生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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7・5「唐松模様」のマサノブ発言<生長の家は、かつて政治運動をして失敗した>に意義あり!「生政連」は、日本国を左翼勢力の侵略から護った! <第二篇> (4495) |
- 日時:2014年07月09日 (水) 07時34分
名前:信徒連合
7・5「唐松模様」のマサノブ発言<生長の家は、かつて政治運動をして失敗した>に意義あり!「生政連」は、日本国を左翼勢力の侵略から護った! <第二篇>
マサノブ君は7月5日の「唐松模様」(別名・枯れ松模様)の中で、< 生長の家は、かつて政治運動をして失敗した >と書いています。しかし、事実は逆なのであります。 @ 昭和41年12月9日、「建国記念の日」の制定 A 昭和51年11月10日、「天皇陛下御在位50年奉祝行事」の全国民的実施 B 平成11年11月21日、「国旗国歌法」の制定施行
われらの「生長の家」は、この様な国家的な重要時に関して大いなる役割と貢献を果たしてきた実績を持っているのであります。それにもかかわらずマサノブ君は、<生長の家の政治運動は失敗した>という。汝、何を持ってその言を為すや? 自称とは言え総裁としての明らかな失言!取り消したまえ! 全信徒に謝罪すべきであります。
かつて、「生長の家」は「生長の家政治連合」(生政連)を結成し、左翼勢力から日本の国を護り、日本国の實相顕現のために大いなる活動を展開していました。それを、当時からサヨク思想を持つマサノブ君は心よからず思い、裏面で「生政連」を解散させるべく動いて、清超先生の名前で「生政連」を活動凍結(実質的解散)に追い込んだのであります。マサノブ君の人並みすぐれた押し強い性格とその後の現在に至る「生長の家」解体の実績から考えて、「生政連」を実質解散に持って言った影の立役者はマサノブ君と見て間違いはありません。厳密に言えば、実質的解散ではありますが、表現上の公式な言葉は“活動凍結”であり、現在もそれが続いております。“活動再開”の意味を含んでの“活動凍結”なのであります。
かつて、「生長の家今昔物語」では、閲覧者の質問(「生政連」についての詳しいことを知りたい)に応えて、特集記事を纏めて掲載いたしました。その当時以降に入信された信徒さんにもこの「生政連」について正しく知っていただいて、「生政連」が大嫌いであったマサノブ君の虚言・妄言・洗脳に惑わされないようにして頂きたいと存じます。本日から数回に分けて別スレッド(親記事)として再掲示させて頂きます。
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「生政連」への谷口雅春先生の熱き想い
<第二編>
(つづき)
昭和38年2月28日、第13回全国代表者会議の結語として谷口雅春先生は、―――
<<・・・“人間神の子”を説く宗教は他にもある。“肉体も環境も心の影”と説く宗教もある。万教帰一だから根本は同じである。だがそれでは、特に何故生長の家が出現したのか、生長の家の神は住吉大神である。その住吉大神が、なぜ今ここに、日本の国土にこの時期に顕れ給うたのか。そこが非常に大切なところである。『古事記』に示される如く、住吉大神は天照大御神の御誕生の直前に顕われられた。最後の宇宙浄化の働きとして、宇宙の大神が住吉大神と顕われ給うたのである。天照大御神の御誕生とは、日本の実相の誕生ということである。日本なるものの魂が具体的に宇宙を照らす光となると云うことである。この直前に、最後の浄化の働きとして住吉大神が今ここに顕われ給うたという、ここに生長の家出現の真意があるのである。 ただ単に、人間は神の子であり、物質ではない。肉体は無い。病気は治ると云う、それだけの事ではないのであって、天照大御神の光が宇宙に天照らすべく、天皇陛下の御稜威(みいつ)を発現せしめて、日本の国を救い、世界を救うと云うところに、生長の家出現の本当の意義がある。従って単に、個人の救いにとどまらず、宗教的自覚をおし進めて、国家の成仏、人類全体の成仏、宇宙の成仏と云うところまで行かなければならないのであって、その一つが政治活動なのである。・・・>>とお説きになられ――――
この結語を受けて、昭和39年3月2日・3日の第14回全国代表者会議に於いて「真理国家としての日本の実相顕現と政治体制の基本の確立」を中心課題とする「第二次五カ年計画」が決定され、その活動綱領1<われらは、日本国家の理念を高く掲げて人づくり、国づくりの先頭に立つ>の具体化として昭和39年8月28日の『生長の家政治連合』の結成となったのであります。ここに生長の家教団あげて独自候補を立てて選挙戦に乗り出し、中央の国会と全国の地方議会に志ある議員を送り込んで行く強固な体制を確立されたのであります。敗戦直後から抱かれていた開祖・谷口雅春先生の政治運動の構想を強力に実現して行く体制が、約二十年に亘った様々な紆余曲折を経て、ここに漸く整うに至ったのであります。
かくの如くにして、優生保護法改正運動等の国民運動だけでは法改正や制定の実現が困難である事が痛感されたので国会に橋頭堡を作ることになり、これに向かっての組織の強化と全信徒の爆発的な力の発揚によって昭和40年の参議院選挙の全国区で、生長の家代表として玉置和郎氏を854,473票と云う第三位の得票でもって国会へ送り出すことが出来たのであります。
続いて、昭和43年7月の第8回参議院選挙に於いては、全国の信徒は一丸となって谷口雅春先生の教示された「日本国実相顕現の祈り」を実修しつつ、重宗雄三氏(882,036票)及び玉置猛夫氏(627,897票)の二人を国会に送る事が出来たのであります。
このようにして、生長の家開祖・谷口雅春先生は、『生政連』を以って、独自候補を国会や地方議会に送り込みつつ、国民運動と政治運動との連携によって、建国記念日制定(昭和41年)、昭和天皇ご在位五十年奉祝(昭和51年)運動、元号法制定(昭和54年)などを次々に実現し、『祖国再建』の運動を大きく前進させて行かれたのであります。
しかし一方、参議院選挙に力を注いだ結果、これまでの純粋宗教的立場から、幾分政治的方面に転換されて、宗教の純粋さや、清潔さが失われて来た事は否めなかったのでした。こうした傾向を察知された谷口雅春先生は、昭和43年9月1日号の「聖使命」新聞で『勝利に奢らず聖胎を長養すべし』という御文章を発表されたのであります。
『勝利に奢らず聖胎を長養すべし』
<<今度の参議院選挙で、生政連は確かに勝ったのである。・・・私はこの際、沈思し静慮して深く想いを巡らさなければならない事は、生長の家が、純粋宗教的立場から幾分方向転換して政治方面に運動を勧めて来たために、宗教の純粋さや、清潔さが少しでも失われて来ていないかと云うことである。・・・今、私は参院選で勝利を得て、勝ちに乗じて尚進んで政治戦に力を尽くすべきか、暫く退いて宗教の純粋圏に止まるべきかについて考えを巡らす時、今暫く退いて宗教の純粋圏のサークルをもっと大きくする事に力を尽くすべきだと思わずにはいられないのである。>>と判断され、生長の家大学生運動(生学連活動)を除いて、信徒の絶対数を拡大して行く純粋宗教活動へと転換することを指示されたのであります。(以下、『生長の家五十年史』P.393−以下をご覧下さい)
そして、昭和43年の参院選挙の直後、谷口雅春先生は「生政連活動の“凍結”を自ら決断され「生政連」の活動を一時停止されました。しかし、凍結措置は長くはなく、翌年春には再開が下命されました。活動再開の理由は翌昭和45年の日米安保条約の自動延長に対する左翼の過激活動を封じるためでありました。
しかし昭和46年の参院選挙では玉置和郎氏および鹿島俊雄氏当選、次の昭和49年の参院選挙では、田中忠雄、村上正邦の二名の内部候補を擁立して各々55万票を獲得するも52位と53位で惜敗(50位以上当選)、昭和52年の参院選では玉置和郎氏当選(鹿島俊雄氏は直前に立候補辞退)、昭和55年参院選は村上正邦氏単独推薦で臨み当選1、037,410票、更に昭和58年の参院選では全国区制度が拘束名簿式比例代表制に改められ単独推薦で臨んだ寺内弘子氏(玉置和郎氏秘書)は、名簿搭載順位が自民党の決定で下位であった為に落選(但し、後に繰り上げ当選)となりました。この名簿順位を決める方程式を編み出したのは小沢一郎氏(当時は自民党総務局長・現、民主党幹事長)でした。
活動停止(実質的解散)
かくの如く生長の家は代表を国会に送り、建国記念日の制定、国旗・国歌法の制定、自主憲法制定、優生保護法改正等の日本国家存立の根本的重大事項に関して開祖・谷口雅春先生を先頭に最大限の努力を注いで来たのであります。しかし、自民党との軋轢や、組織内部の種々な軋轢もあって、東京の本部に居られた副総裁(当時)谷口清超先生が『生政連』活動の停止(今度は、実質解散)を昭和58年7月5日に決定されたのでした。『聖使命』新聞昭和58年8月15日号には
<<このような状況に於いては、吾々の運動は立教本来の布教使命の自覚と人類光明化運動の根本的な基盤確立が欠くべからざるものとの観点から、出来るだけ多くの国民の中に『人間神の子』と実相日本の霊的使命を伝道し、全世界の組織網を確立する事が急務と考え、生政連活動は停止されたのであって、決して後退したのではない。それは新たなる前進である。今後は、人間神の子の真理・真理国家日本の理念を自覚した国民をもっともっと多数生み出すことにより、そうした国民の正信がおのずからに、政治家は勿論、凡ゆる階層の人々に反映され、生活・教育・家庭・事業、政治の変革が実現するような状況をつくり出して行こう、とするのである。それはこれまで以上に幅広く、根の深い雄渾な活動への重大な第一歩と云えるであろう。こうした目的を達するためには、生長の家の各組織を拡大・充実させつつ、飛躍的な教勢拡大を図るほか、安易な道はどこにもあり得ない。そしてそれこそが、人類光明化運動の原点でもあるのだ。吾ら信徒一同、この原点に立ち、菩薩行に邁進したいと決意を新たにする次第である。>>
このようにして生長の家は、従来政治目的で行動を共にしてきた愛国団体とも決別して行ったのであります。・・・(つづく)
本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成
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