生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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我欲の果て (5966) |
- 日時:2014年12月29日 (月) 13時37分
名前:HONNE
かつては、生長の家で働いている人を尊敬していた。それは、生長の家の教えの篤き信仰心のある人がなしえることだと考えていたからだ。 立派な教えであっても、それを伝えるのは人である。 我欲が介在してしまうと、篤き信仰心も変異してしまう。
雅宣さんは、環境偏重の我欲で「生長の家」は、「看板だけの生長の家」になってしまった。 その要因はどこにあったのか。 清超先生は、総本山に居を移さなかった。何故? 雅春先生が、総本山に居を移しました。何故? 清超先生は、雅春先生の思いが本当にわかっていたのでしょうか。我欲はなかったのでしょうか。
雅宣さんの間違いを指摘しないで、自分の地位や収入を守ること。 それは教えより、我欲の優先ではないですか?
新編・生命の実相の発行に拘ること、それも我欲ではないですか。 結果、生命の実相(頭注版)や聖経を求める人がいるのに行き渡らない。 現象的には、ズルイと思われる打算も必要です。 日本教文社に生命の実相(頭注版)と聖経の出版・発行を認めてあげることです。 条件をつければ良いのです。 例えば、生命の実相(頭注版)の出版・発行は「新編・生命の実相」が全巻刊行するまで期間。そして、生命の実相(頭注版)と聖経の売上げ利益の60〜70%は生長の家社会事業団に納付する。納付された金額は、「新編・生命の実相」の発行に充てることができるでしょう。 こうすれば、生命の実相(頭注版)や聖経を求める人の要求に応えられる。求める人に罪はないのです。 今、日本教文社は出版権?で裁判をおこしているが、条件つきの和解調停をすればよいのです。 日本教文社では、生命の実相(頭注版)や聖経の出版はできるのですから、損はありません。 社会事業団も、教団や信者さんから悪意を持たれる根拠がなくなるのです。 もし、日本教文社が和解案を蹴ったなら、そのことを情報公開すればよいのです。 社会事業団の誠意を示すことができます。 今の教団は「看板だけの生長の家」なのですが、お互いの団体が共有する部分(生命の実相、聖経)はあります。 そこは割り切って、良い方向に(せめて、生命の実相や聖経を求める人がいるのに行き渡らない状況の解消)とり進めていただきたい。
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