄氏を全国区に立候補せしめられた。矢野氏は谷口先生の支援と全国の誌友の活躍によって見事当選を果たし、国会において「在外同胞の引き揚げに関する特別委員会」の委員長として、当時ソ連をはじめ海外に抑留されていた同胞の引き揚げに努力されたのであった。
しかし、昭和22年9月谷口雅春先生が公職追放の仮指定を受けられたためにその活動は一頓挫のやむなきに至り、しばらくは個人の宗教的救いという教化活動のみに限定されることになるのである。そして昭和23年6月に先生の公職追放が確定、総裁を辞任され、その跡を谷口清超先生が宗教法人令により“教主”として就任されたのであります。(公職追放下の谷口雅春先生の活動については『生長の家五十年史』P.379−392をご覧下さい。但し現在、絶版です。)
『生政連』の結成
昭和26年8月6日、谷口雅春先生は公職追放解除となられ、昭和26年9月8日サンフランシスコ講和条約調印、ここに日本国家は独立を回復、谷口雅春先生は、日本の再建へ向けて獅子奮迅の活動を再開されたのであります。
生長の家社会事業団の“綱領”と全国精神主義連盟の構想は、開祖・谷口雅春先生の胸中から消え去ることはなく、後の「生政連」の結成に至るまでの間に於いて機会あるごとに実現の努力を図って行かれたのでした。昭和28年の生長の家参与会の創設と政治結社選挙対策委員会の結成そして同年4月の第三回参議院選挙に前野与三氏(北海道連合会長・前旭川市長)を全国区に選出立候補(結果は、158,472票で次点・わずか千票差で惜敗)、その後、さまざまな国民運動を展開され昭和37年に第六回参議院選挙全国区に玉置和郎氏を生長の家代表として出馬させられ、谷口雅春先生は直筆の推薦文を選挙ハガキに印刷して、時の聖使命会員全員に送られましたが落選でした。当時の生長の家信徒が谷口雅春先生からの明らかに先生がお書きになられたものだと分かる推薦文が届いても得票数は聖使命会員の数にも達しなかったのですから、選挙はいつの時代でも文書ひとつでは支持票の獲得は生易しいものではない事がわかったのでした。(昭和40年の当選は2回目の挑戦)
昭和31年、自民党と社会党との間で憲法改正を巡って大激突をした時がありました。この時、谷口雅春先生は、多くの日本国民を救うためには、政治を善導する必要があるが、一教団だけでは切迫した政治状況に対処し切れないと、自ら宗教界に呼び掛けて同年3月28日「日本宗教政治連盟」を結成されました。そしてこの年の夏に行なはれる参議院選挙に生長の家から独自候補(徳久克己青年部長、叉は松田順三政治部長)を立て当選せしめる決意であられたのですが、当時の教団の理事会での討論の結果、独自候補擁立は見送りとなり、結局生長の家以外の候補が当選したのでした。
この昭和31年の参議院選挙において大きな注目すべき点があります。それは、
(1)創価学会が共産党の全得票数の二倍近い100万票という驚異的な得票をして、三人の独自候補を当選せしめた事。その時以来、創価学会は五十年以上に亘って、営々と選挙戦に取り組み、独自候補を国会に送り続けて天皇国日本の国体護持と憲法改正を最大の党是とする自民党政権に対してブレーキをかけ続けてきたことであります。
(2)自民党自体もこの選挙で憲法改正に必要な三分の二の議席を得ることが出来なかったので、その後、憲法改正のチャンスが大きく遠のき今日に至っているのであります。
自民党の最大党是とお考えを一にされていた谷口雅春先生の胸中は、どうしても先生の意を戴した生長の家からの独自候補を上記の「日本宗教政治連盟」から当選せしめ、志を同じくする一人でも多くの人達と共に日本国家を救う憲法改正を強力に推進しなければと思われていたに相違ありません。しかし結果的には生長の家の候補擁立は見送られたのでした。“これでは提唱者としての面目、丸潰れではないか”とも考えられますが、谷口雅春先生は、“日本国の将来の為には、憲法改正が大切な事柄なので一人でも多くの自民党議員が必要!提唱者個人の面目といった事などは云っている時ではない”と考えておられたのであります。しかし、この連盟は内容的には谷口雅春先生の構想とは大きく隔たったものであったため参議院選挙後には当面の目的はひとまず終えたとして解散のやむなきに至ったのであります。(以上の事の詳しい事は、『明窓浄机』新生篇(但し、現在絶版)P.243以下に書かれています。)
開祖・谷口雅春先生はこの慚愧の政治運動の体験から八年間、憲法改正(法的には、『明治憲法に復元し同時に改正』する)運動、紀元節(建国記念日)復活運動、日の丸掲揚運動、日教組偏向教育是正運動、優生保護法改正運動などの国民運動を精力的に推進して行かれました。そして、国民運動の延長に更なる展望として、政治運動の必要性を実感され数年に亘って教団の中で政治課題を担当する国家対策委員会の抜本的な拡充を図って行かれたのであります。・・・(つづく)
本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成
(注)
開祖・谷口雅春先生は、殊のほか純真誠実に、そして熱烈たる深き憂国と愛国の情から「天皇国・日本の実相顕現(国家の成仏・真理国家日本の建設)に自ら先頭に立って力強く全信徒を引っ張って行かれました。その誠に真摯な先生の情熱を、後の世の信徒の皆様に出来る限り知って頂くべく、本稿に於いては『生長の家五十年史』・『明窓浄机』だけではなく、“当時の事実”を古参の信徒の方々から集めました。そのために、文章の流れが多少ギコチナクなりましたが、意のある処をお汲み取り頂き御許し頂ける様お願い致します。拝
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