生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<再掲示シリーズ> 「偽(ニセ)生長の家・マサノブ教」VS「正統・生長の家」・・・ニセモノは「無の世界」へ追放されて自壊する・・・O 遥かなる追憶・6題 (6157)
日時:2015年01月29日 (木) 09時59分
名前: 再掲載シリーズ選定委員会



マサノブ君の遥かなる追憶――「焚書坑儒」・「言行不一致」・「冷酷無比」・「自己中心」・「忘恩の生長の家解体」の生来の性格と「神聖隠蔽」の証明である!――宗教家としての不適格性を余すところなく示している!!



<その一>

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=549
投稿NO.2843

 昔、お山にお勤めだった女性が、ある夏の日、それとなく見つめていたら、 お山のさる ぼっちゃまがお庭の池で捕まえた蛙を 熱々のアイロンの上に落として「ジュッ」と遊んでお出でだったと云う。さも有りなん。恐くてそっとその場を去ったという。 四十年前に女子青年のお方にお聞きしました。「あれが、まさか三代目さま?」と云う事でした。



<その二>

今、ここに「穴グラから」と題する文章があります。
その後半部分にこんな箇所が出てきます。

<<…自分はいったい何がどこまでしたく、そして何をどこまでできるのか−。しかしこのトライアルは、ぼくの中では、家と両親とのきわだった対立として現れた。(中略)すべてにわたってぼくは自分の家、とりわけ両親との対立を意識した。さまざまな行動は、ぼくの親の目には「息子の我儘」と映ったことであろうが、ぼくにとっては真剣な戦いだった。なぜなら、ぼくはそれまでの生き方を続けていれば、永久に「生き甲斐」を感じられず、そして永久に「欠落した人間」として生きなければならないという危機感を抱いていたからだった。おかげでぼくは「親不孝な息子」として母から幾度も罵られたが、幸か不幸か弟がぼくに輪をかけて「反抗的」であったため、ぼくの罪は相対化して薄められていたように思う(後略)>>

この作者は誰だと思われますか?「谷口雅宣」とそこには署名されているのです。青山学院大学を出て、「日本教文社」に勤務していた頃の文章のようであります。



<その三>

http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen
投稿NO.1188

 葬儀の話に少し触れられていたので私の取材した話を書きます。複数のご親族の方とお手伝いの方から聞きました。

<< 清超先生のご葬儀は密葬として原則家族のみで行われました。祭司と祭員は参議長と講師部長と宗務課職員。理事長と雑用の総務部長もいたようです。門の外には警備の秘書課の職員が名簿を手にして親族の方の名前をチェックしていたようです。どうやらその名簿には家族でも全員の名簿ではなく「谷口家」のみを中心としたものであり、その配偶者すらも排除されていたようです。つまり、この時点で宮澤潔氏は×荒地浩靖氏は×になっていたようです。宮澤壽美さまはお子様なので○谷口佳世子さまは○という事でさらにそのお子様も○となっていたようです。谷口貴康氏もお子様も○配偶者は×ということだったようです。 この名簿は明らかに誰を排除するかという意図が明らかだったようで事前に事実上の主催者(喪主とは別の)が作ったようです。 ここで、問題が起こったのはこのような名簿があることは親族の方は何も知らずにいたため、配偶者の方も当然のこととして何人か見えられていて、長崎からは谷口貴康氏そして貴康氏にぜひ参加してくださいと声をかけられた荒地浩靖氏が札幌から駆けつけておられたわけです。 いうまでもなく荒地氏は清超先生のご実家を正式にお継ぎになつた嫡子であり、家族の中でも最も故人の家系と最もゆかりのあるかたです。その方が直前になって名簿に無いことが判明して、佳世子さんの実のお子さんである荒地光泰氏とみえこさまが貴康氏とともに喪主である谷口恵美子先生に出席出来るように嘆願して、さらにその場にいた佳世子さまと壽美さまも賛同して、「それでは荒地さんも参列してもらいましょう」と喪主である谷口恵美子先生はその場ですぐに門の外に待機している係りの人に「荒地さんがこられたら入ってもらうように」と指示を電話でされたそうです。すると・・・しばらくして雅宣氏が家族おそろいの和やかな部屋に入ってきて激高しながら「一度決めたことを何で変えるのですか!だいたいアンタはいつもそうなんですよ」と大声で言ったその後、荒地光泰氏にたいして「だいたいアンタわかってるんだろーな!本当はアンタがここにいることもおかしいんだ、社会事業団がどれだけ迷惑なのか解ってるだろーアンタが委員長をやっていることも講師でいることもこちらでどうにでも出来るんだぞ」 と脅し文句を数分にわたって怒鳴り続けそのせいで他の子供たちも廊下に集まり唖然として事の成り行きを見守っていたそうです。−(その中のお一人が携帯の録音機能を使い途中から録音した物があります)そこで一言、言葉を発せられたのは壽美先生。「あなたはこんなときに一体何ですか。そのモノの言い方は、おかあさまが喪主として決められたからいいじゃないですか」すると、雅宣氏の口から驚愕の言葉が・・・「だいたいこの家の人達はみんな異常なんですよ!わかってるでしょそんなことは!アンタもアンタもおいオマエもだ」と言って後ろを向いて座っている貴康氏の頭を小突いたようです。ゆっくりと振り立ち上がろうとする貴康氏。危険を察知したかのようにその時恵美子先生は「わかりました、決めたようにします」「どっちに決めるのですか」「前に決めたようにします」ここで荒地光泰氏が「父が参加できないのならば子供たちは参加できません失礼します」と決然と席を立ち、ほかの家族を連れて門へと向かって行ったそうです。女の子はあまりの酷さに涙を流して外に出て行き、佳世子さんも涙を流して・・・あなたたちまで出て行かないでと・・ そしてすでに門の前には荒地氏が職員に止められて待機しておられ、みなが出てきたことで事情を察知した荒地氏は、「この場で聖経をあげさせていただいてよろしいか」とお聞きになり警備員は何も言えずに門の外から皆さんとともに聖経をあげられてお子さんとともに帰ってゆかれました。「おとうさまやお母様が淋しがられるから私たちは戻りましょう、お願いです」と佳世子様の言葉により、荒地家以外の方たちはなんとも重苦しい雰囲気でその他の親族の方は式場へと行かれたそうです。 さてそして、式場には家族だけの葬儀であったはずが理事長や総務部長が参列。式で必要な霊位(ミタマシロ)はなぜか見当たらないという前代未聞の雅宣氏プロデュースによる葬儀が行われたと言うのです。そして嫁であるはずの純子氏はお姉さまたちよりもはるか上座の席に平然と座り、一言も挨拶をしなかったそうです。>>
********************
 以上が複数の当事者の方から取材した内容です。どこか事実と違うところがあれば訂正しますのでおっしゃってください。特に警備に当たった楠本さん、Kくん、Iくん、間違っていたら訂正してください。それから宗務課のみなさん、「霊位」がなかったということは信じられないので、ちゃんとあったなら訂正してください。



<その四>

「旅人の被災」

<< その日、午後三時過ぎにJR長岡駅前にあるホテルニューオオタニ長岡に到着した私と妻は、宿泊する十二階の部屋で荷物の収納を終えるや否や、再び出発の準備をした。・・・ これらの葉書を見ていた時に、いきなり小刻みの上下動が起こり、それが、腹の底から咽下に一挙に突き上げるように押し寄せた。それは地震というよりは、猛スピードで近づく新幹線の列車が、予定されていた線路から外れて目の前のホームを襲う――そんな異常な出来事のように私には感じられた。私も妻もその激しい振動に耐えられずにしゃがみ込み、這いつくばりながら、背後にあった大きなガラス窓の前を避けて、頑丈そうな鉄筋コンクリートの柱の下にうずくまった。 これが後に新潟県中越地震と名ずけられた大地震だった。震源地は、長岡市のすぐ南の小千谷市付近。マグニチュ−ド6・8で、短時間に震度6強の揺れが三回あった。・・・災害時の状況を報道する新聞や雑誌の記事に、ときどき「恐怖の叫び声」とか「恐怖で引きつった顔」などと書かれていることがあるが、私の周りにはそういう恐怖は全く感じられなかった。・・・ 私自身がさほど恐怖していなかった。また、この後に大小の余震が何度も続くのだが、そういう揺れが来た時に女性らが発する声は、“恐怖の叫び”というよりは、遊園地のジェットコースターに乗って急坂を下る時の叫び声―― 半ば自分を勇気づけ、半ばスリルを楽しむ声――と近いもののようだった。・・・ しかし、ホテル内には私と妻の所持品のほとんどすべてがあった。現金やカード類は財布やハンドバックに収めて手元に持って出ていたが、問題は、仕事に必須の様々な情報を収めてあるパソコンだった。パソコンは二台あり、・・・こんな時に不謹慎に思われるかもしれないが、私は地震の揺れの合間にも空腹を感じていた。それは、私の中の純粋に生物学的な要請が、地震を経験しているという心理的なストレスに妨害されなかった証拠だ。言い換えれば、私がこの地震で感じた心理的ストレスはさほど大きくなかったのだ。・・・食料を買い込んだ私たちは、再びホテルのロビーへもどった。・・・おち着きをとりもどせば、空腹を満たしたいと考えるのは自然だ。私はそう考えてコンビニ弁当の袋を開けようとすると、妻はなぜか抵抗するのである。 「一緒に食べようよ」と言うと、「こんな所で・・・?」と、しきりにためらう。いつも夕食をする時間をとっくに過ぎているし、腹も空いているのだから、買った弁当を暖かいうちに食べる事を躊躇する理由が、私には分らなかった。しかし、彼女にとっては、だれも弁当など食べていない中で、私たちだけが食べる事が何かいけないことだと感じられたようだ。・・・ 「あなた一人で食べて・・・」という妻のことばに、だから私は喜んで弁当をひろげ、頬張りはじめた。が、この日は、妻は恥ずかしがって一緒に食べようとしない。・・・翌日の講習会の有無は、その晩のうちに決定して関係者に通知しなければならなかった。私は、その決断の時間を午後十時半に設定した。・・・ ホテルニューオオタニ長岡の1219号室は、予想していたほど混乱していなかった。私が危惧していたのは、室内に設置されていたポットや冷蔵庫中のジュースなどの液体が流れ出し、パソコンが使用不能の状態になっていることだった。 が、幸いにも、パソコンは二台とも置かれたテーブルやデスク上に無傷で残っていた。・・・ ホテルのロビーへ戻ってから、私たちは同じ映像を繰り返しているテレビを見るともなく見ながら、情報収集を継続した。結局、予定の十時半ごろになって、市立劇場の館長が館内をみた結果、一般に貸すには危険だと判断したため、「会場は貸せない」と言う答えが返ってきた。 こうして、生長の家の講習会史上初めて、予定されていた講習会が開かれないという事態になった。・・・ 講習会の中止決定後は、私たちの最大の関心はその夜、余震の続く中、朝までどう過ごすかと言う事に移った。眠る場所・・・百畳くらいの広さの宴会場とおぼしき部屋の片隅だった。・・・ 「これは錬成会みたいだね!」と、私は隣にいる妻に言った。彼女も笑いながら賛成してくれた。・・・ 朝は、ホテルの人のアナウンスで目を覚ました。・・・ 腹ごしらえが終われば、いよいよ被災地脱出である。・・・ 新潟までの陸路は、やはり土地勘のある人がいいと言ういうことで、地元の幹部の方にお願いした。・・・ 東京までの最後の旅程を簡単に書くと、磐越自動車道を抜けて郡山市に入ったのは午後三時半ごろ。四時前にJR郡山駅に着き、間もなく入ってきた東京行きの「MAX山彦118号」の先頭車両に飛び乗った。自由席だったが、幸いにも座ることができた。 その席で、私はこの文章を書き始めた。隣の席で、妻は、両親への便りを書き始めた。長岡駅で最初の一撃を受けたあの時に買った八枚組みの絵葉書に、何枚も番号を振って書いていた。東京着は午後五時二十四分である。谷口雅宣 >> 



<その五>

「小閑雑感」2011年3月11日・東北地方太平洋沖地震

<<  日本の観測史上最大といわれるM8・8の大地震が東北地方中心に起こり、最高7メートルもある大津波が列島の太平洋岸を襲った。まだ被害状況の詳細はわからないが、テレビ等で伝えられる揺れの大きさや津波のすさまじさから考えると、阪神淡路大震災なみの相当数の被災者と、甚大な被害が出ているものと思う。被害に遭われた大勢の方々に心からお見舞い申し上げるとともに、被災者の救助と救援活動に尽力されている政府各機関を初め関係者、ボランティアの皆々さまに、心から感謝申し上げます。また、海外からもたくさんのお見舞いのメッセージと祈りの念をいただいています。感動するとともに、“神の子”の同志との一体感を感じます。 1回目の地震が起こった午後3時前、私は東京・原宿の本部会館にある執務室で原稿書きの最中だった。ゆらゆらと揺れが始まったときは「また地震だな〜」と思ったが、揺れはすぐ止まるとたかをくくっていた。ところが揺れは収まるどころか次第に大きくなり、棚の上の本や置物が落ち始めたので、私は自分のデスクの下へもぐり込んだ。階下へ降りるのは手遅れだと思ったからだ。本部の建物は古くて、今の耐震基準を満たしていない。だから、もしかしたら崩壊するかもしれないと思った。その時、頭の中にあったのは、ニュージーランドのクライストチャーチ市を襲った地震で、日本人が多く学んでいた英語学校の建物のことだった。が、幸いなことに揺れはだんだん収束していった。午後3時から執務室で人と会う約束があったから、揺れが収まると隣室の秘書たちに頼んで、床に落ちた本や書類を片付けてもらった。そして、予定通り来訪したその人と面談を始めた。そうこうしている間に、2回目の揺れが来た。今度は明確な縦揺れだった。面談の相手と顔を見合わせ、「下へ降りたほうがいい」と合意した。そして、階段を伝って1階まで降り、隣接する東郷神社のピーターハウスの前で、揺れが収まるのを待った。そこには、同じように危険を感じて外を出た本部職員が何人もいて、その数はだんだん増えていった。 2回目の揺れが収まると、私は面談相手とともに再び執務室へもどり、そこで手短に用事をすませてからテレビを見た。いつも落ち着いた態度でニュースを報じているキャスターが、声を震わせていた。そこに映し出された映像は尋常でなかった。特に津波の大きさに舌を巻き、早く帰宅しようと決めた。残った仕事は家でもできるものばかりだったからだ。こうして帰宅できた私は、幸運だった。東京の鉄道は地下鉄を含めてすべて止まっていたから、多くの職員が長時間かけて、バスや徒歩を使って帰宅し、あるいは地下鉄などの運行再開を待って帰宅したのだろう。 自宅の被害はなかった。ただ、高い場所にあった多くの物が落ち、一部の花瓶やコップなどが壊れた。私が帰宅したとき、妻はそれらの片付けをほとんど終わっていたが、私の書斎では本が散乱していた。大きなもので壊れたのは、庭にあった石灯籠ぐらいである。また、ガスが止まっていた。が、これも夕食前には出るようになっていたので、食事も普通にいただけたのは本当にありがたかった。 私は、7年前に新潟中越地震を長岡駅で経験しているので、揺れに対する恐怖はそれほどではなかった。あの時は、立っていられないほどの揺れで、駅の床に這いつくばって恐怖に耐えたのだった。それと比べて、「まだ大丈夫」という気持がずっとあった。しかし、今回の地震の激甚さはその比較ではないだろう。被災地の一刻も早い復興を心からお祈り申し上げます。谷口 雅宣 >>



<その六>

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358853467/8911

 私が30年以上前に感じた恐怖感というのは当たっていたのかもしれない。彼・マサノブ君は高校の中途から生長の家から徐々に疎遠となり、大学練成では後ろで脚を伸ばし、講師の話など聞こうともしない。子供ならまだしも、いい大人である。それがそのまま大きくなった。 それがそのへんの社長ならまだしも、宗教の大きな組織の長である。これは 裸の王様になってしまったのであろう。反対に 可哀想な気さえしてしまう。同情だけはしないが、こんな宗教家になろうとは 誰が予想したであろうか。 私達青年会時代には こういう谷口雅宣総裁という具像が 形となり少しは現れていた。生長の家に入社した 雅宣総裁を見たときに 多くの生長の家青年会同志は 辞めていってしまった。 ああ!私もこうした生長の家を辞めようと思ったことがなかったが、雅宣総裁は 嫌だった。多くの同志も 雅宣総裁は 大嫌いだった。 10人中8人までが 雅宣総裁を 批判していた。そうして 次々と 生長の家信徒がへり、今では私の所属した青年会も20年前になくなり、相愛会も実質の活動しているところは 一つである。7箇所もあった相愛会も一つである。青年会も7箇所あったが、今はない。 もう来るべきところまで来たなと思う。何が「環境」であろうか? それより 兄弟や父母に 感謝することが 大切であろう。 そんな基本を 教えなければならない総裁は、これでも 総裁職 にしがみつくだろう。




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<特集> 満天の 綺羅星 充満 生長の家(16)


谷口雅春尊師を偲びて


<各界識者からの追悼のことば>
(「聖使命」昭和60年8月1日号)

                                    
谷口雅春先生のみ霊(たま)に捧ぐ ・  岡田 斎  世界救世教教主

 
まみえねど 遠きむかしの 大本の えにし思えば 懐かしき尊師(きみ)

病なく 罪なく 死なく み光と かがやく天寿 了(お)えたまいける

賜りし 「甘露の法雨」 げにここに 永久(とわ)のみいのち 生きたまいけり

新しき いまの時代の 聖書(バイブル)と 読みつがれなん 「生命の實相」

万教の うえにみ力 垂れさせて 世界ひとつに 結ばせたまえ
                                 合掌



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