生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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旅人の被災 (谷口雅宣著)  全文 (5509)
日時:2014年10月24日 (金) 23時29分
名前:サーチャー

平成16年10月23日〜24日 旅人の被災 谷口 雅宣


 その日、午後三時過ぎにJR長岡駅前にあるホテルニューオータニ長岡に
到着した私と妻は、宿泊する十二階の部屋で荷物の収納を終えるやいなや、
再ぴ出発の準備をした。妻の母方の祖母の実家が長岡市内にあり、その墓参
りをするためである。ホテル一階の花屋でお供え用の花を買ってタクシーに
乗り込み、約2キロ走った。

 墓は、長岡駅の南側に伸びる引込み線沿いに建つ万休寺の境内にあった。
墓参りを終わって二人がホテルにもどったのは、四時四十分ぐらいだった。
夕食までにはまだ時間があるため、私たちは革靴とハイヒールをウォーキン
グ・シューズに履き替えて、長岡駅周辺を散歩することにした。

 講習会の旅先で、私たちはよくこういうことをする。(妻の理由はさておき)
私の理由の一つは、その土地や人々の雰囲気に触れるためである。また、当
地の産物や食品を眺め、あわよくば夕食に口にするもののヒントを得るため
でもある。仕事で日本各地を訪れる機会をせっかく与えられているのだから、
短時間の潜在であっても、できるだけその土地と人を知りたい————私の想像
するところ妻もきっとそう考えているから、散歩には積極的だ。

 その日は、妻の希望で墓参りが実現し、長岡に永く住む妻の親戚ともじか
に接したことでもあるので、私たちは次に駅ビル内の書店に向かった。書店
も、訪問先を知るよい機会を提供してくれることがある。それは、その土地
が生んだ文学者や芸術家をはじめ、民俗、郷土史、そして観光案内に関する
書籍をまとめて置いてある場合があり、そんな中から興味のわく本をパラパ
ラと見開くことで、その土地の文化的特徴を素早く入手することができるか
らだ。またそういう“こ当地情報”が人手できなくても、書店では思わぬ“
収穫”に恵まれることもある。

 文学者や芸術家の中には旅を愛する人が多いが、その一つの理由は、知ら
ない土地の珍しい文物に接する時の「旅人」としての目が新しい発見を促し、
それが芸術表現に役立つことがあるからだろう。この“旅人の目”は、いつ
もの生活の中では見えないもの、あるいは一度見たけれども忘れ去っている
ものを見せてくれることがある。それと同じように、旅先の書店で本棚を眺
めている時に出会う本は、東京の書店で探す本とはどこか異質な場合があり、
私はそういう出会いもまた楽しいと思う。

 私たちは駅ビルの案内人に訊いて、そのビルの中二階にある文信堂書店へ
行き、しばらく別々に本探しに熱中した。そして私が買ったのは、免疫学者
の安保徹氏(偶然にも当地の新潟大学医学部教授)の『免疫革命』(講談社イ
ンターナショナル)と草野双人著『雑草にも名前がある』(文春新書)だった。
その時の領収書に印刷されたタイムスタンブを見ると、時刻は五時四十三分
であった。私は書店の雑誌コーナーで『婦人之友』を読んでいた妻に声をか
け、連れ立って駅ホームの方向へ歩いていった。絵葉書を買うためである。

 妻は、講習会の旅先から子供たちに葉書を書くことを習慣にしていた。私
は、そういう便りに適当な当地の絵葉書が売られているのを、駅の改札口近
くの土産物売り場で見たような記臆があったから、妻を誘ったのだ。その売
り場はすぐ見つかった。売り場の台の前方には、八枚組の絵葉書が二種類、
内容がよく分かるように掲げられていた。一つは、当地の画家、藤井克之氏
による史跡絵葉書で『墨彩画で親しむ米百俵』という題がついており、もう
一つは長岡市の夏の大花火大会を扱ったカラー写真の絵葉書セットだった。

 これらの葉書を見ていた時に、いきなり小刻みの上下動が起こり、それが、
腹の底から咽もとに一挙に突き上げるように押し寄せた。それは地震という
よりは、猛スピードで近づく新幹線の列車が、予定されていた線路から外れ
て目の前のホームを襲う———そんな異常な出来事のように私には感じられた。
私も妻もその激しい震動に耐えられずにしゃがみ込み、這いつくばりながら、
背後にあった大きなガラス窓の前を避けて、頑丈そうな欽筋コンクリートの
柱の下にうずくまった。

 これが、後に新潟県中越地震と名づけられた大地震だった。震源地は、長
岡市のすぐ南の小千谷市付近。マグニチュード6・8で、短時間に震度6強
の揺れが三回あった。

 激震の渦中で駅の照明が一度消え、揺れ終わってまもなく元の明るさにも
どった。が、天井や壁からは建材の破片が剥がれ落ち、あちこちから埃のよ
うなものが噴き出しており、周辺の物が倒れたり崩れ落ちていた。が、私は
「それほどの被害ではない」と思った。安心したわけではない。大きな揺れ
の後には必ず余震が来ると知っていたから、私は妻にそれを告げて身構えて
いた。

 余震はすぐに来た。しかし、揺れの渦中にある人にとっては、それが「余
震」であるのか、それとも一回目の揺れが単なる「前ぶれ」であり、その後
にもっと大きな「本震」か来るのかは分からない。だから、いわゆる「余震」
の中でも、第一震と同じ恐怖で身を固めながら、揺れが去るのを侍つほかは
ないのだ。二回目の揺れは最初のものと同程度だった。が、妻の肩を抱きな
がら「大地震だ!」と思って身構えていた私は、その激震の襲来が中途で途
切れたような印象をもった。前に使った「新幹線」の喩えで言えば、狂乱し
た新幹線はホームに乗り上げて近づいてはきたが、我々を轢断する前に、途
中でどこかへ消えてしまった———そんな印象である。

 私たちの目の前には、土産物屋の三十代の女主人が床に這いつくばりなか
ら、携帯電話の操作に必死だった。彼女だけではない、周りを見回すと、ほ
とんどすべての人が、立ちながら、あるいは膝をつきながら、同じように携
帯電話の液晶ディスブレーをにらんで指先を懸命に動かしている。携帯電話
を持ち歩かない私は、そんなことよりも、身の安全を確保するためにもっと
別のことをすべきではないか———と思っていた。

 妻はこの揺れのあとで、立ち上がった女主人に声をかけて墨彩画の絵葉書
を買った。その時私たちのいた場所は、地上から見ると二階の高さにあった
から、まず地面の上に降りたいと思い、二人は駅ビルから東側に延びる渡り
廊下を通って、駅東口へ降りる階段に向かった。途中で、六十代前半と思わ
れる派手な顔つきの婦人と一緒になり、婦人は「家が心配だから早く帰らな
くちゃ!」などと言って、私たちにいたずらっぽく笑いかけた。

 災害時の状況を報道する新聞や雑誌の記事に、ときどき「恐怖の叫び声」
とか「恐怖で引きつった顔」などと書かれていることがあるが、私の回りに
はそういう恐怖はまったく感じられなかった。駅の渡り廊下の途中では大型
の看板が落ちていたから、相当な恐怖を感じた人もいただろう。また、駅東
口へ降りたところにあるダイエー長岡店前では、店内から避難して来たと思
われる大勢の客が固まっていたが、みな携帯電話を操作したり、仲間と声高
に話したりしなから、この日常生活の断絶の時をなぜか楽しんでいるように
も見えた。その大きな理由は、彼らの多くが「笑顔」を見せていたからだ。
笑いはもちろん、恐怖を隠すためにも使われる。しかし、その時の笑顔には
「恐怖」の要素があまり含まれていないことを私は感じていた。というのは、
私自身がさほど恐怖していなかった。また、この後に大小の余震が何度も続
くのだが、そういう揺れが来た時に女性らが発する声は、“恐怖の叫び”とい
うよりは、遊園地のジェットコースターに乗って急坂を下るときの叫び声———
半ば自分を勇気づけ、半ばスリルを楽しむ声———と近いもののようだった。

 私たち二人は、長岡駅東口前のバス・ターミナルの広場にしばらくいた。
ホテルはすぐ目の前に立っていたが、余震が続く中でそういう建物に入るこ
とと、頭上の心配が少なく周囲も見渡せる広場にいて、万が一の建物の倒壊
を見込んで待つべきかの判断ができかねていたからだ。周囲にいる大勢の人
々の心にも、同様の迷いがあったと思う。その中には、明らかに結婚式場か
披露宴の会場から出てきたと分かる正装の一団がいた。そこで思い出したの
は、私たち二人が長岡駅へ散歩に出る前に、ホテルー階のパティオでは外国
人牧師による洋風結婚式が挙行されていたことだ。そんな彼らが、式か披露
宴を中止して外へ出てきているということは、ホテル内が必ずしも安全でな
いという判断があるからに違いない。しかし、ホテル内には私と妻の所持品
のほとんどすべてがあった。現金やカード類は財布やハンドバックに収めて
手元に持って出ていたが、問題は、仕事に必須の様々な情報を収めてあるパ
ソコンだった。パソコンは二台あり、一台は翌日の講習会の講話で使う画像
や写真や資料が保管されている。この時点では、私は翌日の講習会は当然行
なうと考えていたから、いずれホテルの自室にもどるつもりだった。

 しばらくして、私たち二人はホテルヘ向かった。が、玄関の照明が消えて
いた。玄関ばかりでなく、墓参りの前に立ち寄った花屋の照明も消えていて、
生花や造花が床一面に散乱していた。その隣の結婚式場も暗く、白いギリシ
ャ風の背の高い植木鉢が倒れて破損していた。さらにその奥に、ホテルのロ
ビー入口とレストランがあるのだが、ロビーは人で溢れ、レストランは「C
LOSE」の札を出して、中にいる客を店員が外へ出している最中だった。
人込みの理由はすぐ分かった。

 黒服姿のホテルマンが大声で、「地震で危険なのでエレベーターは止め、お
客様はロビーに降りて待機していただくことになりました」とアナウンスし
た。

 レストランは閉鎖し、披露宴も中断して安全を確保するのだという。それ
を聞いて、私は“最悪の事態”も考えねばならないと思った。その“最悪の
事態”が具体的にどんな事態なのかハッキリ分からなかったが、とにかく通
常の講習会の旅のようにレストランで食事をし、ホテルの一室で妻と静かに
時を過ごす“当たり前”の夜は、その日は来ないかもしれないと思った。そ
こで、隣にいる妻に向かって「駅前のコンビニ店で夕食用の弁当を調達する」
ことを提案した。

 こんな時に不謹慎に思われるかもしれないが、私は地震の揺れの合間にも
空腹を感じていた。それは、私の中の純粋に生物学的な要請が、地震を経験
しているという心理的なストレスに妨害されなかった証拠だ。言い換えれば、
私がこの地震で感じた心理的ストレスはさほど大きくなかったのだ。私の提
案を聞いた妻は、しかし少し抵抗した。彼女にとって「コンビニ弁当」とい
う選択肢は、旅先の食事としては選びたくない種類のものであったに違いな
い。が、この揺れではホテルのレストランだけでなく、町のレストランも、
スーパーも、まもなく営業を中止するだろうと話すと、妻は納得したようだ。

 長岡駅東口の一階には、マクドナルドとデイリーヤマザキが並んでいる。
私たちがそこへ向かう途中で、そのハンバーガー店の赤い看板の電気が消え
た。ここももう店じまいかと思い、異常事態の思いを深めた。隣のコンビニ
店では若い従業員が二人忙しげに働いている。売り場の棚から商品かかなり
落ちていたから、一人はその片付けに没頭していた。二台あるレジの一方の
下に、道路の曲がり角に立っているような円形の大きな鏡が、破損して散ら
ばっていた。私たちは弁当二個と、ポテトサラダ、お新香を買ってレジヘ行
った。すると店員が、

 「温めますか?」
 と聞いたので、私は戸惑って、
 「いや、いいです」
 と答えた。こんな時に温かい弁当を注文することに一抹のやましさを感じ
たからだ。が、 横にいた妻が、
 「温かい方がいいわよ」
 と言ったので、私はそれに従った。———女性というのは不思議なものだ。私
はその時、 代金を払いながら思った。

 私は、「やましさ」を感じただけでなく、いつ余震が来るかもしれないこん
な状況下では、早く店を出たいし、また買った弁当もいつ食べられるか分か
らないから、ここで温めても冷めてしまう確率が高いと考えた。しかし妻は、
「タ食はコンビニ弁当」という案に一度は反対したものの、いざ食べると決
まるとより良い条件を求めている。そのこだわりが不思議だった。

 食料を買い込んだ私たちは、再びホテルのロビーにもどった。そこに集ま
った人々の数はさらに増えていて、煙草の臭いが鼻をついた。私たちは入口
付近に空いている椅子を見つけ、そこに腰を落ち着けることにした。余震の
揺れか時々やってきたが、その位置は、太い柱と頑丈そうな壁に二方を囲ま
れていたし、近くにガラスの戸や窓もなく、駅側のロビーの半分が見渡せる
ところだったので、安心できると思ったのだ。

 やがて、ホテルマンが二人現われて、私たちの目の前で40インチほどの
テレビの設置を始め、立ったり床に座ったりしていた客たちは、その前に半
円形を描くように位置を変えた。私たちの椅子からはテレビは見にくかった
が、音声ははっきり聞こえるので有り難い。こんな時に最も必要なのは正確
な情報だと感じていた私は、NHK放送を聞きながら、そのアナウンサーが
深刻な声音で伝える災害の渦中にいるにしては、結構落ち着いている自分を
発見した。

 落ち着きをとりもどせば、空腹を満たしたいと考えるのは自然だ。私はそ
う考えてコンビニ弁当の袋を開けようとすると、妻はなぜか抵抗するのであ
る。

 「いっしょに食べようよ」と言うと、「こんな所で……?」と、しきりにた
めらう。

 いつも夕食をする時間をとっくに過ぎているし、腹も空いているのだから、
買った弁当を温かいうちに食べることを躊躇する理由が、私には分からなか
った。しかし彼女にとっては、誰も弁当など食べていない中で、私たちだけ
が食べることが何かいけないことだと感じられたようだ。私は逆に考えてい
た。周りの人々が弁当を買って食べないのは、もうすでに夕食を終えている
か、地震のショックで空腹を忘れているのか、あるいは私には分からない様
々な理由で「自らの意志で食べない」のだ、と。だいたいホテルの宿泊客が
皆一斉に食事をしなければならない理由などないのだから、他人に迷惑をか
けない方法で食事をすることには、何もやましいことはない。このことは、
今回のようにたとい「同じ震災の被災者である」という特殊条件を考え合わ
せてみても、まったく変わらないと確信していた。

 「あなた一人で食べて……」という妻の言葉に、だから私は喜んで弁当を
ひろげ、頬張りはじめた。

 二種類の弁当を半分食べ、サラダもお新香も半分だけ食べて、あとは妻の
ために残した。私たちはよくこういう食べ方をする。行儀がいいとは言えな
いだろうが、二種類の味を楽しめるから、レストランでもすることがある。
子供が一緒の時は、皆で突っつき合って何種類もの味を楽しむことも珍しく
なかった。が、この日は、妻は恥ずかしがって一緒に食べようとしない。

 私が自分の分を食べ終わりそうになっているとき、妻は安心したのか、幸
いまだ温かさが残る弁当を食べ出した。「おいしい」と言って目を細めたとこ
ろを見ると、相当腹が空いていたのだろう。やがて黒服のホテルマンがマイ
クを握り、「ホテルが炊き出しをする」とアナウンスした。この「炊き出し」
という言葉が、私には意外だった。ホテルにはその日のタ食分ぐらいの食料
は充分あるはずだから、客に無料で配るのではなく、ちゃんと代金を取って
食事を出せばいいと思った。が、出てきたものを見て、何となく納得した。
それは、醤油で味付けをして海苔を巻いただけのオニギリだった。食料は充
分あっても、いつものように電気やガスを使えず、あるいは非常事態だと判
断して料理人の多くを家に帰したのかもしれなかった。

 さて、ここまでは私たち夫婦のことだけを書いてきたが、二人の回りには
私の秘書を含めて何人も“支援部隊”がいた。彼らはそれぞれに腹ごしらえ
をしながら、翌日の講習会が開催可能かどうかを判断するために、携帯電話
や固定電話を使って一所懸命に情報収集をしてくれていた。講習会は午前十
時に始まるが、音響や照明、映像装置の設置と調整は、通常ならば前日の夜
に行なわねばならない。地震が起きた時は、恐らくその作業の途中だったろ
う。ということは、翌早朝から設置・調整ができなければ開会に間に合わな
い。また、実行委員や遠方からの講習会参加者も朝早くに家を出る。こうい
う人たちのことを考えると、翌日の講習会の有無は、その晩のうちに決定し
て関係者に通知しなければならなかった。

 私は、その決断の時間を午後十時半に設定した。というのは、ちょうどそ
の時刻ごろ、会場に使われる長岡市立劇場の館長が、劇場内部の被害状況を
実際に見て、会場として貸せるかどうかの判断をする予定だったからだ。先
方が会場を「貸せない」と決めれば当然、講習会はできないが、「貸せる」と
判断した場合でも、様々な状況を考慮してなお講習会を開くべきかどうかを、
私が判断するほかはなかった。

 人々の食事が終ってから十時半までは時間が空いていたので、私たちは十
二階の部屋に置いてきた荷物を取ってくることにした。もうこの時には、ホ
テル側は宿泊客を一階ロビーやニ階の宴会場で休ませる方針を発表していた
から、寝る準備のためにも自分の荷物が手元に必要だった。階段を十二階分
上ることの心の準備はできていたが、やはり気になるのはその間、余震の大
きいのがやってきた時の対応だった。しかし、こればかりは事前の予測が不
可能なので、意を決してひたすら階段昇りをするほかはないのだった。私た
ちはそれをした。が、ただ黙々と昇るのではなく、冗談を言い合っていた。
半分昇った六階を過ぎると、言葉少なになった。一組のカップルが降りてく
るのと擦れ違った。彼らも互いに話をしていた。その時私の頭の中にあった
のは、9・11の際、ワールド・トレード・センターの上階から非常階段で
降りる人々のことだった。彼らの場合、煙のたちこめる非常階段を、私たち
の十倍近くの高さから降りたのだろう。狭く細長い空間の中で、大勢の人々
の心の中で、次の瞬間に何が起こるか分からない不安が十倍長く続く……そ
れと比べると、私たちはまだ幸運だと思った。

 ホテルニューオータニ長岡の1219号室は、予想していたほど混乱して
いなかった。私が危惧していたのは、室内に設置されていたポットや冷蔵庫
中のジュースなどの液体が流れ出し、パソコンが使用不能の状態になってい
ることだった。が、幸いにも、パソコンは二台とも置かれたテーブルやデス
ク上に無傷で残っていた。デスクからは三段ある引出しが10〜20センチ
飛ぴ出していた。テレビも位置はずれていたが、台から落ちずにあった。た
だ、そのテレビの横に並ぶ冷蔵庫の上にあった電気ポットとグラスや白い荼
器セットなどが床の上に落ちて、周囲に破片が飛び散っていた。あとは、ア
ルミ製の折り畳み式台の上に載っていた旅行鞄が、台ごと床の上に転倒して
いるぐらいで、私たちの所持品には実質的な被害はない。二人はそれらを大
急ぎでまとめて鞄に詰め直すと、手や肩から荷物を下げ、さらに毛布を抱え
て非常階段へ向かった。

 ホテルのロビーヘもどってから、私たちは同じ映像を繰り返しているテレ
ビを見るともなく見ながら、情報収集を継続した。結局、予定の十時半ごろ
になって、市立劇場の館長が館内を見た結果、一般に貸すには危険だと判断
したため、「会場は貸せない」という答えが返ってきた。こうして、生長の家
の講習会史上初めて、予定されていた講習会が開かれないという事態になっ
た。天災による不可抗力であるにせよ、それまで講習会推進に努力してきた
大勢の人々のことを思うと、何とも無念の思いが残る。そして、こういう稀
有の出来事が何を教えているかを正しく知る努力が必要だと思った。

 講習会の中止決定後は、私たちの最大の関心はその夜、余震の続く中、朝
までどう過ごすかということに移った。ホテル側は、喫煙者と非喫煙者とに
分けて、眠る場所を一階と二階に用意してくれた。「眠る場所」とはいっても、
それはベッドや布団ではなく、床の絨毯の上にシーツを敷いただけのだだっ
広いスペースだった。私たちが選んだのは、階段で二階に上がった先の、百
畳ぐらいの広さの宴会場とおぼしき部屋の片隅だった。そこへ荷物を並べ、
持って来た毛布を敷いて寝場所を作った。私は上着を脱ぎワイシャツ姿にな
ったが、万一のことを考えて下はズボンを脱がずに、靴下だけ脱いだ。そう
して仰向けになって両腕両足をいっぱいに伸ばし、薄暗い広々とした天井を
眺めていると、ふと子供の頃、生長の家の練成会に参加した時のことを思い
出した。練成会では、参加者がこんなふうに道場の大部屋で一緒に寝起きす
ることがある。それは、むしろ楽しい記臆だった。

 「これは練成会みたいだね!」
 と、私は隣にいる妻に言った。
 彼女も笑いながら賛成してくれた。

 日常生活から離れた不便な場所で、見知らぬ人と寝食をともにする———そう
いう点では、キャンプもこれと似た要素があるが、練成会では参加者がそれ
ぞれ何かの課題をもっていて、その解決を望んで参加する場合が多い。私た
ちはまさにその時、「震災から抜け出す」という共通の課題を抱えていたのだ
った。

 私たちがこうして眠る態勢になったのは、午後十一時半をすぎていただろ
うか。周囲はまだガランとしていて、人々はその部屋を通り道のようにして
歩いたり、階段近くで普通の声で話をしたりしていたから、なかなか寝付け
なかった。そのうちに三々五々人が部屋に集まり、それぞれ思いの場所と方
法で寝仕度をすませた。私は眠れないままに、目を閉じてそういう人々のた
てる音や話し声を聞くともなく聞いていた。その途中でも比較的大きな余震
が二回ほどあったが、もう誰も慌てなかった。が、静かに眠れると思ったの
もつかの間、今度は部屋のあちこちからイビキが響いてきた。妻が寝ている
すぐ向こう側に、中年の女性ばかり二三人がかたまって寝ていたが、そこか
らもゴーゴーという音が聞こえてきた。私は諦めの心境で静かに体を横たえ
ながら、そのうちに眠込でいた。

 朝は、ホテルの人のアナウンスで目を覚ました。
 「簡単ではありますが朝食を用意しましたので、一階のロビーヘいらしてください」
 というのである。

 前夜のオニギリを知っていたので、用意をすませた私たちはあまり期待せ
ずに階下ヘ降りていったが、結構まともな朝食だった。ハム、ソーセージ、
ブロッコリ、パンが四〜五種、牛乳、ジュース、コーヒー、オニギリニ種、
ゆで卵、具だくさんの味噌汁、漬物(沢庵、野沢菜)そして梅干———という和
洋二種である。皿に盛りつけてくれたホテルマンは、夜はほとんど寝ていな
いと言う。私たちは、前夜にいたロビーに席を移し、テレビニュースを見な
がら温かい朝食をありがたく頂戴した。

 腹ごしらえが終れば、いよいよ被災地脱出である。

 ニュースやインターネッ卜の情報から、震源地である長岡の南方へ出るの
は避け、北方の新潟市を目指して車で走り、新潟空港から大阪へ出るか、あ
るいは富山まで海岸線を車で走って、空路東京へ帰るという二つの選択肢が
浮かぴ上がった。ところがやがて、富山へ出るために通る柏崎市までの道路
の一部が通行止めであることか判明した。また、海岸線を走る道路は崖崩れ
の危険性が大きいなどの意見も出て、結局、新潟空港を目指して車でホテル
を出ることに決まった。新潟から大阪・伊丹空港までの航空機も予約した。
ちょうど三席空いていたのである。

 この時、第三の選択肢として、新潟からレンタカーを借りて磐越自動車道
を福島県に向けて走り、郡山市から新幹線で東京へ帰る案も出たが、道路の
破損や混雑の状況か分からず、またレンタカー会社の対応も疑わしかったの
で採用保留となった。


 新潟までの陸路は、やはり土地勘のある人がいいということで、地元の幹
部の方にお願いした。国道八号線を北へ行き、中之島町の手前で通行止めに
なっていたので旧道へ迂回し、中之島町をノロノロとさらに北上し、三条燕
のインターチェンジから北陸自動車道に入った。中之島町は、信濃川が新潟
市で日本海へ注ぐ手前にある大きな“中洲”のような場所だから、川の水位
とあまり違わない低地にある。運転してくれた人の話では、今夏の台風で信
濃川の堤防が決壊し、町は150センチほど水の下に埋ったそうだ。その洪
水の後の復興が終るか終らないうちに、今回の地震に見舞われた。だから、
道路両脇に並ぷ住宅や事務所の建物には、ちょうど人の頭の高さほどの位置
に、泥水に浸かっていた後が残っているものが何軒も見られた。しかし、地
震で倒壊した家は見られず、屋根の一部が破損した家が数軒、ブロック塀の
倒壊が一箇所見られただけだった。

 一部でノロノロ運転はあったものの、新潟への道程は予想外に順調で、私
たちは十一時頃には新潟空港一階のロビーに立っていた。そこで新潟北越教
区の牧野尚一教化部長を初めとした最高幹部数名の出迎えを受けたのには、
驚いた。ちょうど練成会の途中で心配になったので、私たち二人の顔を見た
いとわざわざ駆けつけて下さったそうだ。

 押さえてあった伊丹行きの航空機は午後三時半ごろの出発だったから、そ
こで数時間が空いた格好になったが、大阪から東京までの旅程を考えると、
この便に乗ることが最善かどうか疑問があった。同行していた私の秘書は、
福島経由の第三案を提案したが、そのためにはレンタカーが押さえられるかどうかがポイントだった。空港ロビーにあるレンタカー会社の受付は、どこ
も人影がない。その一つのカウンターヘ行くと「連絡はこちらへ」と添え書
きして、会社の電話番号が大書されていた。そこへ電話すると「県外での乗
り捨てはできない」と言う。他の数社へ電話してもほとんど同じ答えである。
地震による交通の混乱の中で、レンタカーの乗り捨てを取りやめた会社が多
いのだった。最後の頼みとしてオリックス・レンタカーに電話すると、「郡山
の支店で乗り捨て可能」との答えが返ってきた。

 「四〇分後ぐらいに空港へ車をもって行きます」

 この朗報のおかげで、私たちはちょうどいい時間に空港で昼食をすませ、
車を迎えることができたのである。

 東京までの最後の旅程を簡単に書くと、磐越自動車道を抜けて郡山市に入
ったのは午後三時半ごろ。四時前にJR郡山駅に着き、まもなく入ってきた
東京行きの「MAXやまびこ118号」の先頭車両に飛ぴ乗った。自由席だ
ったが、幸いにも座ることができた。その席で、私はこの文章を書き始めた。
隣の席で、妻は両親への便りを書き始めた。長岡駅で最初の一撃を受けたあ
の時に買った八枚組みの絵葉書に、何枚も番号を振って書いていた。東京着
は午後五時二十四分である。

10年経過 (5511)
日時:2014年10月25日 (土) 00時03分
名前:不動明王

中越地震から10年が経過したんですね。

当時の被災者の大変だった事がテレビで放映されています。あのような現地の皆様の被害の中、雅宣はご自身の事ばかり考えての行動は宗教者ではありません。

東京へ逃げ帰るのではなく、現地教化部へ駆けつけて被災者の救済に当たるのが宗教者としての行動であります。しかも被災者の一人に車を運転させたと言う事です。




この時の運転された 信徒さん は、その後・・・ (5512)
日時:2014年10月25日 (土) 00時39分
名前:サーチャー


<トキ掲示板(本流対策室/5)>



========================================
5322 :トンチンカン:2014/01/05(日) 01:15:18 ID:nFgY2khg
>>5321

この時の運転された 信徒さん は、その後・・・


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「新潟までの陸路は、やはり土地勘のある人がいいということで、地元の幹部の方にお願
いした」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



・この時の運転された 信徒さん は、その後マサノブ君の説く「御教え」に愛想をつか
 されて <退会> されたと聞いておりますが・・・??


・周りの人達から <崇(あが)められる立場> にあると豪語しているマサノブ君なら
 こそ、「感謝」のコトバもないのでしょうかね・・・?

========================================



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