生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<再掲示シリーズ> 「偽(ニセ)生長の家・マサノブ教」VS「正統・生長の家」・・・ニセモノは「無の世界」へ追放されて自壊する・・・(24) 信徒必須の知識――大東亜戦争に関する“奇跡的事項” (6217)
日時:2015年02月07日 (土) 11時19分
名前:再掲載シリーズ選定委員会


「マサノブ教」では聴けない話

信徒必須の知識――大東亜戦争に関する“奇跡的事項”




大東亜戦争に関する聖経『甘露の法雨』の奇蹟


ハワイ日系二世部隊の奇蹟

神秘面より観たる『生長の家』四十年史(p.52−56)



<< ・・・しかしこのような奇蹟は個人に関する霊験の片鱗であって、もっと重大な奇蹟は終戦当時及びその後、日本国家の運命に及ぼした『甘露の法雨』の偉大なる事蹟である。

  私は終戦の翌々年八月北海道登別温泉の第一滝本舘本館の大広間で、終戦後の北海道講習の第一声を挙げた。

  ホテルの大広間は寿司詰めに坐ると五百人ばかり入れるのである。集まる人が激減している終戦直後ではこの位の講堂で間にあったのである。

  午前の講習を終わって昼食をしたためていると、係りの人が、「先生、アメリカ軍の将校の人が先生にお目にかかりたいと言って来ています」というのだった。・・・彼はハワイ生まれの日系第二世の将校であった。

 彼は私の顔を見ると、嬉しそうな表情をして、

 「先生、今度の戦争でヨーロッパ戦線で勝利を得た民族はどこの民族ですか知っていますか」と言った。

 「知らないよ。それは、何処の民族だろうね」と答えると、

 かれは意気軒昂(けんこう)というような身振りをしながら、「それは、日本民族ですよ」と言った。

 「それはどういう意味ですか」と私は思わず言った。するとそのアメリカ軍将校は大体次の様な事を話してくれた。―――


 ヒットラー・ドイツを制圧するために連合軍が組織されて多くの船団に各国の兵隊を乗せてヨーロッパ戦線に送られて行ったけれどもどこにも適当な上陸地点がないのであった。

 そこで、最初に上陸の地点として選ばれたのがイタリーの南端のシチリー島であった。ところがそこは天然の岩窟の陰になっているところに要塞が築かれていて、そこに砲塁や機関銃座が沢山据(す)えつけてあり、上陸用舟艇がある距離まで近づいて行くと、其処に、砲弾・機関銃弾が集中して、どの民族の部隊も全滅して上陸することが出来なかった。

 最後に選ばれて上陸を敢行したのが、ハワイの日本民族第二世の部隊であった。

 日本民族第二世の部隊が召集されることになると、当時、ハワイの生長の家白鳩会の会長をしておられた宮川和子さんは、英訳の『甘露の法雨』をたくさん印刷してそれに神想観して祈りを篭(こ)め、応召出陣する第二世の兵隊さんのポケットにそれを一部づつ入れてやった。 

 そこでそれらの日本民族第二世の兵士たちは“われ『甘露の法雨』と俱(とも)なり。不死身の軍隊なり”という自覚で難攻不落のシチリー島に弾丸雨注する中で勇敢に上陸を試みた。

 ところが、『甘露の法雨』を携帯しているために弾丸が不思議に中(あた)らない。中には『甘露の法雨』に明らかに機関銃弾が命中しながら、それを貫通することが出来ないで、そこで弾丸が止まってしまっていて、肉体は傷ついていない人も大分ある。

 英訳の『甘露の法雨』は日本文のそれのように硬いサックも表紙もなく、ただ白紙に、新聞の五号活字位の大きさで印刷されているので、極薄い紙片にすぎない。それを弾丸が貫通しなかったのだから奇蹟というほかはない。

 このような奇蹟があって、多勢の日本部隊がシチリー島に上陸することを得て橋頭堡(きょうとうほ)が築かれ、続々と連合軍が上陸することが出来、北上してイタリーのムッソリーニを仆(たお)し、さらに北上してヒットラー軍を制圧して速やかに連合軍が勝利を得ることが出来たのであった。

 常にこの日本民族第二世の部隊は、難処に至るほど勇気を鼓して先頭に立って奮戦し連合軍を有利に導いて偉大なる戦功を樹てたのであった。


 これ全く『甘露の法雨』のお蔭であるということであった。

  私は、その時にはその報告の事実だけをただ素直に受け取っただけであって、それがその後に及ぼす驚くべき影響については気がつかなかった。


 だいたい大東亜戦争は、真珠湾集結のアメリカ太平洋艦隊に対する日本海軍の先制空襲によって始まった。それゆえに、日本に対するアメリカ側の憤(いきどう)りは実に熾烈(しょくれつ)で、アメリカ領のハワイ生まれの日本人第二世は、“アメリカ人”として市民権を本来持っているのだけれども、風当たりは烈(はげ)しくて色々の差別的な待遇を受けたそうである。

 だから宗教でも、日本から往っている宗教の布教や集会は全然禁止せられた。仏教の僧侶は勿論のこと、キリスト教会ですら、日本から往っている宣教師のいる教会では集会は禁止せられた。

 生長の家も当然布教が禁止さるべきであったのである。

 ところが英訳された『甘露の法雨』を米軍の検閲官が読んでみて、

 「この宗教は、どこも悪いところはないではないか、布教しても宜しい」ということになって、生長の家のみハワイは勿論アメリカ本土に於いても布教が許可されることになったのである。

 ここに深謀遠慮の神さまの救済の摂理があったのである。

 もし生長の家の布教が許可されていなかったら、ハワイ白鳩会長の宮川和子さんは、英訳『甘露の法雨』を日本人第二世の兵隊に持たせることは出来なかったであろうし、日本人第二世の部隊は『甘露の法雨』に敵弾が当たりながら貫通する事が出来ず、傷つかずに、無事にシチリー島に上陸することも出来なかったであろうし、

 そうなればその後の戦線の状況も自然に変化していたに相違ないし、あんなに早くヨーロッパ戦線は片付かず、尚、数百万の白人兵士の犠牲が必要だったかも知れないし、世界情勢は現在とは非常に異なるものになっていただろうとも想像されるのである。

 
 ともかく、このシチリー島上陸作戦に演じた日本人部隊の功徳はアメリカ本土の中央政府は勿論、アメリカ国民全体に大きく報道せられ、この事績では日本人は戦勝功労者として広く称(たた)えられ、

 ハワイの日本人はアメリカに忠節であったそれゆえに、白人アメリカ人が尚、百万人以上も犠牲を払う必要があったのに、こんなに早く戦線が片づいたのは日本人のお蔭であると言い伝えられて、アメリカ全体の対日本人的好意が高まることになっていたのである。・・・
 ・・・

 恰度(ちょうど)その時、天皇陛下が皇室の全財産及び、歴代天皇から伝わるところの宮中の御物までもアメリカ軍に提供して国民を餓死させないように願われた。

 それに動かされたマッカーサー元帥はついに日本に食糧を送るように中央政府に要望してくれたのである。

 しかし、アメリカは民主国家であるから、国民の世論がものをいうので、もしあの時、真珠湾を忘れるな、日本人が飢え死にするのは自業自得ではないかと言うような世論であったら、いくらマ元帥の要望があっても、トルーマン大統領は、日本への食糧補給にサインしなかったであろう。

 ところが時のアメリカ人大多数の世論が、真珠湾への先制爆撃の旧怨(きゅうおん)をわすれて、「シチリー島でそんなに戦功をたてた民族の日本人が食糧に困っているならば、食糧を送ってやろうじゃないか」と言うことだったので、トルーマン大統領がガリオア資金という名称で日本に食糧を補給し、更に進んでエロア資金という名称で産業復興資金を貸与することにサインしてくれたのであった。

 これが今日、日本の経済発展の基礎になっているのであって・・・実に『甘露の法雨』がシチリー島で戦功を樹てた功徳であり、

 生長の家の神さまが、あらかじめこの事に対し用意しておられて、敵国の宗教でありながら、ハワイで生長の家のみ自由に布教することを許され、そのために応召の日本民族第二世部隊の兵員に、一冊づつ『甘露の法雨』を持たせることが出来た結果だといい得るのである。>>




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天皇陛下の真実を知る  


(終戦時の貴重な体験)


 私が終戦を迎えましたのは、北京郊外の豊台貨物廠でありました。

 貨物廠(かもつしょう)といっても、二里四方もある厖大(ぼうだい)な貨物廠であり、北支の軍需物資を賄う貨物廠で、終戦時まだ二年や三年は充分あると云われていたその在庫物資を、蒋介石軍へ引き渡すその受け渡し業務が軍属だけでは手が足りないので、兵隊の中から適材を五名選ばれたその中の一人に私も入っていました。

 業務と言っても、大体書類作りでありましたが、警備任務は一般の兵隊と変わりなく余分の任務を与えられた訳です。

 書類作りも大体順調に進み、翌年三月末に完了いたしました。三月三十一日に部隊長から、君達には本当に済まぬ。他の者が休んでいる時に余分の仕事をやってくれたお蔭で本日受け渡しが完了したので、そのお礼として、今日は炊事にご馳走を作ってもらっているから、酒やビールも飲み放題で歌っても踊ってもよろしい、無礼講で思う存分やってくれと部隊長のお許しが出たので軍属さんが三十名、兵隊が五名計三十五名が料理の並んでいる畳敷きの特別室に入って行きました。

 ところが、オカシイことに、席が十二、三余っています。軍属さんに「これは、誰が来るんですか?」と尋ねますと、「急に予定が変わって支那人が十二、三人加わるそうだ。」との事でした。

 しかし、それでは部隊長があんなに言ってくれたのに慰労会にも何にもならないんではないかと皆んなでブツブツ言っているところへ、入口のドアが開いて支那の将校が六名、下士官兵が七名、計十三名が入って来てその空いた席へ着いたのですが、折悪しく私が一番端っこに座っていましたので、一番先の大佐だったと思いますが一番偉い将校が、私の隣の席にすわるのです。

 “万事休す、これは困ったなあ”と私が思っている矢先にその将校が膝をかがめて座りながら日本語で、

大佐 「日本人は良いなあ--------日本人はいいなあ--------日本人は良いなあ--------日本人は本当に良いなあ-------- 」

 と、如何にも羨(うらや)ましそうに言いながら座ったので、私は、これが支那語で言われたのではチンプンカンプン分からなかったのですが、正確な日本語で「日本人は良いなあ------」と言ったものですから、私は“へんだなあ”と感じて遂い口が滑って

私 「只今、日本人はいいなあ----と仰いましたが、負けた日本人が何でそんなに良いんですか?」

大佐 「それは、日本は一つだもの」

私 「日本は一つだとは、何のことですか?」

大佐 「日本は天皇だもの」

私 「一寸待って下さい。日本にまだ天皇は居られるんですか?私が習った外国歴史の範囲では、西欧に於いてこんな大戦争に負けた国の帝王(元首)が、そのままの地位を維持していた事を聞いたことがない。処刑されるか自殺するか国民に暗殺されるか、よく行って島流し(亡命)となっているのですが、何故、日本の天皇はまだそのままの地位にいられるのですか?」

大佐 「それは、日本の天皇は“力”でなって居られないからだよ」

私 「その“力”とは、軍力、権力、金力、物の力でなって居られぬと言う事ですか?日本の天皇は愛とか徳とか仁徳でその地位に居られたという訳なんですか?」

大佐 「そうだ、今の天皇だけではない。大昔から日本の天皇は代々そうなっているのだ。しかし日本でも天皇が居られなかったら、その日から二つの世界(分断国家)になるよ。日本には天皇が居られるから二つにならずに済んでいるのだ。二つの世界くらい哀(あわ)れな世界はない。今の支那を見よ。日本との戦争は終わったが、政府軍(蒋介石)とパーロ軍(共産軍)と、二つに別れて戦争している。二つの世界になったらどんなに哀れな惨(みじ)めな事になるか日本人にはとても分からないだろう。」


 先程からこの将校と話をしているうちに、チョット私の頭に不審な点が浮かんで来ました。その大佐が日本語は標準語でペラペラだし、日本歴史も仲々詳しいし、顔を見ていれば日本人ソックリなので、この将校は支那人ではなく本当は日本人だな、これは一つブッケに聞いて見てやれと、


私 「失礼な事をお尋ね致しますが、あなたのお話をさっきから聞いていますと、日本語はペラペラだし、日本歴史にも詳しいし、お顔を拝見すれば日本人そっくりなので、若しや貴方は日本人と違いますか?」

大佐 「イヤー違う。自分はポンポコの支那人だよ。」

私 「それでは、どうしてそんなに日本語がうまいんですか?」

大佐 「それは、僕は十五年も日本に居たのだ。日本の士官学校も出ているし、日本の“中尉”の資格も貰っているのだ。長い間、日本に居たので特に日本歴史に興味を持って研究しているし、お前よりも詳しいかもしれんぞ。だから蒋介石も私をこんなに重く用いてくれているのだ。蒋介石も日本の士官学校を出ているし“中佐(?)”の資格もあるのだ。特に蒋介石は大の日本天皇贔屓(びいき)であって、実際は天皇政治を支那でやりたいと思っていられるのだが仲々難しいのだ。だが、日本は一つでいいなあ--------」

私 「それでは、二つの世界になったらどんな処が哀れな処なんですか?惨めな事と言われるそれを私に話して貰えないんでしょうか?」

大佐 「それをこれから話すから良く聞いてくれ。実は、私は今日で二週間、一睡もしていないんだ。二つの世界になったら、こんな事になるんだ。私だけではない。こんな人が何百何千何万と出来てくるんだ。」

私 「そんな馬鹿なことがあるもんですか。人間は一ヶ月断食しても死なないが、一週間一睡もさせなかったら死んでしまうと言われているのに、二週間なんてそれはウソですよ、何ぼうか眠って居られるんですよ。」

大佐 「馬鹿を言うな、ホントだよ。本当に二週間一睡もしてないんだ。私が抱かえている問題が今日中に解決出来なかったら、私は今晩自殺するか気が狂うか、二つに一つどっちかだ。こんなに悩んでいる支那人は何百何万と居るんだ。日本人には一寸判らないだろうなあ------ああ------日本人はいいなあ-------」

私 「それはまた、どう言う訳なんですか?」

大佐 「それは、二つの世界になったら、戒厳令(かいげんれい)が発令されるし、密告制と言うものが施かれるのだ。この密告制が曲者なんだ。もし自分に或る悩みがある時にこの悩みを密告制があるばっかりに、この悩みを誰にも打ち明けて相談することが出来ないのだ。親にも子供にも兄弟にも、自分の最愛の妻にさえ打ち明けて相談する事が出来ないのだ。勿論、友達や先輩でもダメ、一度その事を打ち明けたらスグその筋へ密告せられるのだ。相談を受けた方がその事を密告しなかったら、それが後からばれたら不密告罪と言う刑罰に処せられるんだ。だから、相談を受けたものは密告してもせなくても、相手か自分かどちらかが罰せられるので、うっかり相談が持ちかけられないんだ。人間と云うものは心に悩みのあるとき、その事件そのものは解決されなくても、悩みを打ち明ける人があって、その事を聞いてくれさえすれば、その人の悩みは半減するものなんだ。その反対に、悩みを打ち明ける人が居ないときは、その悩みが嵩(こう)じて一週間も二週間も眠れないような事になるんだ。こんな事は日本人には本当の事が判らんだろうなあ--------。

今日、実は自分たちがこんな日本人の慰労会の席へ出る予定は無かったんだが、部隊長に許可を貰って日本人だけの席へ出させて貰って日本人なら密告の問題も起きないから適当な日本人を見付けたら、自分の悩みを一応聴いて貰う心算でこの席へ出さして貰ったのでこの件は部隊長にも話してなく秘密なんだ。それでこの部屋へ入って、さっきから見ると、どうやらあんたが一番年長の様だし(私はその時40才、他の兵隊や軍属は十才以上、下だった)一番頼りになれる人の様に見受けられるから、気の毒でも私の悩みを聴いて貰えないか、そう云う訳だから是非よろしく頼む。」

私 「困ったなあ、そんな難問題を持ちかけられても私が貴方の良い相談相手になれれば宜しいが、一応あなたの悩みとはどんなものか聴く事に致しましょうか?」

 
大佐 「それでは聴いてくれますか。有難う、有難う。実は、私が日本の軍隊教育を受けており、日本の中尉の資格もあり、蒋介石軍の重職に居るというので、若し今パーロ軍(共産軍、今の中国軍)の方へ来てくれればパーロ軍の最高の地位にしてやると云っているのだ。(その時のパーロ軍の将校の中には、日本の軍隊教育を受けた者がいなかった)それで自分としてパーロへ行くべきか、蒋介石軍に残るべきか思案に暮れているのだ。密告制があるので支那人には肉親の者さえ、誰一人も相談する者が居ないので、今日は幸い日本人の貴方に会うことが出来たので相談するのです。良い判断をして下さい。」

私 「難問題を持ち掛けられましたなあ-----、それではお尋ね致しますが、今、支那は二つに分かれて内戦を起こしていますが、支那の将来は蒋介石が天下をとるのか、パーロ(共産)が天下を取るのか、予測はついているのですか?それから聴きましょう。どちらなんです?」

大佐 「それなんです。私の予測ではパーロが支那の天下を取るのは確実なんです。それで私も悩んで居るのです。」

私 「そんなにはっきり予測がついているんだったら、この問題は案ずる事はないではないですか。パーロへ行く事に決めたらそれが一番良いとおもいますが、」

大佐 「あんたは他人事の様に言いますが、そんな簡単に行くものですか。私がこの北京に接収官として来ていると云うても、家族の者も親戚の者も皆んな南京の近くに居り、人質ですよ。私がパーロへ走ったと知れたら家族の者も親戚の者も皆んなチョンです。(大佐は右の手で自分の首を打つマネをする)自分一人でパーロへ行くなら、今からでも連絡すれば直ぐ迎えの者が来るのです。自分一人で行く事は楽なんです。しかし、一人でパーロへ行って最高の役に就いても何の楽しみ幸福がありましょうか?」

私 「そんな事では、何にもなりませんなあ-----、家族の者を何人かでも連れて行くような事ぐらいは、貴方のような偉い人なら何とかうまい工夫を講じて行く事が出来るのではないのですか?」

大佐 「それが出来ないから困っているのです。第一、私のその計画を家族の誰にも知らせる事が出来ないのです。密告制がある為にです。だから貴方に頼んでいるのです。今日中に解決しなかったら、私は今晩自殺するか気が狂うかどちらかなんです。さっきの様に蒋介石が負けるに決まっているならパーロへ行けば良いと他人事の様に考えて貰っては困ります。もっと真剣に、自分の行き先を如何に決めるべきか、今晩死ぬか生きるかの瀬戸際に立っている私の身になって、もっともっと真剣になって考えて下さい。頼みます、頼みます。」


 もう、その時の将校の真剣さと言ったら、私の膝と膝を突き合わせて、私の膝の上に手を当てて、“頼む、頼む”と急かれては、私の解決策がヘタをしたらこの将校を今晩殺してしまう。エライ事になった。遂に私も、私の考えだけでは解決にならぬと初めて神様にお願いする気になった。


私 「それでは一寸待って下さい。私も真剣に考えます。私が若し貴方であったらこれをどうするか、私が貴方の身になったとして、此処をどうするか、今しばらく考えさして下さい。」

大佐 「そうだ、そうだ、それでなくては。どうか頼みますよ。」


 そう言って二人は、膝と膝を突き合わせたまま、瞑目沈思、時間は何分経ったか覚えません。真剣に神に祈りました。何処からか神の声と云うのでしょうか、私の心の中に決然とした指針が浮かび上がって来ました。私は、決然とした言葉で口を開きました。


私 「判りました。これから云いますよ。よく聴きなさい。私が貴方であったら、私はこう致します。日本には、古来より“二君に仕えず”という格言があります。如何に蒋介石が負けて、天下はパーロのものになりましょうとも、私の一生は蒋介石に捧げ、蒋介石が如何様になられましょうとも蒋介石と運命を共にする事に決めます。これが蒋介石への今までの御恩に報いる途でもあります。もし私が貴方であったら、こうハッキリ決めさして頂きます。そこから先は貴方のお考えにして下さい。」

 と、きっぱり申しますと、大佐はジイ-----とひととき瞑目沈思していましたが、大きな声で決然と、

大佐 「よーし、私もそうする!! 決めた!!決めた!! 有りがとう!! 有難う!!
ありがとう!! 有りがとう!! 有りがとう!!」


 眼の前の私を三拝九拝、声の続く限り、“ありがとう”と私を神様のように拝むんです。人から神様の様に拝まれたのは、私にはこれが生まれて初めての仕舞です。それが一段落して、また三拝九拝して、今度は、

大佐 「有りがとう、有りがとう。今晩はぐっすり眠れる、今晩はぐっすり眠れる。有りがとう、有りがとう。」

 と、また三拝九拝です。ココまでは良かったのですが、ハタと私は気が付きました。コレは大変な事になった。これは大事(おおごと)だ。これは大事(おおごと)だ。私は大佐の膝を叩いて、彼の耳に口をつけて、小声で、

私 「あんた、何んちゅう事、仕出かしたのです。あれ程に密告制、密告制と云うとったのに、貴方と私とのあの会話を列席の支那の将校、兵隊達が皆んな聞いているではありませんか?これをどうするんですか?

大佐 「ア――心配なし、心配なし。今日はこういう事になると思って、日本語の判る将校も兵隊も一人も連れて来ていないんだ。実は、日本語の判る将校が四、五人居たのだが、今日は連れて来なかったんだ。その心配無用だ。二人の話は彼らにはチンプンカンプンだ。」

 私は、これを聞いて一安心しましたが、待てよ、席には日本語の良く判る日本兵や軍属が三十数名もいるではないか、若しその中の一人でもこの事を支那人に話したらどうなるのですか?心配いらんのですか?と私が言いますと、「それも心配無用」、「それは、どうしてですか?」と言うと、

 「あんたらは、もう支那には用はないんだ。五日以内に北京を出発して日本に帰るんだ。日本に帰ったらこの話をシッカリ日本人にしてやれ。日本がどんなにスバラシイ国であるかという事を知ることだ。

 天皇陛下がどんなに貴い御存在であるかという事が判るだろうから、私が話した事を日本に帰ったら日本人の皆んなに話してやれ。

 二つの世界がどんなに哀れなか、密告制がどんなに酷(むご)い事、哀れな事であるかを話しにする事だ。

 日本も天皇が居られる間は、二つの世界になる事はない。密告制なんか出来ようがない。

 しかし、若し天皇が居なくなったら日本だって其の日から二つ(分断国家)になるよ。

 二つになったら、今の支那と同じだよ。哀れな惨めなものよ。

 日本人はもっと大昔からの歴史を調べねば駄目だよ。

 天皇制が、如何にスバラシイか、日本の宝であるだけではない。世界の秘宝だよ。

 これが判っている日本人が何人いるかなあ、

 あんただけでも天皇を大切にせねばいけんよ。と懇々と尊王道を私の魂にぶち込んでくれました。


私 「今の御言葉の中に、部隊全員五日以内に北京出発復員と云われましたが、それはホントですか?」

 それは、終戦後、何時帰国出来るのか将校に聞いても分からなかった事が、足元から鳥が立つと云うか、大佐の口から案外に耳に入ったもので半信半疑で質問した訳です。

大佐 「間違い無し。北京貨物廠の全物資は全部接収済だ。私方に皆貰ったんだ。あんたらの用事はもう何にも無くなっている。蒋介石は「恨みに報いるに、恩を以ってする」と日本兵は一人残らず帰国さすと宣言している。北京支廠の兵隊軍属の出発の日時に就いては私が命令を出すのだから絶対間違いなし」

 これを聞いて、一座の連中、兵隊も軍属も飛び上がって大喜び、支那の連中は御馳走にも手をつけず引き上げて帰りました。

 大佐さんと私とは“有りがとう、有りがとう”と、どちらも感謝一杯の手を固く固く握り合って、最後の別れを告げました。

 私達も慰労会はそこそこで、すぐに隊舎に飛んで帰り『五日以内に北京出発、全員帰国だ』の報に隊中涌き返り大歓声、何年先になる事やら大体帰国する事が出来るのか、それさえ判明していなかった矢先の事ゆえ、皆んな大喜び、

 班長連中も飛んで来て「野宗ホンマか?間違いないか?」と、半信半疑で問いかけます。

 ざっと簡単に今のイキサツを話して絶対間違いなしと云う事が判り、早速中隊中、復員準備。ホントに五日以内に北京出発、天津から佐世保上陸、三年振りに本土の土を踏み故郷(新市)に着いたのが四月十日でした。あの大佐さんが云うた通りでした。


 それから四十五年間、天皇陛下の御地位がどうなるのかと静かに観察しておりましたが、当座は、“天皇陛下”という人は稀で、共産党、社会党なんか、天チャン天チャンはまだ良い方で、天コウ天コウ、税金ドロボー、有りっ丈の悪口ばかりで天皇陛下の真価の発揚は仲々でしたが、

 年が経つに従って天皇の真価は発揚されまして、天皇国日本の実相は顕現し、遂に世界第二の経済大国にまで発展して来ました。

“この功績の第一番の方が天皇陛下である”とマッカーサー元帥が自分の回顧録にハッキリ書いているではありませんか。


 此のスバラシイ日本に生を享けた我々は、父母に感謝し、御先祖に感謝し、天皇陛下に感謝の誠を日々捧げる事にいたしましょう。これで私の体験談を終わります。 


平成二年十月二十日
                       
広島県芦品郡新市町大字新市七九一
                       
 野宗章三(八十三歳)




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護国の英霊はかく語りき


(霊界通信体験記)


 この霊界通信体験記は、広島県尾道市西土堂の木曽正人氏が記され遺されたものであります。氏はその後、天上界に移られたそうでありますが、氏の霊魂の許可を頂きまして、この貴重なご体験を皆さまにお伝え致したく存じます。


<< 昭和五十三年六月末頃より、私は地元の「三都新聞」編集長の小林嘉雄氏から、フィリッピン・レイテ島への戦没者遺骨拾集と慰霊を兼ねた「日比友好使節団」の団長を勤めてくれないかとの勧誘を再三うけていた。

 しかし、私自身、当該地に直接関係がないこと、また市議会議員としての重責等、多忙で承諾できなかったのだが、私の他に適任者がないと週に二、三回の強引なまでの勧めに、遂に渡比する決心がついたのだった。

 ところが私の出発直前になって熱心に説得してくれた当の小林氏が急に入院され、十月二十七日の早朝、氏の訃報を受けたのである。

 「木曽さんが団長を引き受けてくれてよかった、私の役目はおわった。」と彼は亡くなる前、細君に語られたとの事であった。私をフィリッピンに眠る英霊たちの慰霊に是非行かせたいとの一念に生きて下さったのであろう。

 小林嘉雄氏に心からなる哀悼の意を表するとともに、後で起きた大感動を想うとき、深く感謝の意を捧げるものである。



 顧みれば、私が満州の関東軍に従軍していた昭和十九年当初、フィリッピン防衛と現地応援のため、機械化部隊の隊長として着任するばかりになっていた二日前、急遽、内地の学校付転任を命ぜられ、突然の事とてことのほか残念でならなかったが、私の原隊である福山四十一連隊の一部を中心に編成された炭谷部隊は、レイテ島に進出し、悲涙の下に全滅したのである。

 嘗ての日、転任を命じられなかったならば、今の私はなかったであろうことを思うとき、運命の神の御業か、私に英霊供養等の事をせしむべく残され給うたか、感無量、叉、私をかく導き護り下さる産土の神と、吾が御先祖様に深く感謝の意を表せざるを得ないのである。



 運命のビリヤバ部落へ

 昭和五十三年十月十九日午後一時四十分、私たち一行はフィリッピンに向けて成田国際空港を出発した。龍宮住吉本宮落慶の直前であった。当初四十一名の団員はコレラ騒ぎ等で逐次減少し、終には十名となり、更にルソン島で八名になった。
            
 マニラ空港には七時着、更にセブ島を経て翌二十日レイテ島タクロバン空港に到着、当初予定した「日比平和の集い」には参加出来なかったが、マルコス大統領夫人宅のレセプションに出席し、翌二十一日朝より、ジープにて炭谷部隊及び他の部隊の戦跡慰霊に出発したのである。

 タクロバン市西方約四十キロのトンガ河、更に西南方二十キロの通称五一七高地、リモン峠激戦地跡に到る。此処で炭谷部隊は多くの戦死者を出し、且つ、弾薬、食糧の欠乏、マラリヤ等の病魔に冒され、ついに「天皇陛下万歳」を絶叫して全員壮烈な自決を遂げたという。 

 次々に遺骨の拾集と慰霊祭を行い、私たち一行は十時十五分、リモン峠から西方九十キロのビリヤバ部落に入った。ここは日本軍各部隊が大集結、激烈な戦闘の末に多数の部隊が全滅し、実に七千名にも及ぶ戦死者を出した運命の地である。

 山麓に位置するこの地には既に二基の慰霊碑、五十近い卒塔婆が立ち並び過去の慰霊の跡が偲ばれた。私たち一行も持参の品々を供え慟哭の祭典を挙行したのである。



 雲集する英霊たち

 雲一つない上天気、慰霊祭は、土肥政男「三都新聞」写真部長の般若心経の読誦に始まり、私の弔辞へと移った。その直後である。

 快晴の天空の彼方から“ドドド-----ン”という雷鳴が轟き渡り、一行を驚嘆させた。

 更に弔辞を終える頃、再び雷の大音響が轟いたのである。

 一同、度重なる現象の不可思議に驚き入るばかりであった。

 過去に二十七回も慰霊及び遺骨拾集に参加された土肥氏は「実に不思議だ。今まで一度もこんなことに出会ったことはない」とこの時の模様を『三都新聞』に記事にされている。

 引き続き、各自瞑目合掌の内に祈りを捧げていたそのとき、私は驚天動地の如き体験を得ることになるのである。 


 私は心の奥底で、祖国のために奮戦し武運つたなく護国の神と化された多くの英霊を呼び、感謝の誠を捧げるべく一心に聖経『甘露の法雨』を暗誦しながら精神統一していた。

 いつしか幽明の境を越えたのであろうか、暫くする内に何とも形容出来ぬ柔らかい、ほのかな光が私の全身に投げかけられているような雰囲気にふと眼を開けた。(肉眼をあけたか、心眼で観たものか、今もって不明だが)


 眺めると小高い山頂付近に、柔らかい黄金色に包まれた神か仏か観世音菩薩か、定かには分からない御方が、尽十方に燦々(さんさん)と霊光を投げかけておられる。

 その両側に何時の間にか入道雲のように(最初は本当に雲だと思った。)横に整然と兵隊姿の英霊が正に雲集して浮かんでいる。

 その数何千、何万とも知らず、皆ボロボロに破れた軍服に穴のあいた帽子と、見る影も無いほど無残なものでありながら、そのお顔だけは皆二十歳前後の若々しい喜びを満面にたたえて私の方を見ているのである。

 すると叉、遠方で“ドドド-------“という雷鳴(私には、英霊が口を揃えて歓声を挙げたかに聞こえた)と同時に、中央に居られる神々しいお方の口が動いたと思うや、私の耳元に柔らかい、まるで澄み切った金の鈴を振るような声が聞こえてきたのである。


 「よくお出で下さいました。お待ちいたして居りました」と。

 私は全身にピリピリと電流が流れるような身震いを感じた。信じられない事が眼前に展開されている。!

 そのお方は続けられた。――――
 
 「この日を長いことお待ちしておりました。今日まで多くの遺族の方々、立派なお寺の住職、政府派遣の方達が慰霊のために幾度となくお出で下さいました。それは嬉しいことであります。しかし、これまで誰一人として私たちとの話し合いの出来る方と会うことがありませんでした。誰かそのような方をと、数年前より想念を送り続けてまいりました。が、ついに本日こうして貴方に来ていただき話し合いが出来る事は誠に有難いことです。」

 私は身に余る感激に唯々合掌し、一心にこの言葉を聴いていた。


 (もっともこれは帰国後気付いたことではあるが、英霊との交流はフィリッピンへ出発する約二年ほど前より続けられていたのかも知れない。

 と言うのは、夜半の午前三時から三時半頃になると、私は必ず誰かに起こされていたのである。起きた時は全身に汗をかき、胸の方がびっしょり濡れていたのだ。

 最初の半年くらいは身体をふき、再度床についていたが、次第に朝六時頃まで眠ることが出来ない状態にまでなってくると、その辛(つら)さは筆舌につくし難いほどで、「生命の実相」を貪り読んだ事もあった。

 また聖経『甘露の法雨』を仏前で読誦し、一ヶ月ほどは水風呂に入り神想観をし、亀の子たわしで血の滲むほど摩擦もしたが全ては徒労だった。身体は四キロもやせ、気は焦るばかりだった。

 ところが慰霊祭の旅から帰ると不思議にもいつしかその症状がすっかり消え、ぐっすりと眠れるのである。)
 

 このビリヤバの地で、英霊の「数年前から霊念を送り続けた」と言はれる事と私の身体の現象とを思い合わせるとき不思議な感慨にとらわれるのである。



 祖国の再建を約す

 中央座のお方は、さらに続けられた。

 「私たちは、過去三十有余年前、祖国のため第一線に参じ、唯々一死奉公、残念ながら武運つたなく、この地に於いて戦死しましたが、今日に至るも、私たちは魂の安住の地を得ることが出来ませんでした。

 悲しみの中に、今尚戦い、且つさまよっている霊魂の戦友が沢山おられるのです。私たちは今も“此処”に生き続け、祖国日本を護らんと祈念し続けて来ました。何卒、一日も早く、私たちに安住の地を--------貴方を通じて多くの人にお伝え下さい」!! 

 そう語られると、周囲に雲集せる英霊が一斉に頭を下げられた。

 私も自然に深く礼拝したと思う。滂沱(ぼうだ)と流れる涙に胸つまり、恐らくは一切無の心境から、ふっと我に返り、自問自答していた私である。―――

 有史以来、初めての敗戦によって大きな痛手を受けた日本国民が、占領憲法、日教組教育、マスコミの扇動等で民族の誇る精神文化は喪失され、靖国神社への天皇陛下の公式参拝は言うに及ばず、その国家護持さえもままならぬ今日である。英霊の申されることは痛いほど心にしみる。

 しかし、急ぐべき憲法復元改正も靖国神社法案成立も、果たしてこの私一人が動いたとて出来る事であろうか、否、否、不可能だ--------。

 そう思うや、眼前の黄金色の霊光が急に暗くなり、中央座の御方の御姿は薄らぎ、同時に喜色満面だった英霊の顔が落ち窪んでそれは悲しい骸骨に一変したのである。

 私は驚嘆し、一心に懺悔し落涙していた。“私は間違っていました。祖国再建に全力を尽くします”と絶叫した。

 その瞬間、周囲は再び元の霊光燦然たる世界にもどり、神々しき御方の御言葉が再び聴こえるようになった。

 しかし、それからの内容は、生長の家の信徒の私にとり、誠に衝撃的なものであったのである。 



尊師は神であらせられる

「霊界では、これまで祖国の現状を見るにつけ、私たちの死が無駄であったとか、そうではないとか様々な意見があって混乱しておりましたが、この数年間に漸く平定され、今後は現象界が浄化されて来るでしょう。

 そのために世界は非常に危機的な様相を呈して来ます。(この内容も具体的に表現されたが本稿では割愛する)

 日本もその渦中に包含されるが、祖国の上空は私達、念の力で必ず護ります。」

 私は思わず反論した。「念の力で、その様な事が可能でしょうか?」

 間髪を入れずに厳しい叱責の声。「念の力がどんなに強いかは、貴方が一番良く識っているではありませんか。」

 心に飛び込んで来た響きに、私は素直に謝意を表した。「しかし、現象の日本国は何と言っても現象界の貴方たちの努力で護るより他に方法はない。私達も勿論応援はします。

 ところで今、長崎に素晴らしいものが完成しつつありますね。」

 「-------はい、鎮護国家出龍宮住吉本宮という住吉大神の御出御を仰ぐ御社が出来ています。」

 「私たちは以前から承知しております。誠に慶びに堪えません。その完成の日を待ちこがれていたのです。さて貴方は谷口雅春(呼びすてにされた)を識っていますね。」

 「はい、私達、生長の家の総裁先生であります。」


 「そうです。しかし、ご存知ですか、あの方は人間の姿をして居るが、実は住吉大神の化身でありますよ。」


 その強い響きの言葉に触れた時の私の驚きたるや、言語を絶したものであり、永年の信仰生活の中でこれほどの感動はなかった。

 嗚呼、尊師は神そのものであらせられる。

 「今後の日本国を護る、その中心になって活動するのは、実に谷口雅春導きになる生長の家の信徒の皆様意外にはありません。確かに自衛隊も必要ですが、まだまだ不十分です。国と国との戦いよりも内部の革命分子の蜂起を未然に防止することに起ち上がって下さるのが信徒の皆様なのです。

 しかし、何と言っても、現在の誌友が二百五十万や三百万では不十分です。少なくとも、一千万人の方々が信徒・誌友にならなければ-------この儘ではこの日本国は名のみ残り、真の日本国は永久に顕われないかも知れません。

 幸いに住吉大神の御顕斎をする御社が建立され、今後は此処が日本国の真の姿を顕す中心となるでしょう。且つ亦、同時に世界浄化の中心の起点となるでしょう。

 以上の事をよく御考慮下さいまして、お帰りになりましたら直ちに是非とも多くの方々にお伝え下さることをお願いします。」

 その言葉が終わるや眼前の霊光はすうっと消えていったのである。
           
 

天皇国・日本の実相顕現に向けて

 その直後、私はドキッと心臓が高鳴るような衝撃を受けて我に返った。誰かが私の肩を叩いたらしい。一気に現象界に目覚めたものの、暫くは自分が何処にいるのか混沌としている有様だった。

 霊的対話の時間は定かではない。遺族の方の申されるのもまちまちで、三十分と言う人、五十五分という人も居た。ただ一様に私が立って祈って居たのが、いつしか座して不動になった事を不思議に思っていたとのことである。

 あの時の英霊との対話は夢ではなかったと私は信じている。しかし、現象的にはどうしても納得がゆかず、あれこれ悩み乍ら、いつしか歳月が流れ、英霊達との約束もはたされないままであった。

 心中、申し訳なさで一杯の日々であったが、今や内外の情勢は、刻々緊迫の度を深めつつある。日本を護るため今、ここで起ち上がって尊師の御心を体し、日本国の実相顕現、鎮護国家、人類光明化運動の実を挙げる時は来たと思う。

 皆様のご批判を仰ぎ、賛意を表していただけるならば、急遽(きゅうきょ)この体験を知って頂きたい。そう念じつつ筆を執った次第である。


広島県尾道市西土堂町3−13 

木曽正人   >>
  



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<深き神界の御経綸>


無血終戦の偉勲者・田中静壹大将のこと


=本部講師 中嶋與一先生記=

(生長の家四拾年史 P.332−335)



<<昭和十八年十月二十九日、陸軍大将田中静壹氏夫人の操さんが生長の家本部へ訪ねてこられました。

 その日、谷口雅春先生は九州御巡錫(じゅんしゃく)中にて、私が本部道場の指導を受け持っておりました。

 操夫人が訪れた時には私はすでに道場へ出ていたので、受付氏が「道場へいらっしゃい」と言ったのですが、「待たせていただきます」と言われ、四畳半ほどの薄暗い部屋で約三時間待ったようであります。

 私が道場から下がって会ってみますと、その用件は「夫が病気で重態です。すでに諦(あきら)めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみがあるように思えるのです。可愛そうで見ていられないので、その心の苦しみを取り去って安心させてあの世へ送りたい」ということでありました。

 「病院はどちらですか」 

 「陸軍第一病院でございます」

 「軍人さんですか」

 と尋ねますと、夫人は名刺を出されました。

 見ると『陸軍大将 田中静壹』とあるのです。

 「はぁー、これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが私はお断りします。誰か他の講師を紹介しましょう。」と、椅子から立って部屋を出ようとしますと、夫人はあわてて、「なぜでございます。」と詰め寄ってこられました。「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。」と言いました。

 というのは、その時分、私は牛込の憲兵隊や名古屋の憲兵隊から呼び出されて、「おまえは“海行かば”の歌はいけんちゅうて講演しとるそうじゃな」と、さんざん油をしぼられ、その頃は身体に油気が少なくなっていた上にさらにしぼられたので意識が不明瞭になったほどでありました。

 そこで、「私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。とてもお会いする勇気がありません。」と言いますと、

 夫人は、「私の夫は大将でございますけれども至極やさしい人でございます。お友達から貴方様を紹介されましたので主人もお待ち致しているのでございますから、是非お願いいたします。」と懇願されるのです。

 「そのお友達というのは誰のことですか。」 

 「東条大将の奥さんです。」

 ここに至って私はいささか狐につままれたような気持になりました。

 「はぁ--、少しへんですねえ。私は東条夫人は新聞でお顔を知っているだけですが-----。」

 「奥さんもそう言っておられました。お会いしたことはないけれど、毎月この雑誌の文章を読んで知っているだけなのですが、きっといい指導をして下さると言って紹介して下さったのです。」

 その雑誌は『白鳩』でありました。夫人は「主人は貴方様を神様の次のようなお方と思って会いたがっております。」と言われ、その言葉にそそのかされて私は逢(あ)ってみようかという気になったのです。


 十月三十一日午後五時頃、病院を訪ねたのでありました。

 病室の入り口には「面会禁止」とあり、その下の机には山のように名刺がおいてありました。

 病室にはいると、将軍が寝台に長い体を横たえて、目も閉じ口も閉じております。その傍に腰をかけ、ちょっと挨拶の言葉をかけてみたけれども返答がありません。

 額に掌をあててみると相当に熱い。「お熱があるようですね」と言ってみたのですが相変らず、黙然としているのです。

 こうなると心持がわるくなって「さようなら」をするところでありますが「主人が待っている」という夫人の言葉を真にうけて腰をあげることができない。

 しばらく考え込んでおりますと、フト何気なくポケットに手が行って『甘露の法雨』を取り出したのであります。

 そこで、「これから生長の家の聖経『甘露の法雨』をよみますから、閣下はそのままの姿勢でお聴きください。」と宣言して読みはじめたのであります。

 二人の位置の関係上、私の右の掌は将軍の額に当り、聖経をくりひろげる左手は胸部に置いている恰好でありました。

 
  最後に「聖経終」と読み了えたとき、田中大将はカッと目をあけて、案外やさしい声で、

 「ありがたいお経ですね」と言ったのです。それから私は『甘露の法雨』の講義をやったのであります。

 田中大将はフィリッピンへ出征中、その年の三月十二日に発病し、三十九度を越す高熱がつづいているにもかかわらず原因が不明、マラリアに似ているが病菌が発見できず、ついに八月六日、飛行機にて東京の陸軍病院へ送還されたということでありました。

 将軍の語ったところによりますと、アメリカ駐在武官としてワシントンに在ったころ、マッカーサー氏(当時佐官)と親交があり、その友人を今では敵とすることになった、悪因縁でしょうね、と自嘲(じちょう)されるのでした。

 また田中大将は、こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない、同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない、といとも悩ましげに話されるのです。

 そこで私は、因縁というものにとらわれているには“迷い”です。迷いは無い、真理のみが実在である。

 人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。

 閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。

 “肉体は心の影”“われに使命あり”と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。

 私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌(つち)をもって大地を損ずることがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありなせん、と言い放ったのであります。

 すると将軍は一つ一つうなずいて聴いて、そして最後にニッコリして「有難うございました」と一言われたのであります。

 翌十一月一日、朝七時に田中大将夫人から電話が入りました。その要旨は、主人は昨夜グッスリ眠り、今朝は上機嫌に目を覚まし、これまで出しぶっていた尿が快調に出て大層心持がよろしい、また熱も三十七度に下がり、私としましては嬉しくて、たとえようもございません。これは奇蹟です、涙がこぼれて仕方がありません、というのです。

 その日、もう一度病院を訪ねると、将軍はちゃんと寝台に端座して私を待っておられました。

 そこで再び『甘露の法雨』の講義を致し、以後毎日講義をつづけたのであります。講義中は実に真面目に聴講せられ、その態度はさすがに立派でありました。 

 ある日、病院の下で一人の看護婦から呼びとめられました。その人は田中大将を看護している三人の看護婦の中の一人でした。

 「先生、毎日御苦労様です」と挨拶されてから彼女が私に語ったことによると、長い間閣下は一言もお言葉がなく、何をしてさしあげてもあの大きな目でジロッと御覧になるばかりでした。

 それが先生が来られてからというもの、ガラリと態度が変わり、検温が終りますと「有難う。ごくろうだね」と笑顔をむけられるようになったというのです。

 今までは病室へ行くのを三人で譲り合って、誰も行きたがらなかったのが、この頃では皆で行き、将軍をまじえて大声で笑い合うようになり、こんな嬉しいことはありません、というわけです。

 こうして田中大将自身は日ましに恢復し、また操夫人は各方面へ『生命の實相』を配ったのであります。

 退院した田中大将は、やがて東部軍管区の司令官として多忙な軍務にいそしむようになったのです。


昭和二十年八月十五日、終戦の御聖断が下ってからもなお戦争続行を主張する青年将校たちの反乱が起こりました。その反乱をめぐって重要な役割をし、後に監禁された私の以前からの知人から、次のような驚くべきことを聞いたのであります。

 
 その日、正午から陛下の御放送が行なわれるという直前、反乱軍の幹部将校七名によって、今上の御命を頂戴し幼い皇太子を擁立し戦争を続行する、との密議が行なわれたといいます。

 かかる激越な行動に移らんとした青年将校たちを説得し、とり静めたのが田中静壹大将であったことは、総裁先生(註・開祖・谷口雅春先生)のお話によって、つとに知られるところであります。

 かくて陛下の歴史的な放送により、事なく終戦を迎えたのであります。


 想うに、今上の御命をお救い申しあげるについて田中静壹氏の偉勲(いくん)は無上であると申しても過言ではないと思います。

 その田中大将は、すでに昭和十八年に病にて絶えるはずであったと思われるのが『甘露の法雨』によって救われたのでありますから、田中静壹大将を通じて住吉大神の御使命が具現せられたということであります。

 陛下には田中大将の働きに対し、八月十五日午後五時十五分、蓮沼侍従武官長侍立の上拝謁をたまわり、

「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」

 との優渥(ゆうあく)なるお言葉があったと承っております。しかして八月二十四日、一切の使命を完うして田中大将は極楽浄土へ移籍せられたのでありました。>>




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< 聖経『甘露の法雨』は日本民族分断の悲劇を防いだ >


 昭和二十年八月九日と十四日の御前会議で、ポツダム宣言を受諾して大東亜戦争を終結するとの昭和天皇陛下御自身の御発意による決定が下され、終戦の御詔勅が翌八月十五日正午にNHKラジオで放送されることになり、その録音が完了されました。

 これを知った近衛師団の中堅幹部将校たちが本土決戦による徹底抗戦を主張し、これを阻止しようとした森師団長を射殺し、軍司令官のニセの戦争継続命令を出そうとしたのであります。

 これを伝え聞いた東部軍管区司令官・田中静壹大将は『甘露の法雨』をもって副官を従えて反乱現場へ駆けつけ、右手にその『甘露の法雨』を打ち振りながら熱情を篭めて天皇陛下の御心を諄々(じゅんじゅん)と反乱将校たちに諭(さと)されたのであります。

 不思議にも、この時、田中静壹大将が右手で打ち振っている“紫色のサック入り大型の聖経『甘露の法雨』”が反乱軍将校たちには、“紫色の絥紗(ふくさ)に包んだ天皇陛下の御諚(ごじょう)”に見えたのであります。

 かくして反乱軍は鎮圧されたのであります。そして無事に戦争は終結したのでありますが、反乱が実行され戦争が継続されていたならば、その後の日本はドイツと同様、東西に分割占領され、日本民族は分断の悲劇を招く事になったでありましょう。

 この民族的悲劇を間一髪のところで食い止めたのは田中静壹大将の打ち振られた『甘露の法雨』であります。開祖・谷口雅春先生は「生長の家四十年史」P.59−60に於いて次のように書かれておられます。――


<< ・・・ 反乱軍の戦争継続の考えを変更せしめたものは、全くこの奇蹟であったのである。田中静壹大将の右手に握っているものは、紫色ではあるけれども、紫色のサックに入った紫色の表紙を持つ大型の聖経『甘露の法雨』であったのである。

 それを反乱軍の中の唯一人が、天皇陛下の御諚(ごじょう)と見あやまったのであれば、それは唯の錯覚だと言う事が出来るかも知れないが、田中静壹大将を取り巻いて、「戦争継続に反対なら射つ」と身構えして覘(ねら)っている多勢の将校全部に、その『甘露の法雨』が、紫色の絥紗に包んだ陛下の御諚と見えたのである。

 これは明らかに、住吉大神が日本滅亡の危機を救わんが為に『甘露の法雨』を媒介として、奇蹟を演じられたのだと解釈するほかはないのである。

 もしあの時点で日本が終戦の終結に同意いていなかったならば、ソ連は八月十五日の三日後にはエトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンの諸島にまで侵入して来ていたし、(これをソ連はまだ返還しようとしない)日本軍は、当時まだ日ソ中立条約が有効中であるので、ソ連軍は決してその条約を破って攻撃して来るとは予想もせず、従ってソ連国境および北海道の兵員は極々手薄にして、南方に全兵力を投じていたものだから、ソ連が計画的に正規軍を以って侵入してきたら、ひとたまりも無いのである。

 もしあの時、近衛師団の反乱を鎮定(ちんてい)できずに戦争継続状態になっていたならば、瞬(またた)く間に北海道、東北六県、関東、信越諸県はソ連軍の席巻するところとなり、東京は東部半分がソ連の駐屯、西部半分がアメリカ軍の駐屯となり、日本は、恰もドイツが東ドイツ、西ドイツと分断され、ソ連圏内の東ドイツが未だにソ連に搾取誅求されて、経済的には常に貧しく、思想の自由すら失った警察国家であるように、ソ連圏の東日本はドンナひどい目に会わされていたかも知れないのである。

 これを救い給うたのは、実にあの時点に於ける天皇陛下の戦争終結の大英断の賜であるが、それにしても近衛師団が反乱を起こして、全日本の師団をリードして抗戦を続けていたら大変な事であったのに、

 その反乱を中止せしめた、住吉大神(観世音菩薩)の降ろしたまえる聖経『『甘露の法雨』が奇蹟的に反乱将校を鎮圧せしめる功徳を演じてくれたお蔭である。

 住吉大神が何のために、万教帰一を説きながら、特殊の生長の家という姿で、今から四十年前に出現しなければならなかったか――それはこうして此のような時点に於いて日本国家を鎮護救拯(きゅうじょう)せられんが為であったのである。>>




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<特集> 満天の 綺羅星 充満 生長の家(24)


谷口雅春尊師を偲びて


<各界識者からの追悼のことば>
(「聖使命」昭和60年8月1日号)


谷口雅春先生の御霊に ・ 小野 昇  元読売新聞宮内記者


<<永遠(とことわ)の 不滅の真理 残されて
                 雅春先生 かみさりにけり

お訣(わか)れの 挨拶(あいさつ)は いせし人はみな
                宗派を超えて みたま送らん 

雅春師の 碧巌録の 終講の辞
               なみだぬぐいつ 読み返しけり

次の世の 再会約せし 雅春師の 
          黒枠の写真(うつしえ) おろがみにけり

未来世で 待つと のたもう   
         雅春師の、言の葉に 死の恐れ薄らぐ

死後の世に 夢を与えたまいつる尊師を
               如来と仰ぎ慕うも

香をたき鈴(りん)を鳴らして修證義を 
             尊師しのびつ 声たてて読む

雅春師の 追悼号の聖使命
          子への形見に 加え奉(まつ)りぬ

大君を たたえし本に 雅春師と
           ともに書かきたる 幸わすらえず

大君に捧げしごとく 尊師にも
               敬慕の書 あみ奉らばや

                         合掌









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