生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
先祖供養軽視の社会的風潮を改善する事こそ宗教家の使命――開祖・谷口雅春先生の説かれた先祖供養および個別霊供養を学ぶ<第七回> <第八回・最終> (4897) |
- 日時:2014年08月22日 (金) 08時43分
名前:信徒連合
テレビ番組で、現代人の40%近くは「墓地の菅理は子孫の責任ではない」とのアンケート調査の発表があったという。これはまことに憂うべき実態であります。荒廃した墓地は増加の一途をたどっています。常識では考えられない凄惨な事件が発生する事と先祖供養の軽視との社会風潮とは決して無関係ではありません。三代目・マサノブ総裁は講習会でも「先祖供養」等の霊と霊界・輪廻転生・過去世と現世と未来世にまたがる宇宙の法則としての因果律は一切説かないのです。彼は完全な唯物論者であります。悲惨な社会的事件を少なくしていく為にも「先祖供養」・「個別霊供養」はますます大切と考えられなければなりません。「マサノブ教団」の「今の教え」では説かない開祖・谷口雅春先生の「先祖供養」と「個別霊供養」をもう一度学び返しましょう。 「生長の家 今昔物語」から転載いたします。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先祖供養、および個別霊の供養
<第七回>
特に、中絶児供養について(『流産児よ、やすらかに』・楠本加美野偏著
<<谷口雅春先生の御言葉にありますように、「業(ごう)というものは何処に実在しているかといえば、潜在意識の中につかまれているのであって・・・潜在意識を浄化すれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は消えてしまうものだということが証明された」のです。
ここが大切なところです。先祖が迷っているから聖経をあげて聖経の功徳によって先祖に悟って貰わないと罪業が消えないという考え方は迷いであって、自分の心を浄化すれば先祖からの罪業も消えるわけなのです。
これは流産児についても言えることであって流産児があの世で迷っているから供養せねばならないというのは間違いなのです。胎児を殺したという罪の自己処罰として自分が苦しむのです。ですから水子地蔵をつくって流産児をなぐさめてみても、高価な供養料を捧げて供養して貰っても自分の心の中に罪の自覚がある限り問題は解決できないわけなのです。・・・
私は富士河口湖道場へ転勤になりました。 霊峰富士のふもとにある道場は恵まれた環境にありました。それにふさわしく道場を浄めるため、『甘露の法雨』を当番制によって一日中読誦する行事をはじめました。すると観世音菩薩の像を寄付する人が次々とでてきました。『甘露の法雨』は観世音菩薩が谷口先生を通して書かれたものですから波長があって引き寄せられたと思われます。
あるとき千葉県白鳩会の有志が慈母観音を寄付して下さいました。中絶児供養の願をこめてつくられたものでした。それは昭和五十二年八月十八日のことでした。そこで私は、九月より今まで先祖供養と一緒にしていた流産児供養を別にして、流産児のためだけに私が祭主となってやるようにしました。それは戦後堕(お)ろされた六千万の中絶児の供養のためでありました。
このようにして、流産児供養を別にしてするようになりましてから、救われる錬成参加者が続出しましたので、私自身びっくりしてしまいました。何故そういうことになったのか、私自身不思議でなりませんでした。それは、後になり谷口雅春先生より次のような御教示を頂くことにより氷解しました。
一、諸家に関わる先祖の御魂と流産児の御霊とはおのずから位が異なるので、それぞれにふさわしき供養をする。
一、練成会で先祖の御霊と流産児の御霊とを合同で供養する場合には、“降霊の儀”において、まず諸家に関わる先祖の御霊達に降りて戴きたる後、「ただ今より、実相妙楽宮地蔵菩薩傘下にある流産児の御霊達に降霊して戴きます」とことわりて、流産児の御霊達を次に降霊し供養する、と。
先祖供養と流産児供養を一緒にしていた為、先祖供養の気持で流産児供養をしていたり、その逆であったりして成果があがらなかったわけです。先祖供養は感謝・報恩の心でやり、流産児供養は愛と懺悔の心でやることが大切なのです。同じテレビ放送でもチャンネルが違えば、何も映らなかったり、検討外れの番組が映ったりするようなもので、一所懸命していても、なかなかその思いが届かず効果も上がらないということを、教えて頂いたのでした。>>(P.220−222)
堕胎は戦争の原因となる
<<殺した者が殺されるという原因結果の法則“動・反動の法則”は結局、循り循って、戦争となり、多くの人が殺されることになるのであります。何故、「殺したものが殺される」という因果の法則が、戦争の形をとって来るかと言いますと、そのような胎児虐殺の行為を敢えてする人の人生観の奥にあるのは、「この世界はどうせ弱肉強食の世界であって、相手を殺さねば自分が殺される」という哲学又は世界観があるからであります。世界の軍備拡大競争も、この弱肉強食の世界観・人生観が背後にあってそれを動かしているのであります。「或る個人又は団体が栄えるためには、誰かが犠牲にならなければならない」――この様な世界観・人生観をもっている限り、自国の繁栄を画策するために は他国を侵略する事を辞せないと云うことになるのであります。
世界に平和を持ち来たそうとおもったならば、このような弱肉強食の人生観、誰かの繁栄のためには犠牲を必要とする如き人生観を排除して、調和のある人生観――この世界は神の創った世界であるから、完全に調和していて、犠牲などを決して必要としない共存共栄の状態が実相である――という生長の家式の人生観・世界観を全世界に弘め、胎児暗殺の如き「殺害の業」を重ねる行為は即時停止するようにしなければならないのであります。>>(P.209−210)
戦争も人類の自己処罰である
<< 唯物論の人生観は、物質は有限であるから自分が裕かになるためには他から奪わねばならない。かくて弱者は強者の犠牲にならねばならない。弱肉強食の闘争的人生観は唯物論から来るのである。唯物論を根本的に破摧(はさい)しなければ世界に平和などは来るものではない。また戦争は人類の罪悪観念から来る自己処罰の結果からも来るのである。胎児暗殺などを平気でやっていると、現在意識は平気かも知れないけれども潜在意識は、それが殺人行為であり、罪悪だということをよく知っている。そして「罪ある者は苦しみによって贖(あがな)わねばならな」という贖いの観念は全人類の潜在意識に横たわる。人工流産した者が度々それを繰り返すのも、自己をを罰するために堕胎手術を繰り返し、ついに自分の欲する頃に、子宝を得ようと思っても得られなくなる。
米国の精神身体医学の泰斗(たいとう)カール・A・メニンジャー博士は、罪悪観念による自己処罰のために、幾度でも自分の肉体を毀傷(きしょう)する手術を繰り返す患者の実例を無数に、その著『おのれに背くもの』に掲げている。多くの妻は人口流産のあと、或る程度のノイローゼに罹る。子供に対する愛が満足できなかったことと、胎児を兎も角、自分の合意によって殺したという罪悪の念による自己処罰である。それらの罪悪観念が、自己処罰として、手術による「自己毀損」を行い、「臓器の自殺」として内蔵の病気を起し、精神的煩悶によるノイローゼを起すことは個人の不幸についての社会問題であるが、カール・メニンジャー博士は、その著『おのれに背くもの』の中には次のように書いて、戦争もまた人間の罪悪観念から来る自己処罰であることを「劇的に証明するものだ」と言っているのであります。――
『----------いやしくも、物を考える人にとっては「戦勝」なるものは存在せず、勝てる者も敗れし者と同様に、償いのつかぬ損失を蒙るという点について疑念の余地がない。この意味において、まさしく戦争は実質的な自己破壊である---------時として、その反対現象であるかのように見えるにしても----------。国民がこのような自殺的傾向を示すとき、世界の如何なる国の内部にもこの傾向を冷酷に指示しようとする分子が存在する。彼等の国際組織は、恐るべき奇態な癌である。この癌は、それによって破滅の淵に追いこまれる人々から大っぴらに培養されて繁殖する。第一次世界大戦当時、ドイツ人は自国ドイツ製の信管を装置された手榴弾によって殺され、英国の戦闘艦は、トルコに売られた英国製の機雷によって撃沈されたのである。ジェットランド沖海戦では、ドイツ海軍は、その艦砲を製作したと同じ会社で作られた、つまり自国製の防御装甲板に向かって砲弾を叩きつけたのである。開戦から終戦に至るまで、交戦諸国の人民は、味方によって発明、製造され、そして敵方に配給された武器によって虐殺されたのである--------
現に私がこれを書いている今、世界戦争の暗影はわれわれの眼前に大きく立ちはだかり個人的、ならびに国民的自己破壊をひっくるめて、1914年−18年の大戦よりも、さらに烈しい世界的自殺と置き変えようとして、ひきつるような努力をしているのだ。かかる集団自殺が、嬉々として準備されている光景を眼のあたりに見れば、自省的な観察者は深刻な恐怖の念に襲われ、超大型の心臓の持ち主といえども、不安に戦(おのの)かざるを得ぬであろう。---------』
こう言って、メニンジャー博士は第二次世界大戦を予言したが、それは不幸にしてその予言通り実現したのである。しかもそのときよりも一層おおいなる「世界戦争の暗影は吾々の眼前に一層大きく立ちはだかっている」のであります。誰が、アメリカで発明され、そしてソ連のスパイによってその製造方法を盗用されて造られた原爆――それから出発した水爆弾頭をつけた大陸間弾道弾がアメリカを「死の灰」と化せないと断言し得るであろう。アメリカで発明された原水爆がアメリカを焦土と化するのは当(まさ)にこれ自己処罰にほかならないのです。
戦争は人類の罪悪観念による自己処罰より起こる、それは巧みに唯物論の世界観にからみ合い、弱肉強食の人生観から自然に生ずる奪い合い、殺し合い――その罪悪を潜在意識が知るがゆえに、その罪悪観念から来る自己処罰――それが次第に重積拡大して大量の自己虐殺となる原水爆戦争となろうとしつつあるのであります。
この際、迫り来る第三次世界大戦を避けるためには、
(1)唯物論的世界観を唯心論に変え――更にそれを一歩進めて唯神実相論の哲学にまで進展せしめ、
(2)人間は神の子の地上的顕現として、その生命を尊重すべきものである根拠を明らかにし、
(3)誰か犠牲が無ければ繁栄幸福が得られないというような闘争的弱肉強食の人生観を払拭せしめ、
(4)胎児等、苟(いや)しくも生き物を殺すような行為を恐懼(きょうく)して慎ましめ、「殺すものは殺される」の因果関係を断ち切り、
(5)人間は“罪の子”なりという、在来のあやまれる宗教観念を払拭して、罪悪観念の結果として来る自己処罰による、個人的自己毀損及び集団的自殺行為(戦争)の必要なきに至らしめるほかはないのであります。 これを為すためには、どうしても生長の家式の唯神実相論による人間神の子本来無罪の宗教を広く宣布して人類全体をして自己処罰の必要なく、横の人間関係に於いて奪い合い殺し合う必要なしに縦から神と人間との関係によって、神意を行ずることによって繁栄と幸福とをかち得るものであることを自覚せしめるほかはないのであります。
以上、谷口雅春先生は、唯物的人間観が最も極端な形であらわれた堕胎(だたい)という大量の殺人行為が、いかに大きな禍根を国家、人類の上にもたらすものであるかをお説き下さいました。このほか、谷口雅春先生は別項に於いて、その後頻々として起こる風水害による多数の死者や、年々増加する一方の交通事故死についても言及され、これらも霊的見地からするならば、六千万胎児の悲しみの姿のあらわれであり、また民族の自己処罰の姿であると警告しておられるのであります。
因(ちな)みに、昨年から今年(昭和五十九年)にかけての異常な寒さ、明治以来の降雪も再び日の目を見ることのなかった優生保護法改正運動への霊界からの悲しみの顕われのように私には思えてならないのです。いずれにしましても、幼い生命を救い、流産児の魂を救う運動は、日本民族の為にも世界の平和の為にも、個人の幸せの為にも、今ほど大切な時はないのではないかと思うのです。>>(P.210−214)
体験例・形式と愛
<<ある女性が練成をうけに来ました。彼女は巳むを得ない事情で中絶したのです。浄心行の時に、彼女は心から懺悔しました。 「子供はどんなに親の愛を求めているか知れない。それなのに、私は顔を見てあげることも、抱いてあげることも全部、自分の手で断ち切ってしまった。今、暗闇の中で私の赤ちゃんがどんな思いをして、私を求めて泣き叫んでいるかと思うと堪らなくなって、声をあげて泣きました。合掌しながら心の中では懸命に、見えない赤ちゃんに向かって、両手を広げているのでした。“早くお母さんの懐に帰っておいで、思いきり抱きしめてあげるから、早くお母さんの懐に帰っておいで”と命の叫びをあげているのです。いつか私は赤ちゃんを懐に抱いたまま合掌しているように思えました。身をもって、私に生命の尊さを教えてくれた赤ちゃん、私は心から赤ちゃんに感謝しました」
この言葉の一言一句の中には母性愛が一杯に満たされています。わが子に対する深い愛からほとばしる懺悔の言葉で綴られています。この愛と懺悔こそ、供養するにあたって最も大切なことなのです。
愛することによって自分が救われるのです。懺悔することによって罪は消えるのです。決して形ではないのです。よくどのようにしてお祀りすればよいでしょうかという問い合わせをしてこられますが、形式ではありません。この方のような、愛と懺悔の心こそ第一なのです。
彼女は新生の喜びに満たされ、一般練成に引き続き、伝道練成にも参加しました。最後の伝道行の日、彼女は“神様、私を本当に必要としている人に合わしめ給え、導き給え”と真剣に祈りました。そして引き付けられるようにして、とある家に入ったのです。 その家には、三歳の時に小児麻痺になり、そのままの状態で九年間を過ごした女の子が一人いることを知りました。彼女は言うつもりのなかった自分の妊娠中絶の体験を話してしまいました。それを聞いた母親は「実は、私も赤ちゃんを堕ろしたことがある。でも貴女のように一度も可哀相だなんて思ってみたこともなく、供養もしていない。ところが堕胎してから一週間目に、この子は小児麻痺になって、それからずっと九年間も苦しんでいる」というのでした。
「何よりもまず第一に、堕ろした赤ちゃんにお経やお線香をあげて、供養してあげて下さい。どんなに子供は親の愛を求めているか、わからないのですよ。堕ろされた胎児(赤ちゃん)が、その女の子供さんを通じて、お母さんの愛を求めているのですよ。一日に一回でもいいから、その子供さんを堕ろした赤ちゃんだと思って、思いっきり抱きしめてあげて下さい」と彼女は母親に話しました。
ふと、その女の子を見ると、上目づかいに一所懸命に彼女をみつめている。彼女には、迷っている霊が話を聞いていたかのように思えたといいます。時間が来たので、子供さんに『甘露の法雨』を誦げて帰りましたが、そのお母さんは駅まで見送って下さいました。
帰りの電車の中で、彼女はしみじみと思いました。今までの自分だったら、あのような話を聞いても“まあそれはお気の毒ですね”と通り一遍の言葉しかかけられなかっただろう。同じ苦しみを経験した者でなければ、その人の本当の苦しみを知ることが出来ない。私はあのようは人を救うために、ああいう体験をしたのだ――
自分が救われるだけでなく、更にその体験を生かして同じように悩んでいる人を救うことによって、過去の暗い思い出は消え、罪の意識は洗われ、世の為、人の為に役立ち光り輝く思い出となるわけです。彼女は、新たな使命感に燃えました。彼女は、日本全国の婦人の約半数をしめる妊娠中絶経験者に訴えている。
「もし私と同じように胎児を堕ろされた方がいましたら、私はその方に呼びかけたいのです“貴女の赤ちゃんは、今どんなに貴女の愛を求めているかわからないのです。貴女の胸に抱かれたいと、どんなに思っているかわからないのです。赤ちゃんの生命の叫びを聞いてあげて下さい。そして、心で思いきり、抱きしめてあげて欲しいのです。声をかけてあげて欲しいのです。その時こそ、貴女は赤ちゃんと一体だと感じることが出来るでしょう。共に立ち上がりましょう。再び不幸が繰り返されないように、優生保護法が一刻も早く改正されるように、貴女が勇気を出して立ち上がったとき、貴女の赤ちゃんは永遠に生き続け、霊界に於いてその使命を果たす事が出来るのです”と」
彼女の訴えは、女性が本質的にもっている母性としての愛の叫びである。このような母性本能にうったえる愛の運動こそ優生保護法を改正する原動力であって、人工中絶の弊害を強調して恐怖心をあたえるだけでは、神の御心は実現しないのです。
親が自分の罪に泣きくれていても中絶児は救われません、このように他の救いの為に立ち上がったとき中絶児も霊界に於いて親と共に使命を果たすことが出来るのです――
以上のような講話をして流産児の供養をしたところ、錬成参加者一同が懺悔の涙を流しました。病が癒されるもの、非行少年少女が更生するもの等、顕著な体験が続出するようになったのです。一方河口湖道場での過去数年間の体験談から問題別に体験集の小冊子をつくりました。親子、病気、恋愛、結婚、夫婦、繁栄-------十冊の小冊子をつくり頒布しましたところ「中絶児は問題児を通して訴える」の小冊子が圧倒的に売れ出しました。又伝道訪問先でも最もそれが求められていることがわかりました。それではということで、その冊子の河口湖町、吉田市の全戸頒布運動が展開されました。そうしましたら、同じような悩みをもった、地元の人々が錬成に参加するようになり、長い間願っていた地元の光明化にも大きな力となりました。
昭和五十六年に入ると流産児供養による体験は更に大きく、続出するようになりました。この年、十一月には龍宮住吉霊宮が建立されました。祭神は伊邪那美大神で霊界を浄化するためでした。霊界の浄化には戦後堕ろされた六千万流産児を救うことが何よりも急がれます。奇蹟が続出したのは、伊邪那美大神の浄化の御力によって中絶児が救われたのであると拝察されます。
私はその十一月に飛田給へ転勤が突如として決定、十二月一日から赴任しました。飛田給の設立動機を考えますと終戦直後、進駐軍の黒人の兵隊と情交し妊娠し、半黒の混血児を妊娠したのを恥じて自殺する婦人などが続出し、それらを救うために、飛田給の病院跡を無痛分娩産院にして母体も胎児も共に救うようにしたいと谷口雅春先生が切願されたのが直接の契機でした。
こうした谷口先生の胎児救済の切願によって設立された道場に神の摂理によって私も導かれ毎月八日には流産児の供養をするようになり、飛田給に於いてもこの本に掲げられたように如何なる方法によっても解決しなかった青少年問題や様々な問題が、きれいに解決してしまうというような奇蹟が毎月続出し、全国的な関心と注目を集めるようになってきました。――これが、私が流産児供養と幼い生命を救う伝道活動とに挺身するに至った経緯です。>>(P.222−227)
-
|
|
先祖供養軽視の社会的風潮を改善する事こそ宗教家の使命――開祖・谷口雅春先生の説かれた先祖供養および個別霊供養を学ぶ<第八回・最終> (4912) |
- 日時:2014年08月23日 (土) 07時20分
名前:信徒連合
先祖供養、および個別霊の供養
<第八回・最終>
<再び、特に現代社会の重要事項である“念の憑依・直接憑依”とその対策について>
『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻(P.107)
<<現世の生活中、われわれは自己自身の傾向および喝仰の如何に従って、高級または低級のスピリットの影響ないし干渉を受けることがある。われらは自己がある状態および思考によって、善霊または悪霊を惹きつけたり拒斥(きょせき)したりする、約言すれば各人の霊魂は現世にいながら幽界の同僚をもつのである。>>
『生命の實相』第10巻・霊界篇下巻(P.188・190−191)
<<霊魂が憑(つ)くというのは・・・念波による遠隔操縦の場合もあれば、霊魂が来て直接操縦する場合もあります。>>(P.188)
<<人間がそういう動物に憑(つ)かれないようにするには、・・・心をポカンと放心的にしないことが第一です。それから、動物のような低劣な精神を起こさないことが第二です。心が虚になり放心的になると他の霊魂が乗り憑(うつ)って来ますし、心を虚にしないでも自分が動物同様の下らない念波を起こすと、その瞬間に悪霊の念波と波長が合うために感応してくるのです。ところで精神統一というと、何も思わないで心がウットリとして来るのがよいのだと思う人がありますが、心は何も思わないでウットリとしているのは霊媒状態すなわち他の霊魂に乗り移られる時の精神統一状態であって、神想観の場合の精神統一状態ではないのです。・・・心がうっとりするというのは霊媒のトランス状態のことです。元来、精神統一法に二種あって、心を虚にする精神統一と、心を実にする精神統一とがあるのです。霊媒を養成する場合の精神統一法は心を虚にする精神統一法であって、わが霊魂が一時遊離して肉体を操縦する権利を放棄して、わずかに霊線によって肉体に繋留されているというだけになっているのですから、他の霊魂がその肉体に入り来ってそれを操縦するのです。神想観の精神統一法はそういう精神統一法ではなく、心を充実の極にする。・・・>>(P.190−191)
『人間死んでも死なぬ』(P.118−120)
<<その酒場には・・・一人の内儀(おかみ)さんが、ほんの一杯だけと思って酒場へ入って来ているのであった。内儀さんの側には霊界から舞い戻ってきていた飲酒家の霊魂が立っていた。彼女はどうかしてその内儀さんの飲む酒を横取りして飲みたいと思った。併しもう地上の肉体を失っている彼女にはそれが出来なかった。いつまでも執拗に内儀さんの側にまつわりついて内儀さんの肉体を通して自分の飲酒欲を満たそうとつとめていた。で、内儀さんは、最初酒場へ足を踏み入れた時の決心を忘れてしまって、しきりに杯を重ねていた。・・・一週間ばかりの間、彼女(霊魂)は始終その酒場にうろついて呑みに入って来る人達に憑依しては自分の渇欲を充たそうと勤めてみた。・・・なぜ霊魂が地上の人間を誘惑することを許されるのだろうか・・・一つには霊魂はかくの如き試みによってのみはじめて自ら自分の非をさとり得るからである。二つには、誘惑される者に、誘惑される資格があるからである。あの場合の内儀さんは彼女(霊魂)が誘惑しなかったにしても、他の現実界の人が誘惑し得る如き心的状態にいたのである。悪霊に憑かれる者は彼自身がその程度の低さにいるからである。>>
『人生を支配する先祖供養』(P.132)
<<人間の脳髄というものが一種の精神電波の受信機であり、高級霊界からの放送霊波をインスピレーションとして受けることもできるし、迷界からの怨念(おんねん)や呪詛(じゅそ)の霊波をも受信して、それによって行動することもあり得るからである。・・・前者の場合には素晴らしい発明や創作や企画や構図が生まれて来るのであるが、後者の場合には自ら選んで・・・惨害(さんがい)を受けることすらあるのである。>>
『霊界の妻は語る』(第11章・直接憑依現象、P.231−246)
<<「・・・今、私はこの霊媒を通してあなたに話しているのではありません。霊媒の中にいて話しているのです。・・・私、一時的にこの人の肉体を使うことを許された・・・私は肉体的な感覚を全部とり戻したのです。・・・霊媒の体の中へ入れるぞ、入って中から話すことができるぞと教えて下さる者があるのです。・・・私は自然にスッポリと霊媒の肉体の中に、このように入ってしまったのです。>>(P.234)
<<霊界から誰かが霊媒の身体を占領した場合には、霊媒は常に烈(はげ)しい危険に晒(さら)されているのです。>>(P.246)
『人生を支配する先祖供養』(P.57)
<<敵意を持つ念霊が殖えれば殖えるほど、この世界に禍(わざわい)が一層多く生ずることになるのである。・・・日本の交通事故の多いのも、堕胎児の死の刹那(せつな)の怨念が、大人に恨みを返すために禍(わざわい)していると解釈できるのである。>>
『龍宮住吉霊宮落慶鎮座大祭の祝詞』
<<元乱れて影、完(まった)からずと謂(い)う、心霊界紊(みだ)れて、現象界はその影なりせば、現象界に顕われている世界の奥にある穏やかならざる「心の世界」・・・現(うつ)しこの世の現象世界に顕われきたる諸々の悪しき業(ごう)、因縁の源を浄化し奉りて、物質文明の秩序を整理し謹みて「古事記」の為さんとして為し終えざりし神業を此の世において完全の相に整えしめ奉つらんとして吾等今起ちぬ。>>
『霊界の妻は語る』(P.395−396)
<<あんたがあんたの正守護霊と心の波長が合っていたら、何者もあなたの肉の宮に入ることは出来ません。何故なら、あなたは生きている神の宮だからです。常に祈ることです。常にへりくだって愛をもつことです。霊的になることによって、あなたは何物も貴方を害することができないように蔽(おお)い護るところのものを引き寄せることができるのです。>>
<コメント>
平成現代の日本および世界の宗教界に於いて、目に見えない霊界と目に見える三次元現象世界との関係を正しくそして総合的に説いているところはやはり生長の家だけではなかろうか。但し、第三代目・谷口雅宣先生の「今の教え」ではなく、開祖・谷口雅春先生の「本来の御教え」であります。
現代社会に於いては生長の家の役割は以下のように、極めて重要なるものを持っているのであります。現代社会の最大欠陥は、人間社会のいろいろな事件、出来事はその原型は霊界で作られ、それが目に見える現象界へ映し出されていると云う事を正確に理解している人がほとんどいないということであります。
この目に見える現象世界に起こる不幸な出来事は霊界なんかとは何も関係は無い。目に見える世界の中で(肉体)人間の(肉体)頭脳の知恵で解決策を考えなければならないというわけであります。不幸な出来事の根本的原因は目に見える世界の中だけでは分からないことが多いのであるから、物質的な手段・対策で応急的に対処しているわけであります。
根本原因が目に見えない「霊界」・「心の世界」にあり、「霊界に於ける死者の想い」にあることが理解出来ない訳であります。社会的指導クラスの人達、政治家・学者・経営者・医者・学校の先生・特に霊的に優れた人を除く普通の宗教家など皆、理解してはおられないし、むしろそのような事は非科学的迷信的なことと、頭から理解しようとすらされないのであります。第三代目・谷口雅宣先生もその一人であります。
事はまことに簡単であります。基本的な事は、――
(1)人間社会のいろいろな事件、出来事はその原型は霊界で作られ、それが目に見える現象界へ映し出されていると云う事を信じること、子供はそのように小さい時から教えて育てる。
(2)人間社会のいろいろな不幸な事件、出来事の根本原因は霊界にあるわけでありますから、霊の世界の想念の浄化が先ず為されなければならないのであります。
(3)霊の世界で病・悩・苦の状態にある迷霊の心に真理の想念をこの三次元世界から念送し、病・悩・苦の心の状態を解消して差し上げ、真理の自覚を高めてあげる。これが“先祖供養”であり“個別霊供養”であり“水子(中絶児)供養”であります。
(4)これらの『霊供養』をお坊さんのような職業人に頼まず、自分自身で自ら心を込めて出来るだけ毎日行なう事。此の“自分自身で自ら心を込めて出来るだけ毎日行なう事”を強調する人はいないのではないでしょうか。霊的な縁が最も深い身内の人こそ最も心が籠もるからであります。
(5)供養をする人が経文の真理の言葉を理解しながら真理を念送すれば霊界の受信者(先祖霊と個別霊)も真理(唯神實相の真理)の理解が容易であります。従って、現代日常語で書かれている『甘露の法雨』に優るものはありません。この点、職業僧侶の読む漢文のお経は高度な悟りに達した僧侶以外はどの程度真理が念送されているかは疑問であります
このようにして日本国中の家庭で先祖供養・そのときに応じた先祖供養・個別霊供養・水子(中絶児)供養をその家の人自ら本人が毎日励行するならば、自然災害は減り、難病・奇病は少なくなり、凶悪事件も少なくなり、不登校・引き篭もり・いじめ・学級崩壊も防げる、そしてホームレスも少なくなり自殺も無くなり、離婚その他の家庭崩壊も少なくなり、生活保護受給者も少なくなり、母子家庭も少なくなり、健康保険の赤字も少なくなり、国家財政の健全化にも効果が出てくるは必定であります。
現象顕現の心の法則を正しく理解し、目に見えない霊界と目に見える三次元現象世界との想念の世界に於ける相互の影響の関係を理解して、自分の家系の御先祖に感謝の心で真理の言葉を真心こめて、毎日の日課の一つとして、子孫が当然行なう義務として、先祖供養・個別霊供養・水子(中絶児)供養を自分で行なう人たちが増えていくに従って、日本国家・日本社会は本当によき国家・よき社会となって行く。まず日本国家・国民が霊的レベルを上げてゆく、そしてそれを世界全体に広げていく。このことが具体的な生長の家人類光明化運動の実践課題であります。
この方向こそ本来の生長の家の進むべき方向であります。第三代目・谷口雅宣先生が進める「信仰による世界平和」・「地球環境改善」は、<目に見えない霊界と目に見える三次元現象世界との想念の世界に於ける相互の影響の関係>を全く無視した唯物論(物だけ)思考で左翼主義者と同じ思考方向であります。
更に言えば、個性命としての無限の進化向上(実相顕現)を目指して今生は地球上で魂の修行をつづける我々は、上記のような“霊界の浄化”と共に“自己の神性(仏性)顕現”のための“内観(神想観)”も怠ってはならないのであります。縦と横の双方相俟って“類は友を呼ぶ”法則のもと、不幸な出来事への必要以上の遭遇もなく前進と上昇の今生の地上人生が送れ、卒業の時来れば歓喜して次なる輪廻転生へと個性命(霊魂)としての我々は登っていく事ができるのであります。
この様に考えれば第三代目・谷口雅宣先生の『今の教え』では、霊界を説かず、神想観もしなくなって行きつつありますので、看板だけの生長の家であり、実体は左翼唯物論の単なる宗教的教養団体にしか過ぎないことがハッキリと証明されているのであります。
-

|
|