生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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<転載> 「マサノブ教団」全本部講師・地方講師必読の“真理の悟り”投稿文 <その九> (4539) |
- 日時:2014年07月13日 (日) 13時15分
名前:信徒連合
この様な素晴らしい「生長の家」真理の理解と解説の投稿文が見つかりました。他の掲示板でも転載されております。最初に見つけてくださった方に感謝申上げます。
「マサノブ教団」が依然として「生長の家」という看板を掲げている限り、そこに所属している本部の講師部長、本部講師、地方講師の皆さんは自分自身どの程度深く開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』という真理を理解しているかの尺度として、熟読して頂くに値する現代の「維摩居士」とでもなぞらえることの出来る内容であります。謹んで御紹介させて頂きます。
出所は、−− http://56937977.at.webry.info/201407/article_3.html
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< 転載:第九回 >
12/「生長の家本部赤痢菌事件」の対処法と教訓/日本と世界の問題を自分自身の問題として受け止める
<< 作成日時 : 2014/07/11 02:22
またもや、生長の家関連の書込みとなりました。ご興味なき方はスルーして下さい。 ※※ このサイト内文章の全文コピー引用、一部コピー引用、他サイトへの掲載・紹介、印刷配布は各自ご自由にどうぞ! その場合、当サイトURL、サイト名「あまむし庵」より引用等、出典を明らかにして下さい。
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現在の生長の家内部の分裂、衰退、混乱の問題について、私なりに考え方を公表してまいりました。今回は、「虚説」「迷い」に対して、どのような心がけで対象すべきか、ということについて、考えてみたいと思います。このことについて的確に書かれているのが、『生命の実相』第十四巻、第四章「和解の倫理」であります。
この部分は、一切の問題解決の最も基本ともなるべき個所と考えられるのです。生長の家の「唯神実相哲学」「神の子人間」の真理を、具体的な諸問題に対して、どのように活用すべきかという点で、極めて分かりやすくお説き下さっております。
《「生長の家」倫理学の特色といたしますところは、存在を「実相(ほんとにあるもの)」と「仮相(まよい)」とに別けることであります。そして「仮相」は存在するように見えても、それは非実在(ない)というのであります。そして「実相(じっそう)」だけが存在するのであって、その「実相」は完全であるというのであります。》(『生命の実相』頭注版14巻57頁より)
ここに生長の家の実相哲学の基本があります。「実相」(本当にあるもの)と「仮相」(本来なきもの)とを明確に分けて、「本来ないもの」を断固否定し、「本当にあるもの」を断固肯定する生き方であります。この「実相」と「仮相」に対する吾々の心構えによって、問題が解決もし、或はさらに問題がこじれることにもなるわけでありますから、「実相」と「仮相」の峻別、さらに「仮相」に対するこちら側の受け止め方が、極めて重大な問題を孕んでいるのです。
引き続き「結核菌」を具体例にあげた対応姿勢が書かれております。 《例をあげていえば、人間に結核病を惹(ひ)き起こす毒物としての結核菌は、それは仮相(かりのすがた)であって実相(ほんとのすがた)ではないのであります。この場合、われわれが仮相の結核菌を認め、許し、それに触れ、それを培養することにすれば、われわれ人類は滅びるのであります。なぜなら「仮相」を実在だと思ってこれに和解し、「仮相」をことさらにのさばらせれば、実相はますます隠れるほかないからであります。 ところが、神は結核菌を人間を害するようには作ってい給わないのであります。結核菌は人間に対して無害の状態に造られており、実在の世界においては、人間と結核菌とは調和して互いに生かし合っているのであります。調和が実相であって、「実在する結核菌」の本当の相なのであります。それで「結核菌と和解する」とはこの本当の姿を認めて、その心の投影(かげ)として自然に結核菌と人間とを互いに相侵さない状態に至らしめるので、われわれを害する「仮相(まよい)の結核菌」を認め、それに栄養を与え、培養するということではないのであります。大体、「仮相」というものは、あるように見えても本来無い・・・・「無いもの」と和解のしようがないのであります。それでわれわれが和解するとは、ただ「本来あるもの」と和解するほかない。それでわれわれが、「天地一切のものと和解せよ」という場合は、仮相・・・われわれに対して毒性または敵性をもって顕われているウソのスガタ・・・に和解するのではなくて、実相(すなわち、われわれと本来調和し、われわれと互いに生かし合っているその物の内性)と和解することなのであります。》(同書57頁より)
雅春先生は、病原菌に対しては、《われわれに対して毒性または敵性をもって顕われているウソのスガタ・・・に和解するのではなくて、実相(すなわち、われわれと本来調和し、われわれと互いに生かし合っているその物の内性)と和解することなのであります。》と、お説き頂き、毒性、敵性なるものは「仮相」であって本来ないものとして否定すること。そして、《神は結核菌を人間を害するようには作ってい給わないのであります。結核菌は人間に対して無害の状態に造られており、実在の世界においては、人間と結核菌とは調和して互いに生かし合っている》と、神の創られた実相世界を明確に認めることを示されています。
『放送人生読本』という谷口雅春先生の御講話テープがありますが、その中に、大変興味深い内容がありました。次のようなものです。 《大体この病菌というものも、微生物すなわち生きているものでありますから、これは神から生命を受けているものであります。人間はやはり神から生命を受けている。その点からいうと、黴菌も人間もやっぱり同じ神の子の兄弟であるわけなんです。だから決して我々は、神の子の兄弟同士が害し合うってことはないんだけれども、その病菌が人間を害するようになるのはどういう分けであるかというと、人間自身の中に害心がおこる。つまり人を憎んだり恨んだり、攻撃精神を起こしたり、嫉妬心を起こしたり、色々の心の間違いを起こす。人間は万物の霊長ですから、その精神波動というものは、微生物の精神波動よりよっぽど強いのであります。強い精神波動は弱い精神波動を克服して、そして人間が害心を起こすと、害の心を起こすと、そうすると病菌もやっぱり害の心を起こして、そして病毒になるべきところの分泌物を分泌する、ということになって、そして人間を害するということになるのであります。》
つまり、病菌が毒を出すのは、主人公であるところの人間側の精神波動(主に潜在意識の精神波動)中の害心、憎み、恨み、攻撃精神、嫉妬心、等の「病根」が、微生物に感応して、同種の病毒となる分泌物を出す、ということを明快に見抜かれているのであります。私はこのことを大変興味深く聞かせて頂きました。要は、人間(自分自身)の潜在意識の精神波動に「迷い」がなければ、微生物は人間に悪影響を及ぼすことはあり得ない、ということであります。生長の家の体験談で、天地一切に感謝、即ち実相を悟ることによって、病気その他一切の人生苦が雲散霧消する無数の事実と、原理は全く同じであります。
否定すべきは、毒性、敵性を持つように現れている仮相の病菌の姿に対してであります。つまり、その原因は自身の潜在意識中の「迷いの精神波動」、毒性、敵性にあったのですから、病菌有りと映し出した自身の潜在意識の「迷い」こそ徹底否定すべきなのであります。そして、病菌として害を与えてまで、私達の潜在意識内部に眠っていた「病根」の存在を教えてくれた「病菌」に感謝すべきなのであります。「病菌」もまた「観世音菩薩の慈悲の説法」に過ぎなかったのですから。
続けて、『和解の倫理』には「放蕩息子」の例が出されています。ここの個所は三代目総裁と少しダブルような感じを受けますので、これまた大変参考になろうかと思います。
《さらに例をあげてみれば、ここに放蕩息子がいるとします。放蕩息子といえども人間でありますから、実相(ほんとうのすがた)は放蕩息子ではないのであります。放蕩息子にあらわれているのは仮相(かりのすがた)すなわちウソのスガタであります。それでその息子に和解する場合を考えてみますと、「放蕩息子よ、よう放蕩してくれた。わしはお前の放蕩を喜ぶぞ」というように仮相に和解していたのでは、仮相はますますのさばって大きくあらわれて来るのであります。 よく富豪の甘い親をもった家庭に始末におえない道楽息子があることがあります。これは道楽息子という仮相を排撃することをしないで、仮相に和解してしまったからであります。仮相に和解してしまったら仮相があらわれる。それではいけない。それで「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には、「仮相(かりのすがた)に対しては実相をもって、相対せよ」「非実在に対しては実在をもって相対せよ」と書いてあるのであります。》(同書58頁より)
ここでも、放蕩息子の「仮相」の姿に和解せよ、妥協せよとは決して書かれておりません。「仮相に和解していたのでは、仮相はますますのさばって大きくあらわれて来る」とありましょう。私達が真に為すべきは、「仮相(かりのすがた)に対しては実相をもって、相対せよ」でありますから、私達は、「仮相の非存在など、そんなものは本来ないのだ」と徹底否定し、神の子の本来の姿を拝み出すことが求められているのです。
引き続き、『生命の実相』第十四巻、第四章「和解の倫理」を読み進めて行きましょう。今度の喩(たと)えは、嫌われ者の吸血鬼「家ダニ」です。「家ダニ」であろうが、「病菌」であろうが、「放蕩息子」であろうが、なんであろうが、一切の問題解決の根底にあるのは、「仮相(迷い)を断固否定し」、「徹底的に実相に和解し感謝する」という所にあることを、先生は繰返し繰返し私たちに駄目を押すかのように、お解き下さっております。
《『仮相は本来「無」と知るのが実相への和解』・・・だから、真に和解するとは、「ものそのもの」の完全なる実相を認めその実相と和解することであります。「家ダニ」を見たならば、吸血鬼であるその仮相を見ず、互いに調和した場所において相侵し相傷つけないように造られている「完全なる家ダニ」と和解することであります。結局「和解する」とは、その「実相」を見て、その実相において完全を観ることであります。》(同書59頁より) さらに、《対人関係、対物関係の和解は、そういうように物そのもの、人そのものの実相を見て、それと実相において和解してしまいますと、相手の調和した実相があらわれて相手が自分に逆(さから)いまたは害しなくなるのでありますが、「迷い」に対したり「誤れる見解」に対しては、われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまされてしまうのであります。だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」は実相の世界にはない。それは「虚説」すなわち「無い説」でありますからわれわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。》(同書59頁より)
「仮相」「虚説」は本来非存在であるが故に、「実相世界」にはないのです。和解すべきは、唯一本来あるところの「実相」に対してのみであることを、自分自身がどれほど明確に理会しているか、ということが、一大事となるのです。本当にあるもの「実相」と、本来なきもの「仮相」「迷い」「虚説」を、自分自身がどれほど明確に知りえているか、これこそが、この世界の一切の問題解決の終着点とも言うべきものではないでしょうか。
《「なんじの敵を愛せよ」といったイエス・キリストさえも、「サタン」に対しては和解していないのであります。イエスが四十日四十夜、精神統一の修行をしている時、そこに幻のように現われたサタンに対しては、イエスはそのサタンの邪説に耳たて傾けようとしないで、「神を試(こころ)むべからず、サタンよ退(しりぞ)け、主なるなんじの神を拝し、ただこれのみに事(つか)うべし」と、一喝(いっかつ)しているのであります。この場合、サタンとは異端、邪説、妄説、妄想、雑念のことであります。「ただ神のみ・・・ただ実相のみを観よ」ということが、「主なる汝の神を拝し、ただこれのみに事うべし」ということです。そのほかの妄説妄想には決して和解して、耳を傾けてはいけない。ただ「サタンよ、去れ」と一喝しているところに、イエスの示されたる「サタンに和解すな」との範例をわれわれは見なければならないのであります。》(同書62頁より)
吾々生長の家人は、サタン(異端、邪説、妄説、妄想、雑念)に対する、イエスの明確なる態度を学ぶ時期に来ているのでしょう。断固「サタンよ去れ」それが云えるイエスは、実は実相(神)を知っていたということの裏返しにすぎません。結局、神(実相)を知り得ぬものは、サタン(異端、邪説、妄説、妄想、雑念)を排斥し得ないのです。それを排斥、否定し得ぬ者は、結局は自己の妄想で造り出した「迷い」の闇の中で、苦しまねばならなくなるのです。それを懇切丁寧、正直ありのままに教えてくれるのが、「観世音菩薩」であったのです。
《虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳がないように思うのはまちがいであります。また虚説を容(い)れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちがいであります。虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。 わたしにも最近その例がありました。「生長の家」の某支部をみずから造るべく申し出られまして、聖典『生命の實相』を数十部みずから進んで預かって帰られた方がありました。その某氏は最近、「物質はある」「真我も迷う」の虚説を立てて「生長の家」の真説を迷わす機関雑誌を発行されたのであります。それとともに聖典『生命の實相』を誌友その他に売られたまま、その公金を私用に着服費消しておしまいになったのであります。わたしは「真我は神であるから決して迷わぬ」という正説をもって文章でその虚説を排撃したのでありますが、(すなわち虚説に対してはどこまでも排撃したのでありますが)その人が消費された公金に対しては少しも呰(とが)めず、無条件にその金額を進呈して決して請求しませぬという深切な手紙を書いて、その人の実相・・・決して公金を費消せぬような完全なその人の実相を見ることにしたのであります。これがわたしの範例であります。虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許すことにしたのであります。どうかみなさんも虚説(ないもの)に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の包み(罪)を見ないで、その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦す(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大の誠命(いましめ)は「天地一切のものの実相と和解 せよ」ということであって、仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃(はいげき)すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃(ばくげき)せられたのであります。》(同書63頁より)
雅春先生は最後に御自身の範例をもって、吾々に分かりやすく具体的にお教え下さっております。「虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す」とあります。そして、「どうかみなさんも虚説(ないもの)に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の包み(罪)を見ないで、その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦す(その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。」と皆様にお願いまでされておられるのです。
現在問題となっている生長の家の三代目総裁に、如何に対処すべきなのか。もはや、賢明なる生長の家の皆様はお判りいただけた筈であります。この問題は、吾々生長の家人が、どこまで「実相」と「仮相(迷い)」を峻別し得ていたか?という、一人一人が通らねばならない「公案」であったのです。悪なる姿として現れている相手に対して、その本来なきところの「仮相」はあくまで否定することが第一であります。次にその「悪の仮面」を被った相手の奥に隠されている「実相」を、どれだけ観ることができるか、言葉を変えれば、その「実相」なる観世音菩薩が吾々にもたらさんとするメッセージ(教訓)を、どれほど正しく受け止め感謝できるか、というところに、問題解決の鍵があると云えるでしょう。
ここに興味深い実話があります。ご存知の方も多いでしょうが、楠本加美野本部講師の赤痢菌に感謝して消えてしまった体験であります。河口湖練成道場の責任者をされていた楠本講師の元、道場で赤痢が発生した時のことです。以下、楠本講師著『伝道物語』の一部を引用させていただきます。
『痛切な責任を感じた私は、生まれて初めて辞職願を書いた。そしてその筆を置いた途端に、ハッと気が付いた。「・・・汝が何者かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは、汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ・・・」という神のコトバ(『七つの灯台の点燈者の神示』)が聞こえてきたのである。朝夕唱えて、耳にタコができるほど馴れ親しんだコトバも、うろたえて右往左往している時には、全く思い浮かばず、全ては己が責任と心を決めた時に初めて聴こえてきたのである。なすべきことは辞職願を書くことではなく、省みて和解することであった。「赤痢菌に感謝し、和解しようじゃないか。感謝できるまで神想観しよう」道場に集まった十数名が徹夜を覚悟の神想観をはじめたのが、午後の10時。「赤痢さん、有難うございます。赤痢さん、有難うございます・・・」いくら言葉で唱えてみても、恨みこそあれ、感謝の実感は湧いてこない。真剣だった。懸命に祈り続けた・・・ようやく有難くなってきた。心からの感謝が湧いてきて「大調和の歌」で終って時計を見たら、午前2時であった。黴菌といえども、神の使いである。その働きはガードレールのようなもの≠ニ訓えられていたことが、4時間に及んだ祈りの中で実感として解らせて頂いた。そして伝道の一つの在り方というものを、訓えられたのである。すなわち誰彼の差別なく触れる人ことごとくに菌を伝える赤痢のようでなければならない。伝道の前に、あれこれと自ら限定し、逡巡することをやめて、触れる限りの人に道を伝えよ≠ニいうのが、神の御旨(みこころ)と覚らせて頂いたのである。』(楠本加美野著『伝道物語』より)
楠本講師一人が赤痢菌に感謝できた時から、不思議と全員の便から赤痢菌は出なくなりました。赤痢菌が消えたのです。この実体験があった直後の河口湖の新春練成会には、全国から千人の練成員が集まったと聞きます。後にも先にもなかった数です。これを切っ掛けに、河口湖練成道場は、生長の家で最も有名な練成道場となったのです。
この事実は一体何を物語っているのでしょうか。大調和の神示にある、「天地一切のものに感謝せよ」の実践です。雅春先生は「天地一切のものの実相と和解 (感謝)せよ」と仰っておられます。即ち如何なる悪と見える存在であっても、その奥に善なる実相、即ち我らに素晴らしいメッセージや、大切なことを教えんがために現れた、有難い協力者の姿が隠されている、ということです。
楠本講師の前に現れた赤痢菌も、講師(せんせい)に次のようなメッセージを残しました。「省みて和解することの重要性」「黴菌といえども、神の使いである。その働きはガードレールのようなもの」「赤痢菌の如く触れる限りの人に道を伝えよ」。事実、赤痢菌に感謝しその教訓を受け取った時、赤痢菌はその任務を終了すると同時に消え去り、後には大きな贈り物まで置いていってくれたのでした。直後の練成会には千人もの人々を参集せしめ、河口湖練成道場を日本一有名な道場にしてくれたではありませんか。
河口湖道場における「赤痢菌」事件。この当時日本は「赤色(共産)革命」前夜の大混乱期にあったのです。全信徒が一丸となって、谷口雅春先生著『占領憲法下の日本』を、全国民に配布するための伝道に立ち上がっていた時代です。人類に次々と毒素を増殖伝染させて行く「赤痢菌」は、当時の唯物主義的「赤色(共産)革命」の象徴のようでもあります。赤色革命、共産主義思想、マルクス主義思想は、人類全体に唯物論の毒素を増殖伝染させる「ユダヤ思想」をルーツとしているのです。
注)「赤色革命、共産主義思想、マルクス主義思想は、ユダヤ思想をルーツとしている」この件については、当ブログ「1/マルクスの建前と本音」を参照下さい。http://56937977.at.webry.info/201402/article_1.html
赤色革命、これは『ヨハネの黙示録』十二章及び十三章で預言されたところの「赤き龍」(サタン)であり、『古事記』では「八岐大蛇(やまたのおろち)」として預言されています。前世紀、世界中で猛威をふるった赤色革命の嵐は、今世紀(21世紀)ではもはやその力は失ったかに見えますが、唯物二元論のユダヤ思想は、国際金融至上主義、国際グローバリズム、CO2温暖化環境保護主義、世界中の銀行システム、日本国憲法等々、様々な形を変えて全世界を蝕(むしば)んでいるのです。
注)「唯物二元論のユダヤ思想は、国際金融至上主義、国際グローバリズム、CO2温暖化環境保護主義、世界中の銀行システム、日本国憲法等々、様々な形を変えて全世界を蝕(むしば)んでいる」この点については、説明を要しますので、今後順次このブログでご紹介したいと考えております。
現在、それらの赤色思想(唯物思想)が、生長の家の組織の中枢をも蝕(むしば)んでいる事実を見る時、この問題を地球規模的問題、且つ人類の歴史的問題として捉え直す必要性を、強く感じずにはいられません。つまり、現在生長の家人の目前に現れているところの危機は、天皇国日本の危機であり、同時に全地球的危機であることを、私達に教えてくれているものだ、と解すべきなのであります。目前の問題を国家、地球全体の問題として、しっかりと捉えることによって、改めて生長の家立教の使命の確認と、神から生長の家人に課せられた偉大な使命を、正しく受け止めることができるのではないでしょうか。 以上の意味において、この問題に対して絶対感謝をすべきであると考えております。
ありがとうございます。ありがとうございます。 ありがとうございます。ありがとうございます。 ありがとうございます。ありがとうございます。 ありがとうございます。ありがとうございます。 感謝唱行を繰返すことによって、自分自身の心の中で、「あぁ、ありがたい」「なんて有難いんだろう!」と、問題に対する感謝の念が生じてきます。さらに時間が経てばたつ程、その感謝の念は、「ただありがたい」底に終るものではなく、谷口雅春先生の教えを受けた私自身に対する、「神様から与えられた使命の躊躇なき断行の決意」に昇華して行くのであります。赤痢菌に感謝し得た楠本講師の感謝は、「誰彼の差別なく触れる人ことごとくに菌を伝える赤痢のようでなければならない」との、断固たる伝道の決意として結実した時、然(さ)しもの赤痢菌事件も見事に解決し得たではありませんか。
今回、生長の家本部中枢で発生した、謂わば「生長の家本部赤痢菌事件」に対する私自身の感謝は、「神から与えられた使命の躊躇なき断行の決意」という、教訓を与えて下さったことに対する感謝となって行くのでした。それは取りも直さず、「天皇国日本実相顕現」と「人類光明化運動」の断固たる決意であります。
今回の「生長の家本部赤痢菌事件」は、私にとって、現在進行形で進んでいる日本と世界を蝕むユダヤ問題(赤色思想・唯物思想による全世界への侵蝕問題)が、生長の家自体をも侵蝕している事実に目覚めさせたと同時に、この地球規模の問題は、自分自身としても極めて身近な大問題であったという「事実」を、深く理会し得たというところに、最大の「教訓」を読み取る事ができたのであります。
今までは、ユダヤ思想、唯物思想が、日本と世界に及ぼす影響力については、ある種「他人事」的な距離感をもって、眺めていた憾(うら)みがありました。しかし、今回の「生長の家本部赤痢菌事件」を深刻に考える中で、これらの諸問題に共通する同一性を発見できたのであります。その瞬間、小生の意識は、日本と世界が抱え続けている「ユダヤ思想、唯物思想、赤色思想」の大問題を、「自分自身の問題」として受け止め始めていたのです。
これが、「生長の家本部赤痢菌事件」に対する、小生の受け止め方なのであります。
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