生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<再掲示シリーズ> 「偽(ニセ)生長の家・マサノブ教」VS「正統・生長の家」・・・ニセモノは「無の世界」へ追放されて自壊する・・・F 生長の家・「生命的国家論」 VS 「マサノブ教」 (6100)
日時:2015年01月20日 (火) 09時40分
名前: 再掲載シリーズ選定委員会


<生長の家「国家論」>


[ T ] 生長の家の「国家観」は、開祖・谷口雅春先生の“大悟徹底”(お悟り)が原点

 生長の家の御教えの原点は、開祖・谷口雅春先生のお悟り、すなわち実相宇宙という絶対実在を肉体の五感・六感を超越した実相覚で以って(『無』の関門を超えて)直接に絶対認識された事にあるのであります。それは『生命の實相』第20巻(P.134−137)で詳しく書かれております。このお悟りが基本であります。




[ U ]  開祖・谷口雅春先生「金波羅華天皇国日本の實相」に御開眼!

@ << 大日本国体の尊厳無比、宇宙の実相と同体にして久遠無窮なる事実・・・大日本国家は因縁仮和合の国家ではない・・・私は『無』の門関を超えて、釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである>>
(『無門関解釈』第六則「世尊拈花」の公案解釈P.70−72)
 
A <<金剛不壊の世界・蓮華蔵世界・・・私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。絶対実在の絶対認識である。その絶対実在の世界は決して無常の『空』なる世界ではなく、金剛不壊にして、『実』なる世界なのである。>>(『驀進日本の心と力』P.133)




[ V ] 生長の家の国家論は“生命的国家論”である。御著書からの抜粋引用


@ 国家は生命である。(「憲法の正しい理解」P31−32)

<< 有機的生命体は必ずその単位要素を結合するのに<理念的存在>が先行優先する。生命体である国家も国家形成の単位要素たる国民(国民個人)に先行してその国それぞれの特徴ある国家理念が存在し、その国家理念によって国民が統合せられてそれぞれの特徴ある国家形態が成立する。>>


A 日本国家は、霊的本源の国である(「聖なる理想・国家・国民」P.49)

<< <霊の文化>は神の生命が筋金となって縦に貫く。国家としては、神の生命が筋金となって一本ズーツとたてに貫くのが<皇統連綿>である。日本国はヒノモトとして霊性本源としてその発祥は天照大御神様の神勅を以って肇(はじ)まり、皇室の霊統が連綿として縦に貫く、これは他国に比類なきことであります。>>


B 国家は生命体である(「国のいのち・人のいのち」P.55−56)

<< 普通、国家というものは、主権・領土・国民の三要素が渾然と調和して一体となったものと言われている。領土の上に国民の集まった集団があっても、その集団を統率し総覧する<主権>が無ければ<国家>と称することも認めることも出来ないのである。それは肉体があり細胞の集団があっても全体を統率し総覧するところの<生命・霊魂>が無ければ、それは生きた人間だと言う事が出来ないのと同じである。そして死物や無機物や無生物に<主権>が存在することはないから、国に<主権>が存在すると言うことは国が生命体であることを現しているのである。>>


C 国家という生命体の<統合の座>としての皇位(「国のいのち・人のいのち」P.57)

<< <国>というものも生命体ではないか!人がそれぞれ個の生命体であるならば、<国家は超個の生命体である>。ひとしく生命体であるならば個の人に全身統一の座が立つように、国家にも<統合の座>が立たなくてはならぬ。その座はわが日本に於いては<天津日嗣>即ち皇位として歴史的に与えられている! かく考えることに於いて私は確信的な尊皇者となった。(皇學館大學学長・佐藤通次博士)」>>


D 日本国はこのようにして自然発生した(「国のいのち 人のいのち」P68)

<<此の“現象顕現の法則”の公理に照らして観るとき、日本国家が、天皇中心の国家として現象界に顕現したのは、決して人為によって、野心家の野心によって権力を得たり、狡知(こうち)の人間の暴力や武力によって、出現したのではない事がわかるのである。・・・日本国家は、宇宙に満ちている無数の“国家アイディア”のうち“天皇中心”の“国家アイディア”を受像して、“天皇国日本”が、恰も自然に樹木が生えて来るように、自然に“天皇国日本”が発生したのだと解釈し得るのである。>>


E 天皇国・日本出現の波長的原理(「国のいのち 人のいのち」P.68−69)

<<宇宙には他に色々のアイディアもあるが、その中には“中心帰一”の理念(アイディア)もあり、特にその“中心帰一理念”を受像して、現象界に中心帰一国家が出現するには、その国家を構成するための構成要素たる人間の集団(民族といってもよい)の生命の波長が(換言すればその民族が共通的にもっている精神波動または思想が)宇宙に満ちている色々のアイディアのうちの「中心帰一理念」を特に著しく有っていたために、放送番組に波長を合わせればテレビセットにその番組通りの姿が実現するのと同一の過程によって、天皇中心国家日本が顕現したのである。>>


F 神意の具現として実現した天皇国日本(「国のいのち 人のいのち」P.70)

<<「日本民族の心の中に描かれたる、日本の国の形態を、如何なる形にあらしむべきかの『非物質的構図』・・・つまり、宇宙に満ちている(宇宙と云う放送局から放送している)色々の番組のアイディアのうち、日本民族という人間の集団は、自己の精神的傾向によって実相界にあるところの「中心帰一アイディア」を受信し、それを現象面に具体化したのが日本国家であるわけである。つまり、バラの木がバラの花の形のアイディアを受信し、それを自己の生命の中に融合して、そのアイディアを、バラの花として具体化したのが天意であるのと同じである。ここには“天来(てんらい)”という“神の領域”と、それを受像する“人間の領域”との完全なる整合があるのであって、まことに日本国が天皇中心国家であると云う事は、人間の<はからい>によるのではなく、日本民族の生まれつきの性向が神意を受像して実現した国家形態であるからであって、まことに尊い極みであるというほかはないのである>>


G 天皇国家は日本民族独特の一大文化的創作 (美しき日本の再建)

<< われわれ独特の日本人の創作の文化の中で、いちばん偉大なる生きた芸術――生きて動いている大芸術がこの日本の国体であります。国体というと、国のあり方のことであります。この日本にしかないところの、一大創作芸術、一大文化的産物というのが、日本独特の天皇中心の“天皇国家”というものであるのでありますが、そういう独特の一大創作なる国家が創造されたというのは、この日本民族の真理直観の天分によるのであります。日本民族が古代から宇宙の真理として天地の始めに発見し表現した所の天之御中主神、宇宙の御中に中心があって、全ての生命はその御中の中心から分かれて出て来、そして叉、それが中心に帰一して、中心・周辺一つにして渾然一体であるのが生命体であるという真理を日本民族は把握したのである。日本民族にとっては、全てのものは、一つの中心生命体から分かれ出て、分かれ出た末梢生命が叉、中心に帰一してそれが渾然一体たる有機的生命体となっていると観るのであって、この世界観が国家に現われているのが、この現実の大日本国である。この民族の一大創作芸術である独特の日本の国家形態を我々日本民族は永久に護持しなければならないのであります。


H 理念は現実に先立ち、理念は現象化する――天照御大神「天壌無窮の御神勅」と神武天皇「即位建都の大詔」(『国のいのち人のいのち』P.115−116)

<< 日本国家は天津神すなわち天照大御神が発想せられて、その旨を公宣せられた。「豊葦原の千九百秋の瑞穂の国は、是れ我が子孫の王たるべき地なり。宜しくいまし皇孫ゆきて治らせ。さきくませ。宝祚の隆えまさんこと当に天壌とともに極まりなきものなり」という神勅に日本国の存在構図が示されているのである。 このアイディアが具体的に実現したのが神武天皇様が日本建国の理想「即位建都の大詔」として宣言せられた「上は乾霊の国を授け給いし徳に答え、下は即ち皇孫正に養い給いし心を弘めむ。しかし然して後に六合を兼ねて都を開き八紘をおおいて宇となさんこと亦可からずや」。ここには日本国家が群居せる住民の恣意によって自己防衛や生活擁護の便宜方便のために国家を形成したのではない事実が現れているのである。<多くのものを一つにまとめる>という「中心帰一」という天照大御神の御発想を基にして、日本の国土は発祥し、その国土の上に日本民族は発生し、神武天皇の<六合兼都・八紘為宇>という「即位建都の大詔」となって顕われ、その国の名が<やまと>すなわち<弥々多くまとまる>として顕われ、東西すべての文化を<弥々多く一つにまとめる>日本文化となって顕われるに至ったということである。>>


I 天皇は天照大御神直系の御命の継承者 (『実相と現象』)

 天之御中主神なる“幽之幽の神”から、天照大御神なる“幽の神”が顕現せられ、その天照大御神から“顕の神”なる天皇の降誕となるのであります。(そして、今上陛下の今日に連なっているのであります。)・・・天孫と云うのは、決して子の次の、三代目になる孫という意味ではなくて、「真(まこと)の心」を降ろし給うたことであります。天照大御神の直系の御命を継承せられた天皇が中心になって統一せられている所の「蓮華蔵世界」の理念が天降って、瑞穂の国すなわち日本国家が作られたのであって、理念が先行して、その理念の形に、国土・国民の如き構成部品が集まって、ここに現実の日本国家ができたのであります。>>


J 祖国愛と郷土愛との混同(「国のいのち・人のいのち」)

「郷土愛、即ち愛郷心はむしろ感覚的なもの、目に見え、耳で聞き、手で触れる種類のもの、堪らなく懐かしいもの(故郷の山・川・谷・森・友人・家族・食べ物・道具等)である。しかしそれは<祖国>そのものではなく、祖国の中に含まれている色々な現象に対する愛である。現象は祖国そのものではないのである。しかしそれは、祖国のいのちが産み出して来た物であるからそういう<郷土愛>を我々は時々<祖国愛>と混同するのである。


K <国土>の生命との一体感より<愛国心>は生まれる。(「国のいのち・人のいのち」)

「身土不二論というのがある。わが身はこの国土から生まれたのであるから、わが身と国土とは一体である。国土の生命と我々の生命とは一体である。愛するとは彼我一体・自他一体・全個一体の自覚である。全個一体の自覚より人類愛は生まれる。<国土>の生命との一体感より<愛国心>は生まれる。神の生命との一体の自覚より神を愛する無我献身は生まれる。」



以上、最も大切な事としては、以上の谷口雅春先生の思考が、肉体頭脳から考え出された肉体人間の知恵ではなくして、谷口雅春先生の大悟徹底・實相覚による實相世界の直接把握、一口で云えば谷口雅春先生の釈迦・キリストを超えられた前人未踏の“お悟り”であると云う事であります。




[ W ] 雅宣総裁「今の教え」による“国家”とは?


@ 残念ながら、雅宣総裁の説く「今の教え」の中には<国家とは何か?>についての明確な答えは見当たらないのであります。ただ「信仰による平和の道」第二章<時代に即して神の御心を生きる>の中で「これからは、民族意識を越える価値を人々に与える事が出来るか出来ないか、が平和を実現するかしないかに直接つながってくるのであります。すべての民族を神の子として認めた上で、それ以上の価値を人々が求めるようにならないと世界が不安定になる。」と説いています。ここに説かれている<それ以上の価値>とは、すべての民族を神の子として認めたうえでの国際平和信仰というもので、国際平和信仰という価値観醸成の為には民族主義という価値観は障害となると、理解されます。


A このように説く雅宣総裁の思考は現代社会においては、一見して至極もっともと言えるようであります。しかし、この思考を更に発展させますと次のようになって行くのであります。雅宣総裁のよく説くところの「国家を超え・民族を超え」の真意は<究極の世界平和の為には、人間すべて神の子であるという信仰心の上に立った世界統一国家・世界市民意識の醸成が必要である。なぜならば国家・民族がある限り頭の中では人間はすべて神の子と判りながら、現実問題としてはお互いに利害得失の<国益>が出てくる。この<国益>というものは、相互に矛盾対立する場合が多いので、国家・民族が存在する限り最終的解決として戦争につながってゆく。「愛国心」は、敢えて全面的には完全否定しないが、現実問題としては<国益を愛する>ことになり国家間・民族間の<国益を愛する心>は衝突し戦争につながる。故に、「国際平和信仰」においては愛国心は重要な問題ではなく、むしろ阻害要因である。だから現代および将来の地球においては、愛国心教育は必要とはならない。という結論となるのであります。

雅宣総裁の説く<時代即応の真理>なるものは、以上のごとき論理構成を持つもので「国家を超え・民族を超えた国際平和信仰」によってのみ本当の究極の世界平和へ到達できるのであると説き、国家・民族・愛国心について考えることは、真の国際平和には繋がらないとして「今の教え」においてはその視野から外されているのであります。


B 平成16年10月31日和歌山県講習会場にての質疑内容の一部


<一人の信徒の質問>

「今や、日常語として定着した感がある<国の責任は・・>・<国としては・・>・<国の見解は>・・・といった表現がありマスコミでは毎日の様に使われています。これらの場合の<国>という言葉は正しくは<政府・省庁>と表現すべきです。コトバは生命のヒビキであり創造力を持っています。<生長の家は生命的国家観>であり、唯物的国家観ではありません。生命的国家理念が現象の国家(国土・国民)として顕れて来るのですから、国家の生命と国民の生命とは不可分の自他一体でありここから愛国心が生まれて来ると教えられています。従って現代社会の常用語となっている<国の責任は・・>・<国の見解は・・>等々の表現は、真の愛国心の育成を妨げ国家と国民の利害的対立意識を煽る表現でありますので、この様な表現は早く改めて<国>という言葉が生命的国家を意味するものとして正しく使われねばならぬと考えるのですが、先生のお考えを賜りたく存じます。」


<雅宣副総裁(当時)の答え>

「今の世の中の一般の人々は、政府=国と理解しており、この考え方は広く行き渡っている一般的な考え方であります。辞書にもそのように書いてあります。従って殊更に目くじらを立てる必要はありません。」

これが宗教の大学院といわれた生長の家の法灯を継ぐ人のコトバであります。生命的国家観や愛国心を意識的に避けた誠に低次元の唯物的国家観に基づく解答であります。しかし、根本的な問題として生長の家の<生命的国家観>から観て見過ごせない大きな事柄があります。それは、<国の責任・国家の国民に対する損害賠償責任>等の<国>という言葉の使い方は、知らず識らずに国民の無意識の意識層(潜在意識)の奥深くに、国家と国民とは利害関係においては本来、対立的関係にあるものだとの観念が蓄積されてゆき、国家の生命と国民の生命とは自他一体であるという正しい愛国心など決して育つものではありません。雅宣総裁は戦後教育によって心の深層まで唯物的な見方が浸透して「引き寄せて結べば柴の庵なり、解くれば元の薪なりけり。」という唯物論仏教の教歌と同じ国家観を持ち、それが正しいものだと信じているのであります。この国家観は、精神分析的には国家破壊願望を密かに無意識的に秘めているものであります。故に<国家を超え・民族を超え>と繋がって行くものと考えられるのであります。


C 雅宣総裁は、国家・民族・愛国心の強調は戦争につながる要因であるから<国家を超え・民族を超えた>国際的視野が大切と説く。しかし何故に神様は地球上に色々な国家や民族を創造され、多種多様の文化文明を人間をして創造せられたのであろうか?という<なぜ>に答えていないのであります。また<なぜ>神様は最初から国家・民族の別を創らずに一つの<地球国家・地球市民>とされなかったのであろうか?


D それは、神の国(実相世界)には、多種多様の無限の理念があり、従って神の国(実相世界)の美は「全山一色」の美よりも「全山錦絵」の美であると言う事であります。雅宣総裁は<理念は現象に先立つ>・<理念が現象化する>という現象顕現の法則の面から考えずに、左翼学者・左翼評論家の思考と同じく、国家意識・民族意識が無くなって、世界市民意識になることこそが世界平和実現のための必要条件と考えている。これは丁度、家庭や家族を小宇宙と考えずその小宇宙の家庭や家族の安定・平和の実現をまず第一に考えずに一足飛びに空想的神の国の実現・空想的世界平和の実現を信じて行動する左翼的思想家の考えと同じであって「全山錦絵」の神の国(実相世界)の美意識が理解できない人々なのであります。


E 神様はこの地球という星を<個生命の霊魂進化の場>として創造され、各個人の霊的発達度合いに応じた進化過程を歩ませるために多くの理念顕現の場を天降し給うたのであります。これが、地球上の各国家・各民族顕現の霊的存在理由なのであります。今生に於いて地球上に輪廻転生してきた私たち個性霊魂は今生の霊魂修行の目的にもっとも適した国家・国民を自分の意思で、あるいは霊魂進化の摂理の法則によって選ばれてその国・その国民の一人として生まれてきているのであります
そして当初の霊魂進化の過程を果たして更に無限の霊的向上を目指して輪廻転生していく事にこの上なき霊的歓喜を覚えるのであります。これが神様の目から見た「全山錦絵」の具体的な姿・相なのであります。神の子の実相の具体的顕現の<場>として国家・民族が存在してまず自分の生まれた国・民族の実相顕現が第一でこれを無視したり軽視することは唯物論思考であって間違いであります。この様な霊的観点からの理解は霊魂・霊界を軽視する「今の教え」を説く雅宣総裁にとっては無理なのでしょうか? しかし、開祖・谷口雅春先生の御著書を全相に亘って紐解けばきわめて容易に理解できる事なのであります。 


結論としては、雅宣総裁は独立した国家意識、独立した民族意識は認めてはいないと思われるのであります。認めているのは、国境をなくし、民族意識を無くして、一つの世界国家とする、世界市民意識に統一する、さすれば世界平和は達成できると言う、どちらかと云えば“空想的世界国家論”であり、“空想的世界平和論”であります。だから、雅宣総裁は、国家意識を持つこと、民族意識を持つことを最大限嫌っているのであります。鳩山由紀夫(前)首相と同じく、全くの幼稚なお坊ちゃまだとしか言いようがないのであります。(完)





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<特集> 満天の 綺羅星 充満 生長の家(7)


谷口雅春尊師を偲びて


<各界識者からの追悼のことば>
(「聖使命」昭和60年8月1日号)


谷口総裁との永別の日に・斉藤 忠 国際政治評論家

<<九十一歳の天寿を全うされての静かな御他界であった。これをただ悲しみ悼むことは、理に合わぬことであるかも知れない。まして、終生ついに信念を変えられず、祖国の未曾有の変乱の中に在りながら、国と同胞への愛と信を貫かえれた。その祖国愛と、神々の道への信念は、残された「生長の家」の全国の同志とともに、いつまでも生きるであろう。
 この老骨も、戦後三十年を超える永い歳月のあいだ、まことに、ひと方ならぬ御知遇を戴いた。しかも、それは、祖国の危機に際して、学究として、また言論人として、微力の限りを尽くしたが故に、最も重い戦犯容疑者として、占領軍当局にあらゆる迫害を受けつつあった時機に始まったのである。
 総裁の御志が、その未曾有の変乱の中において、皇国の道統を護り貫かれることに在った事実を、私は、胸に刻んで記憶している。曽て、三島由紀夫兄の市ヶ谷台における諫死の折に、また、天皇陛下御在位五十年奉祝の日に、親しく寄せられた烈々のご感懐を、忘れる事があろうか。人生の事は既に終わった身ではあるが、せめても残生を、総裁および先覚の同志たちの御志を護って、その成就のために捧げたいと思う。>> 合掌







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