生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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サッと飛びついたが、実は片手落ちの失敗を、又してしまったマサノブ君! (6264)
日時:2015年02月14日 (土) 00時22分
名前: 公平なる観察者

https://www.facebook.com/Seichonoie.Sosai
2月10日「著名人? 総裁フェースブック」

<< ローマ教皇曰く−−「被造物を大切に思わない人は、神の仕事を大切にしない人だ」。キリスト教も確実に変化しつつあります。>>


昨日、ある本流信徒の方から、マサノブ君がその一部を引用した上記のローマ教皇の演説中の言葉の出所を知らせて頂きました。その原文は次のような内容であります。



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http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0028.htm
  教皇フランシスコの11回目の一般謁見演説


6月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの11回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、世界環境デーにあたって、「被造物を耕し、守ること」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。
世界環境デーは、1972年6月5日からスウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議を記念して、1972年12月15日に国連総会で制定されました。2013年の世界環境デーのテーマは「THINK EAT SAVE」(考えて食べ節約し、食料廃棄を減らそう)です。
―――
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。
 今日は環境問題について考えてみたいと思います。わたしはすでにさまざまな機会にこの問題を考えてきました。これは今日が国連の定めた世界環境デーであることからも意味深いことに思われます。今年の世界環境デーは、浪費と食料廃棄をやめなければならないことを強く呼びかけています。
 環境と被造物について語るとき、わたしの思いは聖書の最初の頁、すなわち創世記に向かいます。そこではこういわれています。神は男と女を地の上に置きました。地を耕し、守らせるためです(創世記2・15参照)。ここでわたしの頭に問いが浮かびます。地を耕し、守るとはどういう意味でしょうか。わたしたちは本当に被造物を耕し、守っているでしょうか。それとも、それを搾取し、ないがしろにしているでしょうか。「耕す」ということばは、収穫を得てそれを分かち合うために、農夫が自分の畑の世話をすることを思い起こさせます。農夫はどれほどの注意と情熱と献身を傾けることでしょうか。被造物を耕し、守りなさいという神の命令は、歴史の最初に与えられただけでなく、わたしたち皆に与えられます。それは神の計画の一部です。それは責任をもって世を成長させ、世を園に造り変えることを意味します。園とは、すべての人が住める場所です。ベネディクト十六世は、何度も次のことを思い起こさせてくださいました。すなわち、創造主である神からゆだねられたこの務めは、被造物のリズムと論理を把握することを要求します。しかしわたしたちはしばしば、支配し、所有し、操作し、搾取しようとする傲慢に導かれています。わたしたちは被造物を「守る」ことも、尊重することも、大切にすべき無償のたまものとして考えることもありません。わたしたちは被造物に驚き、観想のまなざしを注ぎ、耳を傾ける態度を失っています。そのためわたしたちは、ベネディクト十六世が「神と人間との愛の歴史のリズム」と呼んだものを被造物のうちに読み取ることができなくなっています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは、わたしたちが水平的にものごとを考え、生きているからです。神から遠ざかり、神のしるしを読み取れないからです。
 しかし、「耕し、守ること」は、わたしたちと環境の関係、すなわち人間と被造物の関係にかかわるだけではありません。それは、人間関係にもかかわります。歴代の教皇は「人間のための環境保護(ヒューマン・エコロジー)」について語って来ました。「人間のための環境保護(ヒューマン・エコロジー)」は「自然環境保護」と密接に結ばれています。わたしたちは危機の時代に生きています。わたしたちはこの危機を自然環境のうちに見いだすととともに、とりわけ人間のうちに見いだします。人間の人格は危険にさらされています。確かに現代において人間の人格は危険にさらされています。だから人間のための環境保護が緊急に必要とされるのです。この危険は重篤です。なぜなら、問題の原因が表面的ではなく、深刻だからです。それは経済だけでなく、倫理と人間観の問題だからです。教会はこのことを何度も強調してきました。すると多くの人はいいます。それは正しいし、本当だ。・・・・しかし、制度はこれまでどおり継続する。経済と倫理を欠いた金融のダイナミズムが支配するからだ。現代の支配者は人間ではなく、通貨なのだ。富が命令するのだ。しかし、わたしたちの父である神は、通貨ではなくわたしたち人間に、地を耕す務めを与えました。これはわたしたちの務めです。しかし、人間は利潤と消費という偶像の犠牲とされています。すなわち「廃棄の文化」です。コンピューターが壊れたら一大事です。しかし、多くの人々の貧困や困窮や悲惨な状態は日常茶飯事となります。たとえば、ある冬の夜、ヴィア・オッタヴィアーノの近くで一人の人が死んでも、ニュースにはなりません。世界の多くの地域で子どもたちが食べ物にこと欠いていても、ニュースにはなりません。それは日常的なこととみなされます。決してそうであってはなりません。けれども、これらのことは日常的なこととして扱われるのです。幾人かのホームレスの人が路上で凍死しても、ニュースにはならないのです。これに対して、ある都市の株式市場で10ポイントの下落があれば、一大事です。一人の人の死はニュースになりませんが、株式市場の10ポイントの下落は一大事なのです。このようにして人間はあたかもごみのように捨てられるのです。
 この「廃棄の文化」は普通の考え方となり、すべての人に悪影響を及ぼしつつあります。もはや人間のいのちも、人格も、尊重し、保護すべき第一の価値とは考えられません。とくにその人が貧しかったり、障害をもっている場合です。まだ役に立たない場合や――出生前の子どものように――、もはやはや役に立たない場合も同じです――高齢者のように――。この廃棄の文化は、浪費や食料廃棄に対してもわたしたちを無感覚にします。これはいっそう非難すべきことです。残念ながら世界のあらゆる地域で、多くの人や家族が飢餓と栄養不足で苦しんでいるからです。かつてわたしたちの祖父母は、余った食べ物を決して捨てないようきつく注意したものです。わたしたちは消費主義によって、ぜいたくと日常的な食料の浪費に慣れてしまっています。時として食料をふさわしいしかたで大切に考えないこともあります。それは純粋な経済的基準外のことだからです。しかし、食料を捨てるなら、貧しい人、飢えている人の食卓から奪うことになることをよく心に留めるべきです。皆様にお願いします。食料の廃棄と浪費の問題をよく考察してください。この問題に真剣に取り組むことによって、困窮した人との連帯と分かち合いの手段となるような方法を見いだすためです。
 数日前、キリストの聖体の祭日に、パンの増加の記事が朗読されました。イエスは五つのパンと二匹の魚で群衆を満腹させました。記事の結びのことばは重要です。「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(ルカ9・17)。イエスは弟子たちに、何も失わないように、何も捨てないように求めるのです。だから十二籠あったということです。なぜ十二なのでしょうか。これは何を意味するのでしょうか。十二はイスラエルの部族の数です。それはすべての民を象徴的に表します。このことはわたしたちに次のことを示します。食料を公平に、連帯性をもって分け合うなら、だれも必要なものにこと欠きません。そして、あらゆる共同体は、困窮した人の必要を満たすことができます。人間のための環境保護と自然環境保護はともに歩むのです。
 それゆえわたしは、すべての人が、被造物を尊重し、守るという務めを真剣に受け止めてくださるよう望みます。すべての人に気を配り、廃棄と浪費の文化に対抗し、連帯と出会いの文化を推進してください。ご清聴ありがとうございます。
(2013.6.6)



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<講評>


@ 雪と寒さに閉ざされて、パソコン相手に時間を過ごしていた大閑のマサノブ君は、一昨年6月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、行われた教皇フランシスコの11回目の一般謁見の“環境問題”に関するところが目に止まったらしく、得たりとばかりに2月10日の「著名人???総裁フェースブック」に引用し取り上げたのでありますが、その一般謁見の全文を読んで見ますと、彼は、又もやボロをボロボロと出してしまっているのであります。


A 確かに、ローマ法王は、環境問題解決の為には、「浪費と食料廃棄をやめなければならない」と述べています。この言葉は何も目新しいものではありませんが、何ごとも自己の金銭的利益中心で動いている今日のグローバル金融資本の価値観によって、食糧のみならず地球上の資源が浪費と廃棄される割合が益々ヒドクなっているのであります。現代社会の悪弊を正すための方策は何といっても、幼少時からの、物を大切に取扱うことや、拝んで使用する道徳教育や宗教的情操教育が大切で、この点に関しての日本の戦前の教育においては家庭や学校において重く教えられていたのであります。しかし、欧米の白色民族の価値観である植民地経営とその後の国際金融資本のグローバリズム志向によって、全人類の価値観が西欧民族価値観である唯物的価値観一色に塗り替えられ、今日では物質的生活レベルの向上と金儲け(資産蓄積)が最重要なものとして追求され、この価値観の結果として資源・食糧の浪費と廃棄という問題が限界点を超えて大きくなって来たのであります。


B つまり、今日の環境問題の根因は、西欧白色民族の唯物的価値観の反映(三界唯心所現)でありますから、環境問題解決のためには、「三界唯心所現」の真理を人類が正しく理解し、西欧白色民族の唯物的価値観から、「唯神實相」価値観への「観」の転換を為さなければならないのであります。この様な「観」の転換教育が家庭教育や学校教育の中心とならねばならないのであります。「観」の転換教育をなさず、唯物価値観のままで放置し、“自然との共生”や“浪費と食料廃棄をやめなければならない”といくら叫んでも環境問題の根本的解決策とはならないのであります。このことを声高く提起する役目が宗教界にはあるのであります。それも、ぼやけた発言ではなく、明確な単刀直入な言葉の発言でなされなければ意味はありません。キーワードと成らねばならぬコトバは、「観の転換」であり、「家庭教育」であり「学校教育」という言葉であります。


C この「観」という点から見るならば、上記のローマ法王の演説文章は、「生長の家」の『御教え』から見ればやはり隔たりがあるように感じられのであります。法王は聖書の「創世記」について述べていますが、注目すべきは「創世記」第二章にしたがって色々と述べています。その最大特徴は、人間や自然界のもの全てを神によって創られた“被造物”という見方であります。此処が「生長の家」の『御教え』と根本的に違っていると思うのです。開祖・谷口雅春先生は「唯神實相哲学」という鍵を以って「創世記」を解釈されました。そして、神御自身の展開である實相世界に於いては、人間とは神の100%の自己実現、つまり神そのものであるということであって、これが人間神の子という「観」であります。そして、人間以外の自然界のもの一切は、神の完全円満な属性の部分的自己実現であります。日本の古神道の「天地一切のものは神の生命の顕現」と観るのもこのことであります。


D キリスト教に於いては、「創世記」第一章を重視せず、第二章を重視しているように思えます。第二章は、「迷い」による人間観が書かれている。第一章の神の100%の自己実現である人間が、「迷い」によって自己自身を“神性隠蔽”して、それが人間の本性だと観ている。ここから「原罪」という解釈がうまれ、キリストは「神の子」ではあるが、一般人は「罪の子」であるという解釈が生まれたのだと思われるのであります。完全に第一章の「人間は神の最高の自己実現である」という最も重要な人間観が捨てられているのであります。だから、「被造物」という言葉は「唯神實相哲学」から観れば好ましい言葉ではないと考えられるのであります。換言すれば、神・一元論から神と被造物という二元論への「迷い」による転落といえます。


E さらに言えば、上記法王の演説の中に於いても「三界唯心所現の哲理」がハッキリとした言葉で明確に説かれてはいないのであります。この哲理がそれらしきことばで語っているようには感じられるようですが、聞き手の心に単刀直入に貫き来たっては来ないのであります。<被造物のリズムと論理を把握することを要求します>という表現も抽象すぎて心が動かされないのです。環境問題を語る場合には、「正しい人間観」や「神性隠蔽」や「三界唯心所現の理」という面から説かれなければならないのであると考えられます。それと「創世記」を語るならば、先ず「第一章」からであり、その次に「第二章」でなければなりません。このように考えるとき、開祖・谷口雅春先生の「唯神實相」のお悟りに基ずく『御教え』が如何に素晴らしいものであるか、この「唯神實相観」と「三界唯心所現の理」と「“唯神實相哲学”を鍵としての諸宗教の解釈(万教帰一)」が今後とも全人類にとって最も必要なものであるかという事をわれわれ信徒は改めて認識しなければと思うのであります。


F マサノブ君は、この法王の演説を大変評価しているところを見ると、彼は“被造物”観であり、したがって、彼の人間観が「罪の子」観であり、環境問題を「唯心所現の理」から見ないで人間の本質は「人間至上主義」で“どうしようもない存在”あると観てしまっているのであります。マサノブ君は「神性隠蔽」に関してはいつも避けているのであります。


G 上記法王の演説の中ほどから後半部分も重要でありますのに、マサノブ君は引用する事を自ら避けたのであります。マサノブ君が意識して引用を避けた部分とは、<人間関係の危機――人間関係にも見られるようになった「人間関係の廃棄の文化」>という部分であります。マサノブ君がこの<人間関係を蝕む廃棄の文化>――ローマ法王は、これも重要な環境破壊問題だといっているのでありますが、――に何ゆえ言及しないのかといえば、冷血な生来の性格のマサノブ君こそ「人間関係の廃棄の文化」を率先垂範している第一人者であるからであります。このことは言わずもがなの、義兄実弟の方々の追放や実母・恵美子先生の軟禁同様の処置という負い目がマサノブ君にはあるからであります。このことは彼・マサノブ君にとっては絶対に抗弁できない彼のアキレス腱だからであります。だからローマ法王が<すべての人に気を配り、廃棄と浪費の文化に対抗し、連帯と出会いの文化を推進してください>といわれてもマサノブ君はこのことを実行実践、率先垂範が出来ないのであります。これこそがマサノブ君の傲慢な専売特許「言行不一致」の最たるものであります。だから、ローマ法王の演説といえども、彼・マサノブ君は、都合のよいところだけを取り上げ、自分に不利と思われる点については取り上げないのであります。宗教家としては最低といわなければならないのであります。マサノブ君は明らかに偽善宗教家と言わなければなりません。乱暴に言うならば、宗教家の風上にも置けない最低の輩ということになるでありしょう。


H さらに述べるならば、法王の<食料を公平に、連帯性をもって分け合うなら、だれも必要なものにこと欠きません。そして、あらゆる共同体は、困窮した人の必要を満たすことができます。人間のための環境保護と自然環境保護はともに歩むのです>という部分も、人間神の子の意識を欠いた唯物的肉体中心の人間観(被造物的人間観)をそのままにして置いて、平等分配政策を進めることは大きな問題があるのであります。この形の平等分配は、まず「個生命のタマシイとしての進化向上」を阻害します。全く「三界唯心所現の理」を無視し、タマシイとしての人間の退歩に導くからであります。そして、出来るだけ楽をして物質的な豊かな生活をしたいという神性隠蔽された欲望をのみ育て、それに応えていく共同体(国家)を財政的に破綻させてしまうのであります。国民の4人に1人は楽な仕事の公務員と云った社会、楽をして豊かな物質的生活を求める過剰な権利意識 を助長し、過剰な或いは不正な社会保障を取得せしめる層を増やします。この最適の例は現在のギリシャ国家と国民に見る事が出来るのであります。だから、根本的には、やはり「人間観」の転換、「三界唯心所現の理」(三世にわたる原因結果の法則の作用)、「神性隠蔽からの解放」と云った根本的必須教育の実施を国家の教育政策の柱として取り上げさせることが宗教家の為すべきことであります。宗教の存在意義と存在目的でもあります。


I 以上のようなところまで掘り下げていかねばならぬのに、只単に環境問題対策としての「罪の子という被造物による浪費と廃棄の文化」の側面からのみ、そしてまた、アキレス腱としての「人間関係の廃棄の文化」を避けて、片手落ちの状態で法王の演説を引用し、いつもの通り「資源や食糧の環境問題」へと結びつける投稿文を書いたことは、又してもマサノブ君が自称・法燈継承者としてのボロをボロボロと出してしまう結果となってしまったのであります。自己の思慮の浅さに気づかずに、ローマ法王の演説で「キリスト教も環境問題を本気で取り上げ始めた」と有頂天になっただけのことに過ぎなかったのでした。








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