生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十二話> (424) |
- 日時:2013年03月12日 (火) 08時30分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第二十二話(通算第348話)
西田哲学との比較に於ける人間論 <その四>
『人間死んでも死なぬ』P.336−339
<<三たびガス栓の比喩に立ち帰る。今日ガス栓に燃えている焔は、昨夜ガス栓で燃えていた焔と同一の形状をしていて、吾々は同じ焔だと云う実感を喚び起こすのは何故であるか?
それはガス迸出口(へいしゅつこう)の構造による。ガス迸出口(へいしゅつこう)が一定の形をしているが故に、そこで燃えるガス火焔が一定の形状をしていて、同事性の錯覚を起さしめるのである。
ガス迸出口の一定の形状こそ、そのガス火焔をして一定の個性をもって燃焼を連続せしむる原因を構成するものであったのである。
ここに考うべきことは、それでは何故、ガス迸出口が一定の形状をしているかと云うことである。
それは云うまでもなく、設計者の心の中に描かれたる理(ことわり)の念による。理を立て、目的を定め、それに相応(かな)うような形状が心に念の姿をもって描かれて、やがてその理念が現実のガス迸出口として表現されたのである。
だからガス迸出口を斯くの如き形状で現れしめている力は、ガス迸出口の鋳物(いもの)の力ではなく、ガス迸出口を設計したところの設計者の心の中の理念である。
ガスは瞬々刻々交代しつつ、別の火焔が燃えているのであるが、その別の火焔が同一の形状を備えていて、昨日の火焔も一貫してその同時性(*)を認めしむべく吾々に迫ってくる力は、その設計者の心の中に描かれたる理念である。
その理念はそのガス迸出口の構造を通じて、昨日も、今日も、明日も、継続して作用(はたら)いているが故に、ガス火焔の物質的内容は全然別のガスでありながら、常に同一個性をもって燃えつづけて、同事性(おなじものであること)を吾々に認めしめようと迫るのである。
さればガス火焔の“同事性”は、その形状の類似又は同一にあるのではなく、その物質内容の類似又は同一にあるのではなく、斯くならしめているところの設計者の理念の同自性(おなじじぶんであること)によることが判るのである。(*identificationの意。事物の同事を現すときに同事性と書き、人格の同事を現すときは同自性と書いた。)
そこで前述の比喩を転じて、人間の同自性の自覚に引き戻して考えて見る。既に説明せるが如く肉体は刻々変滅して決して永続して同自性なきものである。
更に「我」の意識も刻々変化交代して、決して永続せる同自性のなきものである。
従って此の肉体及び大脳意識の「我」が同一自己として感ぜられるのは錯覚である。而(しか)もこの現在の「我」を同一自己として感ぜざるを得ないのは何故であろうか。
若(も)し自我の同自性の自覚が錯覚であるとするならば、昨日の自己の行為に対して、今日の自己は行為の継続も責任もとることが出来なくなるであろう。而も斯くの如きことは吾らの生活をも不可能ならしむるものである。
吾等は吾等の自己を昨日も今日も「同自」であると認めんとするところの切なる内部的要請を感ぜざるを得ないし、昨日の行為に対して今日の自分が責任を持とうとする切なる内部的要請を感ずるのである。これは如何なる訳であろうか。
それは、吾等のガス(肉体)と火焔(意識現象)の内容は異なるけれども、設計者の同一理念が今も作用しているが故に、同一のガス火焔であると認めしめようとして迫るが如く、「人間」も肉体と意識現象との内容は瞬々刻々変滅して行き、大脳の破壊によって異常なる変滅を来たすけれども、その「人間」を<同一の人間>としてその<連続的同自性>を認めずにはいられないのは、斯く人間を現しめているところの<設計者の理念>が同一理念であるが故に、昨と今と、異なる物質内容と意識内容とを異にしつつ<同一の人間>であるとの自覚を生ずるのである。
即ち<同一の人間>であると云うことは肉体の不変によるのではなく、内容の理念の同自によるのである。だから人間とは肉体には非ずして内容たる理念そのものである。>>
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