生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十三話> (439) |
- 日時:2013年03月13日 (水) 13時33分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第二十三話(通算第349話)
西田哲学との比較に於ける人間論 <その五>
『人間死んでも死なぬ』P.339−342
<<茲に同自性の連続として感じられるところの「人間」“なるもの”は、実は<肉体の同自性の連続>ではなく、また「我」なる<大脳意識の同自性の連続>ではなく、<設計者の理念の同自性>による「人間」なる一つのものとしての自覚であることが明瞭になったと思う。
そこで我等に「同自」なるものとして自覚せしめている<本当の人間>なるものは肉体ではなく、また軽々しく普通人が「我」と漠然と称しているところの第一人称者でもなく、実はその奥に横たわるところの設計者の理念そのものが茲(ここ)に生きていることを知るのである。
端的に云えば肉体は人間ではない。心(大脳の作用の)も人間ではない。<理念が人間なのである。>設計者によって構想されたる「人間」なる理念が人間なのである。だから、ガス火焔は消える、ガスの装置も錆びて使えなくなる。
併し、そのガス装置の設計者の理念は消滅し得ない如く、人間の肉体は腐蝕し、傷つき、死するであろうし、その大脳意識は消えるであろうが、「人間」“そのもの”は、設計者の「理念」なるが故に消えることなき久遠不滅の存在なのである。
一個のガス装置が錆びて使えなくなったら、設計者の設計(理念)が廃棄せられない限り、同じ型のガス装置が適当な材料を求めて製作せられて、同じような型のガス火焔が燃えるであろう。
その如く、「あなた」の肉体は幾度滅びても、<「あなた」なる理念>は、つねに設計者の中にあって永遠に死滅することないが故に、“幾度でも”地球またはその他の遊星の如き適当なる環境材料を見出して、そこに<現象的な人間>として姿を現し出(い)でるのである。
そして斯くして出生する<現象的な人間>は<本当の人間(理念の人間)のただの投影(かげ)に過ぎないのである。
私は「人間」そのものは、設計者の「理念」なるが故に消えることなき久遠不滅の存在なのであると言った。ここに見逃すべからざる二つのことがある。
(1)人間は設計者に関係していること。
(2)「人間」の本質又は<本当にある>人間は理念であるが、その理念とは類型的概念ではないと云うことである。
「人間“なるもの”」と云う共通類型的な概念ではなく、ひとりひとりの人間、「あなた」なるもの、「彼」なるもの--------等々悉く設計者の心の中に描かれたる個性的な理念であって、決して類型はないのである。
設計者を仮に神と云う。神の心の中には決して類型的な理念は描かれはしないのである。
神は無限創造である。神は無相にして無限相を内に包蔵する。類型の重複を造り出す必要は決してないのである。
「人間」には類型は一人もないのであって、悉く個性を備えている。類型の如く見える人間が若しありとすれば、それは本来類型の人間ではなく、まだ未発達であるが故に個性ある人間の特殊性が蔽(おう)われて開顕していないに過ぎないのである。
それは柿の嫰葉(わかば)と大豆の嫰葉(わかば)とが互いに類型的に形が似ているのは、それが本来類型的な為ではなく、それが未発達であるが為にその個性が完全に発揮されていないにすぎないのである。
「理念」には類型はなく、悉く個性的である。
人間も赤ん坊は一層類型的であるが、生長するにつれて“より”一層個性的となる。
猿の胎児と人間の胎児とは互いに類型的であるが生長するにつれて別個の斬然たる個性を発揮する。
民族もその未発達期に於いて類型的な性格が多いが、より一層発達するに連れて、より一層個性的となるのである。
人間は「理念」であるが故に、常に死滅することはない。機縁にふれて“より”一層その「理念」内容を完全に表現し、機縁に触れて病み且つ傷つけるが如く現れる。釈迦は仏性に滅、不滅なきこと月の性、固(もと)より出没なきが如しと言っている。(『涅槃経』月喩品)
斯くて人間は今、物質に非ずして物質の様態を表現し、肉体に非ずして肉体の様態を示現し、仮に「肉体」を我と考え違いし、大脳意識の滅落を我の死と思い違えて悲しむのであるが、<本当の人間>――“本当にある人間”は決して死することなきものである。
長押(なげし)の釘に掛けたる衣服は釘が抜け落つると同時に吾々の視界から没し去るが、衣服そのものは決して滅したのではないのである。(ベルグソン『創造的進化』)吾々は肉体の死を悲しむには当らないのである。>>
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