生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第二十五話> (462) |
- 日時:2013年03月15日 (金) 13時23分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第二十五話(通算第351話)
西田哲学との比較に於ける人間論 <その七>
『人間死んでも死なぬ』P.345−348
<<神は、斯くの如く「肉体の我」を否定し、自覚の上で我を置き換えてしまった後は人間によって容易(たやす)く摑まるべきものなのである。
否、斯く「我」を置き換えてしまう限り、神が人間のうちに生き、人間が神の内に生きていて寸分も隙間のないものである。
神と人間との乖離(かいり)は人間を土の塵で造りて、これに生気(いのちのいき)を嘘入(ふきい)れたと観ずる人間の二元観から来るのである。(創世記第二章)
それが西田哲学であるとして瀧澤克己氏の説明せるが如き、「土の塵」なる人間と同時に「神の子」なる人間との非連続と云うような“ややこしい考え方”は、この二元的人間観の矛盾をなんとかして一元化した考え方に置き直したいところの、一元化に対する人間の先天的の要請の発露であると観られる。
其処に実在即現象・現象即実在、土の塵即神の生命と云うような、相反するものの同自性を強いても主張せんとする努力があり、「我の置き換え」以前の<肉なる私>によって摑まれない実在が、摑まれると主張しなければ落ち着けないために、「摑まれないものが摑まれる」と難解な言い方を使わねばならないのは、「摑まれない」のは旧我によって摑まれないのであり、「摑まれる」と直観されるものは「我の置換(おきかえ)」後の我――<新我>によって“のみ”摑まれるのである。
「人新たに生まれずば神の国をみること能わず」とヨハネ伝第三章にあるが如く、<新我>即ち物質ならざる「神の我」――<我に宿る神>のみが神を摑むのである。
西田哲学では病気は治らないそうである。
尤も哲学は病気を治すために存在するものではないから西田哲学で病気がなおらないにしても、生命の實相哲学によって病気が治るにしても、それによってその哲学の価値を云為(うんい)すべきではないかも知れない。
併し、一つの哲学によって病気が治らず、他の哲学によって病気が治ると云う事実について何故然るかの理由を探究して見ることは、それらの哲学の性質を一層明瞭にし、それらの哲学を明瞭に理会する助けとなるに違いはないのである。
西田哲学に於いて病気が治らないのは、(その他の哲学に於いても同様の場合も多いが)物質なる我(土の塵なる我)を<有る>ものとし、それを他の<有るもの>「神の生気(いのちのいき)」と平行的又は非連続的存在と認めて、その非連続的なものを一つに連続せしめようとして努力を重ねているからである。
例えば茲に“病める肉体”が現れているとすれば、その“病める肉体”を、神によって造られたる否定すべからざる存在であると観ずる。それは肉体であるが故に、消耗(しょうこう)し、病み、憔悴(しょうすい)し、産みの苦しみを味わい、苦しみて食を得なければならない。斯くの如く神は人間を造ったのであり、斯くあるべきよりほかにありようのないのが人間なのである。
斯くの如きが人間の神によって掟(おき)てられたる運命である。神と云うが如き全能者によって掟てられたる人間の運命はただひたすら受けるほかに道はないのであるから、此れ等のことは逃れるべき道はない。人間は苦しむほか仕方なく、病むほかに仕方がない――斯くの如き不完全なるところの我をそのまま肯定するほか道がないのである。
かく観ずるとき病を否定する何の努力もあり得ない。西田哲学では病のなおらないのは当然である。
而も、不完全なる此の人間の物的半面を、そればかりをそのまま受け忍ぶことの出来ない人間は、不完全でありながらもそれの奥にある完全なる自分、物質の如く見えながらもそれの奥にある物質でないところの自分。有限であるが如く見えながらもその奥にある無限なるところの自分を何となく直観し憧憬(しょうけい)せずにはいられないのである。
乃(すなわ)ち「一歩一歩永遠なるものに触れ」て行かずにはいられないのである。斯くの如くして不完全にして同時に完全であり、物質にして同時に物質でない。有限にしてどうじに無限であるところの永遠の自分、病みながら病んでいないところの円相の自分を我々は直観によって一先ず把握することはできるが、病んでいない自分も、病んでいる自分も、物質である自分も、物質でない自分も、それがともに神につくられたものであると観ずる限り、その矛盾せる二つの自分を、同時に優劣なく併置的に肯定するのであるから、かかる西田哲学からは病の否定は出て来ないし、病の否定の出て来ない哲学である限りに於いて、その哲学では病気が治ると云うこともないのである。>>
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