生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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- 日時:2014年11月10日 (月) 12時03分
名前:水戸黄門
日時:2013年04月07日 (日) 21時10分 名前:光の泉
私は、全国に●●人以上いる、●●講師の一人です。
先日、メールで下記の重要な「内容が信徒さんから、実名で、送られてきました。」
今までならいざ知らず、「鎮護国家」が外された今、下記の内容、悉く、疑いの余地が無くなりました。 ただ、ただ、「左翼思想」の人物に愛国の砦であった「生長の家」教団が、乗っ取られた事をふがいなく申し訳なく思います。 残念です。身の処し方を「家族」とともに、考えております。
「生政連」を潰した影の立役者は 現・雅宣総裁で、間違いなし! 合掌、ありがとうございます。
清超先生の「新しい開国の時代」は、実際の著者(ゴーストライター)は雅宣総裁(当時は副総裁)である事は、彼が「小閑雑感」で白状しております。 同じく、「生政連」を実質解散に持って行った首謀者は、間違いなく現在の雅宣総裁であります。あの緻密な計画的策謀と比類の押し強い性格から考えて間違いはないのであります。 「生政連」の実質解散に関して、開祖・谷口雅春先生もやむを得ぬこととしてお許しになっていたと思っている人もありますので、真相を知っておく事も大切なので書かせていただきます。特に、Cの事実は多くの人はご存知ないことであります。
@ 清超先生は雅春先生のご許可を得て「生政連の活動の一時凍結」をされたことについては事実であります。ただし、谷口雅春先生に報告され、先生も承知されたのは「選挙活動に代表される政治活動の一時停止」ということであったのであります。
A 『歴史から何を学ぶか』(谷口雅宣監修)には<昭和58年8月15日、生政連の活動停止を『聖使命』で発表>とあります。「活動の一時凍結」と「活動停止」とは天地間ほどの大きな隔たりがあります。 “一時停止”は“活動の再開”を前提としており、“活動停止”は“活動の終結=解散”を前提とした言葉であります。清超先生は雅春先生のご許可を得るときに“どのような内容の説明”をされたのでしょうか? その裏には当時の 雅宣氏の暗躍的動きがあったことは容易に理解できる事柄であります。
B ところが、「生政連」が活動停止となるや、「選挙における支援活動の停止」に留まらず、愛国運動、あるいは国を護るという立場から長年国民運動を共に進めてきた友好諸団体との提携も全て絶ってしまったのであります。 これらの諸団体は谷口雅春先生が朝比奈宗源師とともに呼びかけ人になられて、日本を精神的に護るための国民運動に加わって共に努力して来られたのであった。 谷口雅春先生の呼びかけに応じて共に日本国の為に参加してくださった諸団体の人々を裏切ってしまったのであった。そういうことは雅春先生には全く報告もされることなく決定され、進められたというのが真実かと思われるのであります。
C 何故なら、そういう方針が次々と実施されていた頃、生長の家の組織信徒ではないが、雅春先生と親交のあったさる御仁が雅春先生に「先生は生長の家が愛国運動から撤退するということをご承知なされたのかどうか」をお手紙で問われた。 そしてまた別の御仁が長崎の総裁邸に出向かれ、輝子先生に面会されて、同様のことを直接お尋ねするに及び、輝子先生も驚かれ、雅春先生にお伝えしたところ、先生が激怒、「直ぐに○○を呼べ」と仰せられたという。
○○氏は当時長崎総本山の責任者だったが、先生の御前でしどろもどろ、何ら明確なご返答を申しあげることなく早々に引き下がった、ということが、当時確かな情報として伝えられているのであります。
D どような報告がなされ、雅春先生がどのように理解されてご了解なされたのかの詳細な真実は今となっては明らかにすることは出来ないことです。 しかし、雅春先生は、憲法問題はじめ、優生保護法の改正、あるいは教育を正す運動等々、先生御自身が提唱され、先頭にお立ちになって進めてこられた、国の元を正す運動をも一切取りやめるなどということまで御了解なされたということは断じてないと確信する。 それどころか、今、雅春先生がご存命であられれば、先の民主党内閣の如き”亡国政治”には国民挙って立ち上がって、この内閣を倒せと獅子吼されたに違いありません。
E 昭和58年当時の決定が雅春先生の御了解を得ることなく進められた、というのはそうしたことも含めて考えられるべきであります。
“生政連活動の停止”について論じられる時、常に昭和43年の谷口雅春先生の”生政連活動の凍結”の措置が引き合いに出されます。だから、昭和58年の活動の停止も正しいのだと言うわけであります。しかし、これは根本的に間違っている。雅春先生が”凍結”の措置をとられたのは――
一つには選挙活動に力を注いだが為に、全国の教化部や道場の集会活動から宗教の純粋さや清潔さが失われてはいなかったかという反省からであった。 二つには選挙活動を激しく展開した後遺症で、生長の家の相白青の三つの組織のあり方が崩れてきてはいないかという懸念からであった。 三つめには、何よりも宗教面の力を蓄え、来る国難に備えるべきだとの深い憂国の想いからに他ならなったことを忘れてはならないということであります。 その国難というのは、昭和45年に日米安保条約が自動延長の期間に入る時を期して再び35年安保の時のような国内騒擾の心配もあったからであります。そうした動きに備え、信徒は力を蓄え、同士を募っておくべし、というのが御意志であったと思われるのです。 事実、翌昭和44年に、雅春先生は生政連活動の再開を命ぜられているのである。昭和58年に活動の一時停止措置が決定、実行に移されたことをいいことに、全ての活動から撤退するなどは、まさに開祖・谷口雅春先生の願いを踏みにじる行為に他ならないのであります。 <結論> 「一時凍結(停止)」と「活動停止」とは全然意味が異なります。したがって、<清超先生(実質的には現・雅宣総裁)が雅春先生のお許しを得ないで生政連を実質的に「解散」した>ということは、上記の事実に加えて、その後の今日に到るまでの原宿教団の動きの推移を見れば間違いないことであります。
この間、政治面に関しては、開祖・谷口雅春先生ほどには深い関心をお持ちでなかった清超先生を背後から焚きつけて、生長の家が政治面から全面撤退し、その後「今の教え」と称して、愛国心と日本精神を敵視して、左翼団体化を顕著にして行ったのは、現・雅宣総裁であり、すべて彼の狡知かつ綿密な『雅春先生の“生長の家”』つぶし戦略であったのであります。
平成大国難の今、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の全面復活が必要な所以であります。
再合掌
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