生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十一話> (410)
日時:2013年03月11日 (月) 08時28分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第二十一話(通算第347話)

 
西田哲学との比較に於ける人間論 <その三>

『人間死んでも死なぬ』P.333−336




<<瞬間瞬間に変滅するところの――変滅するが故に本来<無い>ところの――肉体を<有>の連続と思わせているところのものは錯覚である。

すべての現象的にあるが如く現れているところのものに、<我>と称すべき常恒常有の連続体は無いのである。

(諸法無我)従ってこの肉体が一連続常恒常有の存在だと思われていることが錯覚であるが如く、此の「我」と思えているところの意識本質も唯(ただ)かく現れれているだけであって本来無いのだということを知らねばならぬ。

 <肉体>もなく<自我>もないのである。では全てのものは<ない>のであるか。然り、吾々の五官なく、「我」と感ずる意識もないのである。(『般若心経』。無眼耳鼻舌身意。)「我」という意識も本来ないものであって因縁所生のものであると云うことは大脳と云う意識所現の「縁」を叩き壊せば消えるので分かる。

斯く肉体なく、自我意識もなく、それらが悉く妄覚であり無常であると云うならば何が不滅であるか。そのすべてのものが無常であると云う原理“のみ”が常であり、實相であるか。仏教の一派ではこの無常の原理のみが實相であり、無常を悟ることが實相を悟り真理を悟ることであると説いて来た。

無常を悟ることが實相を悟り真理を悟ることであると説いて来たが故に、小乗仏教では無常に身をゆだねること、灰身滅智、無為にして世を終ることのみが、真理を生き實相をいきるのだと云うがように間違う者が出来てきたのである。仏教発祥地及び経由地の亡国はそのためかとおもわれる。


 瞬々刹那々々に消滅する肉体――本来無い肉体――が連続して五官面に投影されて「我」なる意識の一連続ができあがる。連続せざるものが連続せるが如く現れて「我」として感じられるのである。

昨日腹立ち昂奮(こうふん)したところの「我」も、今、家族の不幸に打ちひしがれて悲しみ打ち倒れているところの「我」も、一夜の睡眠と云う意識の連続の中断をその間にさし夾(はさ)みながら、依然として同じき自分であると感じられる。

昨日、病床で呻吟(しんぎん)していたところの「我」も、今日戦場で傷つき倒れている「我」も、共に同じき一つの「我」であると感じられる。

この立場に立つ限りに於いて、「我」とは、腹立ち、喜び、病み、且つ傷つき倒れるものであると感じられる。かかる観点に立つとき、「我」と云うものはまことにも常苦常悲に満たされているものと云わなければならない。

悲しみに泣き濡れたる人々よ、貴方たちが此の常苦常悲の人生を超越するために、私は「人間は久遠不滅、傷つき倒れないものである」との真理を説くであろう。


 私は、再びガス栓(ジェット)の喩(たとえ)に立ち帰る。一個のガス・ジェットから噴出するガス火焔の形状は、ガス“そのもの”の形ではない。ガスそのものは死せるものであって、一定の形はない。また一定の意識もない。

しかもガス栓(ジェット)から迸(ほとばし)り出るガス火焔の形は一定である。昨夜、そのガス栓を開いてマッチで点火したときも、今日そのガス栓を開いてマッチで点火したときも“同一の形”で焔は燃える――だから吾らはこれを認めて“同一の焔”であるとかんがえる。(これが睡眠で中断された意識が、目が覚めて意識が回復されたときに同自性の意識がそこに起こり、昨日の自己も今日の自己も“同一の自己”であると感じられる事実に当る。)

併し、これは決して“同一の火焔”ではなく“同一の自己”でもない。先に説明した如く、同一の火焔はないのであり、“同一の自己”もそこには<ない>のである。

本来非連続のものが同一空間面に同一の様式で連続し、又は継起するために、“同一の火焔”または“同一の自己”がそこに<ある>と錯覚するにすぎないのである。

そこで生命の實相哲学では「現象我は無い」と云う。現象我とは大脳の一現象として現れている「我」なるものであるが、それが本来無い証拠には大脳を破壊すれば「我」なる意識は消滅する。>>






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