生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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マサノブ・イソベ・ユキシマ最高首脳者への忠告!――看板は「生長の家」、しかし中味は「マサノブ教」という左翼唯物思想――この誤れる信徒への洗脳行為は、三君の今後の人生に如何なる影響を与えるか?「因果律」(原因結果の法則)と言う現象界の絶対法則から忠告する・・・B C (5648)
日時:2014年11月12日 (水) 07時44分
名前:画龍点睛



(つづき)


『生命の實相』第30巻「聖典講義篇」(布製携帯版204〜206)<實相を悟れば自然に矩(のり)を超えず>より、――


<< 實相を生活し得ていないくせに、自分が實相を悟ったつもりで因果律というものはないものだ。どんな悪いことをしても好いのだ、恩など受けても、實相の世界に於いては、恩を受けると云うことも恩を返すと云うことも本来無いのだ、というような気持で、小さいことでもいと小さい誡命(いましめ)でも破って、そうして平然としているような者は、これは天国にていと小さき者と称えられると云うのです。・・・言い換えると實相に一致しないものだと云われるのであります。・・・ですから生長の家では實相を悟れば因果の世界を超越すると申しますが、因果の世界を超越するということは決して律法(おきて)を破らせるのじゃないのであって、律法(おきて)を自然法爾に成就させることになるのです。・・・實相の中へ入ってしまって心に真理がつかめると、タバコでも酒でも、肉体に対して麻酔的働きをするようなものを飲む必要がなくなってしまって、自然にそういう悪癖が消えてしまうのであります。・・・そこでイエスがいはれるのに『汝らの義』(『義』というのは道徳律に完全に従う、教えを素直に守ることです。)そういう風なことが学者、パリサイ人以上に本当に守れるようでないと天国に入ることは出来ない、こういう具合にいっておられるのであります。生長の家の誌友の方にも、『ねばならぬ』という事はないのが生長の家なんだから『何をやってもいいのだよ』こういう具合に脱線する人が偶(たま)にありますけれども、それでは本当は實相の世界へ入っていないのであります。實相の世界へ入ったならば一言一行悉く学者やパリサイ人よりも尚々完全に律法(おきて)が自然に守れるようになるべきなのです。無理に欲望を抑えて律法(おきて)を守ろうとするのではない。自然とそれが守れるようになる。そう云う風にならないものはまだ天国の最小(いとちい)さき者ととなえられる、――すなわち、實相と一致していない、とこういうことになるのであります。茲(ここ)に『因縁を超越する、――<ねばならぬ>を解放する宗教』に対する頂門の一針があるわけでありまして・・・ >>




<忠告>


@ < 實相を生活し得ていないくせに、自分が實相を悟ったつもりで因果律というものはないものだ。どんな悪いことをしても好いのだ、恩など受けても、實相の世界に於いては、恩を受けると云うことも恩を返すと云うことも本来無いのだ、というような気持で、小さいことでもいと小さい誡命(いましめ)でも破って、そうして平然としているような者>――これは、マサノブ・イソベ・ユキシマの三首脳そのものではないか!


A マサノブ君は、「實相」・「實相世界」という言葉だけは使うが、彼自身は決して自己の直接的な生命的体験としての「實相」を把握したわけではないのであります。その証拠に、マサノブ君は、『生命の實相』第20巻に書かれている開祖・谷口雅春先生の大悟徹底の瞬間の御文章をこれまで一度たりとも引用解説したことがないのであります。「生長の家」の『御教え』の土台となっているこの部分を抜かして、否、むしろ、否、積極的に恣意的に避けているとしか見えないのであります。マサノブ君は、宗教的な“悟りの道”とか言う事が一体どんなことなのかが判らない。判らないから説明できないのであります。それからもう一つ、此の大悟徹底のことに触れると、マサノブ君は絶対的に開祖・谷口雅春先生を凌駕する事が不可能だと思われてしまうからであります。


B もう一つ悪いことには、マサノブ君は『實相』に関する直接的生命体験がない上に、霊的思考能力が未開発の状態でありますから、「盲目(めくら)蛇に怖じず」の諺どうりに、「因果律」は自分には影響しないと思って次々と「悪因」を作り続けて止まらないで居るのであります。彼の作り続ける「悪因」を、彼自身は「善因」だと思っている、「生長の家」を完全解体し、「愛国心」を粉砕し、「憲法改正」を阻止し、「天皇国・日本」を解体し、人間至上主義という言葉で「現代科学文明」を全面否定して、地球人類全体が森・山・湖・海などの自然の中で暮らしてこそ「新文明」(しかし、生活水準は今の状態を保つという矛盾を内包)が構築され、真の国際平和が達成できる、この崇高な理想実現のためになす(破壊的)行動は“善”である、自分は「善因」をこそ積みかさねて行っているのだ、「悪因」を作り出していっているなんて評価されるべきではない。新しいものを世界に出して行くためには、古きものは、破壊されねばならない。このことは「善」そのものではないか、自分は「善因」をつくっているのだから、「悪因悪果」の因果律の世界からは当然に超脱している、というあやまてる強力な信念を持ち続けているのがマサノブ君であります。


C このようにマサノブ君の「生長の家」完全解体思考は、完全な破壊思想であります。マサノブ君の思考は實相の世界に入っていない人の思考でありますから、<『ねばならぬ』という事はないのが生長の家なんだから『何をやってもいいのだよ』こういう具合に脱線する人が偶(たま)にありますけれども、それでは本当は實相の世界へ入っていないのであります。>と書かれてありますように、あきらかにマサノブ君もその一人であります。マサノブ君は「知らずに犯した罪は、知って犯した罪よりも大きい(焼け火箸のたとえ)ということ、更に「宗教指導者の犯した罪は、一般人の犯した罪よりも幾千相倍も重い」という事、さらに「因果くらまさず」ということ、が総裁でありながら全然理解できていないのであります。


D イソベ君・ユキシマ君も同様であります。あなた達も、教団最高幹部でありながらマサノブ君同様、「實相」・「實相世界」の直接的な生命体験がない故に、破壊と蕩尽思考のマサノブ君に付き従っていけるのであります。本当に「實相」の揺るぎない自覚にあなた方が到達していたならばマサノブ君の暴走を食い止め得たはずでありましょう。「實相」の揺ぎ無い自覚に到達していないからこそ、マサノブ君の暴走を許し、5年で1億円(年俸2000万円)のお金に執着し、そのお金の出所は信徒の“浄財”であることすらも忘れ、多くの信徒たちから、「君たちは、お金のために魂を売った軽蔑されるべき人間だ!!」とまで言われて居るのであります。(もちろん、イソベ君は今から20年ほど前に「オレはマサノブにタマシイを売った」と平気で本部職員に言っていたのです。)


E イソベ君・ユキシマ君、貴方がたは、「生命の實相を知る者は因縁を超越して生命本来の円相的自由を獲得せん」には遥かに道遠く、今のようなマサノブ政権の両翼を荷って、マサノブ政権を運営し続けるならば、マサノブ君に勝るとも劣らずの、「悪因悪果」の苛酷な「因果応報」を永劫の未来世に亘って償っていかなければならない。その「因果応報」を軽くしていきたいのであれば、「大政奉還」・「看板返却」・「役職辞去」を為すべきであります。イソベ・ユキシマ君も<『ねばならぬ』という事はないのが生長の家なんだから『何をやってもいいのだよ』>と誤って考えている人の部類に入っていることを自覚していただきたい、そしてその過てる思考から抜け出す為に、現象界を支配する「不昧因果」(因果くらまさず)と言う言葉を自己反省の言葉としてジックリと考え、自分を見つめていただく必要性があるのであります。


(つづく)





マサノブ・イソベ・ユキシマ最高首脳者への忠告!――看板は「生長の家」、しかし中味は「マサノブ教」という左翼唯物思想――この誤れる信徒への洗脳行為は、三君の今後の人生に如何なる影響を与えるか?「因果律」(原因結果の法則)と言う現象界の絶対法則から忠告する・・・C (5655)
日時:2014年11月13日 (木) 09時03分
名前:画龍点睛




(つづき)


『生命の實相』第30巻「聖典講義篇」(布製携帯版206〜211頁) <形よりも心が主>、――


<< 我々はすべての人間の實相を見て、『みんな神の子である。仏の子である。みんな救われている』という言葉の力によってその實相の神性、仏性を拝みださなければならないのであります。と云って、この『みんな救われている、みんな神の子である』と云う教えに反対してそれに駁論して来る者に対してはどうしたら好いかというと、イエスも、こういうものに対しては、やはり手酷(てきび)しく駁論を加えておられる。生長の家は他人を悪く言わない教えであるのに或る場合に於いては生長の家でも生長の家に対する間違った批評にたいして弁駁して応(こた)へている、――あんなことするのは大人気ないじゃないか、真理は真理みずからを証明するから批難は黙殺して黙っておれば良い、――こういわれる人もあります。むろん黙っておって良いときもあれば、黙っていないで駁論するのが好い時もあります。その駁論を見て、却ってそれによって救われたという人もあります。間違った批評に応酬するのは別に怒りによって相手をやっつけるつもりでするのではない。或いは人類の實相、本質そのものに対して『お前は悪人である』と云うわけでもない。間違っていることを間違っていると指摘し、外道を外道であると指摘し、正法を正法であるとして主張すると云うことは、必要なことである。それ自身が読者の興味を惹(ひ)く問答体の宣伝にもなるのであります。キリストもその当時のパリサイ人或いは偽善なる学者に対して手酷しく罵っておられるのであります。マタイ伝第二十三章の十三節から十五節までにはこう書いてあります、――『禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ、なんじらは人の前に天国を閉ざして、自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ…….禍害なるかな、盲目なる手引きよ….』という具合に罵っておられるのであります。この当時のパリサイ人というのはユダヤ教の律法(おきて)に一所懸命であって、形式ばかりに執(とら)われて、もう形式にちょっとでも間違ったものは、みなそいつは神の教えに反(そむ)いているものであると号して『人の前に天国を閉じ』てしまったのであります。・・・そう云う杓子定規の教えを以って、大衆の前に天国の門を閉ざしてしまった者に対しては、イエスは激しい言葉を以って罵倒しておられるのであります。だから『生長の家』もこのイエスの遣(や)り方と同じことでありまして、『人間は既に仏である。此の世界は既に光明一元の世界である。』というこの真理の言葉を弘めて行くに当って、その光明思想の普及を妨げる反対論に対しては、時と場合によっては、激しく批(う)たれなければならないこともあるのであります。>>




<忠告>


@ マサノブ君は、人間なる者を如何に観るかという「人間観」に於いては、開祖・谷口雅春先生の『御教え』とは全く逆の観方をして居るのであります。即ち、本来の「生長の家」の『御教え』によれば、<人間は神の子であり完全円満である。>である。そして<人間は神の最高の自己実現>であると教えられて居るのであります。一方マサノブ君の人間観は<人間は人間至上主義という独善的価値観をもって地球環境を破壊し続ける最高の利己主義的生物>であると観て居るのであります。あるいはまた、<人間は自然界の一部であり、鉱物界・植物界・動物界・人間界は横一列平等の存在である>とも言うのであります。端的に言えばマサノブ君の人間観は「人間は罪の子」(自然界の調和の破壊者)であるとと共に、人間は唯物的肉体存在だ云う事なのです。全く対極の思想であります。


A 本来の『御教え』は實相独在であります。「マサノブ教」は現象独在であります。しかし、マサノブ君は反発します。「自分は、人間は罪の子などとは一度もいった覚えはない。ただ、人間存在の現状は自然界の破壊者であると云っているのだ」と主張するかも知れないのであります。それなら問う。マサノブ君は“神性隠蔽”という言葉を使ったことはないではないか? また、マサノブ君は、創世記の解釈に於いて、第一章と第二章とは全く違う内容のことが書いてあるのは作者が違うからだと解説している。しかし、本来の『御教え』では、第一章は實相人間と實相世界の記述であり第二章はその實相が迷いによって包まれた實相隠蔽の現象人間と現象世界の記述であると教えて頂いて居るのであります。又、「迷妄(まよい)」の定義についても、本来の『御教え』では<在らざるものを在りと思うこと>(迷妄の非実在)でありますが、「マサノブ教」では、<迷妄は実在しているものにして、その迷妄は「自由」と言うものから生まれて来るものだ>(迷いの実在)と解説されているのである。かくして、徹底的に「人間神の子の實相独在」が説かれているのが『甘露の法雨』であり、「人間罪の子の現象独在」が全編を通じて説かれているのが『大自然讃歌(惨禍)』であります。


B かくしてマサノブ君は、左翼唯物現象論に本来の『御教え』を改竄してしまい、「人間神の子」とか「實相」と言う言葉だけをときどき使うけれども、自らが悟った上で使う言葉ではないのであります。逆に、本来の『御教え』にしたがって「人間神の子」・「實相独在」を求道する者を、「谷口雅春原理主義者」として教団組織から追放したのであります。かくして、現教団は「生長の家」という看板を掲げながら、その説くところは「人間神の子・唯神實相・實相独在」ではなく、「人間罪の子・左翼唯物・現象独在」を教義とする“非・生長の家”教団となってしまったのであります。そして、公安調査庁の資料にも、現「マサノブ教団」は左翼団体として書かれているそうであります。


C 看板は「生長の家」、しかし中味は「マサノブ唯物教」でありますから、此のことに気づいた信徒たちは「マサノブ教」の左翼唯物現象中心の教義は「生長の家」と言う看板を掲げている限り、それを<間違っていることを間違っていると指摘し、外道を外道であると指摘し、正法を正法であるとして主張>して居るのであります。だから、このままにして置くと、現「マサノブ教」が、本来の「生長の家」だと世の中に誤解されてしまうので、<『人間は既に仏である。此の世界は既に光明一元の世界である。』というこの真理の言葉を弘めて行くに当って、その光明思想の普及を妨げる反対論に対しては、時と場合によっては、激しく批(う)たれなければならないこともある。>と言うことになるのであります。


D 本流復活を目指す信徒さんの中にも、<生長の家は他人を悪く言わない教えであるのに、或る場合に於いては生長の家でも生長の家に対する間違った批評にたいして弁駁して応(こた)へている、――あんなことするのは大人気ないじゃないか、真理は真理みずからを証明するから批難は黙殺して黙っておれば良い、――こういわれる人もあります。>。我々のマサノブ教に対する批判は、単なる批判ではないのであります。<間違った批評に応酬するのは別に怒りによって相手をやっつけるつもりでするのではない。或いは人類の實相、本質そのものに対して『お前は悪人である』と云うわけでもない。間違っていることを間違っていると指摘し、外道を外道であると指摘し、正法を正法であるとして主張すると云うことは、必要なことである。>という事なのであります。


E 生長の家信徒の皆様は、実に巧妙なマサノブ戦略にかかって、知らぬ間に洗脳されて行きつつある事に気づかなければならないのです。“茹で蛙”(ゆでガエル)になってはならないのであります。“茹で蛙”とは、鍋の中の冷水に蛙を入れてコンロにかけ火をつけて、徐々に徐々に湯の温度を上げていっても、蛙は温度上昇に気付かず、湯が沸騰して死んでしまうのであります。この方法がマサノブ流洗脳であります。だから、我々はマサノブ教の信徒さんに対して、マサノブ君の「左翼唯物現象論」の教義のマチガイについて「本流」掲示板を使って、詳細に説明申し上げて居るのであります。決して単なる“批判”ではありません。「御孫さまだから間違ったことをおっしゃられる筈がない」と「マサノブ君」を崇め奉っていますと知らぬ間に本来の開祖・谷口雅春先生の『御教え』からはずれて行き、「左翼唯物現象論」に頭の中が切り替わって言ってしまうのであります。“茹で蛙(ゆでガエル)と同じ状態であります。そして、「現憲法擁護」派になり、「女系天皇制」に賛成を表明し、「愛国心」は戦争に結び付いて行くと思ってしまい、最後は日本は「天皇制から大統領制に」と言う考えに切り替えさせられていくのであります。間違っても、マサノブ君の「ゆでガエル」戦術に引っかかってはならないのであります。


(つづく)





魂を売ったのだね (5763)
日時:2014年12月01日 (月) 00時01分
名前:そうだったのか


マサノブ君が独裁者

イソベ、ユキシマ、この二人が魂を売ったのだね



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