生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<再掲示シリーズ> 「偽(ニセ)生長の家・マサノブ教」VS「正統・生長の家」・・・ニセモノは「無の世界」へ追放されて自壊する・・・(23) 信徒必須の知識――「生長の家」発祥時代の“神秘なお話” (6213)
日時:2015年02月06日 (金) 10時38分
名前:再掲載シリーズ選定委員会



「マサノブ教」では聴けない話
「生長の家」発祥時代の“神秘なお話”




『生長の家』とわたし(谷口雅春先生)

「生命の実相」第1巻P.14

<< わたしはこの『生長の家』の生き方がどんなに善い生活だかということについては、確信をもっている。諸方の読者から集まって来る多くの賛辞はわたしのこの確信がただのウヌぼれでないことを第三者として証拠だてている。なかにはわたしを教組あつかいにしてくださる誌友もあるが、わたしは『生長の家』の教組ではない。わたしは諸君とともに「生長の家」の教えを聴聞して、ひたすら、その教えのごとく生き行こうと努力する一求道者にすぎない。わたしがまだこの世的な悩みを幾分でももっているのはわたしの生活がまだ『生長の家』の生き方には完全になり切っていないからである。

 むろんこの雑誌の原稿はわたしの手にもったペンにより書かれる。しかし、ひとたび『生長の家』を書こうとしてわたしがペンをもって机に向かうとき、わたしはもうふだんのわたしではないのである。

 霊きたりてわたしを導く。弱い性質のわたしにはとても書けない強い言葉が流れるように湧いて来る。第二号の『生長の家の歌』のごときは自分ながら驚くほど強いことが書けている。わたしが亀岡にいたとき、わたしが専念、教えのことを書いているのをかたわらで見ていた霊視能力者の加藤氏は、わたしと別な霊人が筆をとっている姿を見たといっていた。それは信じてよいかどうかは知らない。しかしもし『生長の家』に教組というべきものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。

 およそ宗教的な深さをもったものはそれが教えであると芸術であるとを問わず、その源は霊界にあるのである。古来から神品といいインスピレーションといったのはこれである。われわれはすべて霊界および現世の人々からラジオ的に放送されて来る思想波動を感受するところの受信機であるのである。しかしJOAKの放送を受けるにはラジオの受信機の調節をJOAKに合わさなければならぬであろう。それと同じくわれらが“一層高き世界”
より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。ここにわれらは不断に心を清め、心を“一層高き世界”よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。この訓練がたりないとき雑音が混じる。受けるインスピレーションが不純なものとなる。もしわたしの書くものに純粋でない雑音が混じっているならば、それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。・・・>>



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笠原政好氏の霊眼に映じたもの

「生命の実相」第1巻P.15−16

<< ところが、埼玉県から霊眼によって、わたしが『生長の家』の原稿を書いている現場を透視した人があって、わたしが霊感によって書くということを客観的に証拠だてた人があります。それは埼玉県の笠原政好君であって、昭和6年6月1日付で報告が来ています。

「 神想観を実修して、大虚無の境地に入っていた。ふと目に映じ出した、私の処から西南に当たる方向に先生の姿が髣髴として見える。実はまだ私は一度も先生のお顔を拝見したことはない。それが霊の性質かもしれないが確実に見える。さっきから先生は広間の片隅で穆々しく机に向かっておなじみのペンを持って何かお考えを書いている。姿勢よく座し、しかとペンを握り十分に含ませたインク、あたりの光景は手に取るように見える。光明は先生の軀から無限にも放出する。ちょっと弱そうな容貌、しかしその熱烈さ。『道』に奉ずるの御決心は一目瞭然である。生き生きしたペンはソロリソロリ走り出した。まだなん行とも書かぬうち先生は無我のうちにおかれ、またたくまにペンのスピードは前とはまるで変わってくる。走る走るあらっと思う間もなくぜんぜん先生とは違った人になっている。口元の締まった、あご髯の胸まで垂れ下がった、見るだに気高き霊人だ。あれ先生はどこにと、見詰めた。ああ先生は霊人の内に溶け込んでいるのだ。霊人は全支配権を握り、わき目もふらず書を進めてゆく。あれなんという、推敲もせずそしてペンの早さは目も及ばぬほどだ。まあ不思議なこと一体どこから来た方だろう。霊人の軀から神々しい霊光が放たれ付近は光明浄土と化した。静寂また静寂、付近はまだ霊人の占領地となっている。やがてペンははたと止み、霊人はどこにか姿を消してしまった。目的の文ができあがったらしい。後は先生の独座とかわった。やれやれ重荷でもおりた様子。籠の鳥が放たれたように急にのんびりして今書き終わった短文を精読している。精鋭な先生の視力はやたらに文字に引きずられてゆく。二回も三回も熟読してますます神秘の霊感に打たれている。『無理はない』渺漠の領境に導かれるどころか独専霊人の書だ。数十分の間私は恍然としてこの光景につりこまれて、ひたすら現象のなり行きを見つめていた。先生はこれを整理してまた他の目的に向かってお働きになられた。

(付言)、先月14日にも神想観実修のおり、目に映ったことがあり、昨夜も同然御動静を拝し、当夜はまたこんなに勝れた光景にまで出くわしました。政好は年若く、世の経験に乏しいものです。ですがすべてを政好の感性の所産と思し召しくださるな。私は初めて自分の偉大さを知る。私は私の背後にもやはり常に私を操ってくださる方のいることを信ずる故に。頓首。(12月30日夜)」 >



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『生命の実相』は久遠の昔からある!

「神秘面より観たる生長の家四十年史」P.1-2

<< 奈良県に山村恵津子さんという熱心な生長の家の誌友がある。何でも学校の先生をしていられるらしいが、学校の暇なときには、生長の家の宇治別格本山へ奉仕のために来られる事があり、時々、私と顔を合わすことがあるのである。その恵津子さんのお父さんは山村楢次郎さんといって天理中学の国語の教師をしていられた。『生命の実相』が、私が東京に移転して、はじめて、光明思想普及会と称する株式会社組織の聖典出版機関が出来、そこから出版されることになった時、その最初の版は、黒紬の布製で、松本俊介君の図案になる、線画の雲から三本の金線の光が出て、その光に照射されて、植物の若い芽生が、地上のすべての生命の萌芽を象徴するかの如く描かれてあった。その三本の金線が妙に印象的であるのである。

 この『生命の実相』の本を山村楢次郎氏が現実界で手にした時、氏は、これをいつか以前に手にした事を想い出したのである。記憶を手繰って見ると、それはその時から数えて十八年前、夢の中で神様からその『生命の実相』の本を授けられた。その時のドッシリと掌にこたえた重みの感触が、十八年後になった今でも、記憶にハッキリ現実のように残っていると山村氏は私に話されたのである。

山村氏がその話をせられた頃、生長の家の教育専門の雑誌『生命の教育』が発行されていたが、氏は時々、それに寄稿せられて同氏の原稿が載っていたものである。当時の十八年前と言えば、昭和九年に生長の家は兵庫県から東京へ移転しているので、概算したところ、私が大本教にいた頃か、或いは大本教を脱退した頃に、既に山村楢次郎氏は『生命の実相』が実相世界又は“霊の世界”に存在したのを拝受せられたのだった。それが十八年後になって“現実の世界”でそれを拝受したことになっているのである。やはり『生命の実相』は久遠の昔からあるのが時節到来因縁熟して現実界に姿を現したのだと言う事になるのである。>>



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大同の石仏の釈迦如来像の出現

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.8−12)

<< 私が東京へ移転してきた頃は、別に道場というものはなかったので、宮崎家から提供されたその家で、毎日午前と午後と二回誌友会がひらかれていたのであった。・・・その頃、青山五丁目に写真店を開業していた山本明氏が、嘗て支那大陸を旅行したとき山西省の大同という処に有名な石仏の群像があったので、その中で最も神々しい聖らかな容貌をしている釈迦の肖像だというのを撮影してきて、・・・引き伸ばしたのをわざわざ額に入れて持ってきて壁にかけて下さった・・・私の頭の上の前方は、ちょうど縁側と畳の部屋とを仕切るための鴨居になっていて、障子は外してあるが、その鴨居のうえに、山本明氏が寄贈せられた山西省の釈迦の石仏の肖像写真が懸かっていた。・・・

四十歳くらいに見える紳士が、その鴨居の上の肖像写真を指さして、「これはどなた様のお写真でございますか」と尋ねるのであった。「これはお釈迦さんのお写真ですよ」と私が答えると、その紳士は突然、意を得たとばかり手を拍って、嬉しそうな語調で「それで安心しました。よく解かりました」と言った。

「何がよく解かったのですか?」と私がたずねると、その紳士は、「実は私は富山県安吉村の安吉教団の信者なのですが、その創始者安渓先生は素晴らしい霊覚者でありましたが、その先生が亡くなられる直前私に斯ういうことを遺言のように言われた。“自分が死んでから数年たつと私と同じ教えを説く先生が出て来られる。お前はその先生に触れる機会を与えられるであろう。お前はその先生について教えを学ぶがよい”と。

そして先生の死後数年経ちましてから私は『生命の実相』を得て読んでみますと、驚いたことには安渓先生のお説きになる教えと全く同じ教えが書かれているのです。そこで、この『生命の実相』を説かれる谷口先生こそ安渓先生が遺言せられた先生だと思い、詳細に『生命の実相』を読んでみますと、“仏”とか“如来”とか仏教的に書かれたところもありますが、盛んに“神”という語がつかはれています。仏教では“神”といわないので、それに私は心が引っかかるのです。

この辺の事を先生に直接にお伺いしたいと存じまして昨日夕方東京へ到着いたしましたので、先生のお宅へお伺いいたしましたところ、“今晩は九段の軍人会館で講演会が開かれるので先生はその方へ往っていられる。今からお出になれば丁度前座の御話が終わった頃で、先生のお話には間に合うでしょう”と言はれるので大急ぎでタクシーを雇ってまいりましたところ丁度先生のお話になる処でした。

後ろの方の席から聴いていたのですが、今日は直接、先生のお側で先生のお顔を拝せると思って出来るだけ先生のお近くに来てこうして座らせて頂いたのですが、さて谷口先生といはれる方の顔を見ると、昨日、軍人会館で講演せられていた人の顔とは異うのです。妙だなと思って、フト上を見ると、この肖像画が懸かっている、そしてこの肖像写真の人が昨夜、軍人会館で講演せられていたので、それで、この肖像写真のお方はどなた様かと思って聞いたのです。そしたら“お釈迦さま”だと言はれて、ああ生長の家の教えはお釈迦さまが説教しておられるのだとわかりましたので、思わず安心して手を拍った次第です。」

 この人は梶喜市郎という人で、手を拍って悦ばれた瞬間、今まで一方の耳が聴こえなかったのが、突然よく聴こえるようになったと言ってお礼をいはれた。この梶さんの体験を新潟市の講習会で話すと、新潟の信徒総代の高橋長久氏が、「私は梶さんを幼い時分から知っています。その耳は幼い時イロリに掛けてあった味噌汁鍋がヒックリ返って、熱湯の味噌汁が一方の耳に流れ込んで焼けただれて聴こえなくなったのでした」といはれた。

その後梶さんは非常に熱心になって、自分の住んでいる地方の誌友相愛会をしておられたが、近頃は消息を聞いたことがないのである。この梶さんの体験をきいて感ずることは、生長の家の教えは、釈尊が私を媒介または喇叭として真理を説法しておられるのであり、私は唯の喇叭であるということである。そして梶さんは、霊覚が発顕して、私の肉体の背後にあって講話しておられる釈尊の霊姿を拝されたものだと解釈できるのである。

 このような神秘的現象で、「私は喇叭である。生長の家の本部は実相の世界にある」という意味が読者にはお解かりになったと思うのであるが、釈尊が実相世界に在す“久遠の本佛”として、私を現象界への“橋架け”として教えをしておられるのであれば、梶さんが悦ばれた通り生長の家は釈尊の教え(即ち仏教)だという事ができるのであるが、それではキリスト教の人にはどうも素直に受け入れられないおそれがあるのである。生長の家の教える真理は万教に共通する唯一真理の神髄を説いているのであるから、キリスト教の人にも素直に受け入れられる条件が整っていなければならないのである。>>



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講演中の谷口雅春先生がキリストに変貌

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.15−17)

<< 高岡市の郊外に「雨晴」(あまばらし)と名ずけられた海岸の村がある。その村の中腹に、清都理門さんの別荘があった。そこで講演会の翌日、もっと話を聞きたいと思う人達が集まっていた。・・・中川さんは「実は私、午後の講演も聴かして頂いたのでありますが、その時、先生のお顔がキリスト様のお顔に変貌いたしました。これは私の眼の錯覚でそのように見えるのだろうと思いまして、角度を変えて見たら本物のお顔が見えるかも知れないと思いまして、体を横に曲げ左斜めから覗くようにしてみましてもやはりキリスト様に見えるのです。色々の角度から透かして見ましてもキリスト様のお顔に見えるので、ハッと悟らして頂きました。生長の家の教えはキリスト様が先生を通して、お説きになっているのだから、もう間違いはないと安心いたしましたのです。」と丁寧にお辞儀をされるのであります。・・・けれども私はその言葉を素直に承認しなかった。

「君はキリスト様に僕の姿が変わったというけれども、君はキリスト時代に生きていた人でないから、キリストがどんな顔をしていたのか知らないじゃないか。どうしてその顔がキリスト様だと判るんだ」と私は追及した。「いや、それは判るんです。だってキリストの油絵の複製を街で知っているんです。その通りのお顔におなりになったのです」と中川さんは答えた。私はあの講話のとき、キリストの喇叭になっていたのだった。

 いつか『栄光』という京都教化部から出ている教化連絡紙の第一面に和田秀雄氏が書いておられたが初めて生長の家の講演をきくために京都の同志社大学の講堂“栄光館”に入った途端、演壇に立っている弁士の姿がキリストそっくりに見えた。それが谷口の姿だったのだという。そのほかにも松尾キクさんという八十歳のおばあさんでお山で集まりのあった時には始終来ておられた熱心な信者があったが、この人も変貌のキリストの姿を見たといはれたし、福島県郡山の誌友連合会長をしていられた柏木周造翁もキリストの姿を見たといはれるし、宮崎県の富高で終戦後はじめて講演のあったとき私の講演をきいて感激して声涙共に下るような調子で懺悔し入信せられた横尾栄一氏も私の顔がキリストに見えたと言われたので

「あんた、キリストが本当にどんな顔をしていたのか見たことがないのに、どうしてキリストに見えたなどと言えるのですか」と私の方から却って反駁した事もあった。その時の返事も、やっぱりどこかでキリストの描かれている油絵を見た事があるという意味の返事であったと思うのである。ともかく私は釈尊の喇叭であり、キリストのスピーカーであるのである。そこから万教帰一の教えが出て来る所以である。>>



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住吉の大神の神姿を見た人々

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.18−19)

<< 私の背後に、白髪の老翁の姿をしたキリスト(「ヨハネ黙示録」の第一章に出現している“久遠のキリスト”)の姿を最初に見たのは私の家内であった。それは生長の家の最初の原稿を書いた所謂“発祥の家”で、私と家内とが互いに向かい合って神想観を実修している時、私の背後に空中に立っていられる白髪の老翁の神様の姿を拝したというのである。

 この神姿はその後、他の信徒の集まりにもあらはれたし、その頃熱心に私の宅へ日参のように来ていられた長尾初枝さんも見たと言はれた。その頃、非常に熱心で、誌友会の集まりを“三日会”の名の下に、毎月三の日に催しておられた畑中猶三氏の集まりにも度々その神姿が見えた。「しかも一人のひとに視えるだけではなく、集まっている人の全部にではないが、数人の霊眼に同一神姿が、同一の位置に於いて見えるので、それはほんものでしょう」といって畑中氏は私に訪ねられた事がある。私自身はこの神姿を見たことがないのは、一寸妙に感じられるが、自分自身の顔は自分には直接見ることができないというような原理によるのかも知れない。

 神宮前1丁目23−30(旧地名“原宿”)にある本部の旧館の正面玄関の上部に安置せられてある神像は、服部仁郎氏が、家内の霊視せる神姿を詳細に聴き、それによって模型を造り、家内が「此処はこんなでなかった。此処はこうであった」といちいち訂正して、家内の霊視した神像に出来るだけ近づけて製作せられたものであるが、服部氏自身は、神姿を見たことはなかったが、天才的彫刻家の一種の霊感で本当に家内の見た神姿そっくりに出来ているらしいのである。数年前、今は横浜に居る誌友が、はじめて、この原宿にある本部を訪問して、その正面玄関上の神像を見て“オヤ!”と驚いた、といって手紙を私に寄越された事がある。その手紙にはこう書いてあったのである。この神姿は、谷口が嘗て早稲田大学の大隈講堂で講演している時に、その谷口の姿がこの神像に変貌していたのを思い出して不思議な神秘感に打たれた。どうして大隈講堂で自分が見た霊姿をこんなに正確に再現できたのであろうかと。家内の霊視した神姿にもとずいて塑作されたこの神像が、横浜の誌友の霊視した神姿そっくりに出来ていたということは、服部仁郎氏の制作技術の素晴らしさと、霊界の神秘の相互関連を語るものとして注目してよいと思うのである。>>



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光明輝やく実相の世界に住む神

『生命の実相』第二巻・実相篇下巻(P.134−137)

<< そのうちにこの『生長の家』の事業が神の人類生活光明化運動であると言うことが明瞭になってきたのであります。ちょうど、仏教にも護法の神といって持国天だの、多門天だの帝釈天だのという神がある。それに比すべくこの『生長の家』にも護法の神が出現したのであります。・・・

『生長の家』誌の第一集第四号を執筆している頃「光明の国」という私の霊感的長詩を家内が校正いてくれましたとき突然神憑りとなったのであります。わたしは審神者(さにわ)として、その時いろいろ神誥を聞いたのでありますが、この神はわれわれの祖先の霊でも、われわれ家族個人の守護神でもなく、家のうちに祭祀してある神でもない、名はいうに及ばぬ、光明輝く実相の世界に住む神である。これから『生長の家』を読んで病気の治る者があいついで出るけれども、それは読んで真理を悟って治る人もあれば、神が救いの方便に治すのもある・・・などという意味のことがあったのであります。

ところが今まで家内には霊眼がひらけたということなどは全然なかったのでありましたが、その時突然天空高く白衣を裾まで垂れ、鬚髯(しゅぜん)を旨まで垂れた尊き神姿を拝したのでありました。この事実と相前後して香川県の某氏からは従弟に『生長の家』を読ませたところが神経衰弱が癒えた事実があり、それではわたしの霊力に頼れば親戚某氏の精神病もよくなるだろうとある日「生長の家」までこられたところ、その日を境にして快方に赴いたりしました。・・・

護法の神の顕現ということについては、なお多少の疑いを抱く人があるかもしれません。ところがある日、霊覚ある某女史が来られて私に鎮魂してくれと頼まれたので二階で鎮魂してあげると、ある神の姿をその方は拝されたのであります。その拝された神の御様子をその方がわたしに話そうとしていられる時に、かつてその神の姿を見た家内が二階に上がってきて「そうあなたもお拝みになったのですか」といって互いにその神の容貌はこう、服装はこう、と両方から話して照らし合わせてみるとピッタリ一致するのであります。

それでこの神の存在がたんなる幻覚ではなく時を異にして別々の人に、同じ姿を顕現せられたので、客観的になにかあるという証拠になってきたのであります。そののち私はその神から『神想観』という一種の座禅のような方法で、本当の自己は肉体の自己ではなく円満玲瓏たる神である如来であると言う事を自覚するための精神統一法を教えられ、その方式に従って行えばいかなる遠方へでも、この神みずから顕現して指導するとの啓示がありましたので、その修行を毎日一回三十分間やっているのであります。>>



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観世音菩薩と生長の家マークの由来

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.26―28)

<< 住吉大神と阿弥陀仏との関係・・・
この住吉大神は如何なる神様であるかと言いますと、人生を住みよき世界にするところの神様であります。仏教で言うと、この神様は阿弥陀仏にあたるのであります。阿弥陀仏の慈悲の働きが観世音菩薩、阿弥陀仏の智慧の働きが勢至菩薩であります。阿弥陀・観音・勢至の三尊一体であります。生長の家の神様は観世音菩薩であると言われておりますが、その本地は阿弥陀仏であります。

 聖観世音菩薩の仏像を拝見いたしますと宝冠をかぶっておられる。その宝冠の真ん中に普通は、もう一つ仏像が刻んであるのであります。その宝冠の仏像は阿弥陀如来であります。これは観世音菩薩が阿弥陀仏の示現であることを現しております。

 阿弥陀仏は尽十方に充ち満ちておられる“宇宙の本体”的実在であらせられ、尽十方無礙光如来とよばれる・・・現実に人格的に姿を現して人をお救いになると言う時には、阿弥陀仏そのままでは出てこられないで“観世音菩薩”のお姿をして出て来られると言う事になるのであります。この観世音菩薩が生長の家の神様なのであります。



なぜ観世音菩薩は生長の家の神様か(生長の家マークの由来)・・・

 生長の家の神様は住吉大神であると言って、今またそれを観世音菩薩であると説くのは何故であるか、どこにそんな証拠があるのか。お前は、そのように説いたならば、キリスト教も仏教も一緒に和合するのに大変都合が良いと思って、そう言う説を牽強付会して拵えたのではないか、と言う風にお考えになる人もあるかも知れんけれども、決してそれは<牽強付会>ではないのであります。それには現実的な証拠があるのであります。

 私が住吉村から移転いたしまして上京して二年目位でありました。生長の家にもマークを拵えなければならないと言う事になり、生長の家は一宗一派の宗教ではないから、神道を表現したところの日章旗、仏教を表現した所の卍(但し、吉祥卍)、それからキリスト教を表現したところの十字と、日本に現に行われている三大宗教の印である十字と、卍(但し、吉祥卍)と、日章旗の三つを一つに纏めたような、そう言うマークを拵えたいと思いまして、当時文部省主催の展覧会なる帝展(今は“日展”と言っている)の審査員をしていられた山根八春先生に頼みまして、生長の家の徽章を拵えて貰ったのであります。それは、七種類ほど考案して下さったのでありますが、その中の一種類を私が選びまして現在の生長の家のマークが定められたのであります。私がこの時計の鎖につけているマークですね。・・・観世音菩薩がこのマークをつけておられたと言う事を私は全然知らずに山根八春先生がこのマークを考案して下さったので、これをバッジにして当時の大阪の生長の家連合会に送って、“大阪の誌友達に皆に分けて下さい”とお願いしたのであります。

 その時の連合会長が門脇観次郎と言う人でありました。海事審判の弁護士をしておられた人でありまして、胃潰瘍その他の諸病がなおって非常に功徳(おかげ)を得たので、あんまり有難いと言うので、神想観をせられたときに、「生長の家の神様の御姿を拝まして下さい」と熱心に祈られたのであります。

 そうすると、神想観中に、目をつぶっているけれども、霊眼に観世音菩薩の姿が顕れたわけであります。この門脇観次郎さんの所へ、大阪連合会用の生長の家のマークが行った時に、「おや、このマークはどこかで見た事あるな」と門脇さんは思い出したのです。

 「あゝ、四年ほど前、あの神想観している時に観世音菩薩が出て来られた。宝冠をかぶっておられたが、その宝冠の真ん中にこのマークがついておった」と言う事を思い出されたわけであります。

 現実世界では、それから四年ほど後に、山根八春先生の拵えられた七種のマークの図案の中からその一つを選んだのがこのマークであるのにですね、人間界では四年ほど後に出来ているのですが、霊界では、観世音菩薩が四年も前から宝冠にこのマークを附けておられた言う事がわかったのであります。


 現象界は霊的世界にある原型の影である。・・・

 それによって何がわかるかと申しますと、現象世界と言うものは、現象世界以前にあるものが、映って来て、現象化して顕れて来るものである。即ち現象世界はその前に“現象以前の世界“――霊界――または心の波の世界に在るものが、ある時間の経過をたどって、それが現実化し、現象世界に顕れて来るものであると言う事が分かるのであります。こう言うわけで生長の家の神様は仏教では観世音菩薩であると言う事が証明されているのであります。>>



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聖経『甘露の法雨』の由来

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.38―39)

<< 『甘露の法雨』は、生長の家発祥当時、しきりに霊感的に私の脳裡にひらめいて来たのを書きつづった自由詩の一つであった。その頃出てきた私の自由詩は全部『生命の実相』の“聖詩篇”に収められているが、別に『ひかりの語録』という携帯型の袖珍本(しゅうもんぼん)に、やはり霊感的短箴言の輯録である“智慧の言葉”と共に収められているのである。

これは私がまだ東京へ出ない前の数年間、ただ一般に“生長の家の歌”叉は“自由詩”として取り扱われていたのであるが、私が東京へ移転してから後、京都電燈社長の石川芳次郎氏の外舅(しゅうと)・工学博士・小木虎次郎氏が、その自由詩の中の一篇『甘露の法雨』を読誦すると、医界難治の奇病・難病が治癒することがあり、霊界の祖先の霊が救われると見えるような奇瑞が屢々あるので、それを単に”詩“として詩集の中にのみ収めておいては功徳を知らない人が多いから、ハッキリとこれは聖経であると明示して折り本型の経本として発行すれば、功徳を受ける人が多いであろうと、生長の家京都教化部で経本式折本として発行されたのであった。

折本の紫色の表紙には単に「聖経」という表題が貼り付けてあり、経文の本文を印刷した紙は、尾本輝三氏のお世話で福井県若狭ですいた純粋の和紙で作られたものであった。果たせるかな、それが経本になって頒布されると、陸続として功徳を受ける人々が殺到して、其れを携帯するだけで、交通事故に遭いながら微傷も負わなかった人が出て来たりしたのであった。京都の教化部では、これは京都で独占すべきものでないと、その出版権を本部に返還されたのであった。

 どうして『甘露の法雨』にこのような偉大な功徳が生ずるのであろうか。私は、それをただ霊感で詩作する時に、ふと感じてその詩の題を『甘露の法雨』としたに過ぎないのであって、別に『法華経』の観世音菩薩の普門の功徳を説いた“普門品”に連関して詩の題を『甘露の法雨』と題したのでもなかったし、観世音菩薩が教えの本尊として門脇観次郎氏の霊眼に見(あらわ)れるなどと言う事も全然予想もしなかった。

ところが私の著書や執筆の雑誌を読んで功徳を得た人に顕れる色々の霊顕や現象が次第に観世音菩薩が生長の家の本尊であり、その観世音菩薩が『法華経』の“普門品第二十五”にある通り「甘露の法雨を注ぎ給うて煩悩の炎を滅除し給う」のである事を証明するようになったのである。聖経『甘露の法雨』の功徳はそれをお説きになった観世音菩薩の妙智力と引き離して考えてはならないのである。>>



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<特集> 満天の 綺羅星 充満 生長の家(23)


谷口雅春尊師を偲びて


<各界識者からの追悼のことば>
(「聖使命」昭和60年8月1日号)


今日あるは先生のお蔭 ・ 山野 愛子  山野美容専門学校長

<<谷口雅春総裁昇天のお知らせをいただきました折りには、ありし日の総裁のお姿が胸に甦り、ただ感無量、思わず両手を合わせたことでした。
 御縁があって生長の家の有り難い『甘露の法雨』を拝聴するたびに心身共に清められる思いでございまして、当時十歳を頭に六人の男の子を飛田給の道場にお預けしたのでございます。
 美容師という忙しい仕事を持っていて、子供の教育も思うにまかせません。鉄は熱いうちに打てという言葉がありますが、大事な教育の時期を逸しては-------という親心からでございました。
 子供たちも大変喜んでくれまして、春休みを利用しての道場生活でしたが、楽しさの余り、三男などは始業式の日を忘れるくらいだったのをはっきりとおぼえております。三つ子の魂百までのたとえの通り、幼い胸に深く刻まれたみおしえは、一粒の種のように、子供たちの成長とともによき実を結び、立派な社会人、よき夫、よき父、親に孝行な息子となってくれました。生長の家のご薫陶の賜でございます。また私の今日あるも谷口総裁のみおしえの、感謝と愛と忍耐に支えられて、最善を尽くしてこそのものでございます。
 昇天されたとはいえ、谷口総裁は多くの信者たちの心のなかに生きつづけて、迷える人、悩める人たちの光となって導いてくださることと信じております。
 心よりご冥福を祈ります。>>
                                合掌








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