生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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甘ったれるな、マサノブ・自称総裁! 何が「ていねいに生きる」だ! 金持ちボンボンの「道楽を生きる」ではないか! いい加減にし給へ、その幼児的矛盾論を!! (6019)
日時:2015年01月07日 (水) 20時47分
名前:怒れる信徒代表



マサノブ君はヒマな正月休みの間、優秀な数値を示すIQ指数ではあるが、霊的には貧弱な肉体頭脳知に頼って、またまた下記にその概要を転載した文章をお得意のパソコン相手に作ったのであります。何と云う馬鹿なことを、何と云う矛盾極まることを平気で書く人間であるかというのが私の一読後の感想であります。正常な精神や感覚はマサノブ君にはもはや存在していない。総裁なんて呼べた代物ではないのであります。先ずその投稿文の概要を示すことにいたします。



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1月2日「枯れ松模様」=ていねいに生きること=(概要)

 新年、おめでとうございます。 ・・・さて、少し前のことにもどるが、昨年の11月から12月にかけて、私は「ていねいに生きる」ということを考えていた。私の脳裏にこのテーマが訪れる機会は、以前からたびたびあったのだが、東京在住のころには、それほど切迫していなかったように思う。・・・ところが、北杜市大泉町の住人となって1年余、新しい経験への対応と驚きがひとまず一巡して、この地での生活についてある程度先の予想ができるようになってきた昨今、置いてきた“都会生活”と、今後の“田舎生活”との違いを端的に表現する言葉は何かと探したとき、この言葉に再び行き当たったのである。
 『広辞苑』によると、「ていねい」の意味は「注意深く心がゆきとどくこと」であり、また「てあつく礼儀正しいこと」だ。私が言いたい意味は、このうちの前者である。・・・「誠意をもって」という意味・・・、相手に対してのみならず、自分に対する心の態度も含めている・・・「ていねいに生きる」ということは、日時計主義の生き方に通じる。・・・「感覚優先の視点」を重視する生き方・・・「“めんどくさい”が世界を救う」という反語的な表現・・・「つまり、物事をしっかりと見て大切にする。(周囲からの)一つ一つのフィードバックをしっかりと受け止める。自然と近い生き方の中では、これが要求されます。めんどくさいことの中に喜びを見出して、自然界から沢山のフィードバックを受けることで、自然との関係を楽しむ。そういう生き方は、これまで見てきたようにエネルギーの消費を減らし、しかも幸福を増進する生き方につながっていく」。 谷口 雅宣



1月 5日「枯れ松模様」  =ていねいに生きること (2)=(概要)

  “森の中”での生活が始まり、実際に多くの“めんどくさい”体験を重ね、自然からのフィードバックを沢山受け取ってきた。・・・一種の“理論的予測”に近かったものだが、それが自分の実際の体験によって「正しい」と証明されたと感じるのである。 私がここで言う「実際の体験」とは、例えば薪割りであり、畑仕事であり、雪かきであり、自転車通勤であり、クラフト製作である。そのほかにも数え切れないほど多くの細々としたことがあるが、それらの自然との交流のほとんどは、都会生活では“ムダ”なもの、“非効率”なこととして否定的に評価されてきたものだろう。こういう都会生活での“省力化”と消費は、「文明の進歩」とか「経済発展」と呼ばれて肯定的に評価されてきたのである。・・・しかし、このようなライフスタイルと経済活動が原因となって、エネルギーと資源は浪費され、廃棄物は大気や海洋を汚染し、生物多様性は失われ、故郷は荒廃し、地球温暖化による気候変動が起こっている。・・・個人生活に関わるミクロのレベルでも、この“進歩”のおかげで“シワ寄せ”が起こっている。自然との接触を失った都会の“消費者”たちは、電話やスマホやインターネットを使いこなすことはできても、ノコギリを引けず、クワも使えず、火も起こせず、植物を育てられず、体力も保てずに、アレルギーや神経症に悩まされることになった。・・・人類は、経済発展によって何を得たのだろう?  “余暇の有効利用”なのだろうか? 選択肢が多いということが、人類の幸福増進につながっているのだろうか? このような疑問を抱いた人のうち、従来型の経済発展の行く先に見切りをつけ、その中心地・都会から離れて、“ウサギ追いし”故郷にもどり、あるいは豊かな自然が残る新たな土地に移住し、自然との接触の中で、もっと生き甲斐のある生活を送ろうと決意した人々の数は、着実にふえている。生長の家のオフィス移転も、人類社会のこの大きな動きの一環であると考えたとき、宗教としての使命は自ずから明らかとなってくる、と私は思うである
 谷口 雅宣



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<講評>



[T]  マサノブ投稿文の論理的矛盾について


@ まず、マサノブ君が、彼の言う<便利かつ多忙な都会生活>から<北杜市大泉町の住人となって田舎暮らしという新しい体験の生活が出来た>ことをあげているが、マサノブ君の田舎暮らしの実態とはどのようなものであろうか? 信徒の長年の浄財の蓄積があったからこそではないのか? 信徒の浄財がなければ、「森のオフィス」の敷地や豪壮なログハウス、薪ストーブ付き総裁邸、理事長邸、副理事長邸、職員用の豪邸街は造れなかったはずではないか? 従って、「信徒の浄財は出せば即ちオレのもの、何に使おうがオレの勝手だ」と言う考えがマサノブ君の心にはあるのであります。だから、信徒の浄財への感謝の気持を示す一片のコトバさえ見当たらないのであります。マサノブ君の“田舎暮らし”は衣食住の全てが信徒の浄財あって成り立っているのであります。それを恰も自分のお金と労力だけで、都会生活を思い切って捨てて、自然と直に触れることが出来る田舎暮らしに入ったのだと、そしてその田舎暮らしも衣食住が完全に保障されながらの自然と戯れる生活、つまり、宗教貴族生活そのものではないのか?――これをマサノブ君はコトバの表現で誤魔化す!――「自然界から沢山のフィードバックを受けることで、自然との関係を楽しむ。そういう生き方は、これまで見てきたようにエネルギーの消費を減らし、しかも幸福を増進する生き方につながっていく」のだと。如何にコトバ巧みに誤魔化そうともマサノブ君の田舎暮らしは、信徒の浄財がなければ今後とも成り立っては行かないこと、そして「森のオフィス」建設は、信徒の総意に基ずくものではない、単なる金持ちボンボンの個人的道楽を「環境保護」・「自然との共生」・「神・自然・人間との大調和」と言うオブラートで包んでいるだけだと云う事を全信徒は決して忘れてはならないのであります。


A マサノブ君はこのように書いているのであります。――<“都会生活”と、今後の“田舎生活”との違い、薪割りみたいに手間のかかることはしないで、都市ガスや電気を引いて、あるいは灯油を使って暖房をする。そうすれば、スイッチ1つで部屋はすぐに暖かになる。野菜や果物は畑仕事をして収穫するのではなく、スーパーやデパートにあるものを買う。通勤には、危険で体力を使う自転車など使わずに、自動車や公共交通機関を利用する。家で必要な什器や備品は、自分で工夫して作るのは面倒だから、店で買う。それも安いものを。そして、不要になったら捨てる。食事もできるだけ手間を省いて、惣菜を買うか、弁当を買うか、出前をとる−−>

この様な都会生活をマサノブ君はマチガイだと評価する。そして、自分は実際に田舎へ引越して自分の手で薪を割り、薪ストーブで暖を取り、ユッタリとソファーに腰を掛けてそのゆらめく薪の火を眺めながら思索に耽りパソコンを打つ。500坪の農園を借りて職員と共に野菜つくりをする。最高級のマウンテンバイクで「森のオフィス」に出勤する。太陽光発電で床暖房を施設した総裁室で執務を行う。月一回は、飢餓で苦しむ人々の気持を忍んで「一汁一飯」の昼食を取る。――これぞ、便利と効率優先の都会では味わえない“人間らしい”生活そのものである、と思っているのであります。かくして、マサノブ君は従来の都市型の経済発展によるマクロ的国家経済政策を否定するのであります。


B しかし、上記マサノブ理論の展開には大きな矛盾があるのであります。マサノブ流の「環境保護」・「自然との共生」の経済理論が矛盾なく成り立つ為には、「森のオフィス」の建設は、人力と原始的工具だけで、マサノブ君と職員が直接建設作業を行ったという実績が必要であります。しかし、「森のオフィス」の建設は、清水建設という近代的建設資材を持っている会社に造らせた。パワーショベルでディーゼルエンジンのCO2を吐き出しながら土を掘り、樹の根っこを堀り除き、ダンプカーで運び、ブルドーザーで整地をし、トラッククレーンで材木をつり上げ組み立て、屋根にはソーラーパネルを敷き、バイオマス発電機を購入設置し、床の下には床暖房設備・・・全て皆、マサノブ君の「自然から奪い取った人間至上主義経済」の近代的製造工場で生産されたものばかりであったのではないのか? 「森のオフィス」の建設自体が、効率優先の現代経済社会がなければ建設出来なかったのではないのか? この根本的矛盾にマサノブ君はどう回答を示すのか? これが根本的矛盾であります。


C 以前にマサノブ君は「自然との共生」と言っても、原始生活に戻ることではない。今までの生活水準は保つ生活である、と書いていたのであります。しかし、生長の家信徒の全員がマサノブ君の主張どおりに都会から田舎へ移り住むことが果して出来るだろうか? 都会での仕事から得ていた生活費は田舎ではそのまま得ることが出来るであろうか?その保障は全くないのであります。日本国民の現在の経済生活レベルは、マサノブ君の大嫌いな「人間至上主義」による経済効率基準の私企業によって成り立っているのであります。この様な近代的工業や流通過程を否定してマクロ的国家経済が果して成り立つのであろうか? 


Dマサノブ君はまたこのようにも書いているのであります。< 従来型の経済発展の行く先に見切りをつけ、その中心地・都会から離れて、“ウサギ追いし”故郷にもどり、あるいは豊かな自然が残る新たな土地に移住し、自然との接触の中で、もっと生き甲斐のある生活を送ろうと決意した人々の数は、着実にふえている>と。しかし、その中味はどうだろうか? 多額の退職金を貰った大企業の定年退職者や公務員の皆さんが中心ではないのか? 自分自身の力で貯えた貯金を持たない青年や青年層は、たとえ田舎へ生活基盤を移しても収入が低下して今まで通りの生活レベルの維持は困難だと思わなければならないのであります。現代社会の若者のどのくらいの層が、<テレビの娯楽番組を見たり、ネットでムダ話をしたり、流行やトレンドを追ってショッピングをしたり、アイドルを追ったり、ゲームに興じたり、スポーツ観戦をすること>から訣別した生活が送ることが出来るだろうか? 結局のところ、マサノブ君の言う<ウサギ追いし故郷にもどり、あるいは豊かな自然が残る新たな土地に移住>出来るのは、限られた数の経済的に恵まれた人たちだけであろうと云う事になるのであります。信徒の浄財の上に胡坐をかき、終生総裁を続けて生涯の生活を保障されている世間知らずの金持ちボンボンの宗教貴族マサノブ君の白昼夢・世迷いごと、――これがマサノブ君の言う「ていねいな生き方」の実体であります。



[U] マサノブ理論の欠陥


@ この様なマサノブ理論の矛盾から解りますように、マサノブ君の所論は「唯物論」であります。すべて、唯物論的に解決策を考えているのです。<人類は、経済発展によって何を得たのだろう?  “余暇の有効利用”なのだろうか? 選択肢が多いということが、人類の幸福増進につながっているのだろうか?>とか<エネルギーの消費を減らし、しかも幸福を増進する生き方>とか<自然との交流のほとんどは、都会生活では“ムダ”なもの、“非効率”なこととして否定的に評価されてきた>、<都会生活での“省力化”と消費は、「文明の進歩」とか「経済発展」と呼ばれて肯定的に評価されてきた>・・・以上のマサノブ型思考はすべて「唯物論的」思考であります。そしてその都会生活の誤りを「田舎暮らし」への切り替えによって解消しようとしている。一部の裕福な人たちしか実行できない唯物論的解決の方策であります。「三界唯心所現」の真理からの考察と言う視点がマサノブ君にはないのであります。


A マサノブ君は、三つの重要な真理からの思考がありません。

イ、物質文明が整った基盤の上に優れた霊的文明が花開くのであります。

ロ、人類の歴史とは、實相顕現を目的としたプロセスであると云うことであります。

ハ、「ていねいに生きる」と言うコトバよりも「使命に生きる」事が大切であります。


B 現代物質文明をマサノブ君の如く全部否定する事は間違っており、その発展方向が間違っておれば「教育」で修正する事が大切であります。幼少時からの価値観教育を「唯物教育」から「霊的教育」に修正して行く、それも国家的教育規模に於いてデアリマス。マクロ教育としての「霊的教育」、「霊的価値観教育」が必要であります。しかし、マサノブ君にはこの視点や思考が全くないのであります。この「霊的価値観教育」が充実するに従って現代物質文明の欠点は修正されていくのであり、その修正されて発展した物質文明の上にこそ優れた霊的文明が花開き、この中には当然にして「自然との共生」生活も実現されていくのであります。こういうものが人類歴史であり、その歴史は人類社会全体にとって必要な實相顕現のプロセスなのであります。これが宇宙意志の摂理というものだと思うのであります。この地上は個生命の進化の為の實相顕現道場であり、個生命の輪廻転生の進化の舞台であります。


C 従って、マサノブ君は「ていねいに生きること」を、<「注意深く心がゆきとどくこと」>、<「誠意をもって」>と解説しておりますが、マサノブ君のいうことは、心が行き届いてはいない。また、「聖意を以って」などと言えた義理ではないのであります。マサノブ君のこれまでの「言行不一致」の数々の具体例を見ればわかることであります。この様な「言行不一致」な説教をする資格はないのであります。彼が本当に真摯な宗教家であるならば、「ていねいに生きる」などと云うコトバよりも、「使命を生きる」というべきであります。人は、この地上に生れて来た最大目的は、個生命としての進化の為であり、そのためには今生において果たすべき使命があるのであります。その使命を果たして、今生に於ける個生命の霊魂進化が成し遂げられるのであります。この様な視点がマサノブ君には欠けており、従って、マサノブ君は宗教家としての資質に欠けているのであります。


D マサノブ投稿文の最後のコトバ、<生長の家のオフィス移転も、人類社会のこの大きな動きの一環であると考えたとき、宗教としての使命は自ずから明らかとなってくる>は、認識レベルがまだまだ低いコトバであります。マサノブ君の言うとしている<宗教の使命>は間違ったものだといわなければならないのであります。







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