生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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1・22−24「枯れ松模様」、マサノブ君の「ていねいに生きる」とは、やはり金持ちボンボンの“道楽”生活である事を自ら証明告白したのだった! (6145)
日時:2015年01月27日 (火) 23時45分
名前: 怒れる信徒代表



マサノブ君は、またもや大閑なのか?「言行不一致」と「信徒欺瞞」の実態をカモフラージするために、生長の家総裁の公式ブログ「唐松模様」(枯れ松模様)で金持ちボンボンの道楽生活を一応の理屈を付けて書き綴っている。この様な文章内容は、開祖・谷口雅春先生の立教の使命目的から考えて、世を救う宗教家として本当に相応しいものかを考えなければならない。先ずは、その「ていねいに生きること」の(3)(4)の要旨を御覧下さい。



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平成27年1月22日 (木)
ていねいに生きること (3)

 「ていねいに生きる」ことは、時間の経過をあまり気にしないこととどうやら共通している・・・私が勤める北杜市の“森の中のオフィス”では、この2月から書籍などを売る売店が開業する。名づけて「本とクラフト こもれび」である。・・・昨年秋にオフィスで行われた「自然の恵みフェスタ 2014」でも、有志職員の手作り品が販売されたことを憶えていられるだろう。 その試みの評判が案外よかったので、オフィスの売店で常時何かを提供できないかという話になったのである。 クラフトとは「手仕事による製作」であり、「手工業、工芸」である。この定義からして、製作には手がかかる。今回のブログの題との関係で言えば、一つ一つをていねいに仕上げなければならない。これに対して工業製品は、製作過程を機械化して手作業をできるだけ省くことで、人件費の削減と大量生産による効率化を行い、低価格での製品提供を実現している。両者の生産方式には一長一短があるが、地球温暖化と資源やエネルギー不足が危惧されている現代にあっては、手工業による生産方式のメリットは無視できない。製作過程で資源やエネルギーのムダが少なく、デザインの画一化や大量在庫が発生しにくく、したがって大量廃棄の必要もないからだ。手工業品は一つ一つがユニークであり、それぞれの良さをもっている。“没個性”の現代文明に対する明確なアンチテーゼでもある。 ・・・私たち人間は、顔を使った表現とともに、手を使った表現がうまくいくと喜びを感じるのである。私がここでいう「ていねいに生きる」ことは、すでに与えられている自然の恵みに感謝し、それをムダにせずに十分味わう生き方である。この「自然の恵み」の中には 、人間内部の本性も含まれる。手仕事によって生き甲斐を感じ、クラフトの良さを他の人々と共有することに喜びを感じるのが私たちの「自然の」感情ならば、その活動を盛り上げていくことは大いに評価されるべきである。また、そういう生き方が省エネ・省資源につながり、廃棄物を減らし、個性を伸ばす力をもっているのであれば、私たちの「自然と共に伸びる運動」の重要な一翼を担うことになるのではないか、と私は考える。  谷口 雅宣



平成27年1月24日 (土)
ていねいに生きること (4)

現代ではナイフで鉛筆を削れない子供がたくさんいるという。それどころか、親にも削れない人がいるというのは驚いた。1月25日付の『朝日新聞』には、こんな記事があった−− 
「“最近の子はナイフで鉛筆も削れない”と言われて数十年がたつ。今や大人でも使いこなせる人が少ないのが実情だ。先月、私立中学校・高校の教師にナイフを使ってもらう体験会が横浜市と東京で開かれた。安全な使い方を子どもたちにも伝えてもらうのが狙いだ。」・・・私は、こういう催しはどんどんやるべきと思う。それも、大人の教師がやるだけでなく、小学生にもさせるのがいい。・・・こういう手作業は、脳の発達に貢献するだけでなく、木の香をきき、木材の硬軟を知り、野菜や果物の手触りを肌で感じることにより、自然界の多様性や人間とのつながりの深さを実感する貴重な機会となるからだ。・・・「ていねいに生きる」とは、すでに与えられている自然の恵みに感謝し、それをムダにせずに十分味わうことだった。自然界には、危険はつきものである。その危険を経験することで、人間は学習する。少々痛い目にあっても、その経験によって、次回はそんな痛い目に遭わない方策を考えるのである。それは学習であり、新しい知恵の獲得だ。人間だけでなく、生物はみな、同様の学習によって自然界で生き延びる術を体得する。こう考えてみると、「少々痛い目にあう」ことも自然の恵みの一部だといえるのである。それをムダにせずに十分味わうということは、「転ばない」ことが重要なのではなく、「転んでも立ち上がり、再び転ばない知恵を身につける」ことが重要なのである。そうなった暁には、一度「転んだ」ということに、私たちは心から感謝できるのである。・・・私はこの2回の“痛い目”のおかげで、自転車での山道の走り方についてずいぶん学習したと思っている。下り坂ではブレーキをかけすぎるのは危険だと学び、タイヤがパンクした際の自転車の走り具合を、感覚として憶えた。また、どんな大きさで、どんな形状の釘が、タイヤをパンクさせるかも知った。そして、マウンテンバイクの太いタイヤは頑丈だからと過信して、砂利道をスピードを出して駆け降りるような運転は、それ以来やめたのである。自転車は、人間が使う道具の1つである。その点ではナイフも同じだ。これらの道具を通して私たちは自然界と接触するのだが、道具に慣れていない時は、使い方を誤ってケガをするかもしれない。しかし、その失敗を通して、自然界のことをよりよく知るのである。成功しているときには分からない自然界の別の側面を学ぶことになる。私は、このことも自然界を「十分味わう」ことの1つであり、「ていねいに生きる」ことだと考える。  谷口 雅宣

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<講評>


@ 多くの現代人は、マサノブ君の云う事に共感を覚えるのである。マサノブ君はこのように言う、――<手工業による生産方式のメリットは無視できない。製作過程で資源やエネルギーのムダが少なく、デザインの画一化や大量在庫が発生しにくく、したがって大量廃棄の必要もないからだ。手工業品は一つ一つがユニークであり、それぞれの良さをもっている。“没個性”の現代文明に対する明確なアンチテーゼでもある。「ていねいに生きる」ことは、すでに与えられている自然の恵みに感謝し、それをムダにせずに十分味わう生き方である。手仕事によって生き甲斐を感じ、クラフトの良さを他の人々と共有することに喜びを感じるのが私たちの「自然の」感情ならば、その活動を盛り上げていくことは大いに評価されるべきである。また、そういう生き方が省エネ・省資源につながり、廃棄物を減らし、個性を伸ばす力をもっているのであれば、私たちの「自然と共に伸びる運動」の重要な一翼を担うことになるのではないか、と私は考える>と。

<自然界には、危険はつきものである。その危険を経験することで、人間は学習する。少々痛い目にあっても、その経験によって、次回はそんな痛い目に遭わない方策を考えるのである。それは学習であり、新しい知恵の獲得だ。「少々痛い目にあう」ことも自然の恵みの一部だといえる一度「転んだ」ということに、私たちは心から感謝できる>と。


A 上記のマサノブ的思考に、今回は称賛コメントが寄せられている。例えば、――

* 岡田慎太郎・本部講師は、「私は自然に囲まれた森の中で生活し、楽しく、生き甲斐を感じております。精神的に満たされ、東京に住んでいた頃と比較すると、体調も頗る良いです。その通りだ、と何度も頷きながら拝読させていただきました。」

* ユキシマ副理事長は、「私は、“森の中のオフィス”への通勤手段として、専ら徒歩に頼っています。・・・お陰様で、今年の冬は、まだ一度も転ばないで、楽しく歩いています。きっと、ここの自然に寄り添った生き方、歩き方を学ばせて頂いたお陰だと思い、感謝しています。」

* カナダの大高本部講師(?)は、「母なる自然と人間生活の両立、とても大きなテーマですね。 私は、大自然讃歌が本当に大好きです。 讃歌を拝読すると、とても心が落ち着きます。この時代に自然保護を語らない多くの宗教は一体何を見ているのかと思います。 時々、総裁先生を宗教家ではなく、自然保護論者みたいに表現する方もいる(失礼)ようですが、僕には、総裁先生こそ、真の宗教家と言いますか、本当の宗教的生き方を実践しておられる方は、世界広しと言えども、どこの国にもいないと思います。


B 現・「マサノブ教」の本部講師達は、自然の中で生活する事に喜びを感じている様子が伺われるのですが、彼らの価値観はわれわれ本流復活を望む信徒のそれとは大きな隔たりを感じるのであります。開祖・谷口雅春先生は、「全人類が救われるまで私には休日や別荘は必要ではありません」と言われたことから考えますと、信徒の浄財から年間給料1000万〜2000万円を貰って自然の中の生活を楽しんで衆生救済を放擲し、国家・社会全般のことを考え及ばないマサノブ君はじめ本部講師たちの生活態度は、「地球のいのちを救う」というキレイゴトを幾ら並べても、どう見ても「公私混同」(個人趣味と宗教家の使命の混同)の生活だとしか思えない。まず第一に自分達の生活費が信徒の浄財から出ていることに対する感謝の言葉が全然ないのです。一般常識から見ても、宗教の第一の使命は「衆生救済」と「鎮護国家」である。「地球生命の救済」といっても政府の環境対策の規模と効果等には較べようのない“大海の一滴”すらの効果もない“閑人の道楽”だといえるのであります。「地球生命の救済」などという白昼夢の様なキレイゴトなど信徒の浄財の100%近くを掛けてなすべき事柄ではなく、「マサノブ教団」の方向性は宗教界に於いては少しも評価はされていないといえるのであります。


C どのようなキレイゴトの理屈を並べようとも、マサノブ君には、極端な二重人格性があるのである。

“手作り”の良さを強調すれども、マサノブ君の為している実際のことは、人間至上主義の近代工業生産物で以って「森のオフィス」の建築を行ったではないのか? “手作り”で「森のオフィス」を作ったのではない。マサノブ君の総裁邸や職員寮と称する豪邸街も“手作り”で作ったのではない。人間至上主義の最新技術や設備や材料(工業生産物)で完成させたのではないのか? マサノブ君の使っているマウンテンバイクも決して手作りではない。また、「神・自然・人間の調和」なんて言えた義理ではないのだ。義兄や実弟、そして本来の『御教え』を信奉する多くの本部講師達を「原理主義者」として教団から追放したではないのか? 実母の恵美子先生にさえ預金通帳まで取り上げ、軟禁状態にしたではないのか? まことに宗教家と称しながら、表の顔で「四無量心」を説き、裏の顔は「冷酷無比」と「公私混同」、「独裁権力者」であるのだ。「言行不一致」のジキルとハイド! と云ったほうが早いのだ。


D 本当に、マサノブ君の「自然との共生」、「神・自然・人間の大調和」、「地球生命の救済」というマサノブ教の使命と方向が正しいものであれば、現在も依然として続いている大量の信徒脱退減少は起きなかったはずではないのか? 信徒の大量脱退が続き、教団財政が赤字転落したということは、マサノブ君の方針に多くの信徒たちがNO !を突きつけたのであります。このことにも何ら反省せず、責任を感じないで、依然として「ていねいに生きること」などと他愛もない白昼夢の文章を書き続けているマサノブ君は最早、正常な精神感覚を持ち合わせていない人間である。医学的には精神分裂、つまり“統合失調症”の状態にあるとも観察されるのである。


E マサノブ君は、「ていねいに生きること」を次のように解説している、――
* 自然界を「十分味わう」こと
* 手作り工芸品の如く、一つ一つをていねいに仕上げること
* すでに与えられている自然の恵みに感謝し、それをムダにせずに十分味わう生き方

しかし、如何にこのようにキレイゴトをジキルの顔で並べようとも、「言行不一致」、「冷酷無比」、「破壊と蕩尽」のハイドの裏面の顔をあわせ持っているのであるから、マサノブ君の「ていねいに生きること」とは、――

* 信徒に浸潤しつつある自分の「言行不一致」と「冷酷無比の独裁者」と「自己欺瞞」を誤魔化すためのカモフラージの言葉であります。

* 言い換えれば、「やりたい放題」、「独裁権力と信徒の浄財を使っての得手勝手人生」であります。

* 「生長の家」の解体を極めて“ていねい”に行い、且つ1000億円の教団資産を“ていねい”にマネーロンダリングして自己資産化してゆくことだといえるのであります。


F 「生長の家」の法燈継承者としての本当の「ていねいな生き方」とは、――

* 開祖・谷口雅春先生の御心を体して、立教の精神と目的に沿って誠実に生きること

* 人間知(肉体頭脳知)に頼る学者・評論家になる事ではなく、「大悟徹底」を目指して生涯修行の求道者として誠実に生きること

* 継承した「生長の家」教団を維持発展させる誠実な生き方であります。


G マサノブ君! もう「言行不一致」のキレイゴトは並べなくてよろしい。「生長の家」の法燈継承者としての本当の「ていねいな生き方」を生きなければならない。それが出来ないならば、潔く総裁辞去・大政奉還・教団退去を為すべし!!





イソベ君へ・・・ (6150)
日時:2015年01月28日 (水) 07時41分
名前: 怒れる信徒D


副理事長のユキシマ君が、大閑人の大閑文に「ゴマスリ・コメント」を寄せましたよ。理事長のイソベくんも何か「コメント」を書きませんか? このままでは理事長の面目が立たないですよ!
君の“ていねいなコメント”を期待していますよ・・・



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