生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十四話> (448)
日時:2013年03月14日 (木) 10時04分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第二十四話(通算第350話)

 
西田哲学との比較に於ける人間論 <その六>

『人間死んでも死なぬ』P.342−345




<<吾々人間は“設計者”とその“理念”との関係に在る。設計者は神であり、吾等はその被造物である。併し“設計者”は設計者の“理念”の中に生きるのである。“設計者”に何の“理念”もなければ、設計は内容空虚なるものとなる。設計者が設計者である為には必ず理念がなければならない。

神(ミコト)は理念(コトバ)となって展開し、理念は肉体となって表現せざるを得ないのである。(谷口雅春著『甘露の法雨』)

 「肉体の我」は前述の如く本来存在せず、茲(ここ)に肉体の様相を展開しつつ“ある”ものは、実は設計者の理念である。設計者なる神の理念が茲(ここ)にあるのであり、そして神はその理念の中に生きているのである。

されば「肉体の我」は<無いもの>であるに拘わらず、肉体の現れているところの“此処に”、吾々は設計者を体験し、永遠者を体験し、神を体験し、此の神性こそ自分自身であると自覚するのである。


 西田哲学の廻りくどい表現をもってすれば、「今、此処で手を挙げ足を動かすこの個人的な私が、そういうものに直面すると云うのである。併しながら、他面、単にわたしの知覚が、或いは単に私の身体が永遠なるものと続いていると云うのでもない。身体を有ったこの私が、考え且つ行なう此の身体が、そういうものに接すると云うのである」(瀧澤克己著『西田哲学の根本問題』P.6)

(*以下、便宜上、西田哲学は瀧澤克己氏の『西田哲学の根本問題』に拠(よ)る。西田哲学と谷口哲学との相異点は拙著『新生の書』の最後の章に詳しく書いたが、生命の實相哲学に酷似している点も多いから西田哲学と比較して説明すれば、近代の思想家に解し易いから、そうして欲しいと云われるので瀧澤氏の著書を利用することにしたのである。)


 併し、西田哲学では「神は絶対に摑(つか)むことの出来ないものである」と言う。また「私の最も厳粛なる良心、最も真摯なる行為によってすら摑むことの出来ないものである」「神と私の間には超えることの出来ない深淵がある」と言う。(同書P.6−7)

若し私が前述せるが如く「私」なるものの本質が理念(コトバ)であり、理念の中に神が生きているものであり、理念がなければ神そのものが無内容になってしまうものであるならば、神は直ちに「私」によって摑まるべきものであり、私が生きることは神が生きることであり、私が働くことは神が茲に働いていることである。

<遍在者が此処の一点で生き、久遠のものが今の一点で働いているのである>。今ここにこのまま私は<久遠>を生き、<遍在>を生きているのである。

私の生命の實相哲学が西田哲学に一致するか一致しないかは、観る人によって意見が異なるであろうが、両哲学の表現法は茲に云う「私」なる文字によって全然異なったものである。

「神は私によって永遠に摑まれないものである」と西田哲学は云い、「神は“私”によって容易(たやす)く摑まれるものである」と谷口の實相哲学は云う。

 この場合、西田哲学は「私」なるものを、肉体の大脳意識であることを意味し、“良心”なる語さえも大脳意識の一種高等なる作用を指しているに過ぎない。

西田氏の云う「私」なるものは一旦肉体の存在を否定してから後の「私」ではなく、「物」であるところの「肉体の我」をその儘(まま)アリと肯定しての「私」である。

そう云う「物である私」によって「霊なる神」を摑むことは絶対に不可能である。この点に於いて西田哲学は正しいと云わねばならない。

 之に反して、谷口の實相哲学では、前述せる如く「肉体の私なるものは無い」と「物である私」の存在を否定してしまったのである。このことを『生命の實相』では「我の置換(おきかえ)」と云っている。

「我(われ)」なるものを置き換えてしまって然る後には、神は私によって容易(たやす)く摑まるべきものである。

私は物的存在ではなく理念であり、理念こそ人間であり私であり、神は理念なしにはそれ自身無内容となり生きられないものであるが故に、神は理念によって生き、神の理念は私の内に生き、私は神の内に生き、神は私によって容易(たやす)く摑まるべきものである。

否、語調を強めて云えば、<神性こそ私である>。私が神性である。神と理念と人は三位(さんみ)にして一体である。神を私が摑むとか摑まれるとか云うけれども、「摑む」と云う言葉は、一旦離れているものが合一して一つになる言葉であるから、本当の意味に於いては正しくない。

人間は神の理念であり、神は理念なしには無内容となるが故に、神は人間に生き人間は神に生き、神と人間とは一体であること、猶(なお)、光源と光線との関係の如きものである。光源のなき光線は考えられないし、光線のなき光源は考えられないのである。(谷口雅春著『甘露の法雨』)
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