生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第二十三話> (441) |
- 日時:2013年03月13日 (水) 14時14分
名前:信徒連合
< 第二十三話 > 教典・聖典は“理性”を働かせて読むべし!?
(普及月刊誌『理想世界』平成21年2月号)
<<教典・聖典の言葉の“奥”あるいは“背後”にある意味を“理性”を働かせて読み取らなくてはならない。これが「教典・聖典を解釈する」ということである。>>
(講評)
三代目・雅宣・純子両総裁は、ご両人共に「理性」と云う言葉を多用しておりますが、一向に「理性」とは?についての説明がありません。
人によって理解している内容が色々違います。ある人は“現代科学の合理性”を理性とし、ある人は“深い教養”を理性だと思い、又“深き叡智”を理性という言葉で表現している人もいます。
<教典・聖典の言葉の“奥”あるいは“背後”にある意味>を解釈する場合の“理性”なるものは、特に“深き霊的叡智”すなわち「絶対実在の絶対認識」の境涯に達した人の“悟り”のことを意味しており、この超ハイレベルの“悟り”の鍵でのみ<言葉の“奥”あるいは“背後”にある真実の意味>が判るのであります。
開祖・谷口雅春先生は「霊感で以って書かれたもの(特に宗教の教典・聖典)は、霊感で以ってのみ能(よ)く解釈し得る」と説かれています。三代目・雅宣・純子両総裁ともに未だ『無の関門』を超えてはおらないのですから、ハイレベルの正しい霊的解釈は不可能であります。
従って、開祖・谷口雅春先生が深き霊感で書かれた御著書をそのまま信仰する信徒たちを“原理主義者”として排斥するのは傲慢・不遜な態度そのものであります。強き反省を望むものであります。
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