生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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マサノブ君、39日振りにブログ「唐松模様」(枯れ松模様)を更新、その説教内容たるや相変らずの「言行不一致」を曝け出すのみ――「谷口清超大聖師六年祭」挨拶 (5561)
日時:2014年10月31日 (金) 09時05分
名前:公平なる観察者




平成26年10月28日「唐松模様」 =創造的人生を生きよう= 概要

<< 秋晴れの今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで、「谷口清超大聖師六年祭」が行われた。私は概略、以下のような挨拶をした−−
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 皆さん、本日は谷口清超大聖師六年祭にお集まりくださり、ありがとうございます。・・・ 「旅のまにまに 谷口清超写真展」と銘打って、この年祭の終了後、ここイベントホールを第1会場として、さらにメディアセンターのアートスタジオを第2会場として開催されます。・・・自然と人間の親しい関係を描いているものが多数あります。・・・それでは、今回の展示作品のごく一部をご覧に入れながら、清超先生のお心に触れることにいたしましょう。・・・『伸びゆく日々の言葉』の「はしがき」には、次のように書かれています−−・・・人は誰でもやがて年とって、この世を去るが、必ずまた何処かへ生まれてくる。・・・善いことをしたら、善い報いがくるし、悪いことをすると悪果がおとずれるのである」。(平成6年3月1日) このように、先生は写真のことを書かれながら、教えを説かれています。・・・『創造的人生のために』(平成9年刊)・・・谷口清超先生は、このように「すでにあるもの」を大切にして、その中から新しい価値を、新しい美を創造されることに長けておられたと考えます。創造する−−ものを作るということは、まったく新しいものを材料にして、従来とはまったく違うものを生み出すのではなく、古いものの中にもともとある良さを、新しい組み合わせによって引き出し、それを新しい美しさや価値にすることである−−「即ち人間は、信ずるから救われるのではなく、もともと完全円満、不死不滅であるから、救われているのである。本来傷つかず、死せず、病まざる実在者、神性・仏性である。それがどの程度わかるかによって、この世やあの世に現われる“影”が変化する。それは丁度、写真をうまくとると美しい風景がうつるが、下手にとると美しくない写真がとれるようなものである。写真の上手下手に拘らず、実物の風景そのものは十分美しい。それと同じく、人間の実相は、すでに完全円満である。ただ美しい景色をみて、これを美しい写真に仕上げようと思うならば、上手に撮らなくてはならないように、この現実の人生を立派なものにしたければ、実相人間の完全円満をハッキリと認めることである。するとその姿が現実のこの世やあの世にあらわれてくる。しかし“認めた”といっても、すぐ完全には中々現れない。・・・不明瞭さがあると、それだけのボケがあらわれ、現実世界も不透明になる。」(pp.65-66)・・・それは、「実物の風景そのものは十分美しい」という言葉と、「実相人間の完全円満をハッキリ認める」というお言葉が併行して書かれている点です。私たち人間は、世界を見るのに、往々にして自分勝手な解釈を優先して、周囲の世界のそのものを見ることなく、自分の見たいもの、聞きたいこと、感じたいことだけを取り出して、心で世界を作り上げるということをします。清超先生はそのことを指して、「実相をハッキリ観よ」とおっしゃているのです。そして「実相を観る」ためには、写真のように「上手に撮らなくてはならない」と教えてくださっています。これは、どういう意味でしょうか? 私たちは写真を撮るとき、目の前の世界のすべてを撮るわけにいきません。だから、カメラのファインダーの“四角い窓”の中に収まる大きさに世界の一部を切り取ることになります。その場合、四角い画面の中の構図をきちんと考えて、その構図に合致するように、必要なものを入れ、余分なものをできるだけ排除するという工夫が必要です。私は、そのことを先生は「上手に撮らなくてはならない」と言っているのだと思います。・・・左側にはケヤキと思われる高い樹木の枝が写っていて、右側にはその“影”が写っている。・・・実像と影・・・「実相」と「現象」の関係・・・それを、写真の中から余計なものをできるだけ排除するという方法で、見事に実現されている。余分な要素を極限まで削っていくと、実に力強い、明確なメッセージを伝える写真が完成し、それを私たちは「美しい」と感じるのです。これが、先生がおっしゃっている「上手に写真を撮る」ということだと思います。 そして、この方法は人生を美しく生きることにもつながります。神の創造の実相が現れている所に注目し、余計な悪現象は心の中から排除して、世界を見直してみる。これは、日時計主義の生き方そのものです。そのことによって、私たちは美しい、善い人生を創造する。谷口清超先生は、そういう生き方をこの写真を通して、私たちに教えてくださっていると思います。それでは最後に、この本の「はしがき」から一部引用します。・・・「色々の筋書きを作ったり、想像したりして、楽しみたいからであろう。・・・その“力”を現わしたいと思うのである。そして現わし出す時、限りない喜びが湧き上がる。つまり、“創造的人生”を送ることによって、人々は大いに楽しむことが出来ると言えるであろう。」この「自然の恵みフェスタ」は、神の創造された自然界の恵みに感謝するのはもちろんですが、私たちの中にある神の創造のエネルギーをしっかりと認め、それを表現することも重要な目的です。・・・谷口清超大聖師の六年祭にあたり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 谷口 雅宣



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マサノブ君の上記の文章を読んで先ず感じたのは、彼の「言行不一致」という事であったのであります。清超先生の言葉を引用しながら、信徒をして「なるほど!」と思わせる説教をしています。しかし、マサノブ君の副総裁就任以前から総裁に就任してこの方の一貫して変らざる「生長の家」完全解体に向けての言動を見る時、二代目・清超先生の上記引用の御文章の方向とは全く逆の道をマサノブ君が歩んで来たことは、大勢の信徒の認めるところであります。言葉は悪いが昔言われた“説教強盗”と等しいといわざるを得ないのであります。



<説教@>

<< 人は誰でもやがて年とって、この世を去るが、必ずまた何処かへ生まれてくる。・・・善いことをしたら、善い報いがくるし、悪いことをすると悪果がおとずれるのである。>>


<言行不一致@>

マサノブ君は、開祖・谷口雅春先生の御著書の中から、自分の左翼思想という思考基準に合わない「生命的国家論」・「神話解説」・「憲法論」・「教団史」に関する御著書を絶版扱いにして、信徒の目に触れないようにした。「谷口雅春原理主義者」と言う言葉の下に、多くの人財を追放した。自分の兄弟さえ「原理主義者」の汚名を付けて追放した。母親の恵美子先生すら、教団情報を遮断する為に軟禁同様の状態に置いた。『生命の實相』の印税を屁理屈を付けて故意に支払わなかった。誌友会・講演会・講習会から根本聖典たる『生命の實相』をテキストから外した。・・・これ等のマサノブ君の所業は、彼自身は「悪行」とは認識していない。しかし、世間の一般常識ではハッキリした「悪行」であります。マサノブ君は「悪果」は来ないと思っていても、「因果律」という宇宙の大法の下では明らかに「悪果」の報いを受けなければならない事は自明の理であります。



<説教A>
<< 「すでにあるもの」を大切にして、その中から新しい価値を、新しい美を創造される−−ものを作るということは、まったく新しいものを材料にして、従来とはまったく違うものを生み出すのではなく、古いものの中にもともとある良さを、新しい組み合わせによって引き出し、それを新しい美しさや価値にすることである >>


<言行不一致A>

昭和26年、当時の先輩信徒の方々の献資によって建設された原宿本部はその後の耐震工事を施されずして、マサノブ君は信徒の意見を一切聴くことなく、光明の塔から『御神像』を引きずり降ろして、一個の美術品扱いで八ヶ岳に移送した。光明の塔の建物は文字通りの“ガラン堂”となった。新館の旧本部も耐震上の理由から完全解体工事が行われた。そして、マサノブ君の個人的自然主義思想に基づいて、『生長の家』という宗教建造物とは思えない超豪華ログハウスの新本部を建設したのであります。原宿本部の解体と「森のオフィス」と言う新本部の建設は上記説教文の完全な「言行不一致」の典型であります。聖経『甘露の法雨』の廃止と人間知による“ニセ経本”の聖経化計画が着々と実現されていったのも完全な「言行不一致」であります。マサノブ君は「すでにあるもの」を大切にするどころか完全解体をする「解体屋」であります。



<説教B>

<< この現実の人生を立派なものにしたければ、実相人間の完全円満をハッキリと認めることである。するとその姿が現実のこの世やあの世にあらわれてくる。・・・人間は、世界を見るのに、往々にして自分勝手な解釈を優先して、周囲の世界のそのものを見ることなく、自分の見たいもの、聞きたいこと、感じたいことだけを取り出して、心で世界を作り上げるということをします。清超先生はそのことを指して、「実相をハッキリ観よ」とおっしゃている >>


<言行不一致B>

マサノブ君は霊的思考が出来ない人間であります。したがって彼は完全な「神性隠蔽」の状態にあり、神の子としての實相人間というものをコトバでは知っていても生命体験としては理会できていないのであります。マサノブ君の思想は「唯神實相」思想ではなく、「左翼唯物現象」思想であります。この基本思想に活用できるところだけを開祖・谷口雅春先生の御著書の中から上手に抜き出して信徒に解説しているのであります。まさに、<マサノブ君は、世界を見るのに、往々にして自分勝手な解釈を優先して、周囲の世界のそのものを見ることなく、自分の見たいもの、聞きたいこと、感じたいことだけを取り出して、心で世界を作り上げ>て居るのであります。「實相をハッキリ観よ」と清超先生がおっしゃられたのはマサノブ君に対してであります。



<説教C>

<< 「実相を観る」ためには、写真のように「上手に撮らなくてはならない」と教えてくださっています。・・・カメラのファインダーの“四角い窓”の中に収まる大きさに世界の一部を切り取ることになります。その場合、四角い画面の中の構図をきちんと考えて、その構図に合致するように、必要なものを入れ、余分なものをできるだけ排除するという工夫が必要です。私は、そのことを先生は「上手に撮らなくてはならない」と言っているのだと思います。 >>


<言行不一致C>

マサノブ君は卑怯にも、清超先生の書かれた御文章を以って、自身の「非生長の家・マサノブ教」の正当性に利用していることがわかるのであります。次のように書き替えて読めば大変よく判るのであります。<< 「非生長の家・マサノブ教」を作り上げ、「生長の家」と言う看板を使い続けるためには、写真のように「上手に撮らなくてはならない」・・・左翼唯物現象論に基づく「マサノブ教」というカメラのファインダーの“四角い窓”の中に収まる大きさに世界(開祖・谷口雅春先生の『御教え』)の一部を切り取る。その場合、四角い画面の中の構図(「マサノブ教」)をきちんと考えて、その構図(「マサノブ教」)に合致するように、開祖・谷口雅春先生の「生長の家」から必要なものを入れ、余分なものをできるだけ排除するという工夫をなしたのです。>> このように書き替えて読めば、マサノブ君の狡知が見えてくるのであります。



<説教D>

<< 写真の中から余計なものをできるだけ排除するという方法で、見事に実現されている。余分な要素を極限まで削っていくと、実に力強い、明確なメッセージを伝える写真が完成し、それを私たちは「美しい」と感じるのです。これが、先生がおっしゃっている「上手に写真を撮る」ということだと思います。 そして、この方法は人生を美しく生きることにもつながります。神の創造の実相が現れている所に注目し、余計な悪現象は心の中から排除して、世界を見直してみる。これは、日時計主義の生き方そのものです。そのことによって、私たちは美しい、善い人生を創造する。谷口清超先生は、そういう生き方をこの写真を通して、私たちに教えてくださっている>>


<言行不一致D>

この文章も、「マサノブ教」の自己讃嘆文であります。すなわち、< 開祖・谷口雅春先生御創始の「生長の家」の『御教え』の中から余計なものを排除して左翼唯物現象論の「マサノブ教」を作り上げたこと、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の中から、余分な要素を極限まで削っていくと、実に力強い、明確なメッセージを伝える写真(マサノブ教)が完成し、それを私・マサノブは「美しい」と感じる。実に見事な実現だ!この方法は、マサノブという個人の人生を美しく生きることにもつながっている。それが「森のオフィス」の実現となった。地球を救う「自然との共生」思想の社会への提唱となったのだ。> ――このように、マサノブ君は心中秘かに自己讃嘆に酔いながらこの自分の生き方を「美しい」と芸術家気取りの表現を為して自己陶酔して居るのであります。しかし実態は、「生長の家」と言う看板を使いながら信徒の浄財を個人的人生目標の“道楽”に使う、超豪華ログハウスというマサノブ宮殿に住む宗教貴族に過ぎないのであります。このことを巧みに隠しながら信徒に対しては巧みなるすり替え説教を為して居るのであります。曰く、<< 神の創造の実相が現れている所に注目し、余計な悪現象は心の中から排除して、世界を見直してみる。これは、日時計主義の生き方そのものです。そのことによって、私たちは美しい、善い人生を創造する。谷口清超先生は、そういう生き方をこの写真を通して、私たちに教えて下さっている>>と。



<説教E>

<< 色々の筋書きを作ったり、想像したりして、楽しみたいからであろう。・・・その“力”を現わしたいと思うのである。そして現わし出す時、限りない喜びが湧き上がる。つまり、“創造的人生”を送ることによって、人々は大いに楽しむことが出来ると言えるであろう。」この「自然の恵みフェスタ」は、神の創造された自然界の恵みに感謝するのはもちろんですが、私たちの中にある神の創造のエネルギーをしっかりと認め、それを表現することも重要な目的です。>>


<言行不一致E>

「色々の筋書きを作ったり、想像したりして、楽しみたいから、その“力”を現わしたいと思うから、そして現わし出す時、限りない喜びが湧き上がる。つまり、“創造的人生”」――これがマサノブ君の個人的道楽事業「森のオフィス」建設の“最大の動機”であります。しかし、現実的には、一個人では完成できない。資金が無いからであります。しかし、「生長の家」三代目になれば資金は潤沢、自分の夢はまさに喜びの尽きない“創造的人生”となる。独裁者の総裁なれば、1000億円超の信徒の浄財である資金資産は自由に使えるのであります。わが人生は楽しからずや!「因果律」や「来世」のこと等あずかり知らぬ。「今」が大切ですよ!「今」を生きなさい!信徒の皆様よ・・・かくのごとく“説教強盗”マサノブ君は説教しているのであります。ゆめゆめ彼の尤もらしい説教に騙されることなかれ!!すべてが「言行不一致」の説教であります。









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