生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<再掲示シリーズ> 「偽(ニセ)生長の家・マサノブ教」VS「正統・生長の家」・・・ニセモノは「無の世界」へ追放されて自壊する・・・M 「寂光を更に超えて」(「生命の実相」第39巻・第三章) (6143)
日時:2015年01月27日 (火) 10時16分
名前: 再掲載シリーズ選定委員会



世界に冠たる「生命の實相哲学――唯神實相論――の神髄中の真髄
「寂光を更に超えて」(「生命の実相」第39巻・第三章)


 
<< 倉田百三氏より・・・

「・・・体験より言うも、私は病気を精神力、特に宗教的な悟得と関連して治した顕著な実例の証人であります。しかしそれにも拘わらず私は、宇宙の太源に帰一することが、治病、開運、幸福、繁栄を必ず結果するとは信じられないのです。宇宙の太源と帰一した生活は確かに光明の生活である。しかしその光明とは、暗(ヤミ)と対比した意味での明るさではなく、光と暗とを超えた寂光であり、だから必ずしも光明とは言はず「聖暗」と言った人もある。明るいとも暗いとも表現出来るような大寂光である。この世界に病気、不幸,禍言があるとき、それを大寂光裡に包摂することは出来ても、その反対としての治病、幸福、祥昌であらねばならぬと言うことはどうも導き出せないように私には思えるのです。宇宙は本来、健康・幸福・祥益的であるかどうかは判らない。自分が病む時それは宇宙が病むのだ、神が病むのだと感じる事は出来るが、それが治る筈だと言う事はどうして出てくるのでしょうか。・・・

・・・神と帰一すれば必ず病気が治るという事は私には信じられない。治るも治らぬも神旨(みむね)次第という信仰になら私は立てます。その結果、私は病気が治ったのですが、それは治そう治そうと焦っていたのを神旨ならば治らずともよしと委せた時治ったので、どうも貴兄の積極的なクリスチャン・サイエンス的治療法とは異ふようなのです。・・・

・・・宗教の本質は、どこまでも神と帰一して聖旨(みむね)のままに生きることである。聖旨ならば病まねばならぬ、死なねばならぬ。どうも私には「聖旨ならばこの盃をわが手より取り去り給え」以上には今の所でられないのです。そこから先へは貴兄に付いて行けない。「病という聖旨はない」という所までまだ体証していないから、勧めたり宣伝したり出来ないのです。どうも私の寂光と貴兄の光明とは異なっているようです。私のは暗(やみ)を含んだ光で、暗と対立した光ではない。病気・不幸・禍害も光の中にあるのです。光が現れれば暗が退くという光とは異うのです。・・・宇宙と帰一しても暗黒はありうると言うことになるので、そこが貴兄に付いていけない事になるのです。・・・」 >>



<< 倉田百三氏に答えて ・・・

『・・・貴方の被仰るとおり、この吾々の意見の相違点は実際宗教界の重大問題であり、また在来の仏教・キリスト教が生活の上に奇蹟を現し得ないのに、吾々の信仰によって奇蹟を現し得る理由もその重大な相違から生ずるのだと思えるのです・・・

・・・貴方は「宇宙の太源」とか、「神」という創造者らしい名前をお用いになりますが、結局は「無明」(ショウペンハウエルの宇宙の盲目的意思)を以って宇宙の太源と認めていられる事になります。・・・貴方は「神と帰一する」と言はれますが、その内容は「無明に帰一する」と言はれるのと同じ事です。・・・「治るも治らぬも神旨次第・・・」と言はれる貴方は「治るも治らぬも無明次第だ」と言っていられるのと同じように私には受け取れるのです。・・・

・・・貴方が「聖旨ならば病まねばならぬ」と委せ切りの気持ちになられた時に病気がお治りになった事・・・これは「生長の家」で説いている「心の法則」で説明すれば解釈のつくことなのです。・・・貴方の心境が苦痛を逃れんとして逃れ得ず、絶対絶命ただ委せるしか仕方がなくなった時「ままよ」と打ち委せた、その委せきりの心境が、あまりにも深く澄み切った結果、心の波が平静きわまる状態になり、時間・空間の現象投影枠に張り渡した「念の透過幕」が平らかとなり、従って、現象界にあらはれた貴方の肉体が実相の完全さに肖せて投影せられることになり、ここに貴方が期せずして健康を回復せられたのです。・・・絶対無批判無我服従の状態、即ち「そのまま受ける心」の状態になるならば念の波を絶対平静ならしめるが故、既に与えらたる実在の完全円満なる風向が現象界に投影せんとし、この一部分の顕われとして病気が治り、祥福が来るのであります。

貴方が「宇宙の太源の聖旨の中には暗もあれば光もあり、それは光明と言い得るにしても大寂光であり、暗を含んだところの光明である」と考えられ「それ以上に光明のみの世界には付いて行けない」と言はれ、現象界に現れる色々な暗の姿の本源を「宇宙の太源」そのものの中にあると言われるのは、貴方の言われる「宇宙」なるものが「実在の宇宙」と「現象の宇宙」とを混淆していられるからなのです。「実在の宇宙」は「既に御心の成れる世界」であり、「頼まいでもお蔭はやってある世界」であり、「太陽の善人をも悪人をも照らす如く御意のあまねくうるおえる世界」でありますから<光明一元・光のみの世界>であります。これに反して「現象宇宙」は「実在宇宙」の完全なる相を歪める凹凸不同の「念の透過幕」によって時間空間の範疇に屈折して投影されて顕れた世界でありますから、明暗・正否・健病の混同せる世界であります・・・

・・・それは「現象宇宙の太源」のことであって「実在宇宙の太源」のことではありません。「実在宇宙」は「現象宇宙」をもう一つ乗り越えた世界なのです。そこは明暗混淆の世界をのりこえて光明のみの世界なのです。・・・この「実在宇宙」の風光は五官をもって感覚することが出来ないのでありますから、仏教においても「真如」と言い、「空」と言い、「寂光土」と言い、「実相」と言い、「無相」と言い、「無相なるが故に無限相」とも言いますが、それは現象していないが故に普通「平等空の世界」と考えられ易く「平等世界」とか「無尽平等の妙法界」とか言われています。・・・何の形もない無色・無味・無臭・無触・無聴のエーテルの如き世界だと考えられ易いのです。その為に「実相に帰一する」とはエーテルのような空寂に帰入する事だと考えられ、小乗仏教的な隠遁生活こそ「実相に帰一する」ことだとせられる傾きの多かったのが仏教衰退の一大原因であったと考えられるのであります。

然るに、私の直感し得た「実相の世界」は無色・無聴・無味・無臭・無触の世界には非ずして、無限の妙色・無限の妙香・無限の妙音・無限の妙味・無限の妙触を備えたる無限次元の世界なのであります。 おおよそ実在世界の風光は、いままで大抵概念的に「空」とか「寂光土」とか表現してありますので、静寂なる超越的光のみがボンヤリと満ちている空々漠々のエーテル的世界であろうと、直感なき文字だけで解釈する仏教学者は考えているかも知れませんが、実相世界(実在世界)の風光はそんなものではなく、法華経の自我偈の中にその片鱗が示されている通り、現象世界が劫尽きて大火に焼かるると見ゆる時も「わがこの土(実相世界)は安穏にして天人常に充満せり。園林諸々の堂閣、種々の宝もて荘厳せり。宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なり、諸天天鼓をうちて常に衆の伎楽を作し、曼荼羅華を雨降らして仏および大衆に散ず」とある通り、真に具体的な浄土こそ金剛不壊の実在世界であり、この実在世界の幸福祥益は永劫に破壊しないのでありますが、「念のレンズ」を透過して現象せる世界は、刻々に無常破壊するが故に自我偈は続いて日っているのです。「我が浄土は毀れざるに而も衆は焼き尽きて,憂怖諸々の苦悩是の如く悉く充満せりと見る」と・・・

・・・生長の家の「光明一元の世界観」が多くの人々に理解され難いのは、多くの人々が「現象宇宙」と「実在宇宙」とを混淆し,「現象人間」と「実在人間」とを混同し、釈迦が「久遠常住の霊鷲山」(実在界)を説いているのに衆生は「久遠常住の霊鷲山」を見ることを得ずして「焼き尽きて憂怖諸々の苦悩悉く充満せる現象世界」を見、この世界は「苦悩悉く充満せり」と見ているのです。・・・

・・・貴方の言われる通り、貴方の「寂光」と私の「光明」とは異なっています。「寂光」は光明<一元>の一歩手前の世界であり、現象界を投影する「無明のレンズ」を含んだ「現象世界の太源」であり、「光明一元の光明」とはもう一歩「無明のレンズ」を乗り越えた実在世界の光明の風光であります。ですから貴方の言われる通り、貴方の場合では「寂光の宇宙に帰一しても暗黒はあり得る」ことになり、私の場合では「光明一元の宇宙に帰入するとき」暗黒は無論なく、もう寂光さえもなく寂光では表現できない活気臨々乎たる一大光明の世界のみなのです。・・・』 >>



<注釈・コメント>

 この部分の御文章も「無の関門を越えた独在としての実相世界」を詳しく、しかも分かり易く谷口雅春先生は説かれているのであります。日本人一般の民族的性格としては、「幽玄・静寂の世界を好む」「自然の世界の移り変わりに<もののあわれ>を感じる」「月の光・月の世界に想いを馳せる」また「言挙げしない」・「謙譲の美徳」と言う言葉の如く<自己主張せず自己滅却に共感を覚える」・・・わけですから「大光明」よりも「大寂光」という言葉のイメージの方に表面的には誘かれる人々の方が多いように感じられます。

しかし、日本民族の潜在意識的志向はやはり「大光明」であり、日本神話は特に<光明志向>であります。そして<永遠生命の世界・悟りの世界>は明らかに<光への道・光の進軍>であります。

 谷口雅春先生は、「実相世界とは大光明一元の世界」と説かれています。ここに於いても私たちは、実相世界というものを明確に誤りなく理解する必要があります。「実相宇宙は現象宇宙を乗り越えた向こうにある」という<乗り越える>とは、自覚的意識としてハッキリと現象は本来無し!と自己の心の中の「無の関門」と言う関所を乗り越える事であります。そして独在としての実相世界にドッシリと座すことであります。

 谷口雅春先生は、実相世界の特徴を七つ挙げておられます。(「限りなく日本を愛す」第6章)即ち(1)中心帰一の妙有世界 (2)陰陽の秩序整う世界 (3)無限創造の世界 (4)金剛不壊の世界 (5)遠心・求心調和の世界 (6)無限包容の世界 (7)円満完全至美至妙の世界 と、教えて頂いております。

ここで注目すべきは「至美至妙」と言う言葉でありまして、実相世界とは空々漠々の限りなく静かなボンヤリと白夜の如き光漂う寂しい世界ではなくして、法華経如来寿量品にある如き極めて具体的な至美至妙なる活気臨々乎たる大光明・大歓喜の世界也と直感的に実相覚にて把握されたのであります。

この実相世界の有様については「秘められたる神示」の御著書の中の「実相金剛身の神示」講義で解説して頂いております。 この「実相世界」は哲学的言葉としては「実在世界」とも称せられます。この実在世界という言葉を使用している宗教としては『幸福の科学』があります。しかし、『幸福の科学』で説いている「実在世界」は<霊界>のことを言っております。しかし、霊界はあくまでも念の投影せる現象世界に属するものであります。現象世界とは、想念が仮に一時的に映し出された世界であり、この映し出されるスクリーンが縦・横・厚みの三次元スクリーンであればこの肉眼で見える現界であり、四次元以上の場合が霊界となるのであります。

 谷口雅春先生の説かれた完全円満・至美至妙・金剛不壊の実相世界(実在世界)は、永遠・無限の過去から悠久・無限の未来に亘って時間・空間の三次元現界・四次元以上の霊界の概念を超越した無限次元の確固たる不滅の無限生の大光明・大歓喜の世界であると理解させて頂けるのであります。

このような現代の人々が理解しやすい説明の仕方は、決して他の宗教では為されていない説明であり、明確に『目に見える現象は実在ではない!それを超越して実相が実在し、この実相こそが唯一の実在(実相独在)である。と、これまでの一般常識の現象的観点ではなく、あくまでも実在・実相的観点に立って<現象無し!実相独在!>と断定・宣言されているのは谷口雅春先生の説かれた<『生長の家』の御教え>のみであります。正に生長の家の生長の家たる面目躍如たる所であります。

 現象世界は、この至美至妙なる大光明の実相世界が私たちの心のレンズ(念の透過幕)を通して映し出されている世界であると教えられております。この三次元現象世界において毎日の生活を生きている私たちは、想念自由の原則に従って自分の心に描く想念の内容(過去世の因も含む)に相応しい環境と世界を三次元現象というスクリーンに描き出しているのであります。それは実相世界の完全円満・至美至妙の相を0%から99.9・・%の色々な度合いで描き出しているのであります。この表現度合いが私たちの現象世界の心身両面における幸・不幸の織り交ざった人生の展開であります。

この世の自分の運命は、半分は自分の潜在意識内に持ち来たった<過去世の因>と、残りの半分の半分(四分の一)は今世に於ける自己自身の意思という<努力>、残りの部分(四分の一)は自分の家の先祖の中の高級霊や守護霊による加護・修正によるものと教えて頂いているのであります。

 従いまして、心の透過幕というレンズの状態を、実相世界の至美至妙なる有様をそのまま映し出さしめるべき努力、即ち光明生活法による毎日の生活努力(先祖供養をも含む)が必要かつ重要となって来る事が判るのであります。

 私たちの毎日の現実生活における「想念実現の法則」は、私たちが今世の使命と目的を終え次の次元段階であるもう一つの現象世界、つまり肉体という衣を脱いで行く<霊界>に於いても当てはまるものであります。私たちは、肉体死後の霊界でも自己の想念に相応しい霊の世界(霊層)で、同類親和の法則が100%作動している世界において<生命ある霊魂>として極めて具体的に三次元地上世界と同じように生きて生活を続けてゆくのであります。そして更に無限に高き霊界・霊層に向かって自分自身の意思と努力で進化向上して行く事が出来るのであります。この様にして宇宙のあらゆる天体を霊魂進化の場として無限回数の輪廻転生を為して行くのであります。霊魂の進化という事については、『生命の実相』第9巻・霊界篇(上巻)P.71-P.196に詳しく説明されております。

<< 霊魂の進化とは、現象世界(三次元現象世界と四次元以上の霊界)に実相人間を顕現して行く過程である。そして自分の心(想念)次第で進化の過程を早めたり遅らせることも出来る。霊魂進化の過程を短縮するのは念の浄化による。念の浄化には実相を悟ることが第一であり、物質欲に捉われざる事が第二である。物質欲に捉われざる為には「物質本来なし」の真理を悟るが第一である。P.103 >> と書かれております。

これらのことからも「実相」と「現象」との関係、そして「実相世界」と「現象世界」というものを正しく把握する事が如何に大切であるかと言うことが納得できると思うのであります。

浄土真宗の人々は、「朝に紅顔の美少年、夕べに白骨となる」「この世に生きている時に多くの人々との出会いを大切にしてきた人は、その人のお葬式には参集者も多く、そのお葬式での出会いも大切である。死して西方極楽浄土の阿弥陀様の側へ行って静かに暮らす。その為の毎日の念仏が大切也」と説教され、理解困難な漢文のお経を只聞き<その何の意味か分からない所がまた有難い>という信仰態度を持つ人々が実に多いのであります。

 また、一般キリスト教信者の人々も、肉体死後はキリストのおられる天国へ登って静かに眠るのであると思っている人がこれまた実に多い。生長の家・第三代目・谷口雅宣先生も「生長の家では霊界のことは分からない事になっている。だから死んでから行くであろう霊界のことは死んでから考えればよろしい」と説かれております。以上のような諸宗教の説き方は、死後の世界(四次元以上の霊界)については<大寂光の世界>とも言える印象をばあたえており完全な受身的・消極的な信仰というイメージを感ずるのであります。

 しかし、開祖・谷口雅春先生の「生命の実相哲学」より観ずるならば、肉体死後の霊界もすべて<自分の想念が反映・展開して行く>世界でありますから、自己の想念次第で実相世界の「完全円満・金剛不壊・至美至妙・大光明・大歓喜」を全く反映していない暗黒の霊層へ行く霊魂もあれば、また実相世界さながらの大光明・大歓喜あふれる霊層へ自由に昇って更なる霊魂進化へ歩を進めてゆく霊魂もあるのです。(悠久無限の大ロマン宇宙人生の展開と表現されると思います。)まことに「実相世界・実相宇宙についての正しい内容把握と悟り」に基礎を置いた想念の展開が大切なる所以であります。

 近代になってから、世界は一つ、人類みな兄弟と言う思想を悟り無き浅い平等思想で曲解し、国家意識・民族意識を廃して世界統一政府・世界市民思想によってしか恒久的世界平和は来たらないと主張する人々も多く折られ、国家を超え・民族を超えた国際平和信仰を説いておられる第三代目・谷口雅宣先生もそのお一人であります。

しかし、開祖・谷口雅春先生のお悟りになられた実相世界の有様・風光から観ずれば、そのような方向での世界の恒久平和は机上の空論であり、世界の各民族・各国家がそれぞれ神から与えられた独自の存在意義と存在目的を正しく霊的に自覚し、それぞれの民族・国家の独自の文化・文明を顕現すること、つまり「国家の実相顕現(国家の成仏)」こそが大切であり必要であることがハッキリと理解できるのであります。この方向への道を示す事、これこそが地上世界における<宗教存在の最大理由と目的なり>といえるのであります。




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<特集> 満天の 綺羅星 充満 生長の家(14)


谷口雅春尊師を偲びて


<各界識者からの追悼のことば>
(「聖使命」昭和60年8月1日号)



御逝去を悼み ・ 庭野日敬 立正佼成会会長

<<谷口雅春先生にお会いしたのは、新日本宗教団体連合会が結成された当時でございますから、もう三十年も前のことになりましょう。その頃から、谷口先生ほど日本を愛し、国の将来を案じ、更には世界の平和について深く思いをいたしておられた方は極めて少ないと私は思うのであります。
あれは一千九百六十九年十一月、谷口雅春先生が喜寿(きじゅ)の嘉辰(かしん)を迎えられ、頌寿(しょうじゅ)の宴が催されたときのことでございました。たまたま私が日本宗教連盟理事長の任にありましたから、宗教界を代表してお祝いにかけつけたことを鮮明に覚えております。その翌年に私どもが推進して降りました世界宗教会議の第一回世界大会が京都で開かれることになっておりました関係上、私はお祝辞の中で、「谷口先生に是非、世界の宗教者の集まっている前でご講演をお願いしたい」旨を申し上げたのであります。
 なぜなら谷口雅春先生は、万教帰一論を展開され、人々の仏性、神性を磨きださぬ限り、真の世界平和は招来し得ないと申されていたからであります。たしかに私ども宗教者は、仏性、新性を開顕するために努力しているのですから、諸宗教者が一つのテーブルにつくためには、谷口先生からお話を頂くのがよいと考えたわけであります。
 その意味で、谷口雅春先生の御昇天は、人生の道理とは申せ、まことに惜しむべき方を失ったと私は痛感いたすのであります。
合掌







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