生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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谷口雅春先生の夢を見た2人の先生 (6110)
日時:2015年01月22日 (木) 11時00分
名前:相模の龍

「いのちを守る親の会」
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/MYBLOG/yblog.html

以下、18日から20日までの要約です。




一昨日の事です。不思議な話を聞きました。
遠方から来られた男性のお客様がおられました。


当法人のトイレを使われて中庭を見たらしいのですが、そのお客さんの顔色がすっかり変わっているのです。興奮して語り始めました。
「大熊先生。実は私は2年前に谷口雅春先生の夢をありありと見た経験があるのです。

でも、うちの家には縁側がない。縁側がある家で、谷口雅春先生に微笑みとお言葉を戴いたのです。
内容はわからないが、光景だけはしっかりと目に焼き付いているのです。
それで先生。この事務所の縁側、その時の縁側なのです。」


この事務所は、平成25年8月1日。すなわち1年半前の設立です。2年前には事務所はありません。

2年前とは、震災後に「中絶から赤ちゃんを救えず」私が神社の神域で良心と業務の板挟みで苦しんでいた時代です。
また、谷口雅春先生の「100万人の童子を救え」という言葉を見た頃でもあります。
更には、退職の決意は春以降です。

霊夢というのは自己申告ですから、何を基準に自己申告し判断するのか。
大変にあいまいなように思えます。

しかしもともと人間は霊的存在です(言葉を変えるとただの肉体だけではないと言う事です)。
夢も生活も全て全て本来「霊的体験」なのです。そして、奇蹟そのものなのであります。



例の中庭、因縁深いですね。私の経験から言えることは、

1.中庭がある家は、外に旦那の愛人がいることが多い。
2.中庭が建物の中心部である場合、住民は不安定要素が多い。
3.トイレがが建物の中心にある家は病人が出やすい。

なぜこうなるかは別として、現象的例な視点で捉えるなら。

不思議なことに多くの場合、上記の3点は当てはまっています。

たぶんここまでは、陰陽師の管轄する領域なのでしょう。

この奥に宗教の管轄する世界があると思います。

このお話から感じました事は、谷口雅春先生にとってはすべてが吉方位。
大熊にとっは毎日が吉日。吉方位。

私は平成6年に臨済宗妙心寺派の円福寺僧堂という専門道場に入門し、
平成7年に阪神大震災を体験した。人を救済に出向わず、

山で修行するのが悔しく情けない思いで歯を食いしばって、それでも「私が差取れば人類が救われるのだ」と言い聞かせて修行した。

われ正覚を得れば、宇宙悟る。しかし実際は「悟る」「悟らん」という二元論の生悟りであった。

思えば不思議なことに平成23年の東日本大震災は、
宝蔵神社神域の幽斎殿で、祈らせて戴いている中で体験した。

13年前。平成14年の9月に初めて宝蔵神社での長期研修会をうけた。
しかし、その1か月前の8月に不思議な「霊夢」を見たのであった。

その神社の開山の祖に当たる恩師が、私の夢に出られて、私は救われる前から救われて、
大泣きしている夢を見た。何と言う生々しさ。

いまでもありありと思いうかぶ。「現実よりもさらに現実」(強烈で明瞭)である感覚である。
私は「先生に救われましたー。」といい子供のように無邪気に泣いていた。

すると恩師は言った。「私に救われたと言うんではなしに、真理を私が伝えただけなので、あなたは真理を伝えていって下さい。」

当時は意味がわからない。のちに神社で研修生を経て奉職。

講師になり、わかった。そうだ。無我、無私。

ただただ、<神の道(神社)であれば>神の御心を生きる。仏教であれば、ほとけて生きる。
この境涯を示されていたのだった。




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