生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


<再掲示シリーズ> 「偽(ニセ)生長の家・マサノブ教」VS「正統・生長の家」・・・ニセモノは「無の世界」へ追放されて自壊する・・・R 「久遠を流るる命」(「生命の実相」第27巻・第六章) (6179)
日時:2015年02月01日 (日) 10時03分
名前:再掲載シリーズ選定委員会





「マサノブ教」では取り上げない・・・

世界に冠たる「生命の實相哲学――唯神實相論――の神髄中の真髄
 「久遠を流るる命」(「生命の実相」第27巻・第六章)



<<・・・生長の家は実に『久遠を流るるいのち』の所有(もの)である。私はそれを本当に信じているのであるし、そうであってこそ生長の家には、ただ書を読むだけによって病気が治るというが如き奇蹟すらも生じて来るのである。なぜなら、斯くてこ
そ生長の家の発行書を読むことによって、『谷口』と言う私の<いのち>に触れるのではなく『久遠を流るるいのち』に触れることになるからである。・・・

・・・『生命の実相』の著者は本当は『久遠を流るるいのち』なのである。釈迦も『久遠を流るるいのち』を把握したし、キリストも『久遠を流るるいのち』を把握したのである。そのほか空海、最澄、親鸞、日蓮もすべて『久遠を流るるいのち』を把握したのであろう。

・・・マタイにしても、ルカにしても、ヨハネにしても、キリストの言った言葉を、あ
んなに力づよく聖書の中に表現し得たのは、キリストの言った言葉をただ頭で覚えていただけでは出来なかったに違いない。それを完全になし得たのは、マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも『久遠を流るるいのち』に触れていたからである。大乗経典は後世の偽作であり、聖書は仏典の焼き直しだとの説もあるが、偽作であろうが、焼き直しであろうが一遍の架空な作り物語であろうが、そんなことで大乗経典の価値が減ったり、聖書の価値が減ったりするものではない。聖書の日本語訳だって『久遠を流るるいのち』が<あれ>に働きかけねば、あれだけの名文が出来る訳がない。聖書は新しい訳よりも旧約が一層よい。

・・・大乗経典は釈迦が説いたのではないとの学説もある。木村泰賢博士などは此の説を採用していたのである。併しこれは釈迦と言うものを、法華経にあるように『久遠を流るるいのち』と見ないで、『釈氏の宮を出でて、迦耶城を去ること遠からず道場に座して悟道(さとり)を得てから僅か四十余年を経た』と言う観方である。――しかし本当の釈迦(肉体の釈迦ではない)は『久遠を流るるいのち』そのものなのである。――釈迦は『久遠を流るるいのち』<そのもの>なのである。

・・・斯く釈迦が『久遠を流るるいのち』<そのもの>なることが判明するならば、大乗仏教経典が、肉体釈迦の滅後百年に出ようとも、乃至は二百年、三百年後に編纂されようともそんなことは問題ではないのである。若しその大乗経典に本当の『真理』が—―換言すれば本当に『久遠に流るるいのち』が—―表現されていて、それが我等に呼び掛けるならば、その大乗経典の本当の著者は『久遠を流るるいのち』そのものであらねばならぬ。そして釈迦が『久遠を流るるいのち』そのものであるならば、肉体釈迦滅後、何百年後に書かれた大乗経典であっても、それは釈迦の著した大乗経典であると言っても差し支えはないのである。



<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う―――

・・・仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にしたがって肝心の問題であるべきその書に、本当に『久遠を流るるいのち』が生きているかどうかを忘れてしまう傾向がある・・・まことにも木村博士の言わるる通り『仏典を論ずる』ためには、サンスクリット語や・・・古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。しかし、それは『仏典を論ずる』ためであって『仏教を悟るため』ではないのである。幾千巻の大蔵経の第何頁に如何なる語が書いてあるかと言うようなことは、仏典を論ずるためには、必要であるかも知れない。けれども吾々の<さとり>のためには何の効果もないのである。・・・

・・・結局、語学や経典によって釈迦の教えを研究しようなどと言う企ては、暗中模索の靴を隔てて痒きを掻くに類する努力であって、それはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々巡りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことは出来ないのである。本当に<さとり>の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して『久遠を流るる<いのち>としての釈迦』そのものの中に飛び込まなければならないのである。



<< 語学や考証を超えて―――

  私はここに、本当の釈迦は二千五百年前、地上に生まれて王宮を出家して迦耶城を去ること遠からぬ道場に座りて阿耨多羅三藐三菩提を成じた如き『肉体』でないことを宣言する。それは私が宣言するだけではなく法華経の『如来壽量品』にちゃんと宣言してあるのだけれども、法華経は大乗経典であり、大乗経典は釈迦是を説かずと言うような、<さとり>には何の関係もない考証的仏教学者があるから私が茲に改めてそれを宣言する必要があるのである。斯く法華経に従って、本当の釈迦牟尼如来は浄飯王の太子ゴータマの如き肉体人間ではないのであって『久遠を流るるいのち』であることを知るとき、吾等は到るところに『仏教』即ち『<ほとけ>の説教』を見出すことが出来るのである。

・・・何処にでも身を現じて法を説き給うのが釈迦なのである。だから法を説くとき阿難も釈迦であり、達磨も釈迦であり、賢首も、空海も、道元も、最澄も、親鸞も悉くみな釈迦なのである。親鸞などに到っては・・・彼の<さとり>は語学を超えて却って『久遠を流るる<いのち>』を把んだのである。・・・言葉や語学にこだわり過ぎて、この文字は梵語では本来何を意味するのだなどと言う事を考証するほど、凡そさとりに遠いものはないのである。



  ほとけは何処—―――

現代仏教が揮はないのは碩学は図書館に籠もってシミとなり、凡僧は寺院に籠もって死骸にお経を誦げるのを商売として、直接『久遠を流るるいのち』そのものなる釈迦に触れ、釈迦の<さとり>を直接生きようとする人が少ないからである。・・・『久遠を流るるいのち』なる釈迦は・・・ユダヤに於いても、日本に於いても、アメリカに於いても、イギリスに於いても常住久遠に説法してい給うのである。『久遠を流るるいのち』なる釈迦は、或いはイエスと現れて法を説き、或いはマホメットと現れて法を説き、或いはエマースンと現れて法を説き、さらに黒住教、今光教、天理教、扶桑教、ニュー・ソート、クリスチャン・サイエンスと現れて法を説いても一向差し支えがないのである。釈迦がその『肉口』を以って法を説かなければ、それは仏教でないというならば、地上いづこにか仏教あらんや

・・・では吾等は何処に本当の仏教を探し求めたら好いであろうか。仏教とは『釈迦の肉口の教え』であると考えている限りに於いては、そんなものは地上の何処にもないのである。しかし仏教とは『久遠を流るるいのち』と一つなるところの釈迦、『常に此処に在りて滅せず・・・余国に衆生の恭敬信楽する者あらば、我復た彼の中に於いて、為に無上の法を説く』ところの釈迦――斯くの如く変貌自在、どこの国にでも恭敬以って真理を知らんと志す衆生のために出現して来て法を説く釈迦――この釈迦の教えが『仏教』であると言うならば、仏教は到るところにあるのである。

 

わたしは喇叭(らっぱ)――――

 伊藤道海禅師が『生命の実相』を読んで見て、『言々すべて仏の教えである』と雑誌『宇宙』で評したのは当然のことなのである。『仏とは久遠を流るるいのち』の表現なのである。私は始めから『私は生長の家の教組ではない。私は諸君と共に「生長の家」の教えを聴聞してひたすら、其の如くい生きんと努力せる一人の求道者に過ぎない・・』・・・・

 私は釈迦・キリストがそうであったろうところの『久遠を流るるいのち』に触れん事をつとめ、斯くつとめつつ、『久遠を流るるいにち』の啓示を『生命の実相』に書き止めたのであるだから『生命の実相』の本当の著者は谷口と言う、何時にか生まれて何時かは死滅し了まうような儚い人間が書いたのではない。その著者は『久遠を流るるいのち』である。私はただ『久遠を流るるいのち』の流出口となったに過ぎないのである。

 私と同じく、『久遠を流るるいのち』の喇叭口となったものは、いづれも仏の教えを語るものである。仏の教える真理は『生長の家』が独占するものでもなければ既成仏教が独占するものでもないのである。キリストの聖書は既に『久遠常在の釈迦』の言葉なのである。またかのカーライルが『汝の運命を征服する武器は念(こころ)である。・・・念ずればその結果は必然に現れる』と言った時に、カーライルは既に仏の教えを語ったのである。何故なら、それは『三界は唯心の所現』であることを説き、この世界は因縁所生の世界であることを説破しているからである。

・・・彼はこれを説いたとき『久遠を流るるいのち』に触れてその喇叭口となったのである。換言すれば、カーライルが斯く真理を説いた時、常住久遠の釈迦牟尼仏が『余国に衆生のために無上の法を説いた』のである。また見よ、エマースンが『聖者と天才とが世界に投げた思想は世界を変化する』と説いたとき、彼もまた三界唯心の真理を説いて、常在久遠の釈迦の歌口となったのである。・・・

 斯くの如く観じ来るときには、ユダヤにも英国にも米国にも『久遠常在の釈迦』は既に仏教を説き給うたのである。仏教とは、茲に見よ、彼処に見よ、と言うが如く堂塔迦藍や書庫の中には存在しないのである。また釈迦と言う名前の肉体が喋ったことならば何でも仏教だと思うことも間違いである肉体の釈迦の言でも、悟らないで喋っていた時の言葉は仏教ではない。竜樹菩薩の作でも、曇鸞大師の作でも、カーライルでも、エマースンでも『久遠を流るるいのち』に触れて真理が語られる時には、それが仏の教えなのである・・・

 しかし、それが仮令、仏の教えであっても、ラジオの受信機が異なる毎に、その音声に一種の癖をもっているように、その真髄は仏の教えであっても、その悉くが、(その雑音までもが)仏の教えである訳はない。ニュー・ソートの著者に於いても、物質無を説いているのもあれば、物質有として汎神論を説いているのもある。仏教に於いても、真言宗も、天台宗も、禅宗も、浄土宗も、真宗も、日蓮宗も、その何れもが仏の教えであるには相違ないが、その悉くが(その雑音までもが)仏の教えである訳はない。吾々は唯その中から『久遠を流るるいのち』を見出し、それに触れ、それに合流すれば好いのである。



萬教ただ一つの<いのち>の流れ

・・・生長の家のように全ての経典の真髄を示して万教の全一すべき真髄を明らかにするには、ニューソートを篩にかけると共に、他の宗教をも篩にかけて、そこに『久遠を生きるいのち』の純金を冶金し出さねばならないのである。

・・・今でも『生命の実相』を読んで病気が治る事実を、『神が癒し給うのだ』と、考えている人があるかも知れぬが、神が治すのではなく、読めば心の眼が開けて、既に最初から健康であった自分の『実相』を見出すのである。病気だと見えたのは人間の仮相でしかなかったからである。若し病気が実際にあって神が病気を治し給うのであったならば、何らかの事情で、神が治し給はない場合は、全能の神ならば治せば治し得るものを治さないのであるから、その治さないことに真意があるので、これは嘗ての『ひとのみち』の教えのように『神の<みしらせ>』と見なければならないのである。併しそれは『生長の家』の思想ではない『神の<みしらせ>』の思想の中には『現象宇宙の実在』を肯定する思想と『神そのものの中に聖暗とでも言うべき何らかの暗黒を内包している』と言う思想を含んでいるのである。


倉田百三氏は、宇宙の太源にまかせ切りになると言う心境にいながら、なほ、宇宙の太の中にはなほこの聖暗を内包していると言う思想以上について行けないと、言はれたのは、ホームズ又は『ひとのみち』と同じ思想的位置にいられるのである。倉田氏が天理教に共鳴せられるのも『宇宙の太源の中には聖暗をふくんでいる』と言う真如縁起的な思想的立場にいられるからであろう。しかし、・・・私は『真如縁起』も『みしらせ』も、神の『病治し』も、『病拵え』も、聖暗も、寂光も飛び越えて了ったのである。そして病ひ本来なし、不幸本来無し、聖暗本来なし、寂光本来なしの世界へ入って了ったのである。・・・

『私はついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。三界は唯心の所現である、その心をも、また現ずるところの現象をも、一切空無と截ち切って、その空無を縦に貫く久遠不滅の大生命が自分であった。・・・』と。私はついに『久遠を流るるいのち』にふれたのであった。それはもう病気の無い世界であった。

真如縁起か阿頼耶縁起か――どちらが本当であるかは佛教界では教界上の大問題である。一心の中に十界を互具しており、一念の中に三千の世界があると言う、その『一心』とは、その『一念』とは真如心性であるか、阿頼耶識であるかは問題であるのである

これは(1)仏でも迷う要素を持っているか、(2)迷った凡夫でも仏になるか、(3)仏は未だ嘗て一度も迷わないか、の重大問題であるのである。私は(1)を完全に否定して了ひ、(2)は現象仏としてその仮存在をみとめ、(3)を完全に肯定して、『衆生本来仏にして、仏は未だ嘗て迷はず』と断定して了ったのである。かくて『一切の人間は仏にして未だ嘗て迷ひしことなし!迷へると見える五官の我は本来無いのだ!』まことにも、釈迦が悟りを開いたとき『有情非情同時成仏、草木山川国土一切成道』と知ったのもそう言う心境ではなかったかと、類推出来るのである。

この悟りの目で古事記を読んだとき、悉く別の力で照らし出された万教帰一の真理がおのづから見出された。諸教は私にとってはその夾雑物を除いたとき、いづれもただ一つ、『久遠を流るる<いのち>』の表現であった。すべての宗教はこの『久遠を流るる<いのち>』によって互いに手を繋ぎ合はすべきものではないだろうか。救はれるのは宗教の儀礼によってではない、ただこの『久遠を流るる<いのち>』によってである。<いのち!>・<いのち!>わたしは<いのち>の衝動を感じて『生長の家』を、『生命の実相』を書きはじめたのであった。これの本当の著者は『久遠を流るる<いのち>』である。そして『生長の家』を創めたのは『久遠を流るる<いのち>』であったのだ。 >>(引用おわり)




<注釈・コメント>

この第二篇<真髄中の神髄>に於きまして(1)開祖・谷口雅春先生の「大悟徹底の瞬間」(2)「生・不滅の神示」、(3)「神の子の自覚に点睛す」、(4)「寂光を更に超えて」、(5)禅の公案解釈「世尊拈花」を仮に“静”の神髄とするならば、この(6)「久遠を流れるるいのち」、と次の(7)「人類光明化運動の選士を称えて」は“動――力強い躍動そのもの”の神髄だと感じさせて頂けるのであります。雅春先生は、この『生命の実相』第27巻・第7章の中で、<久遠を流るるいのち>と言う言葉を実に50回も使はれて<久遠を流るるいのち>を説かれているのであります宗教とは、生老病死を取り扱うものと一般的には考えられておりますが、生長の家の教えを受けますと、宗教とは“永遠の生そのもの”を取り扱う事であることが判るのであります。“永遠の生”とは“いのちそのもの”、端的に言えばこれこそが「久遠を流るるいのち」そのものであると理解させて頂けるのであります。

「久遠を流るるいのち」は、静かなる奥深いいのちの流れであると同時に、生き生きと滔々として限りなき光輝くところの躍動感をもって、更に、底知れぬ神秘性を秘め、永遠の過去から悠久の未来に亘って時間を超越し空間を超越し、大宇宙生命として無限大から無限小の大宇宙全体に流れ渡り満ち亘っている感がするのであります。

私たち一人ひとりの神の子としての個生命は、この“久遠を流るるいのち”の個別的・主体的顕現でありますから、地上に生きている一人一人が“久遠を流るるいのち”をその体内の奥底に秘めて毎日の生活を送っている事が実感として感じ取れるわけなんであります。また、感じ取らなければならないと思うのであります。

この様に“いのちの実感”として感じ取らせて頂きますと、私たち一人ひとりは肉眼で見れば一個の小さい肉体を持って地球上で生きながらも、その心は肉体を超越して常に大宇宙全体に広がり、繋がり、その“生”は久遠悠久であり無限向上・進化の階梯を昇り続けてゆく個生命としての霊魂であり、無限に深き“悟りの深化”を求め行く“大宇宙を舞台とした大ロマン人生そのもの”だと言えるのではないでしょうか!!生きとし生けるもの、有りとしあらゆるものを貫き流れるひとつの共通的生命<久遠を流るるいのち>が実感でき、「山川草木国土悉皆成仏」とは是なり!と感得できるのではないでしょうか!!その為には、この「久遠を流るるいのち」の章を<あたま(理性)で読もうとせず、全身全霊で読む、黙読する、朗読する、目で読み、声で読み、声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む、そして静かに端座して『神想観』を行じ、行じ終わって動き出すとき神(愛)の生活を生きる(「生命の実相」第4巻P.2)>ことであります。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




<特集> 満天の 綺羅星 充満 生長の家(19)


谷口雅春尊師を偲びて


<各界識者からの追悼のことば>
(「聖使命」昭和60年8月1日号)


世界を救う教え ・ 松久 朋琳  大仏師

<<谷口先生にお目にかかったのは、京都の同志社栄光館で行なわれた生長の家講習会がはじめての事でした。それは、昭和十八年の秋頃と記憶しています。谷口先生の年齢は私より上であったのでしたが、なんと若々しい方だと記憶しています。その後、お写真ではしばしばお目にはかかっているのですが、生身の先生にお目にかかる事はないままおなくなりになりました。実に巨星堕ちるという事です。
 この様な方が、これからこの世に出てこられるだろうかと思うて居ります。人間様である限り、お釈迦様もキリスト様も、いつかはなくなられる訳ですが、生長の家全会員は申すに及ばず、心ある人々は残念に思われたと察します。
 私は会員ではありませんが、ふとした因縁でしばしば講演やら書物を出して頂き、仏縁と申しましょうか、深い繋がりが出来、これからも益々連繋は深まって行くだろうと考えています。
 兎に角、私は谷口先生の宗教的理論として、万法一如のこの御宣言にひかれました。げに今世の危機を救えるものは完教であると共に、万法一如でなくてはなりません。
 この御提言は、至言であり、必然的であり、私も世界人類が一日も早くこの事に目覚めて、世界国家平和国家への道を歩まなければならないと思います。
 現在の様に各々の宗教が、いつまでも一つ一つのかたまりに固執していては、大いなる救いにはならないこと、あたかも陶土にかたまりが出来ていて、充分な焼き物にならないと同様です。一宗一派的固定がもつかたまりをつぶして練りこまねばなりません。
 即ち合掌の大同団結、これを土台にして新しい平和世界国家を築き上げなくてはなりません。万法一如こそ谷口先生への追悼の祈りとしたい。>>
                                    合掌






Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板