生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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マサノブ・イソベ・ユキシマ最高首脳者への忠告!――看板は「生長の家」、しかし中味は「マサノブ教」という左翼唯物思想――この誤れる信徒への洗脳行為は、三君の今後の人生に如何なる影響を与えるか?「因果律」(原因結果の法則)と言う現象界の絶対法則から忠告する・・・E・最終回 (5668)
日時:2014年11月15日 (土) 12時08分
名前:画龍点睛




(つづき)


『生命の實相』第30巻「聖典講義篇」(布製携帯版232頁)<解脱自由の境地>――


<< 生命の實相――生命の本当の相――神から出た光そのままの世界と我々の念(こころ)が一つになってしまいますと、その時には、我々の念(こころ)のフィルムにはどんな迷いのムラムラも影もないのでありますから、そのフィルムを通して現われるどんな悪しき相(すがた)もないことになるのです。始めは、現象界の救いなどを目的としたのではない、しかし實相の世界には『因』はないから、一度實相の世界に直参してそれから現象界へわれわれの生活を投影して来ますと、因縁、因果に縛られない、自由自在の生活を送ることが出来るようになるのであります。この自由自在の生活に入った時に、始めて我々は、キリストがここに云っているように、『人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ。汝を訴えて下衣を取らんとする者には上衣をも取らせよ。人もし汝に一里行く事を強いなば、共に二里行け。汝に請う者に与え、借らんとする者を拒むな』。こう云う風な、自由自在な生活があらわれて来るのであります。此処に若し人あって、自分の右の頬を打ったならば、どんな時にも常にイエスの教え通りに是非とも左の頬をも廻(めぐ)らして、それに向けなければならぬかと云うと、必ずしもこの通りに実際にやらなければならないことはないのであります。すべて杓子定規に、心の自由を忘れて形の上で凝り固まってしまいますと人間は自由自在を失うのであります。自由自在を失えば實相から遠ざかるのです。イエス自身も、形の上で無抵抗を常にはやっては居なかったのでありまして、その証拠には、ヨハネ伝第十八章の二十二節に、イエス自身が人から打たれて、その時、果してどうしたかと云うことが書いてあります。>>



『生命の實相』第30巻「聖典講義篇」(布製携帯版233〜234頁)<イエスは必ずしも無抵抗に執われず>――


<<それはイエスが捕われて、大祭司カヤバの前へ引き出されて行った章(ところ)であります。イエスが云う『何故、我に問うか、我が語れることは聴きたる人々に問え。視よ、彼等は我が云いしことを知るなり。』かく言い給うとき傍(かたわ)らに立つ下役の一人、手掌(てのひら)にてイエスを打ちて云う『かくも大祭司に答うるか』イエス答え給う、『わが語りし言(こと)、もし悪しくば、その悪しき故を証せよ。善くば何とて打つぞ。』こういう具合にイエスも抗言して居られるのであります。イエスは打たれながら『我が語りし言、もし悪しくば、その悪しき故を証せよ。善くば何とて打つぞ。』と抗言して、決して無抵抗には他の一方の頬ぺたを打たせてはいないのであります。ですから、この『左の頬を打つ者には、右の頬を向けよ』と云うイエスの教えは、實相は火にも焼けず、水にも溺れず、況や手掌で打たれる位で傷付くものではないから、そう云うことには超脱した心境でおれと云われたので形の上で無抵抗でおれと云われたのではないのであります。我々は時にはなるほど、無抵抗でいなければならないこともあります。しかし、大いに相手に対して抗言しなければならない時もあります。特に真理に関することでは争わねばならないことが度々あるのであります。聖書を御覧になりますと、到るところにイエスがパリサイ人や学者の説に反駁しその信仰の間違っている点を説破して、或いは罵ったり、或いは批評したりして居られるのを見出されるでありましょう。これは真理の光が、闇の中を進んで行く時やむを得ない状態であります。光が進んで行けば、闇は消えなければならない。この時、光と闇とは衝(つ)き合うようにしばらく見えるのでありますけれども、光が進めば闇そのものは積極的存在ではなく、自然に消えていくのであります。しかし、一見したところは衝き合うように見える。それが真理が迷いに対する抗争であります。ですから、イエスも、ひとから打たれた場合に、別段手を以てたたき返している訳ではないのでありまして、『我が語りし言に、もし悪しきことあったらその悪しき故を証(あかし)せよ。』こう云う具合に云って居られるのであります。『自分の云う説き方が間違っているなら、そのまちがっていると云うことを証せよ。自分は真理を述べるのである』と断固として云っていられるのであります。>>



『生命の實相』第30巻「聖典講義篇」(布製携帯版235〜236頁)<邪説を排撃するの可否>――


<<これは別に人と争うのではないのであります。真理を述べるために、他の間違った邪説と衝突すると云うことは是(これ)また止むを得ない事であります。だから、自分が正しいと考えている処の真理に対(むか)って、反対者が間違っていると云うのならば、その間違っている点を挙げて、ここは斯うまちがっていると云へと、斯う云う具合に云っておられるのであります。『生長の家』の説くところを時々批難する人がある。真理のよく悟れた人は批難しないで賛嘆されるのでありますが、充分真理の悟れない人や、所謂宗教業者で商売敵だと思って揚げ足取りして非難されるひとがありますが、そう云う場合、生長の家では黙殺することもありますが、他の人に誤解せしめて真理を伝える邪魔になると思われるような場合には敢然として其の他の人達の妄論を反駁することもあります。すると『何じゃ、生長の家は総てのものと大調和をせよと教えておるのに駁論なんか発表するのは怪しからん。あんなことでは、生長の家本部そのものが生長の家の教えに背いている』と言う具合に考える人もあるようです。併し、非真理に対しては、駁論を発表することが必要であることもある。非真理が滔々乎(とうとうこ)として弘まっている時代に真理を説くには、非真理の説を是正しなければならない。『虚妄を壊するものは真理のほかに非ざるなり。』と聖経『甘露の法雨』の中に書いてありますが、邪説を打ち破るためには正説の法鼓を鼕々(とうとう)と打ち鳴らす必要があるのであります。正説の法鼓を打ち鳴らすことは大調和を破っているのではない、大調和を破っている邪説の領域を狭めて、大調和の領域を広めることなのであります。釈迦が佛教をひろめられた時にも、婆羅門教(バラモンきょう)などの邪説に対して、やはりその教えの間違っているところを、論破することを怠られなかったのであります。ですから、邪説を論破して大調和の真理を弘めると云うことと、此の『山上の垂訓』でキリストの云われた『右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ。』と云う教えとは又別のことであると観なければならないのであります。これはキリスト自身の御生涯を見ると判るのでありまして、教えと云うものと時代、環境、御自身の生活と云うものとを切り離して考えると、本当の意味が解せられないのであります。教えと云うものは、生きた人に教え、時代に生きているもので、教えそのものが宙ぶらりんに生きているものではないのであります。>>





<忠告>



@ 上記引用の開祖・谷口雅春先生の御文章からいえることは、――

イ、マサノブ君の説く「今の教え」という「マサノブ教」は、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』(宇宙の大真理)から見れば<邪説>であるということ

ロ、正説である所の本来の『御教え』と邪説である所の「マサノブ教」とは、真理の上から言って絶対に“和解”する事は出来ないと云うこと

ハ、邪説を論破、駁撃する事は、“批判”ではないと云うこと

ニ、むしろ、邪説を其の儘にしておくと「悪貨は良貨を駆逐」するが如く、光が消えてしまい、闇がはびこる故、邪説の存在は許しておくことは出来ないということ

ホ、非真理である邪説・「今の教え」(マサノブ教)と和解する事は、決して『大調和』ではない、逆に、邪説・「今の教え」(マサノブ教)の非真理性を論破・駁撃することが本当の「大調和の教え」を広めることになるのであります。



A <實相の世界には『因』はないから、一度實相の世界に直参してそれから現象界へわれわれの生活を投影して来ますと、因縁、因果に縛られない、自由自在の生活を送ることが出来るようになるのであります。>と書かれておりますが、本当の自由自在な因縁因果に縛られない生活を送るためには、自分自身が實相の世界に先ず直参する事が第一であります。この点について言えば、マサノブ君は未だ嘗て一度も實相界への直参の生命的体験がないのであります。宗教的天才でもない私たち信徒は、真剣な求道心を持って『生命の實相』の反復熟読、神想観の励行によって悟りの道へ入れるわけでありますが、マサノブ君は真剣な求道心を持たず、自分の個人思想に箔を付けるために『生命の實相』の言葉を上手に利用出来るところを探したり、自分の左翼唯物現象論から見てマチガイと思えるところを探す為に『生命の實相』を拾い読みしているのであります。マサノブ君は『實相』という言葉と国語辞典的解釈を語っているだけであって、自己生命の實相の直接的把握の生命的体験がないと云うことを私たちは認識して置かなければならないのであります。仮に、彼自身が生命の實相の直接的体得を為していた場合には、決して開祖反逆、開祖否定、言行不一致そして「生長の家」つぶしの行為はしていなかったはずであります。しかし、現実は逆でありまして、彼の今までの行為自体が、自己生命の「實相」を体得していないことを示しており、同時に實相の世界への直参という霊的体験が無かったと云う事を証明しているのであります。



B <『左の頬を打つ者には、右の頬を向けよ』と云うイエスの教えは、實相は火にも焼けず、水にも溺れず、況や手掌で打たれる位で傷付くものではないから、そう云うことには超脱した心境でおれと云われたので形の上で無抵抗でおれと云われたのではないのであります。我々は時にはなるほど、無抵抗でいなければならないこともあります。しかし、大いに相手に対して抗言しなければならない時もあります。特に真理に関することでは争わねばならないことが度々あるのであります。>と書かれております。

<特に真理に関することでは争わねばならない事が度々ある>――是が現在の生長の家が当面していることであります。マサノブ君は平成2年の副総裁就任以前より「侵略戦争論」を教団内で唱えたり、「生政連」潰しの影の立役者となったりして、徐々に「生長の家」潰しにかかってきておりました。その動きが副総裁、総裁代行となるに伴って開祖の御著書の絶版化を始め、開祖否定、本来の『御教え』否定があからさまになってきましたので、我々の次の世代においては開祖・谷口雅春先生の『御教え』自体が地上から消え去ってしまうとの危機感のもとに、12年前に、「ときみつる会」と「谷口雅春先生を学ぶ会」が起ちあがったのでした。この動きを、「大調和の神示」を盾にして、三代目マサノブ総裁に対する批判勢力、抵抗勢力、分派、別派と大多数の信徒は非難しましたが、現在では「マサノブ教団」こそが分派・別派であり、教勢は急落し信徒脱落が止められないような状態になって来てしまったのであります。

現状の「正統・生長の家」(「ときみつる会」・「学ぶ会」)と分派・別派の「マサノブ教団」との抗争と映る状態は、――<<これは真理の光が、闇の中を進んで行く時やむを得ない状態であります。光が進んで行けば、闇は消えなければならない。この時、光と闇とは衝(つ)き合うようにしばらく見えるのでありますけれども、光が進めば闇そのものは積極的存在ではなく、自然に消えていくのであります。しかし、一見したところは衝き合うように見える。それが真理が迷いに対する抗争であります。>>――であって、勝負は付いて居るのであります。「マサノブ教」はまだ「生長の家」の看板を必死に離さないでしがみ付いておりますが、信徒が激減していけば、その看板を離さざるを得ない状態に追い込まれてくることになりましょう。



C << 他の人に誤解せしめて真理を伝える邪魔になると思われるような場合には敢然として其の他の人達の妄論を反駁することもあります。すると『何じゃ、生長の家は総てのものと大調和をせよと教えておるのに駁論なんか発表するのは怪しからん。あんなことでは、生長の家本部そのものが生長の家の教えに背いている』と言う具合に考える人もあるようです。併し、非真理に対しては、駁論を発表することが必要であることもある。非真理が滔々乎(とうとうこ)として弘まっている時代に真理を説くには、非真理の説を是正しなければならない。『虚妄を壊するものは真理のほかに非ざるなり。』と聖経『甘露の法雨』の中に書いてありますが、邪説を打ち破るためには正説の法鼓を鼕々(とうとう)と打ち鳴らす必用があるのであります。正説の法鼓を打ち鳴らすことは大調和を破っているのではない、大調和を破っている邪説の領域を狭めて、大調和の領域を広めることなのであります。>>――ここに、我々の本流復活運動の正当性の根拠が示されて居るのであります。

「マサノブ教団」の主張は、< 生長の家大神 → マサノブ総裁 → 今の教え >であります。これは“邪説”であります。「正統・生長の家」の主張は、< 生長の家大神 = 開祖・谷口雅春先生 = 『御教え』(神示) → 第二代以降の総裁 > であります。では何故、「マサノブ教」が邪説なのか? と申しますと、本来の『御教え』は開祖・谷口雅春先生が大悟徹底(無の関門を超え、超入)された實相世界の真理(生長の家大神からの啓示即ち神示であるのに対して、マサノブ君の「今の教え」は、大悟徹底とはほど遠い単なる個人的思想(左翼唯物現象中心論)に他ならないのであります。したがってマサノブ君は、「唯神實相論」に関する生命的体験に基づく文章は書けません。彼の書く文章は何処まで行っても左翼唯物現象論の域内の文章であります。



D < 教えと云うものと時代、環境、御自身の生活と云うものとを切り離して考えると、本当の意味が解せられないのであります。教えと云うものは、生きた人に教え、時代に生きているもので、教えそのものが宙ぶらりんに生きているものではないのであります。>――

マサノブ君は、左翼唯物現象論の「今の教え」を正当化する為に、一つには『生命の實相』第33巻53頁に書かれている<説明の仕方は形ですから不断に変化しなければならない。みずから変化しない宗教は形骸化して他の宗教にとって代わられる。みずから宗教改革しながら進んで行く宗教であってこそ永遠に生きることが出来る>という部分を根拠にしているのであります。

しかし、これは<説明の仕方の形>の変化は必要である事だけを述べてあるのであって、唯一絶対の久遠悠久の真理も時代と共に変化させねばならないと言うことにはならないのであります。マサノブ君は、開祖・谷口雅春先生が大悟徹底された<唯一絶対の久遠無窮の真理>そのものまでも時代の変化と共に事実上変更してしまったのであります。その一つは、<人間神の子・完全円満>の絶対的根本真理を<人間罪の子・人間至上主義>へと置き換え、更に<宇宙の實相は蓮華荘厳金波羅華の中心帰一組織体>を<宇宙は神・自然・人間の一列横並び存在>へ置き換えたのであります。本来の『御教え』の<唯神實相哲学>を「今の教え」の<左翼的唯物現象哲学>へと180度の大転換を強行したのであります。

もう少し具体的に云えば、「マサノブ教」では<神性隠蔽>の説明をしない、<天皇国日本の實相>を説かない、<三界唯心>や<實相直視>による救済を説かず、“環境問題”に見る如き物理的手段による現象改善のみを説いて居るのであります。



『生命の實相』第30巻298〜289(布製携帯版)には、――
<< 真理には絶対的真理と相対的真理があります。相対的真理というのは、その時の相手にとって相応しるように真理を薄めて説く。『病気がない』と云うのは絶対的真理すなわち第一義諦で、『病気は心の持ち方で生ずる』と云うのは相対的真理であります。『心で病気が治る』と云うのも『薬で病気が治る』と云うのも相対的真理であります。相対的真理というものは、相手に従って効果が変って来るので、心でも薬でも病気が治らぬことがあるのもその理由によるのであります。医学上、医薬で治す方法のない病気に罹りながら、薬に執着しているために、心が解脱し得ないで憂鬱煩悶している人に『薬などで病気が治るか!』と一喝すると、その時その人の心の迷いがとれて本来清浄の自分の生命を悟り、病気が治る場合がある。初めから医療の道がない病人に、その心を解脱さすために一喝を用いたので、これを方便的真理と云うのであります。人の説教を聴く場合には、その説教師は誰に話をしているか、彼に説く場合にはどういう気持で話をしているかという事が分って聴かなければ本当の真理と云うものは分らないのです。・・・>>



このことが上記の引用文、<教えと云うものと時代、環境、御自身の生活と云うものとを切り離して考えると、本当の意味が解せられない>のでありますが、、マサノブ君は「今の教え」の正当化のために、自分で勝手に拡張解釈して、<教えの内容は絶対的真理も時代即応であるべき>と考えて180度相違する「マサノブ教」を確立し、『生命の實相』の都合のよいところを引っ張ってきて「生長の家」の看板の下で、「唯神實相論」から「左翼唯物現象論」への完全転換を果たしつつあるのであります。しかし、如何に言葉巧みに<教えと云うものは、生きた人に教え、時代に生きているもの>として、時代即応の180度の転換(「今の教え=マサノブ教」)が成功したかに見えようとも、逆にマサノブ君の宗教家に非ざる「言行不一致」の事例が増えて行って「マサノブ教」の矛盾と非真理性が白日の下に曝される事態に至っているのであります。時代即応と称する「今の教え=マサノブ教」の非真理性が信徒の脱退現象として顕われており、「今の教え=マサノブ教」が邪説である事を証明しているのであります。




< まとめ >


マサノブ・イソベ・ユキシマ三首脳に告ぐ!

@ 今や、「マサノブ教」の本質は<左翼的唯物現象論>であり、生長の家本来の『御教え』<唯神實相論>とは似ても似つかぬものである事が大勢の信徒たちが気付き出し、教団脱退して行っているのである。


A 『生長の家』の看板を掲げながら、似ても似つかぬ左翼唯物現象論を説く三首脳は、開祖否定と反逆のとてつもないプロ宗教家としての宗教的重罪を日々重ねながら恬として恥じず、教勢低下の反省心はさらさら無く、責任をもとろうとしない。


B 君たち、三首脳は、この宗教的重罪が“因”となって、これからの余生、帰幽後の霊界、更に未来世に亘って、如何なる“果”を刈り取って行かなければならぬかの「因果の法則」を認識していないのである。或いは「因果の法則」を完全無視して、傲慢にも自分だけは「不落因果」だと嘯いているとしか思えないのである。何たる傲慢!、何たる驕慢! しかし、宇宙の大法である「因果の法則」は何人たりとも免れることが出来ない。三首脳の君たちがプロの宗教家だと名乗るならば、この際「不昧因果」について思考を深めて然るべき行動を採らねばならないのである。


C 君たち、三首脳が「不落因果」という傲慢なる認識を改め、「不昧因果」から超脱する唯一の方法は、「生命の實相」の悟り、大悟徹底の境地に到達することであります。この境地に到ると、現在三首脳が一致団結して強行しつつある「生長の家」完全解体作業の非真理なる事が悟れて、自発的に辞表を書き、大政奉還・看板返却・教団退去をなしていくようになるのであります。


D 君たち、三首脳がこのまま居座り、一切の反省する心も無く「生長の家」完全解体に向かって進むならば、宇宙の大法たる「不昧因果」の絶対法則によって暗黒巨大なる悪因悪果の「因果応報」の世界に入って、プロ宗教家最大の「悪業」の償いをしなければならない事だけは間違いありません。やはり、嘗てのジュンコ君の<ソクラテスとトルストイの“予知夢”>が、諸君ら三首脳の晩年において現実的“正夢”となる可能性は極めて高いものといわなければならないのであります。






魂を売ったのだね (5765)
日時:2014年12月01日 (月) 00時03分
名前:そうだったのか


マサノブ君が独裁者

イソベ、ユキシマ、この二人が魂を売ったのだね

転載します (5766)
日時:2014年12月01日 (月) 01時18分
名前:会員

2166 :神の子さん:2014/12/01(月) 01:13:01 ID:???「総本山を聖地とは呼ばないでください」

と明確に発言された雅宣総裁に質問したいです。

絶対神である天之御中主神さまを勧請したと申されましたね。

それでも総本山は聖地と呼ばないのでしょうか。

もし、呼べないのであれば 総裁は

天之御中主神の名を自分の都合(主張)のために利用したと考えられます。

いかがでしょうか。

聖経ではないと自ら言った経本を聖経と並べて読誦させることも

これは・・・ご自分の主張をお経というものを利用したペテンではないでしょうか。

わかりやすくお答え下さい。



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