生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第十九話> (382)
日時:2013年03月09日 (土) 08時54分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第十九話(通算第345)

 
西田哲学との比較に於ける人間論 <その一>




『人間死んでも死なぬ』P.328−331



<<マグナッセンの霊界通信に於いては「人間は神より放射される光」であると書かれている。この「神より放射されたる光」なる人間、私の生命の實相哲学に於いて、「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の「人」とは果たして如何なるものであろうか。

此処に此の原稿を書いている谷口、万年筆を握っている肉体なる谷口、これは果たして、生命の實相哲学において「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の「人」であろうか。人間の本質を茲(ここ)で、も少し考えて見たい。

明らかに此の肉体なる谷口なる存在は滅ぶべきものである。それはmortalである。Immortalではない。否一層精(くわ)しく云うならば、常に滅びつつあるものである。

肉体は例えば、燃えつつあるガスの焔(ほのお)の形の如きものである。生活現象の必須条件として肉体に体温が発生する事実と、呼吸作用と称する酸素交代の現象と、常に新しきガスを供給するが如く新しき養分を送らなければ消耗して燃える力がなくなる事実とは、ガスの焔の譬(たとえ)が、人間の生命現象についてもっとも適切なる比喩であることを表わしている。

ガスジェットから燃え出でるガスの焔の形は、今も、一分間前も十分間前も同一の形状をして燃えているから、今も一分間前も同じガスの焔であると見えるかも知れないが、実は今燃えつつある焔は一分間前に燃えていたガスとは別のガスであるのである。従って今燃えている焔は一分間前の焔とは別の焔である。

 別のガスが今燃えていながら、一分間前と同じと思われる形状をしている。そこで観察者は間違えて同じガスの焔が其処にあると云う。

同じように、別の肉体が今燃えていながら、(即ち別の肉体が呼吸していながら)、一分間前と同じと思われる形状をしている。

そこで観察者は間違えて同じ肉体が其処にあると云う。併し事実は全然異なる肉体が、瞬時にして前のものは滅び行きて時々刻々別なる所の肉体が其処にあるのである。斯かる肉体を「久遠不滅の人間」と観ずるのは明らかに間違いである。

だから谷口哲学では“肉体は人間ではない”と云うのである。

 「肉体」は斯くの如く人間ではない。「これが人間だ」と捉えたる「肉体」は、その瞬間もえてしまって別のものであるのである。

斯くの如く吾々は“人間そのもの”を捉えることが出来ない。捉えたる瞬間より、人間そのものは捉うる手の指の股(また)からすべり落ちて捉えることが出来ないのである。

 弾丸が飛来して肉体を貫く。併し人間“そのもの”は肉体ではないから、肉体を貫いても人間“そのもの”は貫かれはしないのである。貫かれたる瞬間の肉体は、次の瞬間にはもう別のものに変じている。それは燃ゆるガスの焔を棒で貫いたのと同じことである。貫かれた時、焔の形は変ずる。

併し、形は変じても変じなくとも、焔は常に別のガスの燃ゆる相であって元の同じ焔ではない。それと同じく、肉体は弾丸に粉砕されても、粉砕されなくとも、常にそれ自身粉砕されつつあるものである。

 常にそれ自身粉砕されつつあるもの、一瞬間前の相を、次の瞬間には止めないもの――此れが肉体である。捉えんとして捉うること能わざるもの、捉えんとする瞬間に別の相に変ずるもの――これが肉体である。

此の無常なるものが肉体である。無常なものが肉体であると云う言葉に吾々は誤魔化されて、「無常なるもの」と云う何物かが其処に“ある”と考えてはならぬ。

「無常なるもの」とは「存在しないもの」の別語である。“それ”が瞬時も、その現れている儘の相でいられないものであると云うことは、其処に、“その現れているもの”は<無い>と云うことを意味する。

谷口哲学ではこの事を「現象本来無し」又は一層簡単に「現象無し」と云う。また続いて、「肉体無し」とも云う。>>






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