生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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又もや“霊的音痴”をさらけ出したマサノブ君!――2・2「枯れ松模様」コトバ巧みな現象唯物論で「生長の家 原宿“いのちの樹林”」を弁明す! (6200)
日時:2015年02月04日 (水) 19時56分
名前:怒れる信徒代表




又もや“霊的音痴”をさらけ出したマサノブ君!――2・2「枯れ松模様」コトバ巧みな現象唯物論で「生長の家 原宿“いのちの樹林”」を弁明す!



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平成27年2月 2日 (月)
原宿“いのちの樹林”が完成 (要旨)

<< 今日は快晴の空のもと午前11時から、東京・渋谷区の「生長の家 原宿“いのちの樹林”」の光明の塔で同樹林完成の御祭が挙行され、・・・百数十人が参加、御祭では招神歌、「大調和の神示」の奉読に続いて、第4基目の七重塔の除幕、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」を奉読、さらに「大自然讃歌」の一斉読誦 ・・・昨年12月10日に完成した「赤坂“いのちの樹林”」に次いで誕生した霊的緑地であります。・・・この生長の家の“いのちの樹林”は、これまで都市に造られてきた「庭園」や「公園」と呼ばれる緑地とは異なる、2つの大きな特徴があるその1つは、その土地本来の植生であるということ、2つめは、生物多様性の実現を目指す、ということでした。伝統的な日本庭園の中には、この2つを実現しているものはあるのですが、世界中の庭園や公園ではそうでないものがほとんど、・・・人間中心の考え方は、都市を造る際の考え方と同じですから、短期的には自然を大切にしているように見えても、長期的にはそれと反対の結果を引き起こしかねないのであります。また、人間の都合を優先した緑地は、生物多様性の面でも本来の自然より劣るものです。・・・なぜ宗教活動であるのか・・・『創世記』第1章と第2章の記述の矛盾は、世界の聖書学者の間からもつとに指摘されていて、その理由は、「作者が異なるから」というのが通説になっています。しかし、谷口雅春先生は、もう一歩先へ進み、その矛盾は、実相世界と現象世界の違いを表現したものだという卓越した議論を『生命の實相』などの中で展開されている・・・『創世記』を読み解いていくと、“エデンの園”の話は同書の第1章にはなくて、第2章から出てくるという重要な事実、・・・ “エデンの楽園”を造った目的や動機とは何? そこにきっと“人間の迷い”が反映しているはずです。そんな問題意識をもって『創世記』第2章を読む−−「また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」(9節)さらに第3章6節には、“禁断の木の実”をイブが食べるシーンが描かれて・・・「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」 ここには、イブが神の言いつけを破った理由が描かれている・・・「自分にとって好ましい」という考えを優先し、神の言いつけを破った・・・逆に言えば、神が創造された天地には、「食べるに悪く、目には醜く、賢くなるには好ましくない」ような木もあるという認識です。もっと端的に言えば、神の創造世界には悪もあるという認識が、これらの言葉の裏にはある。ここから、神の創造世界があるにもかかわらず、そこの一角をわざわざ区切って「1つの園」を設けなければ“楽園”とはならないという考えが生まれるのです。 この考え方を現代風に言い直せば、自然界そのものには人間を害するものも沢山あるのだから、人間にとって「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」植物や動物だけをそばに置いて育てれば“楽園”が実現する−−ということです。これは今日の、大方の人間の自然に対する考え方で、これまでの多くの庭園や公園は、まさにこの考え方にもとづいて造られてきたと言えます。しかし、私たち生長の家は、神の創造世界には悪はない、どこもかしこも「はなはだ良い」世界だという信仰を中心にしていますから、従来型の人間の都合に合わせた庭園や公園をよしとすることは、“迷い”をよしとすることであり、もっと言えば信仰に相反することになるのです。そんなわけで、土地本来の植生を生かし、生物多様性を重んじた緑地を私たちは造りました。大都会に生きる多くの人々に、本来の自然が生み出す自然と人間の深いつながりのメッセージを伝え、自然尊重の機運を盛り上げていきたいと考えます。 谷口 雅宣 >>



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<講評>


今回の「枯れ松模様」をよんで解ることは、――

@ マサノブ君が「創世記」の第二章解釈を変更し始めたこと

A 「霊的緑地」という「霊的」という修飾語を使っていても、依然として「唯物現象論」の域を出るものではないこと。言葉巧みな自論擁護のための言葉遣いに過ぎないと共に、その内包する矛盾点を隠していること

B 本当の霊的側面から観れば、マサノブ君自体が原宿の霊的トライアングルゾーンから締め出されたことに依然として気付いていないと云うこと



上の3点について、少し詳しくマサノブ君に説明したいと思うものであります。


@ マサノブ君が「創世記」の第二章解釈を変更し始めたことについて、――

 マサノブ君は今まで「創世記」の第一章と第二章は矛盾している。その理由は作者が別々であるからと書いていたのでありますが、そのことについて本流側から「生命の實相」をよく読んでいないからだと追求され、自分の立場が不利になる事を恐れて「生命の實相」第11巻の「創世記解釈」を再読したのであろう。そして今回は、「創世記」第一章は神の創造し給うた“はなはだ善し”なる完全円満なる實相世界の記述であり、第二章は肉体人間の“迷妄”による偽創造の現象世界の記述である事をハッキリと認めるようになったのであります。

このことに気が付いたということは、彼・マサノブ君に取っては大いに“進歩”と受け取れるのでありますが、彼の“進歩”はまだまだ不十分であります。彼は依然として“迷妄に捉われている現象肉体人間”を見ていることには変わりはないのであります。

だから、マサノブ君独特の「人間至上主義」(なにごとも人間の都合を優先する考え方)という言葉がまたもや出てくるのであります。マサノブ君は「人間は神の最高の実現である」という實相を観ないで、現象という自然界の生物の一種と観る。實相の観点に立たないゆえに「神性隠蔽」という言葉が出てこない。その代わり現象の観点に立った「人間至上主義」という言葉を頻繁に使う。

マサノブ君の言う「人間至上主義」とは、人間=罪の子意識と同意語である。人間は自然界に害を与える唯物的生物と見るのであります。このように、彼の立脚点は實相の観点ではなく、現象中心の観点であります。従って、環境問題を「三界唯心所現」と見ず、その解決策を「人間観の転換」による解決策ではなく、「神性隠蔽されている唯物現象的人間観」をそのままにしておいて、単なる唯物的な手段で解決しようとするのであります。これがマサノブ流の「緑地」造りであります。

そもそもマサノブ君が人間神の子の實相の「神性隠蔽」という言葉を決して使わず、「人間至上主義(=人間罪の子)」を常に全面に出す理由は、「神性隠蔽」の方面から説くと、マサノブ君自体が強固なる神性隠蔽状態にある事を自ら暴露してしまうことになるからで、彼はこのことを極端に恐れているのであります。



A 今回の人間至上主義を正すために造った「原宿いのちの樹林」の特徴は、土地本来の植生を生かし、生物多様性を重んじた緑地である、とマサノブ君は強調しております。果してこの二大特徴をもった緑地を大都会の中に造り上げる事が出来るのでしょうか? 

「土地本来の植生」に関して言えば、「武蔵野」と呼ばれていた昔の関東地方の原野を想起させられます。だから、「原宿いのちの樹林」という人間精神を癒す響きを持つかに見える表現も、「土地本来の植生を生かす」という言葉と関連させるときには、「武蔵野原生林の復活再生」という表現の方が適切であります。

さらに、「生物多様性を重んじる」という表現を結び合わせると、その「武蔵野原生林」は一切人間の手を加えず、自然のままに放置してこそ、マサノブ君のいう「いのちの樹林」となると思えるのであります。落ち葉や倒木は自然の肥料となって樹木を育て、人間にとって危険な害虫や鳥獣も繁殖します。人間にとって害を与えるものであっても原生林の生育の為には有益なものであるでしょう。

この様な原生林の復活が大都会の中で実現可能でしょうか? 東京都にも森林公園菅理に関する条例もあり、倒木の整理や遊歩道の整備、害虫・害獣・害鳥の駆除責任もマサノブ君は負うことになる筈です。このように考えると、人間の手を全く加えない“武蔵野原生林”造りは大都会ではできない、結局、人間側の都合に合わせた森林公園となり、相当の維持管理費が信徒の浄財から注ぎ込まれて行くのです。

マサノブ君の「霊的樹林」造りはこの様な矛盾を内包しているのですから、結局のところマサノブ君の一種の洗脳コトバ(いのちの樹林)に信徒は誤魔化されている。したがって、この「いのちの樹林」造りも金持ちボンボン=マサノブ君の有り余る信徒の浄財を蕩尽して「生長の家」の完全解体を目指す個人的な趣味と道楽であることに間違いはないのであります。



B マサノブ君は、自分だけの個人的趣味と道楽のために原宿本部をすてて、八ヶ岳に本部を移転して「森のオフィス」を建設し、その理由を「自然との共生」という信徒欺瞞の言葉で説明しているのであります。そして、八ヶ岳の南麓で近代物質文明を全面的に取り入れた優雅な宗教貴族生活を送って自己満足に浸っているのであります。

彼の肉体頭脳はわれわれよりも確かに優秀でしょう。しかし、霊的側面から観れば、マサノブ君は霊的進化のレベルはまだまだ低く、宗教家と自称すれども全くの“霊的音痴”であります。

彼は、左翼唯物現象論者ですから、原宿の<霊的トライアングルゾーン>から追い出されたのであります。マサノブ君は全くこのことに気付いていないのです。原宿の<霊的トライアングルゾーン>とは、明治神宮・東郷神社・生長の家本部のことで日本守護の霊的結界であります。

「同類親和の法則」によって、反日的日本人であるマサノブ君ははじき出されて八ヶ岳へ追放されたのであります。原宿本部の建物は解体されましたが、如何にマサノブ君と雖も「光明の塔」までは解体破壊出来ませんでした。ここにわれわれは『神慮』を感得するのであります。われわれが本流復活活動を幅広くたゆみなく続けて行くとき「片栗粉」が透明になって固まる時は必ず起こり得ます。

つまり、天の鉄槌という独裁者の最期が訪れます。マサノブ君の無意識の意識にある積みかさねられた迷妄の自己崩壊であります。歴史上に於いても“破壊と蕩尽”の冷酷独裁者はすべてといっていいほど自己処罰と自己崩壊を招いて哀れな末路にいたっているのであります。これは法則であります。

「光明の塔」が残されたということは、やがて「生長の家」本部が原宿の地に凱旋(日本守護の霊的トワイアングルゾーンへの復帰)する事を意味しているものと信じて本流復活の活動を進めて参りましょう!!




その土地本来の植生・・・ (6201)
日時:2015年02月05日 (木) 05時43分
名前:不動明王

原宿の跡地、事務棟解体の後の広場は確かに植樹されて小さな公園になっています。

その造園工事を見ましたが工事人が沢山入重機が唸りを上げて、
それはそれは人工的造園作業でした。

だから短期間で跡地は公園と化したのです。

自然に『その土地本来の植生』と

その土地本来の植生・・ No2 (6202)
日時:2015年02月05日 (木) 05時56分
名前:不動明王

その土地本来の植生・・と言うなら、広場のまま何十年と置き、手入れだけを続ける中で自然と発生する緑の公園を作るべきであると思うのです。

お坊ちゃまの仰るように“いのちの樹林”と成るには数百年後でありましょう。

しかし
明治神宮や東郷神社を目の前にして、よくもこねこねと箱庭盆栽の自慢をされるものやら、やはり爺さんの域に入られた証ですね。

()前項のスレット聞いている最中に勝手にアップされてしまいましたので二つに分かれてしまいました

 (6207)
日時:2015年02月05日 (木) 11時53分
名前:火曜クラブ

確かに明治神宮を目の前にしてすごいですね...
すごい神経の持ち主...



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