生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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3・1「立教86年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」に於けるマサノブ君の挨拶について検証する・・・ (6426)
日時:2015年03月02日 (月) 22時58分
名前:画龍点睛

長らく開店休業が続いていた「唐松(枯れ松)模様」に久し振りにマサノブ君は記事掲載を為したのであります。「生命を礼拝する」とタイトルを付けているが、彼の「生命を礼拝する」の理解内容は、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』とは大きくズレているのであります。このままでは信徒の皆様が本来の『御教え』を間違って理解してしまい、「左翼現象唯物論」に洗脳されてしまいますので、敢えて反論を申し上げる次第であります



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平成27年(2015年)3月 1日 (日)
「生命を礼拝する」とは? =概略=

<<  今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「立教86年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が開催され、・・・生長の家立教の精神を振り返り、今後の運動の進展を誓い合った。この式典は、昨年に続いてインターネットを利用して世界に中継されただけでなく、時差を利用した音声の外国語訳が試みられた。私は式典の中で概略、以下のような内容の挨拶を行った−−
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 ・・・春の息吹を感じる日には、私たちも「さあ、これから運動は伸びるぞ!」という意気込みを感じる・・・今日は、この第1条にある「生命を礼拝する」ということについてお話したいのであります。 
 第1条には、こうあります−− 「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」・・・命を奪う行為は、明らかに「生命を礼拝しない」行為です。・・・人間が生きるためだからといって、多くの生物種が絶滅し、あるいはウシやブタなどの家畜たちが、劣悪な環境で苦しみながら育てられ、そして大量に殺戮されていくならば、それは生命を蹂躙しているのですから、生長の家の信仰者は、そんな行為に加担するような生き方をしてはいけません。・・・自然界との濃密な関係は、都会の生活では決してわからない重要な事実を教えてくれます。それは、「人間は自然の一部だ」ということです。だから、本当の意味で人間の命を大切にするためには、その基盤である自然を大切にしなければならないということです。・・・ “森の中”での生活を実際に経験して、私は「人間は自然の一部だ」と全身で感じることができるようになりました。具体的に説明しましょう−−・・・「動物と出会うのは楽しい」と言います。人間は、野生の動物と出会うことに喜びを感じるということ・・・ピューリッァー賞を受賞したアメリカの生物学者、エドワード・ウィルソン(Edward O. Wilson)の言葉・・・「人間にはその心の奥深いところに、自分の同類である人類はもちろん、人間以外の生物を愛する感情がある。健全な精神をもった人間なら、生きている木よりも、そこから落ちた枯葉の山を好んだりはしないだろう。・・・ひとりひとりの人間がナチュラリストに近づけば近づくほど、かつての自由な世界の興奮を取り戻すことができる。これは、詩や神話を喚起する魔法の再現の公式だと言ってもいい。人間には、本来的に他の生物と結びつきたいという欲求があるが、その感情の基盤は、われわれ人間が他の生物と“近い”という事実にある。人間の精神は、そういう他の生物との特殊な結びつきを基盤とし、そこから生まれているのだから、われわれが自然に近づけば近づくほど、人間本来の自由と喜びを得る機会を広げることができる」。 
 この考えをもう少し、宗教的に、生長の家で使われる言葉によって表現すれば、こういうことになるでしょう−−「人間は“神の子”として、神が創造された他の生物すべてと本来、一体の関係にあるから、他の生物と結びつきたいという感情が湧き上がる。他の生物との“自他一体”の感情があるということが、私たち人間が人間である所以である」。このように言い換えてみると、ウイルソン博士が言っていることは、『生長の家』誌創刊号の「生長の家の宣言」の第一条と、ほとんど同じ意味になるのであります。それは、「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」ということです。 
 ですから、生命を礼拝するということは、人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情を尊重して生きるということです。それは肉食を避け、自然環境を破壊せず、他の生物との接触の場を多くもつということでもあります。こういう生き方にもっとも相応しい場所は、都会ではなく自然の中です。生長の家が今、国際本部を大都会から“森の中”へ移して運動を展開している理由が、ここにあります。皆さまも、人間本来の生き甲斐や幸福は他の生物との関係の中にある、つまり自然の中にあるということを忘れずに、都会に住む人も、田舎に住む人も、人間の命だけでなく、他の生物の生命も礼拝し、尊重する生き方を実践していただきたい。それが私たち人間の幸福の源泉であり、世界平和への道でもあるのです。 
 立教86年の記念日に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。>>  谷口 雅宣 



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<比較>


「生命の實相」第一巻 七つの光明宣言の解説――
= 1、我等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。=

開祖・谷口雅春先生の解説:

<<・・・そこでわれわれが「生命」を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い「生命」であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。自分自身が尊い「生命」であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をする事もできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの生命の大元(もと)の「大生命」をも尊び礼拝したくなるのであります。これと反対に自分自身が尊いということが解らねば自分と同じ一個の生命であるところの他人を尊ぶべきゆえんも、その本源である神を尊ぶべきゆえんも解らなくなるのであります。われわれがわれわれの生命の大元の「生命」を尊び拝みたくなりますとき、われわれはこれを「み親」とし、「大生命」として、その法則のままにひたすら生きてゆくことを念願せずにはいられなくなるのであります。>>



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<マサノブ流「生命の礼拝」の検証>


@ このように、「マサノブ教」の「生命の礼拝」と本来の『御教え』によるところの「生命の礼拝」とは、二つ併記して読んで見ますと大きな相違点がある事が解るのであります。言うまでもなく、宗教に於けるその教えの継承者は開祖先生の教えを継承しなければなりません。開祖先生の教えを継承せず全く違った解説を独自で展開するのならば、教えの継承者ではなくなり、あくまでも自説に固執したければ別派を立てて独立すべきであります。


A 開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』に於ける「生命を礼拝する」とは、上記のごとく < 自分自身を敬い拝むこと > であります。「人間は神の子」であるということは、「神の最高の自己実現=神そのもの」として自分で自分を礼拝する事――自霊拝――であります。しかし、マサノブ君は、< 人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情を尊重して生きる > ことであると云うのであります。具体的に言えば、――肉食を避け、自然環境を破壊せず、他の生物との接触の場を多くもつ、最も相応しい場所は、都会ではなく自然の中で生きることが生命を礼拝することだといっているのであります。完全に異なった間違った解説であります。


B かくのごとく、マサノブ君は地球上に於ける“肉体人間の生き方”を解説しているに過ぎません。これは宗教的求道という観点から見れば、的はずれな解説であります。これに対し、自霊拝、すなわち < 自分自身を敬い拝む > とは、「父母未生以前本来の面目」なるものを真剣に求道し、「生命の實相」を直覚的に全身全霊で把握した境地からの理屈抜きの生命そのままの自然的所作であります。


C 「生命の實相」第二十巻には、――

* < ある日、わたしは心の窓を開いて、大生命のみ空から光線のように降りそそぐ生命の讃歌に耳を傾けた。・・・私の魂は虚空に透き通って真理そのものと一つになった。なんという美しい旋律だろう。「これが真理そのものか!」とわたしは恍然として嘆声を漏らした時、「お前は実在そのものだ!」わたしはこう言って天使たちが私を讃える声を聞いた。>

* < 早晨 日光が樹間からさしのぼる、生命そのもののような光だ。うれしい!自分が一個の生命であることがうれしい!>

* < 朝 東方に面して合掌礼拝して 霊々妙々円満の大生命を観ずれば 心身清浄 微妙の大生命は雰囲気となって 我が身 我が心をひたす。吾れとその雰囲気と一体にして境なし ああ 讃うべきかな生命 われが生命である歓びよ 生かされている! 生かされている! 生かされている!・・・>

* < ある日輝く光明が我が胸に降って来た。・・・わたしは光のうちに埋って呼吸(いき)苦しいほど光明を吸う。やがてそれがわたしに「生命」だと分かった。>

斯くの如き意味での「生命」が自己自身の“生命の實相”であり、その“生命の實相”そのものを自分みずからが礼拝するのであります。


(参考)
黒住教祖・黒住宗忠師伝に依れば、――

* < 未明に起きいでた宗忠は、操山の南端のあたりを射しのぼる真紅の大日輪を拝して、常にもまさる感動に打たれた。紫雲の厚い襖の底から、ゆらゆらと揺れのぼる太陽ほど、この世にありて、崇高なものはあるまい。それは彼にとりては、単なる自然の一情景ではなかった。それはこの世に於ける奇蹟の中の奇蹟というべきものである。「ありがとうございます!」と、宗忠は思わず叫んだのである。次の瞬間、彼は無意識のうちに、アッパと口をあいた。すると、団々たる紅輪は、無限の天空を一気に駆せ来って、彼の胸中にとびこんで来たのである。彼が思わずハッとして眼を閉じた刹那、彼の全身は、大光耀の中に完全に融合した。それは、時間にすれば、一秒か二秒に過ぎなかったかも知れない。しかし、彼はその短い時間の中に、「永遠の自己」、「本来の自己」に面接したのであった。・・・後人は、この日の霊体験を称して「天命直受」と云っている。霊的にいって、宗忠は、「活ける神」に面接したのであり、心身共に脱落したわけである。

* マサノブ君の意識しているのは、この様な霊的生命ではなく、肉体人間として生きている現象生命(肉体人間)を中心として考えているのであります。マサノブ君の講話が人気がないのは、霊的生命を説かず(注:彼は解らないから説けないのが実情)、現象生命を中心にした話をするからであります。しかし、「生長の家」の門を叩く人は、霊的生命の話を求めているのであります。マサノブ君よりも霊的年齢の高いひとびとであります。現下の教勢衰退は当然のことであります。


D 次に、マサノブ君は、< 人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情 > と書いていますが、彼の「自他一体」とは、肉体的頭脳的な理解にしか過ぎないのであります。本当の < 人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情 > とはどういう感情でありましょうか? 真の“自他一体”とは、これもまた直覚的生命体験からでないと解るものではないのであります。昭和の哲人と言われている紫雲荘の橋本徹馬先生の断食修行の最後の日に訪れた実在世界の真の相(すがた)を実際に観られ感得された御文章を引用申し上げます。

< 歓喜! 公案が解けた、――万物は生命の流れである >
窓をはね上げて東天を見た時の私の心境は、昨日までの心境とは全く違っていた。昨日までの私は、そこらの山川草木を見る時、それを大体物質的存在と見ていた。もちろん根から栄養を吸収し、葉からも太陽の助けを借りて栄養を取り、生きかつ栄えている草木がただの物質でないことは分っているが、しかし、やはり非情の草木、つまり物質的存在という感が多かったが、今見る山川草木の姿は悉くこれ大生命という一より出でて、多に分かれている生命そのものであり。この現象界そのものも、大きな一連の生命の流れであると感じ、そうして私自身も、その大きな流れに連なる存在の一つであることを感じた。それゆえ「われと大地有情と同時に成道す」とは、釈迦が悟りを開いて見たならば、自分ばかりか一切の人間、一切の存在は、皆そのまま成仏成道の境涯であるという、大生命の真姿、宇宙の實相を知ったということである。


E マサノブ君のいう < 人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情 > は、彼の肉体頭脳知による霊的実感とは程遠い現象的感情に過ぎない、ということを証明するのはいとも簡単であります。マサノブ君は「自他一体」の感情が大切であると解説していますが、さすれば義兄・実弟の方々を「谷口雅春・原理主義者」として教団から追放した事実、更に教団内の「谷口雅春・原理主義者」を次々と追放し、実母の恵美子先生に、自己の悪行を知られないように軟禁同然の措置をなし、異才・トンチンカン氏の言葉を借りれば、「トンデモ総裁」・「トンデモ講師」・「トンデモ幹部」・「トンデモ信徒」だけの「マサノブ幼稚園」へと教勢衰退させたことは、マサノブ君が < 人間はもちろん他の生物との“自他一体”の(深い霊的)感情 > を何ら持ち合わせていなかった証拠以外の何ものでもないのであります。すなわち、マサノブ君は宗教家としては完全失格者であるのであります。


F マサノブ君は、< 私は「人間は自然の一部だ」と全身で感じる > とも書いておりますが、これは、都会から田舎の自然の中へハイキングで行った時の“爽やかな感情”と同じものであります。マサノブ君は、左翼唯物現象論の価値観しか持たず、科学的分析知でしか理解出来ない人間でありますから、霊的オンチな人間であります。だから、霊的生命の何たるかも解らず、霊的な自他一体感情もわからないのであります。だから、「人間は自然の一部」と言うマチガッタことを信徒の前で平気で言うのであります
「人間は自然の一部である」というならば、人間の本性は森や山や動物や昆虫や水や鉱物の本性と同じだと云う事なのです。これはマチガイであります。「人間は神の子である」ということは「神の万徳の最高(100%)の自己実現」ということであって、動植物や鉱物などの山川草木は神の自己実現ではあるけれども神様の属性(万徳)の一部分の自己実現」であるのであります。


G 「別冊・真理」には、――
< 大自然を見渡せば、鉱物の王国から植物の王国、動物の王国へと、「生命」というものが、何れも次の一段階高い王国の到来を預示している・・・進化の段階が上昇するに従い、上位の王国は下位の王国を支配し、最後の段階の人間の王国は他のすべての王国を支配しております。・・・>

これを読めば、マサノブ君の「人間は自然の一部」と言う主張(マサノブ教の教義)はマチガイである事が解るのであります。


H 続いて「別冊・真理」には、――
< 私は、生命原理の進化の段階に、更に現在の人間の上に、尚一層のすぐれたる段階が出現するということを期待しているのであります。この第五王国に位する超人は、今の人類が動物に勝る程度に、今の人類に勝るでありましょう。・・・ただ現在はその出産に先立って起こる陣痛の最中なのである。・・・これは人間が身体的性質と構造が変化することを意味しない・・「愛と云う言葉を使っても、寛容、寛仁、深切、慈悲を包含する広い意味の愛・・・第五王国の人民は隣人の間違いや悪についての噂話を決してしない。虚栄と偽善とが無い。彼らには心配、恐怖、憤慨、嫉妬、自責のような自らの活力を消耗し、力を滅ぼす種類の精神的習慣がない。彼らは思想に於いても行為に於いても、他のひとと公正正直に交わり、人間の思想が破壊的であるならば、それは荒々しい声や残酷な行為と同じ程度に、他人に有害であることを知っているのであります。彼らは他人に属するものを欲しがらないで、必要なもの、欲しい物を手に入れるために、心の法則を正しく応用することによって誰をも犯すことなしに獲得する道を知っているのであります。本質的に言えば、第五王国は平和と調和の満ちた内的世界であります。あなたが精神科学を知って第五王国の人民となれば、内界が平和であれば外界を平和に保つことが出来る事を知るでしょう。>

この御文章は、開祖・谷口雅春先生が御講習会でもよく語られておられた「物質文明の発展の上に霊的文明が発達するのである」と云う事の内容だと思うのであります。マサノブ君は、「人間至上主義という物質文明を放棄して自然の中、山や森の中で生活して自然界との濃密な体験をせよ」と言いますが、物質文明を忌避して自然の中で生活せよということは、突き詰めていくと、“人類は原始生活に戻るべし”と云うことであります。物質文明のない完全な原始生活に戻れば、高度な霊的文明など花開くわけはありません。この様なことすらマサノブ君はわかっていないのです。苦労知らずに育った金持ちボンボンの机上の空想論――マサノブ流の白昼夢――にしか過ぎないのであります。この一事だけを取ってみても、マサノブ君は、開祖・谷口雅春先生の御本を真剣に読まずに、チョット拾い読みをしたに過ぎないと言ってもよいでありましょう。



<総括・講評>


(1) 今回のマサノブ君の「立教86年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」挨拶は、いつもの如き「マサノブ教」を正当化するための、信徒誘導洗脳の内容であったことが解るのであります。つまり、「生長の家」誌の創刊号を持ち出して、「七つの光明宣言」の「生命を礼拝する」という引用から話し始めて、自分が正統な教えをかくのごとく継承している印象を先ず与えておいて、次いで、< 命を奪う行為は、明らかに「生命を礼拝しない」行為です >、とか < 人間は、野生の動物と出会うことに喜びを感じ > とか、外人学者を登場せしめて < 他の生物との“自他一体”の感情があるということが、私たち人間が人間である所以である > という現代社会の抵抗感少ない、逆に一見“成るほど”と頷かせる柔らかい言葉を使って < 本部を大都会から“森の中”へ移して運動を展開している理由 > を納得せしめて、最後の誘導的結論 < 都会に住む人も、田舎に住む人も、人間の命だけでなく、他の生物の生命も礼拝し、尊重する生き方を実践していただきたい。それが私たち人間の幸福の源泉であり、世界平和への道でもあるのです。> このように、左翼唯物現象論の「マサノブ教」へと洗脳していく、いつものパターン挨拶文の構成であります。


(2) しかし、「生命の實相」によって「生命を礼拝する」真義は話さないのであります。否、話せないのであります。< 自分自身が尊い「生命」であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。自分自身が尊い「生命」であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をする事もできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの生命の大元(もと)の「大生命」をも尊び礼拝したくなるのであります。> この御文章を引用せず、マサノブ君の個人的解釈に代えてしまっているのであります。なぜならば、かれの日常行動は、開祖・谷口雅春先生のこの解説文の内容とは正反対の言行不一致な部分が実に多いからであります。焚書坑儒・反大調和・生長の家つぶし・『御教え』の換骨奪胎・鎮護国家外し・「實相」額の隠蔽・親不孝・兄弟憎悪・開祖反逆・祖国反逆・賽の川原の石積み祠・実母軟禁・「生長の家」看板不正使用・著作権料の横領・・・限がないのであります。総裁としては完全失格者であります。


(3) 信徒は「霊的真理」を求めているのです。しかし、マサノブ君は“霊的音痴”であります。信徒の求めに、マサノブ君は応じるだけの力(霊的真理に対する理解力)が無いのであります。個生命の霊的進化レベルからいうと、信徒の方の魂の霊的年齢が高く、マサノブ君の魂は霊的年齢がまだまだ若いのです。レベルが低いのです。マサノブ君はこのことに気がついていないのであります。このことに信徒が気が付きだして脱退現象、つまり教勢の急落現象が起きているのであります。イソベ・ユキシマ君も霊的年齢はまだまだ低く若いのです。幼稚園児程度でありましょうか? だから、霊的レベルが極端に低くなった教団の実力の無さに気付かずに、「さあ、これから運動は伸びるぞ!」などと裸の王様の如く白昼夢を見ているのであります。






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