生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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こんな総裁もう要らない! ――又もや懲りずに宗教学者マサノブ君の愚論・・・12・14「枯れ松模様」 (5872)
日時:2014年12月15日 (月) 18時20分
名前:怒れる信徒代表




マサノブ君は何度言ったら懲りるのだろうか? 又もや、人間知による“学”のあるところを披歴し、信徒を煙に巻き、マサノブ政権の延命に余念がないのであります。「いのちの樹林」(2)と言うタイトルで学者マサノブ君は次の如く書いたのでした。



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「枯れ松模様」平成24年12月13日 (土) =「いのちの樹林」について (2) = (要旨)

 << 前回の本欄で同じテーマで書いたとき、私は生長の家の「いのちの樹林」のコンセプトの中の次の2点について「宗教的にもとても重要」だと表現した−−  @その土地本来の植生であること。 A“自然の恵み”を生物多様性として味わえること。(果実、鳥類、昆虫など)  また、「庭園や公園は“都市”や“都会”の考え方の延長線上にある人間本位の、人間中心主義的な発想から造られるのに対し、霊的緑地=いのちの樹林は、自然本位の、自然中心主義的な発想から生まれている」とも書いた。これらについて、少し説明しよう・・・。『創世記』の世界観は、1種類しかないわけではない。・・・『創世記』にある天地創造の物語が、第1章と第2章とでかなり異なるという事実・・・谷口雅春先生は、早くからそれに気づかれ、『生命の實相』を初めとした多くの著書の中で、『創世記』第1章の物語は、神による真の創造になる“第1創造(真創造)の世界”を反映しているのに対し、第2章の物語は、人間の迷いによって現れている“第2創造(偽創造)の世界”を描いているとの卓越した聖書解釈を打ち出された。

 今日の聖書学者の中でこれと同じ見解をもつ人を、私は知らない。が、『創世記』第1章と第2章は別の“作者”、もしくは別の系統の言い伝えを受けて書かれたと考えるのが、聖書学者たちの間のほぼ定説になっている。・・・Yahweh ・Elohim・・・古代の伝承で神の呼称が異なるということは、もともと2つの異なる神であった可能性が高い。『創世記』を編纂する際に、それらを1つに合体してしまったことで、同書には矛盾した2つの天地創造の物語が残ったと考えるのが合理的であろう。そして実際に、『創世記』第1章と第2章の描いている天地創造の様子は、ほとんど最初から最後まで相互に矛盾しているのである。・・・神は第1章において自然界を創造されなかったかと言えば決してそうではなく、すべての生物を創造され、最後に人間を創造されたのち、それらすべての被造物を眺められて「はななだ良い」と称賛され、満足された様子が描かれている。とすれば、神は“楽園”などというものを改めて創る必要などなかったとも解釈できる。さらに言えば、神が「はなはだ良い」と認められた第1章の世界は、もともと“楽園”だったという解釈も成り立つだろう。これに比べ、第2章の記述・・・神がわざわざ“楽園”を人のために造られたという考え方の背後には、“楽園”ではない場所も神が造られたという前提がある。・・・もし生長の家が「いのちの樹林」なるものを造り、「見て美しく、食べるに良い」という理由で、そこに土地本来の植生とは異なる樹種を植え育てたならば、それは『創世記』第2章の偽創造の考え方と、どれだけ違うと言えるだろうか? また、生物多様性を重んじず、農薬や化学肥料によって少数の特定の草木ばかりを育て、“雑草”や“害虫”“害鳥”“害獣”などを排除しようと考えたならば、それは神が「はなはだ良い」と認められた真創造の世界を否定することにならないか?−−このように考えてみると、先に掲げた「いのちの樹林」のコンセプト中の2点が、宗教的にもとても重要であることがわかるだろう。
 谷口 雅宣 



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<講評>



@ マサノブ君が、今回造った「赤坂・いのちの樹林」そして、現在、元原宿本部を解体整地して造ろうとしているらしい「原宿・いのちの樹林」なるものは、人工的緑地公園ではなく、@その土地本来の植生であること。 A“自然の恵み”を生物多様性として味わえること。(果実、鳥類、昆虫など)と言う内容の所謂、本当の自然公園という事のようであります。

ということは、今回の「赤坂・いのちの樹林」の樹木は、マサノブ君が調査して、その昔、武蔵野と言われていた時代のその土地の植生樹木を植林したと云う事であろうが、そのことについての詳しい説明が為されていないのであります。

次に、このようにして最初は造成された人工樹林を“自然の恵み”を生物多様性として味わえる“自然のままの樹林としていくならば、樹木の剪定は一切行わず、落ち葉や倒木はそのまま堆積させて天然肥料化し、棲みついた鳥類や爬虫類や昆虫の繁殖もそのままに任せ、ペット愛好家が捨て去った外来の小動物(アライ熊など)も自然繁殖にまかせておく。毒蛇も毒蜘蛛も繁殖していくかも分りません。本当の自然の生態系の樹林としていくつもりならば、そのようになる筈であります。つまり歳を経るに従って“鬱蒼たる密林”となり、“自然の恵み”を生物多様性として味わえるどころか、人間にとって危険地帯となるのであります。

この辺の実際の説明もマサノブ君は全然していないのであります。この様な形の自然樹林ならば、ペット愛好家の格好の捨て場となって行く事は確実であります。そのまま自然放任して行く事は出来ないとするならば、その適切な管理運営を専任者を雇ってしなければならず、人間の手の入った樹林となり、そのために教団の費用――「信徒の浄財」――が消えていくことになるのであります。結局のところ、「いのちの樹林」などと美辞麗句で飾っていますが、所詮はマサノブ君の個人的趣味と道楽の思いつきであって、信徒の浄財と言う手元資金が豊富な為、実行できたに過ぎないのであります。金持ちの道楽息子のお遊び、――これが「赤坂・いのちの樹林」の正体なのであります。狡知マサノブ君に、ゆめゆめ騙さるること勿れ!であります。



A マサノブ君は、この「いのちの樹林」というブログ発表文を書きかけて、「創世記」のことを連想したのでありましょう。そこで、又もや、学者・マサノブ君の“学”のあるところを“無学?”と彼が蔑視している信徒に示したかったのでしょう。過去において、マサノブ君は、あまり開祖・谷口雅春先生の『創世記』解釈(『生命の實相』第21巻)を重要視せず、その第1章と第2章とは作者は別だとか言う“聖書学者”の論の紹介に力点をおいていました。しかし今回は、「卓越した聖書解釈」と開祖・谷口雅春先生の「創世記」の解釈を持ち上げておりますが、よく読めば単なるリップサービスの域を出るものではなく、結局は、聖書学者の解釈を無理矢理に今回の「いのちの樹林」に結び付けて行って居るのであります。



B マサノブ君は霊的音痴でありますから、開祖・谷口雅春先生の「創世記」の直感的霊的解釈がわからない、實相独在の真理が解らない、實相と現象の真意がわからないのであります。そこで、それをカモフラージして、信徒の関心を聖書学者の学問的理屈の世界へと誘導しているのであります。宗教・信仰の世界に於いては、「霊的直感解釈」こそが最重要であり、開祖・谷口雅春先生の「霊的直感解釈」によって信徒の我々は悟りが開け、病悩苦から救われるのであります。マサノブ君の聖書学者の解釈を幾ら読んでも宗教・信仰の世界に於いては全くの役立たずであります。有害無益であります。



C マサノブ君は、「霊的音痴」である為、『生命の實相』の次の文章が何回言って上げてもその意味が理解できないのでありますから、自分の理解できる宗教・信仰の世界に属さない聖書学者の論説を何回も書いているのであります。

<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う―――
・・・仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にしたがって肝心の問題であるべきその書に、本当に『久遠を流るるいのち』が生きているかどうかを忘れてしまう傾向がある・・・まことにも木村博士の言わるる通り『仏典を論ずる』ためには、サンスクリット語や・・・古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。しかし、それは『仏典を論ずる』ためであって『仏教を悟るため』ではないのである。幾千巻の大蔵経の第何頁に如何なる語が書いてあるかと言うようなことは、仏典を論ずるためには、必要であるかも知れない。けれども吾々の<さとり>のためには何の効果もないのである。・・・結局、語学や経典によって釈迦の教えを研究しようなどと言う企ては、暗中模索の靴を隔てて痒きを掻くに類する努力であって、それはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々巡りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことは出来ないのである。本当に<さとり>の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して『久遠を流るる<いのち>としての釈迦』そのものの中に飛び込まなければならないのである。(「生命の実相」第27巻・久遠仏性篇上巻・第7章)



D 我々、真の「生長の家」信徒にとりましては、聖書学者の語学と考証の世界の論説はひとつも必要ではないのであります。我々、真の「生長の家」信徒にとって必要なのは、聖典・経典の「霊的解釈」だけであります。単なる学者的物知りの知識等は、信仰の深化や求道の道には不必要であります。かかる意味において、マサノブ君の聖書学者の解釈した人間知などは百害あって一利なしなのであります。こんな聖書学者から仕入れた説を重視し、開祖・谷口雅春先生の霊的直感的解釈を軽視するマサノブ君、こんな総裁は不必要であります。却って迷いに落ち込んでいくばかりであります。聖典・経典を語学と考証の世界で論ずることと真理を悟ることとは根本的に次元が違うことが解らなければ、マサノブ君よ、自らの不明を恥じて教団を潔く退去し給へ!!







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