生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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先祖供養軽視の社会的風潮を改善する事こそ宗教家の使命――開祖・谷口雅春先生の説かれた先祖供養および個別霊供養を学ぶ<第一回> <第二回> <第三回> (4814)
日時:2014年08月16日 (土) 07時37分
名前:信徒連合

テレビ番組で、現代人の40%近くは「墓地の菅理は子孫の責任ではない」とのアンケート調査の発表があったという。これはまことに憂うべき実態であります。荒廃した墓地は増加の一途をたどっています。常識では考えられない凄惨な事件が発生する事と先祖供養の軽視との社会風潮とは決して無関係ではありません。三代目・マサノブ総裁は講習会でも「先祖供養」等の霊と霊界・輪廻転生・過去世と現世と未来世にまたがる宇宙の法則としての因果律は一切説かないのです。彼は完全な唯物論者であります。悲惨な社会的事件を少なくしていく為にも「先祖供養」・「個別霊供養」はますます大切と考えられなければなりません。「マサノブ教団」の「今の教え」では説かない開祖・谷口雅春先生の「先祖供養」と「個別霊供養」をもう一度学び返しましょう。
「生長の家 今昔物語」から転載いたします。

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先祖供養、および個別霊の供養


<第一回>




運命決定の三要素(『霊供養入門』)

(1)人間の運命を決定する第一要素(過去世の“業”)

<< 人間の運命は、それが出て来る原因を三つの要素に区分することができるのである。その第一要素として言えることは、吾々の霊魂は過去の“生まれ変わりの世代”に蓄積した“業(ごう)”の総決算を携(たずさ)えて母親に受胎し、そして乳児として誕生するということである。そのことを会社にたとえれば、過去の総決算の貸借対照表(たいしゃくたいしょうひょう)の資産及び負債を携えて、その会社が新年度の企画や事業の引継ぎを始めるのにも似ているのである。

 会社の経理が、その支出や収入が一円、半円までも精確に記録されていて、その年度末の決算にその収支が明らかにされて、新年度の会社の経理に引きつがれるように、われわれの過去の業績は一点一画といえども誤魔化(ごまか)しなしに、新たに生まれた乳児に引きつがれるのである。それ故に、人間の生命の本質または實相は、皆一様の尊厳さをもつ“神の子”でありながら、出産の時の第一歩から、貧しい家庭に生まれる者あり、裕(ゆた)かな家庭に生まれる者あり、虚弱体質で生まれる者あり、剛健な体質で生まれる者あり、美貌で生まれる者あり、醜(みにく)い容貌で生まれる者あり、今次の人生への出発が色々不平等になっているのである。これは、各会社の新年度の出発当時の負債および資産が皆、過去の年度末の成績でおのおの異なるようなものである。本来、同様に“神の子”でありながら、自分自身の過去の業績でいろいろのハンディキャップをつけられて、人々は新人生へ出発する。不平をいってもつまらない。自分自身の過去の業績が現在の人生の出発点になっているのだから、自分自身に責任があるのである。>>(P.44−45)



(2)自分でつくる未来世の運命(第二要素・今世の努力)

<<自分自身の過去の業績が現在の自分自身の人生の出発点になっているのだと知れば、われわれは、現在の人生を、もっと真剣に生き、たくさんの善い点数を現在の人生に稼(かせ)いでおかなければならないことに気付くであろう。自分が善なる行為、善なる想念または感情、善なる言葉、文章、議論--------等で稼いで来た業績――それらの一点一画にいたるまで記録されていて、まだ精算されないものは、次の生まれ変りの自分自身の負債となったり、資産となったりして、次生の赤ん坊の時まで持ち越されて来る。それだから、われわれは現在の生活中に、自分の未来世の幸・不幸を自分の生活のやり方で造りつつあることを忘れないで、常に善き生活を、人に深切を、人のためになる行為をすることを心がけ、人を傷つけず、いやしくも生物の生命を奪うことやいじめることなどせず、人の財を奪うことによって自分が利益を得るたぐいの搾取(さくしゅ)的行為をしないように心がけなければならないことがわかるであろう。

 このように、今世の運命の出発点の持ち駒は、過去世の自分自身の生活の総決算の点数をもって出発するので、それはどうにもならない自分の業(自分の過去の業績)である。この出発点から始まったわれわれの現世の運命が結局、自分の全運命の“二分の一”位を支配しているのである。しかし、何もそれで失望することはない、運命の改善の道はあるのである。

 前半期の決算に赤字を出した会社でも、社長、重役、従業員が熱心に働き、社会に貢献し、人々に喜ばれる仕事をしたため、下半期にはその事業または商売が繁盛し赤字を消して黒字に転換し、優良会社となって高率の配当ができるようになった例がある。それと同じことで、過去世の業績が拙(まず)かったために貧しい家に生まれ、幼い時は苦労艱難したけれども、ついに中年後になって運命が好転し、事業は発展し、人からは重要視され、社会的地位もあがり、「あの人は運命を自分で築いてきた」と言われるような人もずいぶんあるのである。>>(P.46−47)



(3)神または高級霊による運命の修正(第三要素)

<<これによって考えると、自己の運命の前半は、“過去世の業”(過去の生まれ変りの世代での業績)で決定されるのであるけれども、自分の運命の後半は、今世に生まれてからの“心の持ち方”や行いの仕方、人のためになる事をどれだけ心がけてしたかの自分の努力によって決定されるのである。
 しかしながら「稼ぐに追いつく貧乏なし」という諺(ことわざ)もある。急激なインフレや不景気などの社会情勢の中にあっては人間の努力だけではどうにもならない、いつまでも苦しい運命に追い込まれたままで、それを耐え忍ぶよりほかに道がないようにも思われる。そこで人間の努力の及ばないところに、“神”または高級霊の援助または加護を必要とするのである。人間の運命の半分は前世の業績、残りの半分の1/2は自分の努力による業績で、残りの半分の、もう1/2は、神または高級霊の加護による運命の改善または修正によって、もっと不幸になる筈の運命が救われるということになるのである。>>(P.48)

<<その予言がデタラメであろうが、実際その予言者が超能力をもって、すでにその来るべき運命の霊的原型を直感して得た予言であろうが、それが凶運である限り、その運命を修正したいのは何人(なにびと)もの同じ願いであると思う。ここに運命を構成する要素の第三である所の“神”または“高級霊”の出動があるのである。すでに“霊の世界”又は“心の世界”には事件の原型が出来上がっているのであるから、その光景が現実世界に映写されるべく待機している運命のフィルムを、“神”または“高級霊”によってその現実化以前に、幸運の方向に修正して頂くほかには、“凶運の霊的原型”を修正する方法は無いわけである。

 そのような修正をお願いすべき相手は“神”または“高級霊”であるが、“神”は“祈り”によって心を左右されて、相手に恵を垂れたり、恵みを与えることを差し控えたりされるような“愛憎の念”の持ち主ではないのである。しかし純粋に“正”と“義”をもって立ち給う“神”にわれわれの心が振り向く気持になったときには、祈る人自身の心が浄(きよ)まる。その心の浄化の程度に従って、浄化せる心の持ち主である“高級霊”の心に、祈りの念願が達して、高級霊の加護の力が動き出すことになるのである。

 それらの高級霊は“霊の世界”に住んでいるので、“霊の世界”に在って、まだ現象世界に移行していない凶運の霊的原型を破壊したり、修正したりすることができるのである。それは、あたかも上映前の映画フィルムを点検して、その映像の“悪い部分”をカットしてから映画館(現象界)で上映されるようなものである。

 それら高級霊の中にはわれわれの祖先の霊魂もふくまれている。それ故に、祖先霊に「真理の言葉」を供養して祖先霊が真理を一層悟り神通力を増し給うてわれわれ子孫を加護して厄難(やくなん)を祓(はら)って下さるように、毎朝または毎夕、仏前または神前で先祖霊に対してお経、または聖経『甘露の法雨』を読誦(とくじゅ)するがよいのである。>>(P.53−54)





先祖供養軽視の社会的風潮を改善する事こそ宗教家の使命――開祖・谷口雅春先生の説かれた先祖供養および個別霊供養を学ぶ<第二回> (4822)
日時:2014年08月17日 (日) 07時46分
名前:信徒連合



先祖供養、および個別霊の供養


<第二回>




先祖供養は子孫の義務(『霊供養入門』)


<<聖経を祖先霊の悟りのために仏前で読誦するのは法施である。仏前に物をお供えするのは物施である。人間は外面から観れば肉体であるけれども、内面からその本質を観るならば霊である。肉体には寿命というのがあって百歳を超える人は少ないけれども、人間の本質たるものを観るならば久遠不滅の霊であって滅びるということはないのである。されど、その霊がどんな心境にあるかによって、その存在状態が異なるのである。不滅のままでも、いつまでも逆境にあって唯ふらふらと存在するだけでは意義も価値もないのである。吾々の肉体の祖先の霊を顧みるならば、祖父母の霊あり、曾祖(そうそ)父母の霊ありと、それを数えて肉体死後の霊界の祖先霊を三十代も遡れば大変な巨大な人数に達するのである。
 
 その巨大な人数の祖先の霊魂のうちには既に悟りを開いて仏陀の境涯に達している者もあるが、未だに迷境を彷徨(ほうこう)して苦しんでいる霊もあるのである。このような未開悟の霊に真理を供養して悟りの境涯に入らしめ神通自在の百事如意の状態に少しでも多く達するように人間の実相の真理を供養して差し上げるのは吾々子孫の義務であり役目である。

 この書物の題名の「霊供養」というのは、親族縁族の霊に“真理の自覚”を供養して、各自の親族縁族の霊には多分まだ迷っていて自在の境涯に達していない者も多くあるにちがいないから、それらの諸霊に“人間・神の子”の真理を知らしめ“本来神通自在の境”に達するように導いて差し上げる事は、吾々子孫が先祖に尽くす最高の孝養なる布施行(ふせぎょう)と云わざるを得ないのである。その最高の布施行を実践する方法を、人類全体に伝えるために書かれたのが本書である。三世一如(さんぜいちにょ)の真理により過去・現在・未来は「今」の中にある。今、本書の読者が真理を知り真に自在の境に達するならば「一人出家すれば九族天に生まる」の真理により、九族全体があまねく天界の天人の如き自在を得ることになり、その歓びは、再びあなたに反響して来てあなたも亦(また)無上の祝福を享受せられるに相違ないのである。>>(はしがき)


<<皆さんは御先祖の霊をお祀(まつ)りして、その霊たちに真理のお経を読誦することによって「真理」を御先祖の霊に供養していられるだろうか。供養というのは、お供えして養うという意味である。養うというのは栄養になるものを食べさせて成長させることである。

 第二章で述べたように、人間は肉体が死んで魂が霊界へ行くと、もう肉体をもっていないので、肉体が食べるような物質的食物は不要になるのである、しかしながら肉体を脱して霊界へ行くと、霊魂が肉体を抜ける時の断末魔(だんまつま)の苦しみで、一時、気を失って意識がなくなり、さて肉体から去った霊魂が、霊界に転生してやがて意識を恢復(かいふく)して気がついた時、無意識中のことはわからないで、しの直前の病気のことを思い出す。そしてやはり自分の病気をしている<肉体がここにある>と思う。つまり、この霊魂はまだ肉体意識から去っていないのである。肉体が“ある”つもりなのだから食物を食べたいと思い、飲み物をほしいと思う。しかし、もう死んで焼いてしまったと思っている人にお食事を差し上げる家族はいないから、彼は“飢(う)え”や“渇(かわ)き”を感じて苦しむのである。こういう、まだ悟りをひらかぬ霊魂はその心が、地上の物質に縛(しば)りつけられているから「地縛(じばく)の霊」と心霊学ではいう。こんな霊魂のためには食物や茶湯(ちゃとう)亦は“水”をお供えしてあげねばならない。これも供養の一つである。だから施餓鬼(せがき)その他の法事のときは、まず食物や茶湯をお供えするのである。

 しかし、やがて肉体を脱した霊魂は、「自分は“肉体“ではない、”霊“である」と悟るときが来る。それは、その霊魂にとって悟りの第一歩である。悟りの基盤が出来たわけである。
 ずいぶんたくさんの霊魂がまだ「自分は肉体をもっている」と思ったままでいる。それだから、肉体の死の直前の病気のつづきを病んでいるつもりで苦しんでいるのもあるし、地上の物質的なものに対する欲をもっていて、地上の物に縛られ、「地縛の霊」になっているのである。こんな霊に、「あなたはもう肉体を脱して霊界に来ているのだ」と知らしてあげることは子孫の義務である。>>(P276−278)




分家の人は家に先祖祀りは不要か(『霊供養入門』)


<<分家であるからとて、先祖祀(まつ)りをしていないということは、やはりよくないことである。なぜかというと、先祖を祀るということは、祖先の霊が迷っている場合には、真理のお経を供養することによって悟りを深めて頂くことにもなるけれど、祖霊祭祀の意義は、祖先に対する報恩感謝の心を“自分”が起すということが根本であります。だから、先祖がみんな悟りを開いて高級霊になっていたら、何も祖先を祀る祭壇など設けなくてもよいかというと、そうではないのです。常に“自分は祖先あってこの地上に生まれさせて頂いたのだから”という因(もと)を知る心を起して、祖先に感謝礼拝するという事が大切なのです。知恩感謝ということができるのが悟りの心であります。

 つまり“悟り”ということは、ここに生きている此の個人としての生命が、神に始まり、祖先を通し父母を通して全体の生命と<つながり>があるという自覚が、悟りなんです。その悟りを如実に報恩の姿をもって表わすのが、祖先祭祀であって、そこに神と祖先の諸霊たちとの生命的一体感を起すことになる。それが先祖祀りということの意義なのです。ですから子孫が感謝のこころを起すことが、祖先が一層良き悟りを得る契機になるわけです。

 そういう意味に於いて、祖先祭祀は必要なのであるから、祖霊は本家が祀っているから、分家の私は祀らないでよいというのは間違いなのです。分家も本家と同じように祖先を祀ることによって子孫たる自分も悟りを高めるのであります。>>(P.152−153)




原因結果の法則(『霊供養入門』)


<<昔から「積善の家に余慶あり」という諺(ことわざ)がある。この場合の「家」とは建物のことではない。家系連綿として血統の続いている「一系の連続生命の流れ」のことである。先祖が人に物を施したり、多勢の人を助けたり、生命を救ったりして、善行を積んでおいた家が「積善の家」である。そんな家系に生まれた子孫は時としてあまりするどい慧敏(えいびん)な知者でもなく、温和(おとな)しい一般人でありながら、色々の機会や深切な協力者や出資者などに恵まれて自然に成功したりすることになるのである。

 これは宇宙に厳存する「与えれば与えられる」「原因あれば結果あり」「種を蒔(ま)いておけば収穫がある」「瓜(うり)の蔓(つる)には茄子(なす)はならぬ」という種類の法則によるのである。過去に良い種を蒔いてあったから良き収穫が子孫にあらわれて来つつあるのである。

 谷口家の、私にとって直系ではないが、祖母の弟で、谷口福松という人があった。彼は黒住教の深い信仰をもって「少講義」という、生長の家でいえば「教化員」というような教階をもっていて、人を助けてあるいていた。常に貧しかった。謝礼も何ももらわないで、教えを説き、加持祈祷(かじきとう)をし、「遠津神(とおかみ)笑(え)み給(た)め抜(はら)い給え潔(きよ)め給え」と簡単な神咒(しんじゅ)や、天津祝詞(あまつのりと)を唱えて、この福松先生が息吹(いぶき)を病人の患部に数回吹きかけると、多勢の人が救われた。病苦がやわらぎ、やがて快復(かいふく)するのが例であった。

 彼はいつも貧しい服装をしていても平気であった。寒い冬でも身すぼらしい薄着をして羽織(はおり)も着ずにいるので、多少裕福な信者が福松先生を気の毒に思って、「先生、この羽織をお召(め)し下さい」といって、一枚の紬(つむぎ)の紋付羽織(もんつきはおり)を差し上げて着せてあげたのであった。福松先生はその時は大変悦(よろこ)んで感謝を述べてその羽織を着て行かれたが、翌日、先生の姿を見ると、もうその羽織をお召しになっていられないので、それを差し上げた信者が、「先生、どうして昨日の羽織をお召しになりませんのですか?」とお訊(き)きすると、「ああ、すまん、すまん。あの羽織はね、わしよりズッと気の毒な貧しい人が病気で寒そうにしているので、その人に着せてあげたんや」と答えたということである。

 こういう陰徳の人が私の祖先にあった。そういう積善の陰徳が余慶(よけい)として子孫に報いてくるのである。子孫の生命というものは、祖先の生命の延長であり、従ってわれわれ子孫は、祖先の生命と一体であるのである。祖先祀(まつ)りが大切であるという所以(ゆえん)はこんな所にもある。>>(P.42−44)




祖先供養及び霊魂祭祀の祭式及び儀礼(『人生を支配する先祖供養』P.60)

<<生長の家は万教(迷信教以外の)にはいづれも真理ありとみとめるので、それぞれの宗教の儀式の伝統を尊んで他宗の祭祀の仕方を批判するつもりも、改式を勧めるつもりもない。霊魂祭祀の問題は形式や儀式作法よりも、霊的理解を得ることをもって中枢的な事項であると思うからである。(供養の順序方法等はP.61以降に説明されています)>>


(註・コメント)
上記引用の<<霊魂祭祀の問題は形式や儀式作法よりも、霊的理解を得ることをもって中枢的な事項である>>は、極めて重要な事であります。よく聞くことでありますが、お坊さんに毎月お詣(まい)りに来てもらっているから先祖供養は十分だ、毎月お墓詣りをしているから先祖供養は十分だ。と、考えている人が大勢いますがそうではありません。先祖供養の基本的心構えは、(1)御先祖への感謝、(2)日常語で書かれた「真理の言葉」を捧げる、(3)他人任せにせず自分自身で供養することであります。一つにまとめると、毎日の日課として、仏前(神前)に座ってご先祖の諸霊に感謝を捧げ、自分自身でご先祖の御霊を招霊して、日常語で書かれてあってその意味が理解できる「真理の言葉(その宗教の聖典・経典)」を読誦することであります。最高の「真理の言葉」は『聖経・甘露の法雨』であります。





先祖供養軽視の社会的風潮を改善する事こそ宗教家の使命――開祖・谷口雅春先生の説かれた先祖供養および個別霊供養を学ぶ<第三回> (4844)
日時:2014年08月18日 (月) 16時46分
名前:信徒連合



先祖供養、および個別霊の供養


<第三回>




霊による現実界への影響――<憑依(ひょうい)について>(『霊供養入門』P.231−234)


<<聖経『甘露の法雨』に次にような一説があります。「霊姿に甲乙あり、病める霊あり、苦しめる霊あり、胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、」霊眼でみると「霊姿に甲乙あり」――即ち、霊の姿にも色々の状態がある。病んでいる霊がある。苦しんでいる霊がある。「胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊」もあるというのである。日本では死骸(しがい)を焼いてしまう。だから肉体の胃袋も一緒にやけてしまって、灰になっているから、胃袋は無い。それでも、胃病になって苦しんでいる霊がある。「心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊」もある。死骸は焼場へ行って焼いてしまったから、その肉体の心臓は無くなってしまっているのに、霊魂だけが、心臓病の続きをして苦しんでいるということがある。

「これすべて迷いなり。斯(か)くの如き霊、人に憑(よ)れば憑られたる人あるいは胃病を顕わし、或いは心臓病を顕わす。」そこで、このように霊界において迷っていたり、あるいは病気で苦しんでいる霊がいると、「なんとか救われたい」と思って、その霊が“頼みの心”を起す。この“頼みの心”は、親子とか孫とか親類の人とか、そういう親しい人や、感じやすい人に感ずることになる。つまり霊界を“放送局”とすると、現実界の人間が“受信機”になって感応するわけである。そして、胃病でくるしんでいる霊が「たすけてほしーい」という念波を孫娘にでも送ると、その孫娘が胃病になる。

あるいは心臓病で苦しんでいる霊魂が「救われたーい」と思って、その念波を送ると、それを受けた人が心臓病のような状態になるということになるのである。

 続いて『甘露の法雨』は、次のように説いている。「されど霊覚に映ずるさまざまの苦しめる霊は、第一義的実在にあらず、彼らは誤れる信念によりて流転せる迷いの影なり。」そのように霊眼によると、苦しんでいる霊があることが見えるけれども、その「霊覚」に見える苦しんでいる状態の霊魂は「第一義的実在にあらず」――つまり、本当は病気ではないけれども、迷いによって病気の状態を顕わしているだけである。従って、そういう霊魂に『甘露の法雨』を読んであげたら、その霊魂が救われて悟りを開き、病気の念波を送らなくなるから、それによって現実界の人間も救われるということになるのである。>>(P.231−234)




 霊による現実界への影響――<憑依(ひょうい)について>(『霊供養入門』P.234−239)


肉体は現実世界での“作業服”


<<われわれは「死ぬ」というけれども、実際は、霊魂は生き通しであるから第一義的には「死」はないのである。ところが、「現象的」にいうと、われわれの霊魂は「肉体」という、一種の“地上生活の作業服”を着て地上へ天降って来る。そして地上生活の“任期”を終えると、この「肉体」という作業服を脱いで、そして霊界へ行く。そこで、われわれが「死ぬ」という時期は、霊界から観ると、ちょうど“誕生予定日”に当るわけで、祖先の霊魂は、われわれが地上で子供の誕生を待つように霊界で待ち構えているのである。現実界からいうと「いよいよ御臨終でございます。お別れでございます」といって悲しむことになるが、本人が「人間は肉体ではなく、霊である」という悟りを開いていると、「死」は、「肉体」みたいな窮屈なものから脱出することであるから、「私は霊界へ行ったら、もっと自由自在になれるんだ」と喜び、霊魂が肉体に執着してしがみつくことはなくなるので、肉体からやすやすと脱(ぬ)ける。これは霊界における“無痛分娩”ともいえる。

 ところが「この肉体が人間だ」と思っている人は、霊魂が肉体に執着して、しがみついている。しがみついていたら、「この洋服脱がしてやろう」と思っても、なかなか脱ぎにくい。しかし、もう霊界へ誕生する時期が来ているから、いやでもこの“作業服”を引きむしらなければならない。このように肉体と霊魂の分離が難しい場合は、霊魂は“断末魔の苦しみ”というものを味わうことになる。しかし、その苦しみがあまりひどいと、神様の摂理で、ある程度以上の苦しみは感じなくなるようになっているので、霊魂は気が遠くなって無意識状態になり、その無意識状態のまま霊界へ誕生することになるのである。そこで、霊界で無意識で眠っているような状態にある間に、現実界では坊さんが来て戒名(かいみょう)をつけたり、死骸を焼場へもっていって焼いたり、土にうずめたりしても、霊魂はそういうことは一向に知らないということになる。

ところが、ある日、目を覚ますと、霊魂には何でも見える。それは外套(がいとう)を脱いでいても目が見えるのと同じで、その脱いでいる外套を誰かが焼いたとしても、どこかへうずめたとしても、自分は見える。そして「私は生きておった」と思うのである。「生きておった」と思うと、今まで眠っていた間の「時間」というものは感じない。本当に熟睡していたら何日眠っていても、その間の時間は感じないのと同じで、起きると、寝る前の直前のことを思い出す。そして、気を失う前に「あ、肺炎だった」と思い出すと、肺炎の状態が、そこに“夢のように”顕われるわけである。現実界からいうと“夢のように”という表現になるけれども、霊界は「思う通りに顕われる世界」であるから、霊魂本人にとっては“現実に”肺炎に罹(かか)っているわけである。それで苦しみながら「今日はお医者さん来てくれないか。ドクターは来ないか」と思って待っていても、ドクターは来ない。そこで「仕方がない。家族でも呼ぶより仕方がない」というわけで、霊魂は一心に家族や親族を呼ぶのである。その“呼び声”は、霊には声帯がないから耳に聞こえる声ではないけれども、これは一種の“心の波”である。この“心の波”が、近親の親とか孫などにひっかかって、そこで近親者が病気の状態になるということになるわけである。(P.234−237)




『甘露の法雨』の功徳


<<このような迷っている霊魂に対して『甘露の法雨』を読んであげると、そこには「肉体も物質も、そんなものは無い。罪も病も無い」ということが書いてあるので、霊魂は「おやっ?」と気がつく。そして霊界では“現実に”自分には“肉体”がないのであるから、「肉体も何もないのに、病気の姿を顕わしていた」ということを聞かされると、催眠術をかけられてビッコを引いていた人が、術者に「さ、もう足は治った」と言われると、ちゃんと立ち上がるのと同じように、病気が治ってしまうということになるわけである。そうすると、霊界から病的な心の波を送っていた放送局が送信しなくなるので、こちらの現実界でもその病念の波の放送を受信していた人が癒されてしまうということになるのである。

祖先の霊魂たちは、いろいろの種類の病気に罹(かか)ったままで霊界へ移転したのであるから、霊界からの影響による病気は「何病だけ」と特定するわけにはいかない。祖先が「何々病で死んだ」という病気の数だけ、霊界の病人たちから病念の放送が来ているわけである。>>(P.237−238)




霊界での時間のサイクル


<<ところで、霊界へ行った霊魂は、すぐに目がさめるわけではないのであり、中には二十年も三十年もねむっているものもある。霊界の時間のサイクルは、この現実界の時間のサイクルとは違う。だから、現実界で「三十年」というと、随分長いように感じられるけれども、霊界では「一分間のごとし」であって、大した長さではないのである。霊魂は、眠っている間は苦しみを感じないものであるから、心臓病で死んだ人の霊魂でも、この眠っているあいだは心臓病の念波をおくらない。ところが、現実界のサイクルで二十年なり三十年なりの時間がたって目を覚ましたら、まえの心臓病の状態を思い出して「ああ心臓が苦しい誰か助けてほしい」と思って、その病気の念波を放送するようになる。そして現実界の人間がその念波を受けたら、心臓病に罹(かか)るということになるのである。

死ぬと同時に病気の念波を送るのではないのであって、目が覚めてから病念を送る。ところがいつになったら霊魂の目が覚めるかは決まっていないから、祖先の霊魂の中に病気で死んだ人がある場合には、現実界では、その放送を受けた時に、「突然に」病気が顕われるということにもなるわけである。>>(P.238−239)


(註・コメント)

<霊界での時間のサイクル>のことは非常に大切な事でありまして、毎日の日課として心を込めて先祖供養をしていながら不都合な病気等が家族に起こって来る場合があるのは、遡れば多勢の御先祖様の霊魂の中には非常に長年月のあいだ霊界で昏睡状態でいてその霊魂が時期が来て覚醒されるケースがあるわけです。

この間の実際の事情は各家庭によって千差万別であります。したがって、先祖供養はこれで充分だと考えずに継続してゆく事が極めて大切であります。ここまで行き届いて先祖供養のことを説かれている宗教家は開祖・谷口雅春先生のほかには中々見当たらないと思われます。




迷霊の存在についての考察(『人生を支配する先祖供養』)


人間の脳髄は精神電波の受信機


<<人間の脳髄というものが一種の精神電波の受信機であり、高級霊界からの放送霊波をインスピレーションとして受け取る事もできるし、迷界からの怨念(おんねん)や呪詛(じゅそ)の霊波をも受信して、それによって行動することもあり得るからである。>>(P.132)



ヴィールスの背後にあるもの


<<黴菌(ばいきん)とかヴィールスとかいう微生物が如何にして発生したかという問題になると、「生命の起源論」というよりも「生物の起源論」として重大な問題になるのである。これは人間を構成している細胞がいかにして発生したかの問題とつながって考えられる問題である。

人間の細胞が発生し増殖して行くのは人間の「生命」という霊的実在がその背後にあって物質の分子・原子をその適当な相(すがた)にならべて「細胞」をつくり出すのである。「生命」が去ったらもう細胞をつくり出さない。霊的実在が細胞を或る一定の形につくりならべる事に或る影響を与えるのは当然である。同じ土壌や肥料成分を、朝顔の「生命」は朝顔の細胞の形にならべ、ダリヤの「生命」はダリヤの細胞の形に物質の原子分子をならべる。

それなら小児マヒ病原体ヴィールスの形に物質の分子原子をならべる霊的影響者がなければならない。私はその霊的影響者を霊界に於ける迷霊だと説いたのである。>>(P.109−110)



何故先祖を祀らない人でも小児麻痺にかからぬか


<<祖先の霊魂を祀らない人が必ずしも小児麻痺になるのではない。幼児が小児マヒになるといっても、幼児は「霊魂を祀る」というような意識が発達していないのであるから、幼児に責任がある訳ではない。

従って迷っている霊が現実界の人々にその病的精神波動を送るのも、別にその幼児に特定の恨みがある訳でも、その責任を追及する訳でもない。自分自身が救われたいから、誰か親類縁者に救われたいと思ってその悲痛な「想念」を放送するだけである。

その放送の「想念」の波が全部現実界の人々に感受する訳ではない。放送局が無数にあっても波長の合わぬラジオ・セットには感受しないようなものである。だから軒並みに「祖先の霊魂を祀らない人」が小児マヒにかかる訳ではない。ただその悲痛の念波を感受し易い状態にある人だけが、その念波を感受し、その念波と同じような形を肉体に顕して病気に罹るのである。併し、放送がなければ受信機はあっても感受しないように、霊界の迷える霊を聖経の読誦によって悟らしめることができれば、病念の放送はなくなり、従って病念感受のためにおこる病気もなくなるのである。>>(P.109−111)



祀られない霊魂は悉く苦しんでいるか


<<霊界に於ける霊魂の生活状態や、その苦痛や悦びの状態は必ずしも一様ではない。祀って貰わない霊魂でも、生前、人々を救う為に無数に慈善や愛他行を実行した人々の霊魂はその慈悲愛他行の報いとして自由自在の境涯にいるし、幾度も生まれ変って修行を積んだ霊魂は高き悟りに達していて、実相無礙の境涯にいるのである。

だから祀らない霊魂が悉く迷っていて、その迷いの精神波動が現実界の子供に病気を起す訳ではない。またそれほど最高の悟りに達していないでも普通の高さにある霊魂は、現世と相似た生活を送っていて現実界に救いをもとめて、悲痛な念波を送っている訳ではない。霊界は大別すれば七階層にわかれていて、その各々の状態がどんな有様であるかは、私の別の著書『人間死んでもしなぬ』をお読み下さい。>>(P.111)







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